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2006年10月21日
タワー111 スカイホール


2006年度 日本海学シンポジウム
海からみつめる環境 −つながる海・里・山・空−


基調講演


平井信行 (気象予報士)

大田希生 (水中カメラマン)



パネルディスカッション
つながる日本海環境 ー海・里・山ー


コーディネーター

中井徳太郎
(金融庁協同組織金融室長)



パネリスト

益田冷爾
(京都大学フィールド科学教育研究センター助教授)


佐藤洋一郎
(総合地球環境学研究所教授)


稲本正
(オークヴィレッジ代表・トヨタ白川郷自然學校校長)




目次


第一部 講演

 気象予報士から見た日本海と空   平井信行
  気象庁による「日本海側」の定義
  「梅雨」と「時雨」
  「豪雪」とそのメカニズム
  「集中豪雨」とそのメカニズム
 

 水中カメラに映る北陸の日本海   大田希生



第二部 パネルディスカッション

はじめに  中井徳太郎

海の視点から見た日本海環境  益田冷爾

里のクライシス(危機)  佐藤洋一郎

山の視点から見た危機  稲本正 



この講演、パネルディスカッションは、
『日本海学の新世紀第7集 つながる環境 海・里・山』に掲載されています。
→『日本海学の新世紀第7集 つながる環境 海・里・山』角川書店(p14〜81)




(注) 本文中の写真・図は、ここでは省略しています。
『日本海学の新世紀第7集 つながる環境 海・里・山』をご覧下さい。



気象予報士から見た日本海と空


平井信行

 そもそも私が気象予報土になったのはなぜか。今日のテーマは「気象予報士から見た日本海」ということですから、まずは気象予報土についてお話をしたいと思います。

 私は、子どものころからこの業界に入るのが夢だったのです。ここに示しました絵(図1)は何の絵かというと、小学校六年生のときに私が描いた絵なのです。「私の将来の夢」というタイトルで描いた絵です。これは自分が熊本の地方気象台で働いている絵です。ヘッドフォンをつけて、天気図が前にあって、そしてレーダーがある。何かスイッチを押しながら、観測をして、予測をしている。そんな将来の想像画です。

 なぜ、私の手元にこの絵が今あるかといいますと、実は平成一七年の暮れに私がある教育関係の仕事をしている(埼玉県教育委員会委員)ということを耳にして、私の生まれ故郷の先生がこの絵を送ってきてくれたのです。おそらく倉庫の中かどこかにずっとしまってあったものをわざわざ、二六年ぶりに倉庫から探し出して送ってくれた。とってもありがたいことです。その絵と一緒に手紙が添えてあって、「これを使いなさい。子どもたちにこれを見せなさい」と書いてありました。まさにこれが教育なのかなというふうに思いました。ですから、私はこういった講演会、あるいは子どもたちの前で授業をするときに、この絵を必ず見せるのです。子どものころからの夢だった。そして、それが今実現したんだと、そんな話をします。

 なぜ、気象予報土になりたかったのか。私が生まれた場所、熊本県八代市、ここで育ったからではないかと私は思っております。ここはどんなところかというと、たとえば歌手の八代亜紀さん。八代亜紀さんは、地名の八代(やつしろ)からとって八代(やしろ)という芸名をつけたのです。それから、八代市を流れている川があります。日本三大急流と呼ばれる球磨川(くまがわ)です。お父さんがたはご存じかと思います。球磨焼酎、お米で作った焼酎が有名です。日本三大急流が流れている。そして、目の前には不知火(しらぬい)海と呼ばれる海があります。それから、九州山地がそびえたっています。中でもちょうど中央にあるのが世界有数のカルデラ、阿蘇山です。カルデラというのは二重火山、内輪山と外輪山があります。阿蘇山の標高は一五九二メートル、「肥後の国」というふうに覚えさせられました。こうした自然環境の豊かなところで育った、これがいちばん大きいのかなと思っています。

 もう一つ、豊かである一方で、八代市は台風、大雨がしょっちゅうです。私は高校を卒業して浪人している一九歳のときまで、八代市に住んでいましたけれども、大きな台風に何度か遭いました。たとえば風速四〇メートルの台風では、台風が不知火海を通って、高潮の被害に遭いました。そして、私の家の前にあります大きな神社の大木が倒れていました。当時、「風はすごいな」と、風の怖さを知りました。

 また、雨も激しいです。後ほどお話ししますけれども、傘をさしていると痛いくらい、傘が重たくなるくらい、そんな雨が降る場所でした。ちょうど東京でいえば夕立のときの雨が「ザーッ」と降り、雷が「ゴロゴロ」と鳴る、あのような雨が、梅雨のときはずっと降っています。富山でもそれに近いかと思いますけれども、そうした激しい雨が降りつづけます。そうすると、日本三大急流と呼ばれる球磨川が暴れ川と化してしまう。私の父親の実家がちょうど球磨川の中流の地域にありまして、そこが水につかってしまいました。その後片付けをしに行きました。洪水のあとは悲惨です。泥水が家の中まで入り込んで、茶碗も、畳も、全部外に出して、ひっくり返して消毒しました。菌が蔓延しますから。そういう悲惨な状況を目の当たりにしました。ですから、将来的には自然災害を少なくするように、人の命を救えるような気象キャスターになろうと思いました。

 そして今こうして、気象予報士としてテレビに出ることができました。NHKの気象キャスターをやり始めたのが平成八年です。みんなのおかげで仕事が続けられていると感謝しています。



気象庁による「日本海側」の定義

 さて、今、熊本の話もしましたけれども、そろそろ本題に入っていきたいと思います。日本海が今日のテーマの一つです。日本海はそもそもどこからどこまでを日本海というのか。今、私がお話しするのは気象庁が定義した日本海のエリアの話です。もちろん、富山県は日本海です。さて、私の生まれた熊本県は日本海に入るでしょうか。それとも、太平洋に入るのでしょうか。どちらだと思いますか? 熊本県は気象庁の定義としては日本海側なのです。ですから、「西日本の日本海側で大雪が降ります」といった場合は、熊本県も入るのです。じつは天気もそうなのです。みなさん意外だと思われるかもしれませんが、熊本でも富山と同じようにちょうど今ごろ、一〇月あたりから、「時雨(しぐれ)」という現象が起こります。富山の人はわかりますね。「時雨」というのは、雨が降ったりやんだりする現象です。通り雨なのです。通りすぎる。それが「時雨」という名前になっています。これは冬の季語なのです。強い北西の季節風が吹きますと、時雨によって冷たい雨が降ったりやんだりします。九州の北西部は、意外に冬の間は日照時間が少ないのです。熊本県と宮崎県の県境に、五ヶ瀬ハイランドという天然のスキー揚があります。北西の風がまともにぶつかって、平地では雨でも、ここでは雪になります。一メートルくらい積もることがあります。そうした地域が実際にあるのです。

 また、福岡の雪日数を調べてみますと、年間一七日あります。東京と比べますと、二倍あるのです。やはり日本海の気候を呈している。九州の北部はそうなのです。九州では、福岡、佐賀、長崎、熊本、そして大分県が日本海に入ります。ここからずっとたどっていきますと、西日本では滋賀県の北部や京都の北部、それから兵庫県北部も入ります。北陸三県は当然入って、新潟も入ります。福島県では会津地方は日本海側に入ります。会津は日本有数の豪雪地帯で、ここが気象庁の定義では日本海側に入ります。それから東北地方では脊梁山脈の日本海側、ここはもう常識的です。北海道は宗谷南部から上川、そして桧山に至るこの範囲も日本海です。

 ここで、あれっと思う人が出てくるかもしれません。長野県はどうなんだ。気象庁の定義では、長野県は太平洋側に入ります。確かに長野の北部山沿いでは雪がたくさん降りますけれども、長野県の平野というのは雪があまり降らないのです。ここは太平洋側の気候を呈しています。それから、岐阜県の平野では確かに太平洋側ですけれども、飛騨あたりは日本でも有数の豪雪地帯です。必ずしも気象庁の定義と実際の天気は、一致するとは限りません。このような区分けになっています。気象でいう日本海というのはこうなっているというのを、まず知っていただければありかたいと思います。



「梅雨」と「時雨」

 では、今お伝えした日本海側の天気の特徴は何なのか。私は気象予報士なりに、いろいろ調べてみました。二つあります。

 まず一つめ、「梅雨」と「時雨」。いずれも雨という漢字のキーワードが入っています。「時雨」というのは時の雨と書きます。「梅雨」というのは梅の雨と書きます。富山と東京の、降水量。降水量というのは、雨、雪、ひょう、あられ、これを水に解かした量を降水量といいます。ですから、冬も夏も共通して使える、目安になるのです。降水量を見ますと(図3)、まず梅雨のときの雨が太平洋側の東京に比べて多い傾向があります。これは後で理由を説明します。

 二つめが時雨。時雨というのは冬の季語ですから、一二月、一月、二月の三か月の降水量をまとめたものです。富山でも雪時雨という言葉がありますように、一二月、一月、二月は雪になっても時雨という言葉が使われますが、圧倒的に確かに東京に比べると多い。この二つの特徴があるのではないかと、私自身思います。


 それでは、まずその一つめからお伝えしましょう。梅雨、これは夏の季語です。これ(図4)は梅雨に入ったばかりの雲の画像です。まだ梅雨の初めですから、日本列島の南から沖縄を通って、中国、さらに東南アジアを通って、インド、ベンガル湾まで伸びています。梅雨というのは、マクロ、広い範囲で見ると、東アジアー帯で起こる現象です。

 何かこの梅雨を引き起こしているのか。その原因の一つに、ヒマラヤ、チベット高原があるのです。これがもしあの位置になかったならば、梅雨というのはなかっただろうといわれています。それだけヒマラヤ山脈、チベット高原の影響を大きく受けています。なぜ、梅雨が起こるか。世界的に見ても、梅雨という現象は東アジアを除いてほかにはありません、ヨーロッパにもありませんし、アメリカにもありません。これは東アジアだけに起こる特有の現象です。夏になりますと、この南からの風が大陸に向かって吹くのがモンスーンです。夏は大陸では、太陽の日差しによって熱せられます。そうしますと、上昇気流が起きて低気圧になる。そこに海から風が吹き込んでいく。この吹き込んだ風がチベット高原、そしてヒマラヤ山脈にぶつかって、ここから北にはいかないのです。西風に流されて、中国、日本までいきます。それが梅雨です。ヒマラヤ山脈の影響がいかに大きいかというのがわかります。

 そもそも梅雨という言葉は中国からきた言葉です。中国では同じ漢字を使います。「マイユー」というのです。日本はなぜ「ツユ」と読んだかといいますと、雨がたくさん降る、雨露の梅雨という説もあります。韓国でも同じ時期に雨のシーズンがあります。韓国ではチャンマ、そして、東南アジアではモンスーン、つまり、この梅雨というのはモンスーン、マイユー、チャンマ、ツユ、これが一つになって同じ時期に雨のシーズンをもたらす東アジア特有の現象です。これが五月から六月、七月にかけて起こるがために、水に恵まれた地域となった。そして、お米がたくさん取れる地域となって人口をたくさん養っています。水とお米、これで人口をたくさん養っています。たとえばこれら東アジアー帯の人口を足してみると、世界の人口のおよそ半分になるということです。いかにこのモンスーン、マンユー、チャンマ、ツユの恵みを受けているか、水とお米が取れるからだと私は思います。

 それでは、なぜ日本海側でより雨が降りやすいかといいますと、その答えは西からくる雲を見ればみなさんおわかりだと思います。つまり、西風に乗ってやってきたものが日本の山にぶつかるわけです。山の西側で雨が多くなるのは当然です。九州山地の西側、山陰地方、北陸、東北地方の日本海側というところで雨が多く降っている。梅雨の末期の集中豪雨というのは大体そういった地域に起こります。日本海側の特徴の一つです。


 二つめは時雨です。これはみなさんがよくご存じのとおり、冬になると、大陸からの乾いた空気、冷たい空気がやってきます。日本海あるいは対馬海峡、九州の西の東シナ海、ここは暖流が流れています。もしここが暖かくなくて陸つながりだったら、おそらくこういう冬の日本海側の気候というのは起こらなかったでしょう。暖かな海が存在する、この暖かい海があるがために、つまり日本海が存在するがために、大陸の乾いた冷たい空気が暖かい海と接することによって、ちょうど日本海がお風呂の湯蓋を開けたときと同じような状況になります。

