2006年度東京大学大学院講座
マネジメント研究事例-日本海学の構築をめざして-
「21世紀の環境・経済・文明プロジェクト」
|
講師 警察庁刑事局 調査官
岸本 吉生 氏
日時 2006年7月4日(火)
中井さんが富山県に引っ越ししている間に「日本海学」というプロジェクトを始められ、その中から今後の日本の国家戦略の問題における、循環、共生、アジアなど幾つかのキーワードが出てきたと思う。また、中井さんが東京に戻ってから国家戦略研究会を月1回ほどしている中でも健康や食料、環境の問題など、いろいろテーマが出てきている。
私自身は今は警察にいるが、もともとは通産省に入った人間で、2003年7月に環境経済局に異動し、環境と経済の問題、中でも京都議定書の6%削減の達成計画を担当することになった。今、新聞には日本の6%削減が難しいと書いてあるが、実際には地球環境問題の解決のためには6%削減では到底足りない。19世紀以降の化石燃料の消費と、それに伴う二酸化炭素の排出の伸びを見ると、将来は2000年の2~3倍になるという見通しもある。
現在、ヨーロッパなどを中心にいろいろな削減計画があるが、どのシナリオも2015年ぐらいまでは増えると見ている。これが京都議定書の限界ともいわれる。京都議定書の最大の意義は、国際的にこの問題に対応しようと、いろいろな国が約束したことだと思うが、日本やヨーロッパが約束した反面、その他の国が約束していないという問題が一つある。もう一つ、この約束が2012年で期限が切れてしまったあとどうするかという問題もある。さらに2013年以降にはどうやってアメリカ、中国、インドに削減の努力を求めていくかという問題もあるし、大幅に減らしていくための技術開発をどうするかという問題もある。
この2013年以降の国際約束が合意された暁に、この地球環境問題が解決に向かって道筋が見える状態になると思っている人は、世界にほとんどいない。この問題が解決されるためには、技術の革新的な進展も、ライフスタイルの見直しも必要だ。そこで日本では去年、経済産業省が95年後の2100年をターゲットにした抜本的なエネルギー、CO2削減のシナリオを出し、イギリスも2050年をターゲットに四つぐらいのシナリオを示している。
2年前の平成16年にこうしたプロジェクトが要ると私が思うようになったきっかけは、森林だった。京都議定書で約束した日本の削減分のうち、4%分ぐらいは森林で担当しているが、荒れている森林問題の解決の道筋がなかなか見えてこないということで、尾鷲のヒノキ林を見に行った。そのときに、やはり森の問題は大事だと痛感したのである。当時、京都議定書の目標達成の2010年までの絵姿を描くことが自分の仕事だったが、根本的な解決に対して絵姿を描く努力も併せていなければいけないと思い、気候変動と人類社会の関係をずっと研究しておられる安田喜憲先生のところに行った。先生は2000年前、8000年前、1万5000年前の植生、夏・冬の平均気温をかなり正確に復元する技量を持っておられる。政府の中期計画は5年、長くて10年ぐらいで、30年、50年という長期プランを描くことはまずない。特に気候変動ということになると日本だけの問題ではないので、1万年の歴史を見てきた安田先生はこの問題をどう見ているのか聞いてみたかったのだ。
先生は、「これは100年の問題ではない。2015年ぐらいには人類に危機が来るというぐらいの切迫感を持ってやるべき問題だ」とおっしゃった。10年ちょっと前に、安田先生が日本じゅうのいろいろな識者を集めて、「文明と環境」というプロジェクトを推進され、全15巻の大変な労作が生み出された。それを、今度はその間に経済を挟んでもう一度やっていただきたいとお願いした。経済の問題を抜きに21世紀の将来シナリオを描いても説得力がないので、環境と経済と文明のプロジェクトをやろうということになったのである。
私は経済学ではこの問題は解決できないと確信しているが、そう考えるに至った経過がある。去年からクールビスなるものが始まった。クールビスでないものが格好悪いと本当に日本人が100%思えば、省エネになる。人間の価値観や行動原理が変われば当然、環境に対する負荷が変わる。しかし、ある経済学者に、「人間の効用関数の形が変わるということは経済学では教えない」と言われた。つまり、価値観に働きかける政策は、経済学上は無価値になる。それはやはりおかしい。経済学だけではこの問題は解決できない。
二つめは、「環境問題は外部不経済」であると教科書には書いてある。経済学の外の問題としていったん置いたうえで政府が介入すれば解決できるというわけである。しかし、そうしてしまうと、環境の劣化が起こっているのは悪いことだがしかたがないというインプリケーションが出てくる。さらに、政府で規制なり税制なりの施策をやってきた人間からすれば、政府が正しい介入を毎年続けることが到底不可能なことは、体験上知っている。したがって、環境経済学で地球環境問題が解けるということはないだろうというのが、私の結論である。それで、自然観、歴史観、価値観から本件を始めようということになった。
