地球温暖化にどう対応していくか
―総合的視点から考える―

0 現実の認識


 地球の温暖化が確実に進行している。
 これは、間違いなく、先進国の過剰消費に因っている。
 その被害は、主として、限界的な地域にある発展途上国が負っている。

(1)気象変動

 年々の気象の推移は変動が激しく、趨勢的な変化があることを確認するには、相当の年限の経過が必要である。
 しかし、アメリカでの1987年秋から1988年春にかけての大旱魃に際して議会上院の公聴会でJ・ハンセン氏が99%の確率で温暖化が進んでいると証言しており、当時この証言は、科学的にはフライングであったとされるが、これを契機に、国際的な検討が始められることとなった。
 現在では、統計的には、90%以上の確率で、温暖化が進捗しつつあるとされている。


(2)温室ガス排出量

 長期的な地球の気象変動については、ミランコビッチ周期とされる地軸の変動等によるものがあるとされる。
 しかし、当面の短期的な地球温暖化については、炭酸ガスを中心とする温室ガスによるとされ、地球の温暖化を抑制するためには、この排出の抑制が不可欠と認識されている。
 現在、人間の生活・経済活動によって年々排出される炭酸ガスの量については、人口一人当たり炭素ベースで約1tである。
 この排出量には国によって大きな格差があり、アメリカ・カナダ・オーストラリア等では5t超、西ヨーロッパ諸国、日本等は2t台などと先進国で著しく多く、逆に、人口の多い中国では0.6t、インドでは0.25tなどと小さなものとなっている。
 これは、中国など発展途上国の今後の経済活動の拡大に対して、先進国が現在の排出分を大幅に移譲していかなければならないことを意味している。
 炭酸ガスの排出については、生活・生産活動と密接に関連しており、そのあり方を相当程度に切り替えていくことが不可欠である。ちなみに、月々100リットルのガソリンを使えば、0.75t/年の炭素排出となる。あるいは、成田・ニューヨーク間を往復すれば、0.5tの排出となるとされる。

(3)被害の拡大

 一方、地球温暖化による異常気象がもたらす災害も、既に増加しつつあるとされている。
 こうした、災害は、地球上でも限界的な厳しい環境条件の地域に現れることから、必然的に発展途上国で多発する結果となっている。例えば、中国、バングラデシュ、フィリピン等々があげられよう。また、南太平洋の島嶼諸国では、海水面の上昇と異常気象とが重なり、国土への居住が既に困難になりつつある。
 いずれにしろ、地球温暖化に関しては、その主たる原因者と主たる被害者が異なっていることは、十分に認識しておく必要がある。


1 生命活動の展開


 地球温暖化に、ことさら対応しないという姿勢も在り得りえようが、それは、相当の混乱を、そして生命の滅亡さえもたらす。
 生命の進化から見れば、現在、地球上に生存していること自体が、今後とも生き続けるよう条件付けられている証左とされる。
 さらに人間は、生物学的進化の上に、文明的な進化を乗せた。これによる活動の拡大が、地球規模での環境に影響を与える結果となっている。
 この文明を見直すべきという議論はともかくとして、今、直ちになすべきことは、そこにある知恵を適正に活用し、危機管理を進めることであろう。

(1)生命の進化

 これまで、地球では幾多の環境変化があり、それに応じて生命も変化してきた。これを素直に受け入れれば、このような温暖化にことさら対応しない姿勢もあり得よう。
 しかし、いま生命として存在すること自体は、生命を受け継いでいこうとする強い意志を持つことが条件付けられている証明であり、環境変化を甘受し、自らの衰亡をも容認する姿勢は、自己矛盾を孕むものである。

(2)ミームとしての文明

 人類はその進化の過程で、DNAとしての情報の伝達ばかりでなく、主として言語を媒介とした文化としての情報(ミーム)の伝達を取得し、その活動の範囲を著しく拡大した。しかし、当初、DNAの要請を助長する形で形成された活動の規模が、一定の範囲を超えても、自らの行動を抑制する発想は容易には形成されない。結果として、現代の文明は、地球全体としての環境を大きく変化させる事態に至っている。

(3)危機管理

 この事態に対応するために、かつて活動の規模が小さかった頃のアニミズムなどに近い発想、行動に戻ろうとすることは、これまで享受してきた活動を放棄しようとするものであり困難が多い。またこれまで積上げてきたデカルト、ベーコン以来の発想の枠組みの転換を主張するとしてもそれに代わるものを即座には提起できない。むしろ、これまでの成果を活かして、この危機を積極的に管理していくことこそ必要であろう。