 富山県のかたはご存じかと思いますが、冬の日本海には真っ白い湯気のようなものがぱあっと立っています。これが日本海の雲を作っている。それが北風に流されますと筋状の雲としてきれいに、赤道上空三万六〇〇〇キロの気象衛星から見えるわけです。これが日本海側の山にぶつかって、日本海側では雨、雪が多くなります。一方、太平洋側ではこの雨雲、雪雲が山を越えることができませんので、乾燥して晴れる。極端な天気の現象を作り出しているわけです。もちろん九州でも、筋のような雲がぶつかって、北陸ほどではありませんが、曇りや雨、あるいは雪の日が日本海側の熊本県でも多くなっています。



「豪雪」とそのメカニズム

 その日本海側の気候がもっとも顕著に現れるのが豪雪です。平成一八年豪雪、平成一七年の一二月から平成一八年の春にかけて起こった豪雪はどういうメカニズムで起こったのか、これを説明しましょう。

 まず一つ、偏西風の蛇行があります。平年というのは過去三〇年間、一九七一年から二〇〇〇年までの平均です。偏西風というのは上空の強い西風ですが、一二月には東北地方あたりを吹きます。ところが、平成一七年の一二月は大きく蛇行して、西日本から関東まで偏西風が南下してきていたのです。ですから、平成一七年の一二月は戦後最低の気温を東日本、西日本では記録しました。偏西風が大きく蛇行しますと、この蛇行した流れに乗って寒気が南に下がってきて、より南で寒気の影響を受けやすいということなのです。

 その偏西風の蛇行がなぜ起こったのか。いろいろ原因が考えられますけれども、現時点で考えられることを一つお伝えしますと、実は熱帯の海に原因があったということです。ちょうどフィリピンからインドネシア、インド洋にかけての海の水温が平成一七年の一二月は平年より高く、暖かい海でした。そこで、海が暖かいと上昇気流になり、雲ができます。その上昇した空気がどこに吹き降りるかというと、大陸です。これによって大陸の高気圧が強まりました。さらに、偏西風が大陸では北に押し上げられました。高気圧が強まると北に押し上げられるのです。北に押し上げられた分だけ、日本付近では南に下がります。

 みなさん子どものころに、よく縄跳びをして遊ばれたかと思うのですが、縄を片方で上げると他方は下がりますね。波というのも一方が高くなれば、反対側は下がるのです。こうして平成一八年豪雪は起こったと言われています。

 もう一つあります。北極振動、名前はとっても難しいのですけれども、意味は簡単です。北極の寒気というのは、貯めたり、吐きだしたりします。その寒気を北極に貯めたり吐きだしたりすることを北極振動というのです。平成一七年の九月、一〇月を思い出しますと、世界の平均気温が観測史上もっとも高かったのです。世界的にも高かった。これは、北極の寒気を北極の中に貯めこんでいたのです。その貯めていた寒気が、一一月ごろから少しずつ吐きだす方向に変わり、一一月の後半から一二月にかけて一気に吐きだしました。貯めて、吐きだす、貯めて、吐きだす。吐きだしたところに偏西風も大きく南下してきた。その分の寒気が日本付近までやってきたということです。

 平成一七年一二月からの冬は、みなさんもご存じのとおり、暖冬という予報でした。これが外れた原因というのは、寒気の、貯めて、吐きだす、貯めて、吐きだすという周期がつかめなかったからです。それが一二月に一気に吐きだしてしまった。これが外れた原因の一つだと思います。でも、一二月が終わりました。その後はどうだったかというと、今度は予想どおり、寒気を貯めまして、一月、二月というのは実は暖冬傾向でした。ところが、一二月に記録的にたくさん雪が降ったがために、一月、二月というのはそんなに寒気がやってこなくても普通に雪が降りました。それで、「平成一八年豪雪」という名前がつけられた事態になってしまいました。これは「三八豪雪」というのをご存じだと思うのですが、昭和三八年の豪雪以来、四三年ぶりに気象庁が「豪雪」と命名しました。それだけ被害が甚大だったということです。
 三月までの統計で、およそ一五〇名のかたが亡くなってしまいました。そのほとんどが過疎地域の高齢者です。実は、平野のほうではあんまり雪が積もっていないのです。新潟の市内では平年よりも少ないのです。過疎地域の山に集中して雪が降って、新潟の山の津南町では四メートルもの積雪がありました。今、過疎地域とお伝えしましたが、これがキーワードです。屋根の雪下ろしをします。人が多かったならば、屋根から雪を下ろしていて、そこから落ちてしまった場合、「だれだれさんがいないぞ」と助けに行きます。ところが、周りに人がだれもいなくて、雪下ろしした状態でそのまま雪の中に埋まってしまって凍死してしまう、窒息してしまう。これは過疎地域の怖いところでもあります。もっと人がいれば、とくに若い人がいれば、屋根の雪下ろしを手伝う人もいたでしょう。ただ、高齢化していますので、お年寄りが足腰の弱い状態で雪下ろしをして屋根から落ちてしまう。この被害が多かったのです。典型的な過疎地域の豪雪被害です。今後、こうした過疎地域の災害対策をどうするかというのも一つの課題であると、この災害から教えられました。



「集中豪雨」とそのメカニズム

 「平成一八年七月豪雨」の話をして私の話を終わらせていただきます。

 この「平成一八年七月豪雨」はいつ以来のことか。これも大きな災害が発生したときにつけられるものです。記憶に新しいのは平成一六年(二〇〇四)の「福井豪雨」、それから「新潟・福島豪雨」、これ以来のことです。今の名前をよく聞いていただくと、豪雨被害を受けたのは福井、新潟、福島です。つまり、梅雨の末期の集中豪雨が起こりやすいのは、日本海側なのです。これは、日本海からあるいは東シナ海から西風がまともに山にぶつかって、山で雨雲が発達して大雨が降ろからです。

 この分布図(図6)を見ますと、富山でも東側の山のほうでは西風がぶつかるものですから、雨が多く降ります。それから長野県のアルプスにぶつかっています。北陸では金沢、福井の山、山陰地方、それから九州では九州山地の西側、こういったところで雨が多く降っています。西風がぶつかって雨雲が発達しやすいために、太平洋側よりも日本海側で雨が降るということです。このとき、私の父親の実家が球磨川の中流にあるので電話しましたところ、やはり川の水が目の前でみるみるあふれてきて、一階の荷物を二階に上げて、いつ水が上がってきてもいいように備えたそうです。幸い、そこから水が引いてくれたので大きな被害には至りませんでした。これによって各所で土砂災害が発生し、死者も出ました。


 最近の傾向は、短い時間に強く降る雨の回数が増えています。たとえば地球温暖化という広い視点でお伝えしますと、地球温暖化が進めば、まず梅雨の期間の雨量が今よりも二、三割増えるというふうに予想されます。気温が高くなって空気中に含むことのできる水分が多くなります。そうしますと、当然、雨が強く降るのです。とくに積乱雲タイプの雨雲ができやすくなります。積乱雲というのはみなさんもご存じのとおり、局地的にごく狭いところに集中的に雨を降らせるという傾向があります。このところの傾向として、ピンポイントに集中して雨が降る、すでにそういう現象が現れ始めています。地球温暖化の影響ではないかと唱える人もいます。

 この夏の一時間に八〇ミリ以上の猛烈な雨の回数を、気象庁がまとめました(図7)。過去三〇年間と比べますと多いです。これは一〇〇地点当たりの回数なので数字が小さくなっていますけれども、今、日本列島のアメダスによる降水量の観測地点は一三○○か所ありますので、この数字に一三倍をすれば単純に実数が出ます。この夏は過去最多を記録しました。とくに多かったのが七月、これは梅雨の末期の大雨が原因です。一時間に八〇ミリといいますと、富山県内でも大雨、洪水警報が出る基準よりもはるかに多いです。これを平気で軽く超えているのです。一時間で一〇〇ミリというのが当たり前のように観測上出てくる。昔はそうではなかったのです。最近の雨は短い時間に強く降る傾向があります。

 そのときの雲のようすです(図8)。七月二二日の雲です。梅雨前線に伴う雲が帯状に連なっています。そこに白く発達したものが積乱雲の塊です。こうしたものが西風に乗ってある一定の間隔でやってきて、それがぶつかると、ぶつかった山の西側で大雨が降る。次々と大陸のほうから積乱雲の塊がやってきて、九州を中心に大雨が降る。この前線がちょっと北上したり南下することによって、範囲が北陸まで行ったり、あるいは山陰地方まで行ったり、上下します。

 最後になりますが、この集中豪雨のメカニズムをお伝えして終わりにしたいと思います。

 なぜ、平成一八年の七月豪雨が起こったのか。先はどの大雪もそうですが、これも一つは偏西風の蛇行があります。七月になって、なかなかこの偏西風の蛇行が収まりませんでした。梅雨のときはそもそもこのように偏西風が蛇行するのです。大陸のほうは暖まってきます。海のほう、オホーツク海は温度が低いです。まだ六月、七月は冷たいです。ですから、その熱の差によって偏西風が蛇行するということがありますが、この偏西風の蛇行がなかなか終わらずに、偏西風に乗って、長い期間日本列島の北のほうから寒気がやってきて停滞しました。

 一方、大陸のほうからは、先ほどの雲でご覧いただきましたけれども、この時期はベンガル湾から湿った空気がやってきます。これに加えて台風が南にありますと、この台風から湿った空気も合流して、これらが日本付近に停滞する梅雨前線にぶつかったところで集中豪雨が起こります。今年はこの気圧配置が長く続きました。それで梅雨明けが遅れて、梅雨の雨が長引いて、梅雨の期間の雨が多くなった。多くなればなるほど梅雨の末期というのは地盤がゆるみますから、地盤がゆるんだところに局地的なピンポイントの集中豪雨があると土砂災害が起こります。

 これから地球温暖化という方向に日本も進んでいきますけれども、この温暖化の流れの中で、梅雨の雨、とくに梅雨の末期の集中豪雨というのが起こりやすいということになります。気象災害をなるべく少なくしなければいけない。そのためには、地球温暖化という大きなテーマにも、今後、取り組んでいかなければいけないと思っています。

 これで私のお話を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。

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水中カメラに映る北陸の日本海



 水中カメラマンの大田希生氏より、北陸の富山湾、佐渡島の海中のようすを伝えていただきましたが、ビデオ映像での紹介であったため、本誌ではその始終をお伝えできず残念です。豊かな海中林、多様な海の生き物たち、そして、海底のゴミ等、日本海の光と影について、ほんの一部ですが、口絵掲載の海中写真(当日のビデオ映像を静止画データ化したもの)で、日本海の海中のようすを感じとっていただけたら幸いです。












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第二部 パネルディスカッション
つながる日本海環境 ー海・里・山ー






(注) 本文中の写真・図は、ここでは省略しています。
『日本海学の新世紀第7集 つながる環境 海・里・山』をご覧下さい。



はじめに


中井 徳太郎

 みなさん、こんにちは。第二部パネルディスカッションに入りたいと思います。

 最初に、私事ですけれども、一九九九〜二〇〇二年の三年間、富山県庁でお世話になりました。この日本海学の立ち上げから県庁のみなさん、富山のみなさんと一緒にやってきたご縁で、今日こうしているということで、非常にありかたいと思っています。この七月まで東京大学に二年間おりまして、大学でも日本海学のゼミなどもやっております。

 もともと大蔵省に入った役人ですから、七月の定期異動で金融庁に戻りました。今は金融庁で地域金融の監督を担当しております。引き続きお金の面から、日本海学、地域のことを考えなければと、これもまたみなさまとの出会い、つながりの中で、また新しい使命がきているのかなと思っております。

 今日は多彩なゲストをお招きして、第二部「つながる日本海環境−海・里・山」というテーマをみなさんと一緒に考えていきたいと思います。まずこの環日本海、「逆さ地図」が象徴する大きいテーマを日本海学は扱っていますが、富山というのは、日本海地域の中でも典型的な海・里・山の循環モデルだと考えております。その辺のところを点検し、みなさんと一緒に確認したいと思います。

 今日のシンポジウムのチラシにも写真が使われていますけれども、富山湾に注ぎ込む黒部川、黒部川扇状地、少し雲がありますが立山連峰です(口絵参照)。この一帯の、平井先生の講演にもありましたけれども、海からの水分が雲となり、立山連峰に降り注いで水となり、川となって海に注ぐ。そしてその循環系の土地、扇状地に今われわれは住んでいるという象徴的な風景です。