去年3月、このプロジェクトを始めるまでには、いろいろな曲折があった。当時、安田先生は、1972年に国連の環境開発会議で出たローマクラブ・レポートを超える京都クラブ・レポートを作ろうと考えておられた。ローマクラブ・レポートには、このままいくと人類文明はクラッシュすると書いてある。しかし、こうするとクラッシュしないということは書いていない。それを書こうというのが安田先生の当初の構想だった。しかし、ここには一つネックがある。安田先生は、文明には東アジアに見られる稲作漁労文明と、畑作牧畜文明の二つがあると言われる。先生の当初の主張では、畑作牧畜文明では地球環境は滅ぶ、キリスト教や一神教などの価値観が問題だというところに行ってしまう。私は、そういうレポートは国際的に当然否決されるので、書くわけにいかないと申し上げた。
去年3月に京都の日本文化研究センターで第1回の会合が行われ、今は北海道大学にいらっしゃる岸先生が基調講演をされた。先生は、気候変動と人類の関係は人類の英知で今世紀中に解決の見通しが出るかもしれないが、出ないかもしれない。60億人ぐらいいる人類のDNAは九十九点何%同じである。人類は、10万年前くらいには1万人ほどだったのではないか。そうでないとDNAがここまで一致するのはおかしい。気候変動によって人類は相当ダメージを食うが、ゼロになるわけではないからまたよみがえる。こういうシナリオも当然覚悟すべきだと、このプロジェクトの成功確率に異を唱えられた。
その後、1年間で7回ぐらい研究会をして、その過程で幾つかのことが見えてきた。一つは、「本物は美しい、本物は楽しい」ということだ。6月に2回めの研究会をやった気仙沼には、畠山さんというカキの養殖のかたがおられる。「森は海の恋人」だという言葉を編み出したかたで、気仙沼が赤潮で汚染されていた時期に、その原因は山が荒れているからで、森をよみがえらせればおいしいカキや美しい海が戻ってくるに違いないと、植林運動を始めた漁師さんだ。気仙沼には奈良時代から引っ越したことがない家があり、年に1回お祭りがある。気仙沼の湾に流れ込む大川の水が、雨のときは泥水になるが、これがぴたっと消えるバーニッシング・ポイントがある。そこの海の水を年に1回たらいにくんで、大川の源流の山の頂上まで持って登って山頂にかける。これを1000年以上やっている。1000年以上前から、森は海の恋人だったのである。
6月は京都で、「物づくり文明」について行い、生き物に学ぶ物づくり、ネイチャーテクノロジーという造語ができた。例えば、カタツムリが葉っぱの上を歩いているとき、殻は葉っぱに触れないし、その汚れは雨に打たれると流れる。カタツムリの殻と同じ組成のセラミックスを石田先生が作って3月のシンポジウムで見せてくださったが、そこに黒の油性マジックを塗って霧を吹いて雑巾で拭くと、きれいに取れる。生態系は当然、非常に省エネ型にできている。なおかつ物質を作るときに高温・高圧を加えず、常温・常圧で作っている。そういう物づくりを広めることが、結局、資源負荷やエネルギー負荷を減らすことになるのではないかという話だった。
8月に福島の天栄村で「命・健康」について合宿をしたとき、2日めの午後、村のかたと締めくくりのディスカッションをした。その中で、地球環境問題も大事かもしれないが、3万人の自殺者やうつ病をどうするのかという話が会場から出た。先生は「自分が環境問題をやっているのは、人間が環境を傷めつけているという問題を何とかしたいという思いからなので、その被害がもし人間に及んでいるということなら、当然やらなければいけない」と答えられ、そのときから健康や命の問題も包摂していくことになった。
このように、研究会は基本的に田舎でやってきた。そこでずっと思っていたことは、では都会はどうするのだという問題である。それを考えるのが今年の活動課題だ。1回めは今月最後の土日、秋田県の男鹿半島で開催する。もしよろしければ、ご参加いただきたい。
このようなことは、キリスト教圏でも通じるかどうか。これは始める前の課題だったが、去年の夏、安田先生が自分でテストをしに行った。スウェーデンの王立アカデミーなどが主宰している、持続可能な社会について議論をする国際プロジェクトがある。このプロジェクトと似ているのは、10年、100年、1000年、1万年という4グループに分かれて、世界の有識者が議論をしていることだ。そこで安田先生が発表したところ、2007年の国際会議では安田先生に日本でホストをしてほしいということになった。それが今のプロジェクトの当面のターゲットとなっている。