2 正義の達成


 危機管理は温室ガスの排出削減でなされるが、この配分に大きな課題がある。
 従来の人間活動では、経済的正義(厚生)が市場によって達成されると解釈されてきた。
 しかし、こうした経済的厚生は、現在の富の配分(偏在をも含む)を前提としており、この出発点を含めて社会的正義を問うた場合には、回答とならない。ただし、国境を超えてこのような視点を持つ寛容さを我々は未だ持ち合わせていない。
 さらに、正義のあり方を、単に現象としてだけでなく、潜在的自由(可能性)でこそ検討されるべきとの主張もなされている。

(1)経済的厚生の議論

 これまで、最適な資源配分の達成に関しては、主として、厚生経済学の分野で議論されてきた。温室ガス排出という負の資源についても、炭素税等の制度化により、この枠組みに取り込むことが考えられる。
 しかし、そこでの議論は、既存の富の配分は与えられたものとし、その上で誰もが不利な状態にならないというパレート最適を述べるにとどまるものである。これは、個人の間での富の配分に大きな格差が既に存在する場では、公正の達成に疑問を残すものである。
 適正な資源配分達成のメカニズムとして、市場経済を活用していくことは欠かせないが、それだけで、我々の求める善が実現しないことは容易に推測されるであろう。

(2)正義論

 J.ロールズは、社会的正義の達成について、自分がどのような立場に生まれるかわからない状態で無知のベールの後ろにいて社会のルールを決めることを提唱している。
 このルールを具体的にどう実践していくかは、明らかでないが、合意を得る可能性が見える枠組みではあろう。
 ただし、今日の世界において、この合意が、国境を超えて形成されるとは捉えられていない。

(3)自由の評価

 さらに、A.センは、厚生の評価について、各個人が多様な資源の選択を行う自由が存在するか否かこそ問題にされるべきと主張している。
 温室ガス排出量(権)の配分についても、この深みまでに入って検討されない限り、真に意味のある正義(倫理的規範)を求めることはできないであろう。ただし、実際的な意味合いは一層分かりにくい。


3 国際社会の現実


 さらに、現実には、理念的な正義がそのまま達成されるわけではない。
 今日の地球的課題について、個人や企業の行動を規制していくという意味では、主権国家を超え対応を推進していく術はない。この主権国家が、国内の勢力に沿って功利的に行動していくことは避けられず、こうした中で、各国家がどの程度尊厳ある生き方を示すことができるかに掛かっている。
 国際社会では、これまで発展途上国への経済協力が行われてきたが、関係国の功利的視点が避けられないものであった。そして、アジアの一部の国は経済的離陸を達成しつつあるが、世界全体としては、先進国と発展途上国に一層大きな格差が生じている。
 むしろ、今日では、「世界市民主義」的発想を持ちえる個人あるいはNPOの活動が、世界を突き動かしていくことが期待され始めている面もある。

(1)主権国家

 仮に、温室ガス排出に関する正義のあり方が見えるとしても、それを国際社会で直接実現していくメカニズムは未だ持ち合わせていない。
 現在、個々人、そして個々の企業の行動を具体的に規制できるのは、主権国家の段階にとどまっている。
 主権国家は、国内の勢力に沿って功利的に行動していくことは避けられず、温室ガス排出削減は、こうした中で、各国家がどの程度尊厳ある生き方を示すことができるかに掛かっており、その展望は容易に見出せない。
 主権国家の範囲を超えた国際的課題への対応については、各国家が功利的主張を出し合って、妥協点を見出していく他はない。これができないことについては、しかるべき行動が起こされないままとなる。

(2)国際協調

 第二次世界大戦後、20世紀の後半世紀には、OECDのDAC等を場として、発展途上国の開発への支援が積極的に行われてきた。しかし、これ自体が東西対立等の中の思惑に基づいたものであり、また着実な開発に至る手法等もなく、結果として、アジアの一部の国々の離陸こそ実現したが、世界全体としてはむしろ格差を拡大しているとされている。
 多くの国際的課題に関して国際的協調を図ろうとされてきているが、その成果は乏しいものが多い。