 立山の雪の大壁です(口絵参照)。一〇メートル以上の積雪です。これは先ほど平井先生の話でも冬の大陸の「時雨」とおっしゃっていた、雪が降り注いだ結果です。僕も今年の五月に雪の大壁のところに行きましたが、年々、黄砂の関係でしま模様がすごくなっています。中国の方々と一緒に行ったのですが、「これは中国だけのものではなく、中国より西の大陸から来る風が運んだ黄砂だ」と、その中国政府の関係者は言っていましたが、大陸と連なっているということを実感できる場所です。

 これは立山杉です(図1)。みなさん、大体観光ルートだとアルペンルートの室堂(むろどう)まで.気に上がられますが、美女平(びじょだいら)から一一〇〇〜一三〇〇メートルのところです。立山杉の自然群集林と、あとブナです。白神山地と屋久島が世界遺産になっていますが、そのブナとスギ、両方が一緒に見られる典型的な自然景観の場所です。これは大きさ、胴回り一〇メートル以上は優にあるわけです。それこそ一五〇〇年、二〇〇〇年の樹齢のものが「いのち」を象徴するものとして現に存在するという、それがこの富山であるわけです。

 岐阜県の白川に近い、富山県の五箇山(ごかやま)です。五箇山も世界遺産です。この山里の中の棚田(口絵参照)、そして五箇山の合掌集落(口絵参照)、やはり自然の中に人が住んでいる、そういう営みが脈々とあるのです。

 これは砺波(となみ)平野の散居村(さんきょそん)です(口絵参照)。水田に水がいっぱい張ってあって、点々と濃い緑のところは、垣入(かいにょう)と言われるスギを中心とした屋敷林です。人と自然のかかわりの象徴としてこのような素晴らしい風景があるということだと思いますが、こういうものが富山にあるわけです。

 遠方に立山連峰を望む、高岡・雨晴(あまばらし)から見た海越しの立山です(口絵参照)。世界三人景色の一つといわれて、よく富山県が県をPRするときに使うものです。この写真に象徴されるまさしく海と山。山には雪を頂き、海には豊かな生物がたくさんいる、そしてこの海と山との連携の中に私たちはいるということになるのではないかと思います。

 このように、環日本海というものを考えたときに、やはり日本海学を提唱している富山県というのは一つのモデルです。一つの典型事例を示すということを富山がやっているんだということも確認できるのではないかなと思います。

 こういう海・里・森・山がつながっているというところで、風景として非常にすばらしいものが今もあるというのも事実です。しかし、先はどの大田さんの水中写真のように、いろいろゴミがあったり、平井先生がおっしやったように気候異変、集中豪雨等の問題があると思います。すばらしい自然があり、そこに人間かいるという環境、一方でただ手放しで喜んではいられない、いろいろ問題があろうかと思います。その辺を今日、パネリストの先生がたに、それぞれ海・里・森・山ご専門の立場から、それぞれの発表をいただいたうえで、始めてまいりたいと思います。

 それでは最初に、益田先生、「海の視点から」少しお話しいただければと思います。お願いいたします。

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海の視点から見た日本海環境


益田 玲爾

 みなさん、こんにちは。京大水産実験所の益田です。本日は、「海の視点から」という題で、話題を提供させていただきます。今日お話をするにあたって、自分の海への興味の原点とは何かなと考えますと、小さいころに来た日本海での海水浴に思い当たりました。子どものころ、大阪か東京に大体住んでいたのですけれども、一年のうち三日間だけ、家族で海水浴に来ていました。それが日本海側の小浜であったり能登であったり、もちろん太平洋側の場合もありますけれども、その三日間というのが自分の幼少期の中では本当にいちばん楽しい時間だったのです。そんな海水浴に来た中で、能登の海水浴だったと思うのですが、地元の漁師さんが箱めがねを貸してくれて、それで海の中をのぞかせてくれたことがありました。そのときに見た、海の中の世界ってなんてきれいなのだろうと感じた体験が、海への興味の出発点でした。

 第二の出発点がジャック・クストーというかたです。ご存じのかたも多くいらっしゃるかと思いますが、アクアラング、海の中に潜るための道具を発明した人です。彼はその発明したお金をもとに、カリプソ号という大きな船を買いました。そこまでで終わったら、ただの道楽な人なのですけれども、彼が偉いのは、それで世界中を旅してまわって、見たものをみんな水中写真なり、ビデオカメラなりに収めて、それを世界中に発信したことです。その一つが『クストーの海洋探検』というタイトルで、私が子どものころテレビで放映されていました。そういうテレビシリーズを見て海洋生物学者になった人が世界中にいまして、その中の一人が私ということになります。

 クストーのシリーズの中で彼が示してくれたのは、海洋生物学者としてのロール・モデルみたいなものです。幼いながらに思ったのは、世界中を旅してまわって、いろいろな言葉をしゃべれないといけないらしいということを何となく感じて、それで中学・高校のころ、ほかの勉強はあまりしなくても英語は一生懸命勉強しようと思ったり、あるいは船の上では海洋生物学者は交代でご飯を作ると聞いて、料理は割とまめにやるようになりました。もう一つ言うとすると、海の研究の成果を世界中に発信していたのを見ていて、自分はそういう影響を受けて育った一人なのだから、自分も海洋生物学者の端くれになった以上は何かしら発信していきたいなと思っています。今、舞鶴におりますけれども、「舞鶴のクストー」と呼ばれるようになりたいなと思っております。

 実際のところ、カリプソ号を買うお金は私にはありませんので、世界中を旅してまわるというのもなかなか難しく、むしろ逆の方法をとっています。どうしているかというと、一年中、目の前にある舞鶴の海に潜っています。年間一〇〇回以上は海に潜っているのですが、その大部分は日本海です。

 どんな潜り方をしているかというと、一つ基本にしているのが、私の職場のある京大の舞鶴水産実験所の前の海(図2)、ここで毎月二回同じコースで潜るのです。月の上旬・下旬と繰り返して潜るようになって、そろそろ六年になります。それも、ただ潜っているだけではなしに、その間に見た魚の種類と数と大きさの記録を取っています。記録は、水中ノートといって水中で字が書けるようなプラスチックの紙に取っています。潜水中には、いろいろな魚に出合います。

 たとえば、ハオコゼという魚をよく見かけます。釣りをされるかたはご存じかと思うのですけれども、五センチぐらいの小さい魚で、背ビレに猛毒のトゲがあります。ですから、釣ったときに間違えてガッとつかんでしまうと大けがをします。その痛い痛いハオコゼが、向かい合って何かしています(図3)。何をしているところでしょうね。求愛という声が聞こえたのですが、私もまさに求愛かなと思い、水中でわがことのようにその後の成り行きを、わくわくしながら見るわけです。そうすると何か起きたかというと、左の魚が右の魚のしっぽにかみつき、右の魚は左の魚のしっぽにかみついてグルグル回り始めました。ちょっと愛の行為にしては激し過ぎるなという気がします(笑)。おそらくこれは、オス同士の縄張り争いのけんかだったのでしょう。ただ、このハオコゼがけんかをする場合には、もし背中の毒トゲで刺したら、負けたほうは多分毒で死んでしまいます。そういうことはハオコゼはしない。致命傷に至らない、かみ合いという形でけんかをするのです。ハオコゼは偉いなと思います。そんなことを題材に、「舞鶴市民新聞」にフォトエッセーを連載しています。これも五〇回少々になりました。

 その後、潜って観察していて、けんかに勝ったオスのハオコゼの額、眉間にしわが寄っていることに気付きました(図4)。たまたまこうなのかなと思って、その後も潜るたびにハオコゼの顔を見ていると、繁殖期の縄張りを守っているオスだけにこの眉間のしわが出るようです。小学生に話をするときには「みんなも、けんかばっかりしていると、こういう顔になっちやいますよ」と言っています。

 それから、これはタケノコメバルという魚です(図5)。この魚は、毎年四月から七月にかけて実験所の真ん前の海で同じ場所に現れます。不思議に思って、同じ個体が戻ってくるのだろうかと思って、実験的にかごを沈めて捕ってしまいました。その捕ったタケノコメバルをどうしたかは、この場ではちょっと言えないので置いておいて、見ていると、また別のやつがいるのです。ということは、毎年複数個体人ってくるということです。

 ここでまたクイズなのですが、なぜこの魚はタケノコメバルという名前なのだか、わかりますか。これまた舞鶴の小学生に講演などで聞くと「たけのこに似ているから」と答えてくれます。ひょっとしたら都会の子は、だけのことは白いものだと思っているかもしれないのですけれども、舞鶴の山に接して育っていれば、この魚の色や形は、むく前の皮をかぶっているたけのこにそっくりだということに気づいてくれます。さらによく話を聞いてくれる小学生ですと、「四月から七月にモコモコ出てくるから」とそんなことを答えてくれるとすごくうれしいのです。

 もう一つこの名前のゆえんがありまして、たけのこと煮付けるとおいしいんですよ。ついでに三つ葉など載せますと、海・里・森がつなかった感じがします。

 では、海の中に戻ります。タイの稚魚(図6)は、潜っていてやはり毎年六、七月ぐらいに大体同じような場所で数匹見ます。ところが年によってすごくいっぱい見える年があって、二〇〇四年の七月には一か所に何匹もがかたまっていました。

 「今年はやけにタイの稚魚が多いな」と言っているだけだと、魚好きなおっちゃんで終わってしまうところですが、ここで毎回取っているデータらしきものが生きてきます。グラフ(図7)の横軸が潜った年月日、いつ潜ったという値で、左の縦軸は一回の潜水で見られたタイの稚魚の数です。すると、二〇〇二〜二〇〇三年ですと毎回数匹、せいぜい一〇匹ぐらい。一回に見られるのがそういう数だったのに対して、二〇〇四年だけドーンと一〇〇匹を超えて、二〇〇五年はまた減っている。こういうふうに特定の種類の魚の数がある年だけドーンと多いというのは、たとえば漁獲データにも現れることですけれども、ある地域の稚魚を数えるだけでもこんなことわかるというのは、われながら面白いかなと思います。

 ではなぜ、こういうことが起きるのかというと、いよいよ謎なのですが、これまたヤマを張ったりして考えていきます。別に取っているデータとして、クラゲの数を実験所の桟橋の前から毎朝数えています(図7、右の縦軸)。今朝は七時に出てきたので数えられないので、学生に頼んできました。それが二〇〇二年には一日の平均が一八五あったのに、二〇〇三年は八に減って、二〇〇四年は一まで減って、それから増えています。このようにマダイの数とクラゲの数が、逆相関であることがわかってきました。なぜ、タイとクラゲなのかと言われると思うのですけれども、タイの稚魚が産まれるのが梅雨どきで、クラゲは、ミズクラゲという種類ですが、発生していっぱい出てくるのが夏場なのです。沖で産まれたタイの稚魚が岸近くに来るときに、もしクラゲがいっぱいいたら、これは多分クラゲに食べられてしまうのではないでしょうか。

 ここにクラゲの大発生の写真(図8)があるのですが、潜ってみるとこんなのに出合うことがあるのです。こんなクラゲの大群の中を潜っていくと、人間の私でさえ、こんなふうに頭の上にクラゲを載っけたりすると(図9)、これはわざとですけれども、怖い思いをします。

 これがもし小さい魚だったら、きっと食べられてしまうだろうな、ということでまた新たな実験にとりかかります。かわいそうですけれども、クラゲの入った水槽にタイの稚魚を放すと、銀色のタイの稚魚はみんな簡単に食べられてしまいました。やはり簡単に食べられるな。

 では、ほかの魚と比べてどうか実験してみよう。これはアジとサバとタイとで、いろいろなサイズの魚をクラゲに遭遇させて、何分何秒で食べられるかという実験の結果です(図10)。そうするとアジがいちばん食べられにくくて、その次がサバで、タイはだいぶ食べられやすいのがわかりました。イワシも実は同じぐらい食べられやすいです。タイ・イワシは食べられやすくて、アジ・サバはクラゲに食べられにくいらしいということも実験でわかってきました。