そこでは話は一応通じたが、通じなかったのは自然を敬う気持ちである。これを安田さんは「アニミズム」という言葉で表現する。アニミズムには彼らにとって何か古いブードゥー教のようなイメージがあり、この言葉でコンセンサスを取るのは無理だ、ただ、言っていることは分かると、バチカンの人も言ったそうだ。
次に、マネジメント事例研究としてのプロジェクトについて幾つか申し上げる。先週、窓と空の理論の話があった。人には組織の中で置かれているポジションでやらなければいけない自分と、それを取り払ったときの自分という二つの顔がある。ところが、あるポジションにいて仕事をすると、世間をその仕事のフィルターをかけて見てしまう。ここが「窓」で、見ている本当の世間が「空」である。ところが、そのうちにだんだん「空」を見ているのか「窓」を見ているのか分からなくなって、窓枠だけを見始めるということになっていくと、意思疎通ができなくなる。これが窓と空の理論である。窓枠があることはしかたがないが、同じ空を見ようというのが、窓と空の理論のエッセンスだったと思う。
それを言われて、はたと気づいた。このプロジェクトに参加している人は、窓と空の関係を意識せずに、空の青さに魅入られて繰り返しプロジェクトに参加しているのではないか。いわば価値観や世界観でつながっているということだ。「空」という同じものを下敷きにしているので認識が共有化されてくる。価値観でつながるネットワークといえるだろう。
また、本物を見ていると、別の人も本物を見ている。そうすると隣に仲間がいることにお互いに気がつく。これを「お導き現象」と言っている。自分で仲間を探しているわけではないのに、気がついたら隣にいる。そういう形でつながっていく。だから、かなり効果的に短時間で必要な人に会うことができる。そこはマネジメント事例として非常に重要だ。
マネジメント事例として、もう一つ思ったことがある。これは研究会だから、当然考え方が違ったり認識がずれたりする。そのずれのところを無理に一致させようとすると、どちらかが「私が間違っていました」と勝ち負けがつくが、そうすると気分が悪くなる。他方で、いい話を聞くと人間は元気をもらって帰るという効果がある。安田先生は美談の名手でいろいろないい話が聞ける。当然、お導き効果で美談の名手がいっぱい集まっている。そういうところに繰り返し行くと、そのプロジェクト自体もうまくいくようになってくるし、プロジェクトから帰った自分の仕事でもプラスの効果がある。
4番めに、窓の違いを乗り越える努力だが、先ほど私が言った、環境経済学では地球環境問題は解けないというのはかなり大胆な発言で、お互いに「窓」は違うわけだが、だんだん認識を幅寄せする努力はお互いにしないといけない。共通認識を作ることを通じて、価値観に限らず、輪が広がっていくということも体感している。
(A) お導き効果は確かにあるいう気がする。環境の世界でお導き効果を世界に広めていくとすれば、どういう伝搬のしかたがあるか。
(岸本) やはり美談に尽きるのではないかと思う。典型では、中学校の国語の教科書にちゃんと美談を載せる。長岡藩の「米百俵」は中学校の国語の教科書に載っていた。環境の美談がたくさん世間で認知されることが重要である。
(B) キリスト教圏でどうしたら通じたのか。西欧諸国がデカルト以来、人と自然を相対するものとして切り離して客観化するからこそサイエンスが発達し、大量生産につながって都市的なものが出てきた。キリスト教スピリットは残したままで、自然との相対のしかたを乗り越えようとしようとしているのか。それとも、キリスト教の社会に、いわゆる多神教というか、自然に神が宿るというものが通じているのか。
(岸本) キリスト教、一神教と安田提案の間で何か和解が起こったということはないと私は見ている。実は去年の8月の合宿でトライしたことがある。物理学の世界は20世紀に不確実性定理など、今までのニュートン力学とは相当違う世界に入っている。そのように非常に不確実なものとして世の中をとらえる動きを経済学に応用する動きがあるのかないのかを確認しようと思ったが、ほとんど失敗に終わった。ただ、イタリアやアメリカで、保険会社の人の中には、経済学を数学やニュートン力学のようにかちっと答えがあるものではなく、もう少し幅のある、あいまいな世界だと理解している人たちがいるようだ。
二つめに、自然が破壊されていることは写真やニュースを見れば分かる。この解決は多分、科学だけでは無理だということは、洋の東西を問わず分かっているのではないか。だからこそサステイナブル・デベロップメントという抽象概念が生まれてきたのだと思う。
(C) 環境を守るためには企業に環境保護の考え方を理解してもらわなければならない。しかし、株主はそんなことは許さない。経済産業省でそういう環境のことをなさっている場合、企業に対してはどういったお話や提案をされているのか。
