パネルディスカッション 「万葉の時代と国際環境」  第1部 基調報告

国立民族学博物館教授
   大塚 和義

1941年生まれ。立教大学大学院文学研究科修士課程修了。埼玉県立博物館学芸員、国立民族学博物館助教授を経て、92年より現職。総合研究大学院大学教授併任。専攻は北方民族学。日本海学推進機構運営委員・専門委員。アイヌ、サハリン、アムール川流域などにおける北方諸民族に関する調査研究を行っている。
主な著書に『アイヌ 海浜と水辺の民』(新宿書房、1995)、『草原と樹海の民』(新宿書房、1988)などがある。

《毛皮交易からみた環日本海》

<北方の交易ルートと交易品>

<資料1>日本海の海流
アレクサンダー オストロフスキー・馬谷紳一郎・廣江 豊
「衛星赤外画像から見た、日本海の海洋循環―1993年秋の描像―」
『月刊海洋』26-12、海洋出版、1994(原図は英語表記)

 まず、資料1の図を見ていただきたいと思います。これは人工衛星によって得られたデータによるもので、日本海にどのような海流が多様に動いているかを詳細に表わしているものです。海流の状況は、自然科学から遠い位置にある私たち研究者には、これまでよく知られていなかったと思います。

 昨日開催の共同研究会で、北海道大学名誉教授の小泉格先生から、研究報告の発表をいただきました際に提示された資料です。中央に亜寒帯フロントという海流があります。渤海使がやって来るロシアと朝鮮半島東北部の国境付近の港クラスキノから、この亜寒帯フロントにのって、能登半島に着くことが非常に容易です。
 資料2の地図をご覧下さい。これは19世紀の江戸時代後期の交易ネットワークを示したものです。この日本海域の東側、北海道のアイヌを含めてサハリン、アムールは、少数民族、先住民の人々が居住していて、どちらかというと稲作には不適ですが、天然資源の非常に豊富な地域です。また、西側は、都市化、工業化した地域で、歴史的に様々な国家や民族が勃興、滅亡を繰り返しています。

<資料2> 19世紀初頭の北太平洋地域の交易ルート
大塚和義編『北太平洋の先住民交易と工芸』思文閣出版、2003(部分)

 「万葉の時代」の軸でみると、資料3の地図になります。「万葉の時代」の毛皮交易をみますと、北海道でとれた毛皮は、海獣の皮とクロテン、特にクロテンは北方ルートのネットワークで北上し、靺鞨(まっかつ)、渤海を通って唐に行きます。

<資料3> 北海道から見た交易ルート  大塚和義

資料4


 資料4の『冊府元亀(さっぷげんき)』巻971外臣部 朝貢4、開元18年 (天平2年、730) 5月条に海豹皮5張、貂鼠(ちょうそ)皮3張、28年 (天平12年、740) 10月条に貂鼠皮と昆布などが出ています。なかでも開元28年にこのルートで渤海から唐に献納されたのはクロテンと昆布です。この昆布はどこから献納されたか、おそらく菊池先生は「昆布は北海道産だ」といわれると思いますが、私も同感です。



<資料5> 「ラッコ之図」『蝦夷島奇観』
       個人蔵(部分)
<毛皮利用の日中比較>

 クロテンの毛皮は艶やかで軽く、とても上品で上等な毛皮です。また、ラッコの毛皮も毛がふさふさしてなめらかでクロテンとともに最高の毛皮です。私はラッコの毛皮がオホーツクルートにのって、北回りで唐までたどり着いている可能性があると思いますが、今のところはまだ明確なことはいえません。

 中国歴代王朝にはクロテンに対する物凄い愛着、高い価値評価がありました。クロテンは、一部を衣服や帽子の先端に付けるなど、様々な使い方がありますが、とにかくクロテンを所持し、身に付けていることがステータスシンボルであり、貴族、王権のシンボルでした。
 ところが、日本の大和朝廷にはクロテンに対して、唐王朝のような「思い入れ」がなかったように思います。というのは、今、正倉院の史料の毛皮製品について再検討する委員会ができていますが、伝え聞いたところによりますと、今までわかっているものではアザラシやトドの海獣皮と思われるものと熊皮があるそうです。

 このことは、日本の社会は基本的にクロテンのような、ふわふわして暖かい防寒性をもった毛皮は、あまり必要としなかったのではないか、あまり好まれなかったのではないかと思います。毛皮の選択が日本の風土に合わせて行われていた可能性があります。


<資料7> 抉入離頭銛および同系統の分布
大塚和義「抉入離頭銛」『物質文化』7、物質文化研究会、1966
 資料6に抉入離頭銛(けつにゅうりとうもり)という銛先があります。この銛先は資料7に、清水洞穴、梨木畑貝塚、女神洞穴などとありますが、梨木畑貝塚の年代測定の結果、一緒に出土している土器は養老4年(720)から天平2年(730)頃の時期ではないかといわれています。そうすると、多賀城が築かれた神亀元年(724)と合致するわけです。

着柄図(復元)
<資料6> 抉入離頭銛
大塚和義「抉入離頭銛」『物質文化』7、
物質文化研究会、1966


 これはどのような意味をもつか。この銛先は、実は北海道の擦文(さつもん)文化やオホーツク文化に発達した、海獣狩猟に特化した銛です。海獣狩猟を主目的にした使い方をしていたわけです。


<資料8> 海獣狩猟
 天明5年5月和倉海岸にて捕獲(ニホンアシカとおもわれる)
 個人蔵(部分)
 『延喜式』(「民部式下」交易雑物)に、陸奥、出羽国から熊皮、葦鹿(あしか)皮、独(どっかん)皮(アイヌ語トッカリの転化でアザラシを指すと考える) 、昆布などが献納品としてありますが、そこにはクロテンの毛皮はありません。交易雑物にないということはどのような意味があるかです。このようなことを一つとってみても、日本社会は特に海獣の毛皮を好んで需要していたと思います。

 その証拠のもう一つは、ニホンアシカが和倉で天明5年(1785)に鉄砲で撃たれて捕獲されています。日本社会ではこのような海獣皮の利用は武具等で非常に多かったわけです。

 ですから、毛皮利用について、日本社会と中国社会と大きく異なっていた、そのような2つの毛皮のネットワークがあったことを申し上げて、時間がきたので、これで終わらせていただきます。(拍手)



(山 口) 740年という話がありました。渤海から唐にクロテンの皮を献上していたということです。740年は天平12年になります。大伴家持が越中に赴任したのが18年ですから6年前です。万葉びとはクロテンの毛皮を着たりすることはなかった。従って大伴坂上郎女、額田王もクロテンを着ることはなかったかなと思います。

 それでは続きまして、菊池先生にお願いいたします。

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(Mar.30,2005.掲載)