 カサゴという魚(図11)は、舞鶴のあたりでは「ガシラ」と呼んでいます。私はどんな魚も好きなのですけれども、このガシラは特に親しみを感じる魚です。キャンプで釣れた場合は、くし焼きにして、身をほじって食べて、あとは中骨でだしをとってみそ汁を作るとすごくおいしいです。ご家庭ではネギと一緒に煮付けて食べたりするとよいでしょう。カサゴのように骨ばった魚はちょっと濃い目の味付けで、酒・みりん・しょうゆは四対一対一です。これを私は「煮魚黄金率」とひそかに呼んでいるのですが(笑)、これだけ辛口にして食べるのが好きです。

 ゴンズイという魚(図12)は、阪神タイガースみたいな模様ですけれども、せびれのトゲと胸びれにけっこう強い毒があります。このことは魚の研究をしている学生はみんな知っていまして、調査で捕れてしまった場合はちゃんとよけます。去年の夏は調査でゴンズイが取れて、それを学生が、ゴム手袋でそっとすくって捨てようとしたら、ゴム手袋の上から刺されてしまいました。「いててて」と離したあと、学生は「このやろう」とゴム長靴で踏んだのです。そうしたらトゲが貫通してしまって、ゴム長靴の上からも刺されて、手の毒は口で吸い出したのですが、足の毒はヨガの修行が足りなかったみたいで届かなくて吸えなくて(笑)、医者に連れて行きました。命に別状は普通はないみたいですけれども、気をつけましょう。

 それからカレイ(図13)。カレイの仲間は、冬から春先にかけてよく海の中でも出合いますし、それからスーパーでもよく売られています。

 スジハゼというハゼがいます(図14)。このハゼはよく穴の入り口にいて、穴の中にはエビがいます。エビ君はまめに仕事をするけれども目があまりよくない。ハゼはエビ君が掘った穴の入り口にいて、敵が来たらエビ君に「敵が来たぞ」と教えてあげる。普段はエビ君が掘ったときに出てくる小さい虫を餌にしているのです。こういうのを「共生」といっています。聞いたことある言葉ですよね。当然ですね、日本海学のテーマの一つですから。これは、海の中で見られる典型的な共生の例です。

 こちらは別の種類のハゼですが(図15)、口にくわえられえているのはカタクチイワシです。このハゼ、自分とほぼ同じぐらいの大きさの餌を口にくわえている。ハゼは大体海底にいるのに、どうしてこんな大きい餌を食べられたのか、たぐいまれなジャンプカがあったのかな。多分そうではなくて、群れで泳いでいた力タクチイワシを攻撃した魚がいて、しっぽだけ食べられたので、落ちてきた頭を「あ、ラッキー」と棚ぼた的に食べたのがこのハゼだと思うのです。一見、自然界の弱肉強食だと思われるかもしれないですけれど、そうではなくて、このイワシの頭が海底に落ちていたらただのイワシの頭、腐るだけだと思うのですが、それをハゼ君が食べて、ハゼ君はカサゴに食べられて、というつながりができているのです。ですから、これも広い意味では「共生」なのかなと思ったりもします。

 舞鶴湾で潜っていて、数的にいちばん多いのはこのアジという魚です(図16)。アジは最近数が多いのですが、なぜ多いのかなと思ったときにその秘密が実は一つ、クラゲにあるのではないかなと見ています。

 アジはよくクラゲと一緒に泳いでいます(図17)。クラゲの触手の間を縫うように泳ぐアジの稚魚をしばしば見かけます。一体なぜクラゲと一緒にいるのかなと考えてみました。アジがクラゲと一緒にいる理由、その一。写真を撮ろうとしたら必ずアジはクラゲの陰に隠れるし、敵が来たら隠れる、すなわちクラゲは捕食者からの保護というのがまずあるでしょう。二つ目として、餌としてクラゲを食べているのかなということ。三つ目として、クラゲと一緒に旅をしているのかなと、以上の仮説を立てて実験を進めています。

 どんな実験か。まず、サバがいる水槽にアジを入れ、そこにクラゲを入れてみる。そうすると確かにサバが寄ってきたら、小さいアジはクラゲの陰に隠れます(図18)。実験成功、と恩ったのですが、次に大変なことが起きました。なんとこのサバ、アジがここにいるなと思ったら、とりあえずクラゲを食べ、それからアジも食べてしまったのです。これはちょっとかわいそうなことをしたのですが、とりあえず隠れることはわかりました。

 それから、アジは、クラゲが集めたプランクトンを横取りします。クラゲとアジのいるところに餌の動物プランクトンを与えると、最初アジは動物プランクトンを食べるのですが、しばらくするとクラゲが集めたプランクトンを食べるほうが効率がいいからとそれを横取りします。

 では、海の中でどんなふうに寄りついているのか。若狭湾、日本海のちょっと南寄りの所で潜って(図19)、去年の秋に全部で八二個体のエチゼンクラゲを観察したのですけれども、そのうちの三分の一にはアジがついていました (図20)。ほかにもいろいろな魚がついています。

 ついているアジですが、小さいやつは一〇ミリぐらいからで、大きいやつは四五ミリ、五センチ弱までです。そして五センチを超えたアジは岩場にいっぱいいます。ですから、おそらくアジは一〇〜四五ミリの範囲ではクラゲに寄りついて一緒に旅をしているのだろうなということがわかります。

 ところで、アジの大きな産卵場が東シナ海の南のほうにあります。一方で、エチゼンクラゲの発生場所は長江や黄河の河口あたりだといわれています。これらのクラゲが春に発生すれば、アジとしてはちょうど寄りつくのにタイミングがいいわけです。それでこのクラゲに身を隠し、餌をちょろまかしつつ回遊の補助としているんだろうなということが想像つきます。

 また舞鶴の海に戻ります。アミメハギ(図21)という小さな魚が海藻によくしがみついて休んでいます。

 もう一つ、海藻の間でよく見るのがタツノオトシゴです(図22)。これまた小学生向けの講演の質問コーナーで、高学年の女の子が「タツノオトシゴはどうして、はてなマークみたいな形をしているんですか」と聞いてきたことがありました。これは厳しい質問ですね。そのときはこんなふうに答えました。「タツノオトシゴは、産まれたときから、こんな形をして、海藻にしがみつき、流れてくるプランクトンを食べています。このしがみつくのにいい形だから、はてなマークなのです。逆にいうと、舞鶴湾にこの海藻がけっこうまだ残っているから、タツノオトシゴも割とよく見かけます。もしこの海藻の生えている場所がなくなってしまったら、タツノオトシゴもいなくなってしまうよね」といった具合です。

 定例潜水で得たデータをちょっとまとめてみました。グラフ(図23)の横軸が潜った月日で、縦軸のいちばん上が、二回の潜水で見られた魚の種類数、二番目が魚の個体数、そして三番目が水温です。グラフを見ていただくと、過去四年間のデータですけれども、魚の種類や数が水温の変化と非常にきれいに対応していることがわかります。研究者としては、こういうきれいなデータが出たというのはすごくうれしいです。先ほど平成一八年豪雪の話が出てきましたけれども、大雪の後のダイビングでは、雪の中をズボズボと入りながら潜ったりもします。でも、こういう寒い中に入っていってこそ得られるデータというのがあるわけです。このあまりにもきれいなデータについて、いろいろと解析を進めています。一つは特定の魚ごとに四年間の変化を見てみますと、メバルという魚は二〇〇二年に多かった。キジハタは二〇〇二〜二〇〇三年に多くてマダイは二〇〇四年に多かった。

 考えてみると、いろいろな種類の魚がいることによって、全体として調和がとれている。そしてもちろん、水温の季節変化が非常に明瞭だからこそ、魚類相の変化もクリアだということがわかります。

 では、昔と比べてどうか。昔に戻って潜ることはできないですけれども、幸いに三〇年ほど前に同じ場所で、潜水やネット採集などで魚類相を調べたデータがありまして、それと比べてみると、同じ場所で昔はマイワシ、サヨリ、ブリといった魚がいっぱいいたのに、今は全然いないのです。逆に昔いなくて今いる魚は、ミノカサゴ、テングダイ、イチモンジハゼなど、みんな熱帯系の魚です。南の魚が増えてきたわけです。

 これはどうしてかというと、もちろん温暖化によるものです。そして、温暖化で増えているのは、トロピカルな魚だけではありません。たとえば、ガンガゼ(図24)。これは毒トゲを持った南方系のウニで、台風二三号の直後から見られるようになりました。これが増えてきて困るなと思っていたら、今年(二〇〇六年)の二月になってちょっと弱ってきて、三月にはヒトデに食われて死んでいました。なぜこういうことが起きたのかというと、これまた一八年の豪雪なのです。豪雪のおかげで雪解けのものすごい冷たい水が海に入り、南方系の生き物は死に絶えたのです。それまで何年か残っていた生物も死に絶えた。真冬には、実験所の前で氷が浮いていたりすることもあるのですが、そういう中に潜ってこそ得られるものがあるなあと思います。

 本日のとりとめのないお話をあえてまとめるなら、「すべてはつながっている」ということに尽きると思います。漁獲量のデータを見ていると、イワシの量が大きく変動することはわかりますが、それはいろいろな魚との食う食われるの関係があってこその結果なわけです。もちろん、海は山とも陸ともつながっています。

 最後になりましたが、『魚の心をさぐる』(二〇〇六年、城山堂書店)という本を最近書きました。今日のお話にもし興味をもっていただけるかたがいらっしゃればご一読いただければありかたいです。ご清聴ありがとうございました。(拍手)

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里のクライシス(危機)


佐藤 洋一郎

 佐藤でございます。今日は二つの話をしてみようと思います。一つは、富山というところはどういうふうに世界とつながっているのだろうかという視点。それから、今日私に与えられましたのは里でございます。現在の日本の里、海と森をつなぐ里ですけれども、これが今大変なことになっているのです。この二つのお話をしようと思います。もう食べる話は十分でしょうから、私は地図から入りたいと思います。

 今から数十年前に、和辻哲郎という哲学者がおりまして、彼がユーラシアを三つの地域に分けました。日本に近いほうからモンスーン、それから沙漠(さばく)、それからいちばん遠いところが牧場であります。

 モンスーンについては申すまでもなく、先ほど平井さんもご説明をなさいましたけれども、主に夏にたくさんの雨が降る地域です。そのモンスーンの向こう側には、巨大な砂漠が広がっております。大体一年間の雨の量が四〇〇ミリを割るぐらいになりますと小麦ができなくなる。三〇〇ミリを割りますと大麦ができなくなって、だんだん砂漠に近づいていく、そういう地域を沙漠と呼んでいます。その向こうは牧場、少し雨が降りますが主に冬雨の地域であります。こういう地図を見ますと、私どもは砂漠というのは昔から砂漠であったように思ってしまって、牧場というのがはるかヨーロッパ、われわれはそのモンスーン地帯の中だけで何やら生活を完結してきたように思いがちなのですが、実はそれは大うそであります。

 このユーラシアの巨大な地域、この真ん中にある砂漠が実は砂漠ではなかったというお話を少しだけしておこうと思います。なぜ、そんなことを言うのかということは後にいたしますが、これが現在の砂漠であります(図25)。私はもともと稲の専門家ですが、最近こういう砂漠の中に行って調査をしています。三、四日この中に入って調査をして前線基地に帰り、まず最初にやるのはビールを飲むことなのです。これが、いくらビールを飲んでも、トイレにも行かなければ、汗も出ない。それぐらい体の中の水がすっからかんに抜ける、そういう風土が砂漠です。

 この景観をご覧いただいておわかりになると思いますが、白いものは塩なのです。塩が吹いてしまって作物ができなくなって、土地が砂漠になったのです。砂漠を作り上げたのは人間なのかもしれないのです。そういうと農業が悪かという話になるのですが、常に悪だと言ってしまうと未来がないわけです。やはり、やり方です。やり方一つ間違えるとこういうことが起きる、歴史的にこういうことが起こったのだということを私たちは申し上げておきたいと思います。

 たとえばタクラマカン砂漠という砂漠の上空、何十キロか上空からの人工衛星の画像ですけれども(図26)、こんなふうに何にもない砂山の中ですが、ちょっと昔をたどってみますと、これはみなさん何だと思われますか。人工衛星って恐ろしいですね。明らかに何百年か前、何百年か何千年かわかりませんが、人間が何かしていた跡なのです。今、砂漠だと思っているところは昔はこうだった。つまり、人間の書かれた歴史の中に砂漠化か起こっているということがだんだんとわかってきています。