(岸本) その質問を私は待っていた。それは私が環境経済局に勤めていて、ずっと自問自答し続けた問いである。私が至った認識をお話しする。環境と経済がトレードオフだという考え方ではなく、環境も経済もの時代に入ったというのが私の強引な結論である。しかし、企業は社会で求められているものを売っているので、社会が変わらなければ企業は変われない。社会が変わる前に企業に環境にいいものだけ安く作れと言っても、それはできない。やはり日本がめざすべきは、環境によいものは高くても買い、悪いものは安くても買わない国である。そうなれば、日本の企業は環境親和的になる。
(D) 何十年か先にもう少し効率のいい太陽エネルギー電池が生まれると考えたときに、どこまでが無駄かというのは、まだ結論は出せない。ただ、そこに到達するまでに技術開発として膨大なエネルギーをつぎ込んでいることまで考えると、果たしてエネルギー収支が合っているのか。
(岸本) ちょっと技術論に入ってしまった。私が申し上げたかったことは、採算が合わないと分かっていても、環境にいいと信じたものを買う消費者が現にいることで、これがマスになることが非常に重要だということだ。
(E) 官庁のリサイクルでも経済が働いている。燃やす金額と比較する。末端のほうでは、会計検査でそうなっているという理論がまかり通っているのだ。日本では、燃やすのに官庁が支払うお金は1t当たり1万円ぐらいかかる。一方、リサイクルにかかるのは1t当たり1万2000円。あと2000円なのだが、それが払えないと言う。ましてや最終処分場のある市町村にいくと、3000~6000円ぐらいで燃やせる所もあるのだ。
(F) ゼロエミッション宣言工場では、もちろんコストは倍から数倍かかる。99.9%の残りの0.1%にすごい金がかかるのだ。それでもどうしてもゼロにするということだ。
(岸本) 最近、「もったいない」という言葉がはやっているが、これはなかなか外国語に訳せないという。そういうことが日本で当たり前になったときの日本の企業行動、企業経営、企業戦略は相当変わるはずだ。ただ、企業に先に変われというのはやはり難しい。それを先にやりなさいというのでは国際競争に勝てない。
次に、今後の展望あるいは決意についてである。このプロジェクトの当面の最大の課題は、言いたいことを文字で書けるかということだ。今年3月にできた活動報告はメッセージ性はまだ乏しく、今のところ「空」は提示できていないが、「空」を提示するということがプロジェクトの成果物ということになる。かりにそれができたとして、このプロジェクトに関係している人は日本で1000人未満である。これを1万人、10万人ぐらいにはしないといけない。今は、与野党の国会の先生やメディアをどうしようとかいう議論は全部封印している。この意識をマスで共有していくためには、成果物を作ったあとの共有プロセスを考えていかないといけない。
三つめは政策である。霞ヶ関が不合理な中で、ここで言っているような価値観という話を政策に下ろせるのか。その政策展開の糸口を我々行政官は考えていかないといけない。まず政府が環境政策をやる場合の問題点として、国境を越えた場合、他国が同じ政策を執ることに合意するとは限らない。それから先ほどのように、よくある議論は、環境問題をまじめにやっている人が損をするような環境規制がけっこう行われるという問題である。
政府が今、温暖化対策の行動計画の中で採用してみた手法の中に、情報的手法がある。これは、自分が毎日CO2を何トン吐き出しているかが正確に分かれば、どう減らせるかを考える契機になるということだ。例えば車で買い物に行くのと電車で行くのとではどれぐらい違うかがもし分かれば、やはり電車にしよう、自転車にしようとなる。データをきちんと国民の隅々に届けるようにすることを情報的手法と呼んでいるが、これは環境意識がある程度ある社会においては効くはずだと私は思う。
もう一つ、夏の合宿で少しその可能性が見えてきた。ゲーム理論などで人々の行動を分析し、行動を変えるための方法を駆使すれば、いろいろなことが可能なのではないか。環境経済学がめざすの人間の行動原理を変えることなので、当然こういう分野も研究してみたらどうかと思う。
次に、ライフスタイルや価値観自体を政府が指導することには当然異論があるだろう。しかし環境負荷のデータが社会で共有されれば、当然、環境に優しいライフスタイルをもう少し定量的に示すことができる。教科書で環境倫理を教えるという話もある。最後は個々人にゆだねられるところだが、「窓」の違いを乗り越える仕掛けを考える必要がある。
今年は当面、都市問題をやるわけだが、なぜ1回めを秋田でやるか。秋田は日本でも最も高齢者人口比率の高い県であり、かつ自殺者が非常に多い。何十年か前は、東北でいちばん豊かな県であった秋田がなぜこのような状態になっているのか、これは居住空間の問題として見たほうがいいのではないかという問題設定をしている。21世紀の先進国の人が暮らす居住空間、居住地域とは、どういう要素を備えていくべきなのだろうかというのが、今年の課題である。
|