 よくよく調べてまいりますと、このユーラシア大陸という大きな地域一帯が、今から三〇〇〇年前には麦作の地域で、麦を作っていたのです。ピラクという遺跡はインダス文明遺跡の一つですが、三〇〇〇年前には麦を作っていて、その後しばらくして稲を作るようになりました。ですから、このユーラシアの大地には麦を作っていた広大な地域と稲を作っていた広大な地域があって、ユーラシアの真ん中に一本の線を引くことによって麦作の地域と稲作の地域を大まかに分けることができるのです。こういう対極的な見方をすることができるのです(図27)。

 ここで一つ注意してもらいたいことは、この線は日本列島を切っています。日本列島は、歴史と風土を加味した考え方で申しますと、北のほうははるかヨーロッパにつながっている、南のほうはモンスーン地帯につながっている、こういう連関がある。

 もっと世の中を広げますと、大陸の真ん中には、時間の軸を無視していますが、一年生植物の文明のエリアがずっと広がっていた節があります(図28)。アフリカ大陸の真ん中、サハラ砂漠の真ん中だって、何千年も前には農業をやっていた痕跡があります。主な作物は稲・麦という穀類、一年生の植物です。こっち側にはトウモロコシがあります。そして、この真ん中を貫く大きな海のエリアは多年草のゾーンです。芋やバナナがあります。こういう世界を描くことができます。やはり、多年草と一年草の交じるところが世界文明の発祥の場所になる、こういう面白さが見えるわけです。

 この線に従いますと、どうも南側と北側とでは住んでいる生き物が違います。簡単に紹介しますと、南方には稲がある。それから発酵食品にも違いがあって、南のそれはカビによる発酵食品が多いのです。とにかく、そういう食べ物がある。それから北のほうを見ますと、ヒエ・アワというような雑穀文化があります。京都へ行きまして、ヒエ・アワを食べる文化があると言いますと、それは劣った文化だと人は言うのです。「なんや、おまえのところはヒエしか食うとらんか」、こういう言い方をいたしますが、それは偏見です。北の人たちは何もいやいやヒエを食っていたではないのです。そこにはヒエを食う文化があったわけです。

 この北の文化と南の文化の間には、南北両方をまたいだ文化があります。富山はまさにこの線の上に乗っている。そのことにぜひ、みなさん、お気づきをいただきたい。いながらにして両方の文化を享受することになる。実にいいところにいらっしゃるのです。私、静岡にいたことかありまして、静岡にいるときも同じことを言ったのですが、これはうそでも何でもなくて、二つの町はどちらも、本当にこの線の上に乗っているのです。

 詳しくは申しませんが、南日本と北日本と比べますと、いろいろなことが違います。まず大麦の品種が違う。ネギの種類が違う。カブの品種が違う。後で稲本先生がお話しになるかもしれませんが、森の種類が違う。それから、害獣の一つであるネズミも違う。クリを栽培したかどうかも違う。縄文時代に稲作があったかどうかも違う。いろいろなものがこの線を境にして南北で異なっております。ちなみにネギですが、富山の人は、すき焼きにはどのようなネギを入れられるのでしょうか。大阪の人はタマネギを入れるのですよ。東京の人は絶対にそんなことはしない。あの白いネギを使う。どうしてかというと、白いネギの白い部分は甘いからです。白い、そういうネギがあるわけです。関西のほうにはあのネギはないのです。ネギなんか入れたら苦くなるのです。そこで関西の人はしょうがないので甘くなるタマネギを入れているのです。こういうふうにちゃんと文化を反映していると申し上げたかったわけです。

 富山をめぐるもう一つの特徴は、日本をめぐるいくつもの回廊の交差点にいるということです。多分縄文時代を中心にした相当昔の日本列島の文化のことを考えてみますと、大きくいいまして列島にやって来た植物・文化には三つのルートがあります。南方の流れ、柳田國男の世界です。もう一つ、東シナ海をめぐる動き、典型的なのは水田の米です。それともう一つ、最近これはひどく注目するようになりました。日本海をめぐる物の動きです。

 先ほど申しましたヒエという雑穀、あるいは西洋カブ、それからクリ、ソバのようなものがあります。日本海をめぐる文化圏として、つまり日本海をめぐる一つの大きな文化圏です。これは食べ物だけではなくて、イヤリングもあります。今でいうイヤリングではありません。縄文時代のイヤリングですけれどもそういうもの、あるいは独特の道具、そういうものに極めて特徴的な共通項を見出すことができます。つまり、富山というのは、環日本海をめぐる文化の中心にあった。

 したがいまして、こういう観点から富山、日本海を見てみますと、環日本海という大きな回廊の上にある一つの結節点になっているということがいえると思います。

 富山には今述べた、こういう大きな流れのこういう二つの特微かあるということを強調しておきたいと思います。

 二番目の点です。先ほど申しましたように、今日私かどうしても申し上げておきたいことの一つです。今、里が壊れています。

 どんなふうに壊れているのか。これは実は山口県のあるところで撮った写真です(図29)。ここに集落がありました。これはその集落に付属する畑でした。「でした」と過去形で申し上げましたのは、この写真を撮ったのは二年前のことです。ところが、最後までここで頑張っていたかたが、男性のかたですけれども、高齢のためにどうにもこうにも動けなくなって、家族が見るに見かねて下に下ろされました。つまり、ここは無人になりました。その結果、ここの畑は畑ではなくなりました。

 彼はこう表現しました。「縁の地獄だ。都会の人はな、緑にお金を掛けて、何かそこらへんに街路樹を植えるのに金を使っているらしいけど、あんた、ここらへんは緑の地獄やで」と彼は言います。「去年は座敷を突き破ってたけのこが生えてきた。その前は畑にしようと思って開いとった土地に木が生えてきた。木の上から猿がおれを見張っていて、にらめっこをした。ここで負けたらいかんと思ってじっと見たら、向こうが逃げた」とか、そういう話をするわけです。これは名文句です、「縁の地獄」。

 別な人はこう言いました。「先生、最近は山が攻めてくる」。人間が農業をやっていた里、里域ですが、この里が主に過疎の問題で、今どんどん壊されていっている。さっき平井先生が過疎の切ない話をなさいましたが、まさにそうだと思います。もう人目が少なくなって、農業を継続することさえできなくなっている。

 ここで重要な問題がいくつかございます。一つ、私たちは里から多様性を失っています。こういう水田(図30)を見ると私たちはきれいな水田だというのですが、みなさん見てください。

 日本中の田んぼ、ほとんどコシヒカリばかり。私は大学にいるときに学生たちに、コシヒカリとそれ以外の米と目隠しをして食べさせてみましたが、新米だったら区別がつかないのですよ。だけど、コシヒカリがよく売れるのです。わからないくせにコシヒカリを買うのです。私もわからないのですが。品種を調べてみるとみんな兄弟なのです。日本中の田んぼから多様性というものがなくなってしまっているのです。

 これは私がフィールドに行くラオスという国のある農家の種籾です(図31)。中にいろいろなものが混じっておりまして、秋になると図32のようないくつもの穂が出てくる。「あんたこれ、品種の名前が違うだろう」と通訳を通して問くのですが、「これも何とかの品種、これも何とかの品種、これも何とかの品種」これだけ見かけが違うのに同じ品種ってどういうこと?「これとこれ、品種も同じか」「同じだ」「違うやないか」、などと問答をしているうちに「何でそんなことにこだわるんじゃ」としかられました。思わず頭を抱えました。

 遺跡から出てきたいろいろな遺物を分析しまして、昔の日本の田んぼはどうだったのかと調べて描いてくださいということで、中西立太さんという人に描いてもらいました(図33)。さんざん頼んで、「きれいな田んぼの絵は描かないでね。休耕田もあって、雑草があって、草ぼうぼうで、そんなふうになってるはずだから、そういう絵を描いてね」と言ったら、こういう絵を描いてくれました。もっと汚くしてと言ったら、絵描きにも美学があるのだとかでこれ以上汚くしてくれませんでしたが、おそらく昔の田んぼは生物多様性に富んでいたのです。それがいつの間にかああいうふうになってしまう。

 もう一つ、重要なことに戻ります。里の崩壊にまつわる話です。日木食の代表の一つとしててんぶらうどんをあげてみましょう。原料は何ですか、時間があったらみなさんに聞きますが、小麦、エビ、ネギ、大豆というのはしょうゆです。七味のごまの実、水、などもあります。この中で純国産のものは何でしょうか。最近は水も輸入されております。つまり、あらゆるものが輸入されている。のりも輸入されているのです。そういうものばかりあるわけではないですけども、では、一体この一杯のてんぷらうどんを作るために、どれだけの量の水が必要か。小麦を作るためには畑に麦を植えなければなりませんので、そういう意味も含めて、一杯のてんぶらうどんを作るために一体どれだけの水が必要か。みなさん、どれぐらいだと思われます?一杯のてんぶらうどんの原料を生産するのに必要な水の量はいかほどか。

 これも、さっきの平井先生の話じゃないけど、うちへ帰ってやってみてください。みんな、びっくりしますよ。少なく見積もっても七〇〇、多く見積もっても一〇〇〇倍。そして小麦を作っているところ、日本で小麦を輸出している国は大体水がない地域です。つまり、われわれはどうやっててんぶらうどんを食っているかといいますと、水がない地域で強引に灌漑設備か何かを作らせて、あるいは地下水を汲み上げさせて、それで小麦を作って、一杯当たり一〇〇〇倍に相当するような水を使わせて農業を成立させ、われわれの食生活は成立しているということになるのです。

 そこで私は、こういうふうに申し上げたいのです。「日本を耕そう、日本を食べよう」。多少、国産のものは高いのです。しかし、それをすることによって世界の水を救うことになるのです。これだけ豊かな水がある富山にいて、どうしてその水をほったらかしておいて、外国の貴重な水で物を食べるのか。こういうことはやめて、せっかく豊かな水があるのだから、その水を使った農業をどんどんやろうではないか。多少高いことは目をつぶろうではないかと考えることも必要ではないかと私は思っております。

 時間が参りましたのでこの程度にしておきます。どうもありがとうございました。(拍手)

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山の視点から見た危機


稲本 正

 稲本でございます。この富山の大沢野で生まれました。そのころにいちばん思ったのは、何しろ富山を逃げ出そうと。どうも富山というところは山があって、息苦しい。おふくろの親戚が佐伯といって立山町にいるのですが、立山町へ行くと七割ぐらいが佐伯なのです。佐伯富男さんという山登りの名手かおりまして、山ばかり登っている。山に登ると何かいいことあるそうですが、実際はけっこうな人が死んでいるのです。富さんはそういうところの捜索ばかりしていたのです。佐伯彰一という立山が誇る文学者の叔父がいまして、英文学の人でヘミングウェイを日本でいちばん最初に訳した人です。その佐伯さんにちょっと英語を習って、それでますます富山を出ようと思いました。これからスライドを見せますけれども、富山を出て世界中の森を回って、それで今飛騨の高山に住んでいるのですが、世界中の森を回って帰ってきたら、結局、富山がいちばんいいなと思って、八〇歳になったら富山に住みたいなとさえ思っています。

 今、富山の隣で、白川郷自然學校の校長をやっています。しょっちゅう富山に来るようになって、ちょうどこの日本海学も始まって、自己紹介を含めながら、日本海の話をします。

 その前に、今の佐藤さんの話にもあるのですが、日本は戦後何か間違えた傾向があって、アメリカのほうに日本が向いているのですけど、間違いなく一〇〇〇年前は表日本は日本海側だったのです。今、裏日本といわれているのが表日本で、表日本といわれているのが裏だったのですけど、ペリーがたまたま太平洋側に来たので裏と表がひっくり返ったのです。しかも、一〇〇年経てば多分世界はまた変わるでしょう。いま世界一の経済大国はアメリカですが、世界一の領土大国はロシアです。世界一の人口大国はいうまでもなく中国です。中国もロシアも、僕は過去に一か月半ぐらいぼけっと旅したので、その旅の話を最後にしながら、日本海をはさんだ日本の位置、富山の位置という話をしたいと思います。その前に自己紹介を兼ねてスライドをいくつか見せます。

 僕の住んでいるオークヴィレッジです(図34)。実のところ緑に囲まれ、木々の左側に屋根がありますけれども、菅原文太さんが住んでいるのです。あの辺は実は、木が一本もなかったのです。あれは全部僕らが周りに植えた本です。「一〇〇年かかって育った本は一〇〇年使えるモノに」「お椀から建物まで」「子ども一人、ドングリー粒」この三つの合い言葉から始めて、いろいろな本を植えています。

 やっている仕事はいろいろあるのですけれども、木の種類を記してある積み本はうちのベストセラーです(図35)。また普通、木琴は木が短いほうが音が高くて、長いはうが音が低いのですけれども、これは同じ長さなのにちゃんと音階が出ます(図36)。

 後から漆器の話が出ますけれども、漆というのは日本海をつなぐ重要なツールです。何しろ中国・韓国・日本、あとは東南アジア・ベトナムのほうもあるのですが、とりわけいい漆は中国・韓国・日本で採れています。うちは今、白い漆に挑戦しているのです。白い漆というのは、実のところできません。胡粉を混ぜてやると白っぽくなるのですけれども、漆は茶色っぽいので、どうしても茶色が残るのです。これは何かすごいかというと一〇年経つと白くなるのです。漆が一〇年後に変わる、白い洋食器を作っています。

 おもちゃもいっぱい作っています。これからクリスマスですけれども、クリスマスツリーがクルクルと回ってオルゴールが鳴って「きよしこの夜」とか「もろ人こぞりて」が鳴ります。家具も作っています。建築もやっていまして、「オークヴィレッジ通信」の裏にも書いてありますけれども、今発売の『住宅建築』になぜか一〇〇ページも特集されています。

 ここからが問題なのですね。「ウッドマイルズ(WOOD MILES)」と書いてあります(図37)。日本は木材の八割を輸入しています。去年は自給率が二〇パーセントを切ったのです。十八〜十九パーセントぐらいです。八割輸入していて、それをすごく遠いところから輸入している。米国は隣のカナダぐらいですから、大してマイルズはかかっていない。ドイツもせいぜい北欧です。ところが、日本はなんと北欧とかアメリカ、北米から輸入しています。

 要するに、国産材を使うことはものすごい環境にいいことです。日本の森林には木がないから木を切ってはいけないというのは、大うそです。三〇年前ぐらいは正しかったのです。今はありすぎる。一九五〇年代に比べて、今、スギ・ヒノキが三・八倍の蓄積量がある。ですから、日本の森を切らなくてはいけないのです。ところが、日本は森を切らないでひたすら放っておいて、一方で海外から輸入して、しかも輸入するときにこれだけのエネルギーをかけているのです。だから、ぜひとも、国産材を使うということが大切です。

 それで、僕らは木を植えています(図38)。いろいろなところに苗畑を持っていまして、飛騨にも苗畑で二万本ぐらい、それから東京は国際基督教大学で三万本の苗を、特にたくさんのドングリの苗を毎回作って、全国に送り出しています。

 これが話のポイントですが、魚津の漁師さんがちゃんと山に木を植えてくれます。今、漁師で山に木を植えない人は魚を捕ってはいけないといわれているくらいです。なぜかというと、海がどんどん荒れて、しかも山からミネラルが豊富な水が下りてこない。そうなると魚が育ちません。これはもういろいろな先生が研究されて間違いない。いちばん最初は、畠山重篤さんという宮城県のカキを養殖している人が山に木を植え始めまして、富山の漁民も畠山さんに勧められたこともあって、僕らのところにも毎年木を植えに来てくれている(図39)。富山県の隣は飛騨市ですが、ここに神通川とか庄川という川があります。先ほど県の人とお話ししていたのですけれども、魚津の漁民しか来ていないので、新湊とかの漁民や、それから漁民だけではなくて富山市に住んでいる人が、飛騨に来て木を植えてほしい。実際に流木が流れて、去年の漁獲高だけで二〇億の被害が出ているのです。だから、漁師も大変ですけれど、市民にも被害が及んでいるわけで、ぜひみなさまにも木を植えに来てほしいな、と思うのです。

 いつも漁師の人は魚を持ってきてくれるのです。植え終わったあと、山の幸と海の幸を合わせて山海汁を作ります。益田さんではないですけれど食べ物で釣るのがいちばんいい手ですね。植え終わったあとに山海汁が飲めるという理由で集まっている人もいます。

 野球バットの原料のアオダモという木があります。アオダモという木が今はなくなりかけています。イチローとか松井秀喜のバットがそれでできているのですけど、あのバットというのはものすごく瞬発力がないとだめなのです。そのアオダモがなくなりつつあるので、一生懸命捨てられるバットをケータイのストラップやキーホルダーとかにして、五〇〇〜一〇〇〇円で売っていまして、これを買うとそのお金が「バットの森」(図40)にいきます。阪神タイガースには熱心なファンが多いので、阪神タイガースの公式グッズというのがあり、それらも「バットの森」に寄付してくれています。

 『森と生きる。』(二〇〇五年、角川書店)という本を出しました。その中に書いてあることなのですが、南極のボストーク基地とかでいろいろ調べると、四〇万年の間にCO2、二酸化炭素というのは十八○〜二八〇ppmの間にあったのです。それが今は三八〇〜三九〇ppmいっています。これはいかに人類がすごいことをやったか、こんなに上がっているのは、異常としか言いようがありません。平井さんの話にもあるけど、必ずしも気温が順調に上がったのではなくて、寒いところができてきたり、暑いところがあったり、いろいろな異常気象が明らかに出てきています。京都議定書が実行に移されても多分五〇〇ppmは突破するだろうといわれています。そうなると、ますます異常気象が起きるわけです。

 樹木から見た悲しいデータです。人間がただただ呼吸するだけで、木が一五〜一六本必要です。いろいろな計算の仕方があって、二三本という人もいます。人間が吸う酸素と、はきだすCO2を吸収するのはほぼ同じになるのですけど、生きるだけだったらこれぐらいで済みます。

 ところが、文明的な生活をする。電気を使うとか、ペットボトルを使うとか、ガラスだって一〇〇〇度ぐらいに上げるわけです。とりわけ金属がいけないのです。スチールのいすのほうが木のいすよりCO2は大体七〇〜一〇〇倍近く、中には一八〇倍というデータも出ています。『森と生きる。』という本の中に詳しく書いてあります。要するに国産の木を使う家具とか建築がいちばんいいのです。それを金属とか海外からの資材を使った瞬間にエネルギーが要るわけです。

 インドとか中国の人、発展途上国の人は、エネルギーをあまり使っていないのです。結果的には四〇〜五〇本。ブータンというところはいちばん環境にいい生活をしていて、あの人たちは三〇本を切っているのではないかといわれています。アメリカ人は、うちの息子はアメリカに住んでいて、いつもけんかをしているのですけれども、何というのか、ぜいたくは美徳だと思っているのです。でっかい車に乗って、バカバカ食って、世界中のものを集めて、いろいろと消費して金を使うという生活をしている。すると、なんと一人当たり七九二本というデータが出ています。八〇〇本近く。

 今恐ろしいのは、日本海をはさんで中国やインドあたりがアメリカ人と同じ生活をしだした瞬間に、地球が四個、五個あっても足りない。CO2が五〇〇ppmどころか、八〇〇ppmぐらいになるといわれていて、完全に地球はだめになるわけです。それから、京都議定書にアメリカは入っていないのですが、ぜひとも入って、四分の一ぐらいにしてほしいと思っています。

 具体的なことで、今「ドングリの会」で一生懸命木を植えています。どれぐらいで大きくなるかというと、意外と早く大きくなるのです。八年で人間の背丈の三倍ぐらいの木がどんどん育つのです。本当に意外と早く育つのです。

 これが僕の家です(図41)。二五年前、家の目の前に小さい木があるのですが、それを見ていてください。荒れ地に家を建てたのですけど、その周りに木を植えていったら、今は森に囲まれた家になったのです(図42)。

 対比できるように、まったく木がなかったところを開拓して、木を植えながら道を造ったのですけれども、並本道になりました(図43)。

 「ドングリの会」というのをやっていまして、展望台をはげ山に建てたのです。展望台で展望できるはずだったのですが、「ドングリの会」だから木を植えたら、展望できない展望台ということになりました。

 東京農業大学の人がマダガスカルにバオバブ(図44)を植えているのですが、それを手伝っています。バオバブという木は『星の王子さま』に出ていますが、面白い木で、樹皮でも光合成をするのです。死なない木と言われています。実際一〇〇〇年も生きるのです。現地の人は、死なない木だから一切植えない。ところが、今五〇〇歳から一〇〇〇歳ぐらいになった木が多くて、バタバタ倒れているのです。それで日本から行った「サザンクロス」というグループが、バオバブなどの木を植えています。ところが植えても現地の人はすぐ切ってしまうのです。切らないように教育も一緒にやらなくてはいけないので、「森の惑星」プロジェクトといって、たまたま七〇万円寄付したのですが、それで学校が建ってしまったのです(図45)。全然物価が安いので、それぐらいでできるのです。里山の再生とかで、それぞれの役割を決めて山をちゃんとケアしましょうという話です。

 先ほど言いましたように、トヨタ白川郷自然學校(図46)の校長をやっています。トヨタ自動車に、豊田章一郎さんという名誉会長がおいでになって、何しろ自然のことをみんながもっと知るようにというので、創設されました。たとえばクマもいるのですが、クマにGPSをつけて一生懸命観察をして、クマとの衝突を避ける研究をしながら教える学校で、その校長をしています。ここから一時間ぐらいのところです。企業とNPOと白川村の三者でやる。一般の人が自然と触れ合うきっかけをつくり、環境教育を広げようというのが目的です。

 場所は北陸自動車道で行って、白川のインターを降りてからすぐです。なんと五二万坪という土地を持っているのです。五二万坪は広いです。敷地のどこからどこまでトヨタの土地かというと、山のてっぺんは違うけれども見渡せるところでとりあえず全部といわれるぐらい広いのです。いまだに敷地の隅から隅まで歩いた人はだれもいないというぐらい。白山スーパー林道の入り目も実のところ学校の敷地内です。白山国立公園とつながっていますが、その恵まれた自然と人間がどう共生するかの具体的な実験をして、実験をしたものをみなさんと一緒に共有しようということを試みています。

 温泉も出ます。それから、料理がフランス料理です。氷見の魚と飛騨の野菜ですから、みなさんも食べに来てください。都会より圧倒的に安くておいしいはずです。家具はオークヴィレッジが作りましたから、やはり世界一ですね。

 いろいろとエネルギーの実験もやっていて、風力とか太陽熱とか、いちばん効果的なのはアースチューブです。冬の間、地中から出たものを暖房したほうが全然暖房のロスが少ないのです。夏は冷房するにしても、地中を通ってきたもので冷房するといい。なおかつ雪室冷房といって、雪を解かしてそれで冷却するという実験もやっています。あと自然回復もいろいろやっていまして、ギフチョウが絶滅しそうだというので、ウスバサイシンというギフチョウの幼虫が食べる草をいっぱい植えています。

 富山の県境に加須良(かづら)という秘境があります。ここには昔、蓮如(れんにょ)上人が通った道があるのですが、それが完全に消えているのです。地元の人とともに一生懸命その道を復元するというプロジェクトをやっています。一日に一キロぐらい進むかと思っていたのですけど、実際やってみたら数十メートルぐらいしか進まなくて、最初三年計画でやったのですが、どうも一〇年ぐらいかかりそうです。

 水力発電の実験とか燃料電池の実験もやっています。合掌造りをガイドしたり、耕さないで農業をやるという実験もしています。養蚕は今、完全に寂れたのですが、養蚕をもう一回やろうとか、いろいろそういう実験もやっています。

 これは大トンパという人です(図47)。中国雲南省の麗江というところにナシ族というのがいます。これが日本人とものすごく体質が似ているのです。ナシ族はトンパ文字というのを使っています。中でも、大トンパという人がいて、この人はめちゃくちゃ頭がいいのです。これはチベットのダライ・ラマとかと同じで、大トンパが死んだ日に生まれた子どもの中からいちばん頭のいい子がまた大トンパになるのです。僕が日本語で話しているのに、とんでもない人で、言っていることがだんだんわかってきたとかと言って、じゃあ君のために字を書いてやろうと、このトンパ文字を書いたのです。

 いちばん土に足があります。足は根元という意味です。二番目は井戸の絵なのですが、井戸は深い、それから木があり、根が深い木、すなわち「倒れない」です。いちばん下の称号が大トンパの称号です。わかりますね。根が深い木、すなわち「倒れない」。僕のために書いて、「根が浅いのではないか」と、ちょっと忠告したのだと思いますが、鋭いなと思いました。

 森を回って、世界中の国家をいろいろ取材に行って、木の文化のレベルがいちばん高いのは、間違いなく日本だと思いました。間違いないです。とりわけ日本海側。三内丸山とか鳥浜貝塚とか、遺跡を見ればわかるのですけど、漆のものが出土している。木の文化は日本が一です。二番目は韓国、次が中国。三、四がなくて六番か八番目ぐらいに北欧があるのです。多分、日本人はちょっと間違えて、北欧の技術やどこかヨーロッパがいいんじゃないかと思うかもしれませんが、圧倒的に日本です。

 同じ雲南にガジュマルというでかい木があって(図48)、地元の人は御神木としていて、写真では見えませんが、奥に水田があります。雲南ですから、先ほどの佐藤さんの発表の稲作地帯で、日本とつながっています。あのおじさんは、日本人ではないですけど、何となく雰囲気が似ていますね。

 これは麗江という町です(図49)。今から十数年前ですか、地震で全部つぶれたのです。それをもう一回木造で全部作り直して、世界遺産になったという有名なところです。最近、日本からもずいぶん観光客が行くようになりました。安いですよ、行って帰ってきても一〇万かからないじゃないですか。変なところへ行くよりいいですよ。

 ナシ族といったら紺色の、僕も紺色の藍染めを着ていますけど、着ていったら、おまえ同胞だといっておばさんがすごく仲良くしてくれました。ナシ族の女性は紺の藍染めのものをずっと着ています。日本の木曾とか高山の古い町並みとよく似たような木造のものが建っています。周りは緑があって、なかなかきれいな町です。

 これは漆ですが(図50)、四川省の大原山という山奥で漆をかいている人です。傷つけると白い汁が出てきて、日本の漆とまったく同じです。イ族の人が一生懸命採っているのですが、今日本の漆の九割は中国産です。中国産でもいいものと悪いものがあって、いいものは国産にそんなに負けないです。ただ、日本産の漆のほうがウルシオールというのが多くて、伸びがいいので、日本産のものは高いのです。

 もう一つは、隣の国の韓国です。ここでも漆を塗っています。李朝の時代に韓国は文武両道で、いいデザインの家具などをいっぱい作りました(図51)。日本はその韓国からのデザインをもう一回受け継いで、いろいろな木の文化を作りました。日本でも螺鈿(らでん)という、漆を塗って貝殻を張る、まったく同じ技術があります(図52)。

 大まかに見てきましたけれども、ご存じかと思いますけれども、日本海というのは前は海ではなくて実のところ湖だったわけです。北のほうも南のほうもつながっていましたから、ものすごい交流があったわけです。たまたま僕は、一九九五、六年から二〇〇〇年ごろ日本には半分ぐらいしかいなくて、ひたすら海外へ旅して、しかもなるべく歩く、普通の家に泊まるということをやってわかったのです。日本の人はやはり、戦後、アメリカとの交流に力を入れすぎた。中国との草の根の交流がどれだけできているか?韓国の人とどれだけ草の根の交流ができているか?ロシアの人とどれだけ草の根の交流ができているか?今もほとんどできていないと思います。

 僕もおっかなびっくりで行ったのですけれども、中国の人は仲良くなるといい人なのです。はっきり言って、仲が悪くなると悪い人ですね。ロシアも中国も、多分環日本海で共通しているのは、一対一だと絶対いい人なのです。ロシアなどは典型的で、シベリアからウラルのほうへ行ったのですが、一対一だとすごくいい人なのです。ところが、四、五人集まると、何かぼそぼそと話して、やはり二〇万もらえないから明日はガイドしないとかと言ってくるのです。何人か集まると急に悪くなってしまうみたいな。変な建前が出てきてしまう。

 中国へ行って僕も言葉は全然しゃべれないのですが、あるときわかったのは筆談すればいいんですよ。「我欲水」と書くとちゃんと水が出てくるのです。漢文をもう少し勉強してくればよかったなと今ごろ思ったのですけど。漢字を知っていれば、僕らが習っている漢字は「漢」の時代の漢字ですから、「あなた、教養がありますね」という感じ。簡体字じゃなくて漢の時代の漢字が書けるのですね。日本でいうと古文とかがわかると同じことですから。韓国の人もそうです。うちの「オークヴィレッジ通信」を韓国にも送っているのですが、ちゃんと読んでくれています。漢字だけ拾う。これも「出会、新」と書けば、平仮名がなくても意味がわかるわけです。大体日本語は漢字さえあれば意味がわかるわけで、「CO2削減吸収同時」と平仮名がなくてもわかりますね。そんな感じで、僕は日本海の問題をもう一歩すすめるには、できれば草の根の交流をどうやるか、ということを、もうちょっと本気で考えていくといいのではないかなという気がしています。(拍手)

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中井

 お三かたからそれぞれ、益田先生からは海の中も、魚もすべてつながっているというお話をいただきましたし、佐藤先生からは里の危機のお話をいただきました。稲本先生からは森の危機というお話、そういう問題意識を前提に世界をいろいろ歩かれて見直すと、最後はやはり人の営みのところ、人と人との交流、草の根の交流が大事だというお話をいただいたと思います。

 あと残りの時間は、少しディスカッションに入っていきたいと思います。

 今回、海・里・山・森、そういうのがすべてつながっているのだというテーマで、日本海学の中心的なテーマである「循環」とか「共生」とかの根幹部分を扱っておりますけれども、今日出てきたお話でも、やはり美しい風景に象徴されるすばらしいものがこの日本海地域にあるし、富山にもあるわけです。しかし、やはりどこかおかしいのではないか、先はどの海のごみの問題だとか、森が危機にある問題だとか、いろいろ出ているなというのも明らかだということかなと思います。そして、その原因というのが温暖化という地球規模の大きな話もありますけれども、その根っこに実は、われわれの暮らし方というか、人間の所作というか、人間の営みが、自業自得でそれを招いているのではないかという部分も、先生がたの話に出てきていると思うのです。その辺は、どうすればいいのかというところを探っていかざるをえないわけです。

 お三かたの話が出たところで、パネリストのかたにそれぞれのかたへの質問とか補足を感想を含めて二、三分程度で回してみたいと思います。

 益田先生、今日三名のお話をいただきましたけれども、どんな感じでしょうか。


益田

 今日、私は海の話ばかりしたのですけれども、実際に海と陸は接しているわけで、どういう場所の海の状態がどうかというような比較のための研究というのも、研究室をあげてやっています。特に大事だと思うのは川でして、富山県にもいい川がたくさんあるようですけれども、舞鶴にも由良川という大きな川がありまして、その源流から河口にかけて、水とそこに生きている昆虫、それから魚の調査などをしています。そういったときに、われわれも手探りの状態で、学生実習として勧めているのです。それも全学の学生さんから参加者を募って、そういう調査は実習と兼ねてやっています。

 そこで大事なことは、成果を発信していくことと、そして現場に入っていくことかなと漠然と思ってきました。先はどの稲本先生や佐藤先生のお話を問いていて、やはりそういうフィールドに入っていくこと、それも、研究者だけでなく、一般のかたにも踏み込んでもらうことが大事だなと切に感じました。


佐藤

 環境の問題というのは、風が吹けば桶屋がもうかるというか、まさにそういう変なところに変な関係があるなということを、今改めて思ったのです。

 僕らは里のことしか考えなかったというか、言わなかった。だけど今の話を問いていると、海も里も山も全部つながっているのです。たとえば山のほうで何かが起こると、里域の水が変化して、里域の水の変化は今度は海に影響があるから、海がだめになって、それでエチゼンクラゲが増える。そういう非常に深くて複雑な連関があるなということが、改めてわかったという感じがしました。


稲本

 具体的なことですが、富山県と岐阜県の県境の話。僕が生まれた大沢野はもう岐阜県との県境で、それで僕はたまたま今岐阜に住んで高山市や白川郷にいるのですが、白川郷と五箇山とは完全に文化圏として同じで、何であそこの間で県境があるのかがわからない。神通川も庄川も発祥はみんな岐阜県ですけど、これは本当は川上と川下は同じ県にしておくべきなのです。そうすれば同じ県の問題だと思うのだけれど、分かれているから隣の県の問題だと思う。僕は飛騨の人に、「あなたたち、この川の周りに木を植えたり、川をきれいにしないと、魚は捕れないよ。飛騨ブリといわれてブリが飛騨に上がってきて、それをいろいろなところに使っているのだけど、ブリも捕れなくなるんだよ」と、よほど言わないとわからない。それはやはり県境というものの意識で、ほかの県のことは放っておいてもいいという感じになっているからです。

 やはり環境問題、先ほど佐藤さんが言われたように、風が吹けば桶屋がもうかるじゃないけれど、山に木を植えなければ魚は捕れない。魚が捕れないから、富山市民は困る。明らかにホタルイカとか白エビだって危ないですよ。あんな小さい生物で沿岸にいるやつは、これだけ川が汚れてきたら絶対絶滅の危機におちいっているはずなのです。だから、富山の名物を守るためにも、やはり川を通して両者が交流し、交流するだけではなく、具体的な第一歩を行動することが必要です。たまたま漁師の人がおいでになっていますが、まだ本当に少しの漁師さんなのです。もっとたくさんの人に来てほしい。残念ながら漁師の人が来ていて、市民が来ていないのです。本当は漁師が頑張る以上に市民が頑張らないと魚が食べられなくなるわけです。やはりみんなが食べるためには、それなりに量がなければいけない。量を確保するためには交流する。交流というか、具体的な活動を共有することが必要です。


中井

 ありがとうございます。非常に大事なポイントをお三かたは指摘されていると思うのです。われわれの暮らしに直結するような生物、魚が減っているとか、ごみがたくさんあるとか、森が危ないとかという問題の背後に、大きな環境問題があることがだんだん浮き彫りになってきているけれど、そういう問題をとらえて何かやろうと思うときに、何かネックになるようなものがある。

 それは今、稲本さんがおっしゃった県境ということでもあるし、流域、川、水系で物を見なければいけないということにもつながっていきます。戦後こうやって築き上げてきた暮らし方の背景に、何か壁を作ってしまっている制度、役所の縦割りとか、行政、地方公共団体の県境とかいう問題、また学問の領域というのもあるのだと思うのです。海に対する学問とか、それこそ植物、それと森林・農業とか、そういう部分部分で何か変だなという動きがあって、その中で直そうとか思っていても、それじゃどうしようもないような非常に大きないろいろな壁が障害になっているということを今日の発表を聞いていて感じているところです。今、益田先生がおっしゃったけれど、フィールドに入って学生全員でということ、稲本先生は漁ということについても漁師のかただけじゃなくて市民がみんなでということをおっしゃっていましたけれども、そうした一部ではなく、すべての人が自覚してかかわることが大切なのだと思います。

 最後にお三かたに、そんな今日の議論を踏まえて、それぞれ今日は海の専門家であったり、それこそ里、植生の専門家の先生でいらっしゃったり、ずっと森を追究されて行動されている先生だったり、それぞれのお立場を踏まえて、どういうふうに今あるいいものを残したり、問題を解決すべきか、その辺に何かご意見・ご提案をもう一度いただければなと思いますけれども、益田先生、いかがですか。


益田

 一つには、今日何度もお話に出てきた畠山重篤さんの活動からもわかるように、農林水産業で生計を立てている人は、自然についてよく知っているので、そこから学ぼうということです。私自身、研究のいろいろなヒントを得るうえで、漁師さんとの会話というのをすごく大事にしてきました。漁師さんが直感的に知っていることを確かめるのが、海の研究者の仕事ともいえます。

 もう一つ、先ほど楽屋でお話ししていたときに、稲本先生から「地産地消」の話をいろいろ伺いました。私も実は特に舞鶴市内で講演するときには、舞鶴産の魚と舞鶴産のホウレンソウをということを言います。少々値段が高くても、地元の農林水産物を消費することは、いろいろな意味を含めて大事なことだと思うのです。地元で魚を捕る人を人事にし、野菜を作る人を大事にしていくという市民が、地方の在り方を変えていくのではないかと信じています。

 三つ目に、このシンポジウムに参加するに当たって『日本海学の新世紀』を読み通して、ものすごくいろいろなことが勉強になったのですが、その中で特に印象に残っているのは第3集にあった宇宙飛行士の毛利衛さんの言葉で「宇宙飛行士というのは生きて帰ってくるのが前提になっている」というものです。だめだと思ってあきらめてしまったらもう始まらない。まだ間に合うと思って次に進むということが大事だなと強く思います。


佐藤

 難しいなあというのが印象ですね。三つ、私も申し上げようと思います。

 一つは、さっき砂漠の話をしたのですが、アジアの真ん中の広大な砂漠が昔は緑色だったというのは、多分みなさん全然ご存じなかったと思うのです。私も知らなかった。だけど調べていくうちに、半信半疑でそういうふうに言わざるをえないという結論にだんだんとなりつつあるのです。結局、われわれは環境の問題であるとか、特に連関を含んだ日本海の問題などもそうだと思うのです。知っているようで知らない。歴史の先生というのはあんまり本当のことを言っていない。学校で勉強したことがもう一つ当てにならないということを時々感じます。学校でもう一度、昔何かあったかということをよく調べる。やはり過去に学ぶということは非常に重要なことなので、もう一度よく常識と思われているようなものについても、昔はどうであったかということはよく調べてみる必要があるかなと実感しています。

 二番目は、さっき中井先生が言われた、稲本さんも言われました岐阜県と富山県の問題、これは日本の国の中だけではなくて国際河川の場合はもっと深刻な問題になっていて、国境をまたぐことによって、たとえばメコン川などは中国が上流でダムを造ったら、下流の水はむちゃくちゃなことになるわけですが、そういう問題が現実に国境を越えた河川の間で起きているのです。したがって、上流で何かしたら下流で何か起きるか考えなさいということは、やはり考えなくてはいけない。ただし、ではこういうふうにしなさいよという提言は、僕は非常に難しいと思っているのです。というのは、下流の人と上流の人は宗教が違ったり、民族が違ったりすると、われわれの常識というのは彼らの非常識ということがいくらでもあるので、特にこれは宗教がからんでくるから非常にやっかいです。だから、物を考えるときにはグローバルに考えないといけないのですけど、何かこうしろと言うときには、ちょっと相手のことも考えて言わないと、それが宗教紛争になったり、民族紛争になったりということかありうるから、その辺のところがこうしろああしろというのは慎重であるべきだなと、情報としてこういうことがあるぞと言うぐらいのことかなと、そこは消極的に思っています。

 それから三番目、今日みなさんこぞって強調されたのが食べること、食をどこから供給するかという問題だと思うのですが、これはいくら強調しても強調し過ぎることはないと思うので、一つだけお話をしておきます。今、私の知人に保育所をやっているのがいて、よく言うのです。遠足かなんかでお弁当箱を開けると、お弁当箱の中から、何だったっけ、こんなパックに入ったゼリーが一個と、袋に入ったパンが一個出てきた。とにかく家庭にはまな板や包丁はないのかという話を聞くことがあります。私の研究所なども山の中にあるものですから、パンの自動販売機やカップ麺の自動販売機、僕はあれは環境の研究所にはあるまじきことだと思っているのですけれども、所長に言うと「いや、おれも食ってるよ」なんてことになるのです(笑)。

 それは冗談ですが、やはり食べるものというのは、そうであっても、特に子どもにとっては食べることというのは、その土地にあるものを、その土地にいる人が捕って、あるいは収穫して、作って食べるから、だから栄養にもなるし、それはある意味で五感を形成している。食べるものを全部袋詰めにして、さっき稲本はウッドマイルズと言われたけれど、フードマイルズ (FOOD MILES)という言葉があって、そうやって外国から食べ物をパックして買ってくるということは、少なくとも今の若い世代にとっては、私は五感、五つのセンスの発達に極めて悪いと思っている。そういうことをするから、子どもがキレたりするということがひょっとするとあるのではないか。そうと考えると、単に経済、金の損得で一〇〇円高い、一〇円高いというのではなくて、考えるのだったらそこまで考えて、そろばんをはじいて、食べ物の問題、先ほど「地産地消」という言葉が出ましたけれど、そういうことを考えた文字どおりの循環を一つの地域の中で回復するということは、やはり欠かせない緊急の課題であると思っております。この三つぐらい申し上げておこうかと思います。


稲本

 環日本海ということを考えるのだったら、先ほどちょっと言ったのですが、草の根の交流というのをする。やはり僕は、日本人は韓国の人とか中国の人とかロシアの人とあまり交流したことがないと思うのです。僕もそう言いつつも、「森の惑星」で、たまたま一回行って一か月もいたから友だちになったわけです。C・W・ニコルさんという、正確にいうとウェールズ人ですけれども、彼と友だちになって、日英同盟というのが昔あったのですが、日英同盟を結びながら実のところ戦争に突入したわけです。本当の人間同士の気持ちは民間のレベルでないとどうしてもうまくいかない。僕らは韓国のことや北朝鮮のことはほとんどわからないし、ロシアのこともわからないと思うのです。会ってみると本当はいい人なので、そういう草の根交流を行政とかがバックアップすると新しいことができるのではないかなという気がしています。ただ、佐藤さんが言われるようにほかの国の人は、かなり違いますからね。僕は韓国へ行ったり、中国へ行ったりして、やはり大陸の人だなと思いました。僕らしょせん島国だなと、いい意味でも悪い意味でもそう思います。だから、考え方の基本が違いつつも交流をする、そういうことが必要であるという気が改めてしました。

 二番目は、食べ物の問題があって、やはり世界の食料自給率を調べるとわかるのですが、ドイツは一〇〇パーセントです。フランスは一二〇パーセントです。意外とヨーロッパは農業国なのです。デンマークにいたっては、豚をいっぱい飼って輸出している、輸入もしているのですが、出すもののバランスでいうと二〇〇パーセントなのです。自分らの食べる分と二倍の食料を自分たちで作っている。それに対して日本は多めに見ても四〇パーセント、和牛だって飼料は外国産ですから、そういうのをいろいろ計算すると三〇パーセント前後だと言う人もいます。これだけ危ない国はないです。というのは、ここにス一〇〇人いたとしても、海外からの食料がなくなった瞬間に四〇人しか生き残らなくて六〇人は死ななきゃいけないってことですから、大変なことです。

 では、国土は豊かでないかというと、日本の土壌というのはものすごく豊かです。世界に比べるとヨーロッパとかアメリカはむちゃくちゃ土地がやせている、これは氷河期で表土を削り取られたからです。日本では森林を切り開いて農業をやるのですが、デンマークでは農業をやったあとに、土を豊かにしてから木を植えているのです、逆なのです。日本は上が豊かな国なので、「オークヴィレッジ通信」でグリーン&グリーン運動というのを提唱していますけど、うちと「大地を守る会」が一緒になって、何しろまず国産の食べ物を食べましょう。それから国産の木をもっと使いましょうと。木を植えるのもいいですけど、みんな植えにいかないから、最低でも富山は特に自然が豊かで、森もあるし、食べ物もいっぱいあるので、富山県を有名にするには富山県内で富山県でとれるものだけで自給率が全国でいちばん高い県というふうにやれば良いと思うのです。ぜひ、国産材とか県内産のものの自給率を高めて、グリーン&グリーン運動をしてください。それは地元のものとか国産のものを食べたりしたらいいのです。そして、それの何パーセントとかをさらに環境をよくするように山に木を植えたり、薬草の保護をしたりすることに使おうという運動に協力してください。

 それこそ、砂漠などに行ったり、世界のいろいろな所に行ってみるとわかるのですけれども、富山ほど豊かなところはないですよ。中国へ行って僕はびっくりしたのですが、本当に水がない。食べるものは、ちょっと失敗すると食いっぱぐれるところです。それはもう中近東などはもっとすごいですし、それに比べればこれだけ豊かなところで、やはり地元のものを食べ、最低でも国内のものを食べて自給率を高くする、さらに環境に寄与する。富山は持ち家率や所得も相当高いようですから、それがうまく循環していくという典型的なモデルとなる可能性があるのです。何しろ中国が失敗すると地球はだめになりますから、環境問題では失敗しつつあるのです。現在、経済的には成功しているようですけれども、環境とかで見ると極めて危ないと思います。中国がだめになれば、すぐに日本に影響します。だって一〇倍の人がいるから、一〇分の一が国外に逃げ出すだけで日本の人口と同じぐらいのボートピープルが増える可能性があるわけです。日本海を通じて日本でまずモデルを作る。それを中国なりにうまく発信して、共同でのプロジェクトを作る、それぐらい大きな構想でいかなくてはいけないかなという気がします。


中井

 ありがとうございます。三人のパネリストのかたから大変示唆に富む話を伺ってきました。この日本海学の発祥の地である富山という舞台でこれまでずっと続けてきていて、大変大きい問題があるぞ、単なる環境問題とかいう問題を超えて、何を食べればいいかとか、人はどうやって日々自然とかかわっていけばいいかとか、海の魚も減っているという生態系の異変のようないろいろな問題が明らかになってきているということだと思います。今日はそういう問題があるなということが認識できて、だけど多分もっともっと知らなければいけないというメッセージが出されたと思います。専門の先生から聞いて初めてわかる問題があるけれど、その専門の先生でさえ、森・里・海トータルで富山というフィールドを見ただけでも、富山の中の様子にしても、ずっと飛騨から続いている森の様子にしても、まだまだ問題がある。はたまたクマの問題とかもいっぱい出ているわけです。佐藤先生がおっしゃったように、まず幅広くもっと勉強するというか、過去に学ぶ、もういっぺんよく目を開いて現実、現場、フィールドを見るということがベースになると思います。

 そろそろ時間なので、今日の総括をしてみたいと思います。具体的に出てきた提言の一つは、身近なこととしてやはり「地産地消」ということだと思います。こういうふうに言うと農林水産省がこのシンポジウムを聞いたら泣いて喜ぶのではないかと思いますけれども、農水省の主催でも何でもないのですが、やはりできることは何かというと、そういう自分のいちばん近いところからできること、食べ物についていえば「地産地消」というのがあるのではないか。

 そして草の根の交流、やはりいろいろ問題意識を共有した人々が手を組んで行動できるかどうか、こういう草の根の交流、たとえば稲本さんもNPOを複数やられていますし、それぞれいろいろ取り組みが富山にもあるのも、そういうステージに入っていると思います。大きい問題を共有して、県庁なり役所なりの支援というのは必要でしょうけれども、やはり実際の担い手であったり、主役であったりする一人一人のみんなが、問題を解決するために手をつないで草の根に動くというところにいけるのかどうか、この辺がやはり焦点になってきていると思います。

 森・里・海、海・里・山の循環というのを考えまして、ずっと日本海学を私もねちっこく追究してきて森・里・海がつながっているというまでわかってきているのですが、何でつながっているかというと、結局、「いのち」だと思います。今日のパンフレットにも「いのちの循環に限りはない」と書いておりますけれども、この「いのち」ということでつながっているのではないかなと思います。しかも、その「いのち」というのは、今日お話を伺っていると、森には鳥もいるし、それこそ木が生えているわけですし、海には魚もいるし、タコもいたし、いろいろいました。そして、里には人が暮らしている。この「いのち」は、多分、自分勝手な人間本位の命ではだめだというメッセージが、今日のパネリストの先生がたから出ていました。日本海学がずっと追究してきたものもそういうことです。「自然と人間」といっていますけれども、その「いのち」というのは「大いなるいのち」、やはり自然界全体の、何というのでしょうか、ありさまというか生きようというか、森羅万象の「いのち」、そういうものがつながっているのではないかなという大それた思いももっております。

 今日こうして貴重な時間にみなさんお集まりいただいて、またこの循環の問題、つながりというテーマを一緒に語ってきたわけですけれども、森・里・海・山すべての循環というものの中に「いのち」があるということがはっきりしてきた。そこで、みんなでやはり心を合わせて、何かできることから、「地産地消」とか、いろいろな木を植えたりと、一つ一つできることからやっていくという心を込めまして、ぜひこの環日本海のモデルである富山から、富山の二一世紀、「海・里・山・いのち いのちの循環宣言」という形で今日の話題ディスカッションを締めくくらせていただきたいと思うのですが、もしご賛同いただければ拍手をいただきたいと思います。(拍手)

 ありがとうございました。それでは、ちょうど時間になりましたので、これでパネルディスカッションを閉めたいと思います。今日はどうもありがとうございました。(拍手)

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