(3)世界市民主義

 このような国際社会の制度の下にあっても、個々人の正義観が抑制されるわけではない。そして、各国内での直接的な規制に反しない限りは、地球的な正義のあり方を主張することができる。
 国家間の組織である多くの国際機関がその意思決定に限界を露呈している中で、ヨハネスプルグ環境会議などにも見られるように、個々人が組織するNGO等の積極的な参画によって、国際機関等の意思決定が突き動かされ、結果として、主権国家の行動が方向付けられていくことさえ期待されることが多くなってきている。
 実際に、温室ガス排出抑制に関する京都議定書についても、単に主権国家間の協議によって決められてきたものでなく、その過程では、多くのNGO等の参画を得ている。


4 日本の政策展開


 日本では、地球温暖化に対応していくための知的な議論とその蓄積が十分になされず、国としての主体的な方針が明らかにならないまま、専ら受身的に政策が展開されている様相がある。
 また、経済的な政策については、当面の危機への対応のため、むしろ長期的な課題とは矛盾も見られる。

(1)受身的対応

 上述のような国際社会の中で、日本はどのような行動をとろうとしているのか。
 基本的な理念としては、「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」としている。
 しかし、国家としての主体的議論は乏しく、受身的に行動することが多いのではなかろうか。政治の場で知的議論が交わされ、蓄積され、国の方針が選択されていくという制度が十分には形成されていないともいえよう。京都議定書も日本での会議で定められてはいるが、主体的に先導してきたものではない。

(2)矛盾した経済施策

 さらに、現下の経済的低迷の中で、温暖化対策は優先度の低い課題と見なされ、これと矛盾する言動も多い。炭素税の導入に関しても、暫くの間は個々人・個々の企業の行動の様子を見るとされているが、実態は、行動の先延ばしに過ぎない。
 ヨーロッパの一部の国においては、1990年代の初めに炭素税の導入がなされているが、日本は、こうした分野では、名誉ある地位を占めたいとしないのであろうか。


5 地域経営


 こうした中で、地域としていかに対応していくか。
 富山県は富山県なりの地域的課題を抱えており、地域住民の合意が形成できれば、積極的に対応し、栄誉ある地位を求めていくことも考えられよう。
 新たな生活像、産業像を描き、それに適った地域づくりを前向きに進めていくことが必要と考えられる。

(1)先駆的姿勢

 国全体としては、短期的な功利的視点から、地球温暖化への対応を遅らせているが、地域としては、いかに対応していくか。国全体としての要請がない限り、特段の具体的行動を取らないのか。長期的な変動に鑑みれば、先取りした対応もあり得るし、むしろ、それが功利的な振舞いともなり得るのではなかろうか。
 また、富山県は富山県なりの地域的課題を抱えており、地域住民の合意があれば、積極的に対応し、栄誉ある地位を求めていくこともありうるのではなかろうか。ただし、現在までのところ、富山は先駆的な対応には向かっていない。(以下、富山の場を事例として述べる。)

(2)生活行動の転換

 富山では、全国でも有数の自動車社会が形成されている。日本でも早晩炭素税の導入があり、自動車社会には大きな影響がでよう。むしろ、大きな影響がでる水準の税率こそ求められているともいえよう。これは燃比の改良によって相当程度対応していく可能性もある。しかし、自動車社会の課題は燃料消費にかかわるものだけではない。
 自動車利用を前提として、富山平野に分散して居住し、ゆとりのある住生活を享受している。しかし、この生活行動自体がエネルギー多消費型となっていることも否めない。
 もはや物的消費の拡大を助長していく生活行動、地域施策の展開は、方向転換を図っていく必要があることは間違いない。

(3)都市への再集積・土地利用転換の制御

 地球温暖化による災害について、富山でも対応が必要な課題として、食糧確保の問題があり、このために潜在的な農業生産力の維持に配慮していくことが求められている。現在、農地の改廃が急速に進んでいるとともに、農業に従事する者も急速に減少している。このため、地域としての対応のあり方を明確にし、農地維持の具体的行動を取っていくことが急務である。この点については、国全体としての方向が定かでないが、地域として発想していく必要はないか、富山県民の見識が問われているといえよう。
 (地域のあり方についても総合的に語られる必要があり際限がないので、ここでは、その一側面を述べるにとどめる。)


6 個人的対応


 我々は地球温暖化に対応していく確実な制度的枠組みを未だ持っていない。
 このため、各自・各組織が主体的対応していく他はない。

↑↑


 以上に述べてきたことは、人類は、地球温暖化に対応していく十分な知恵、制度的枠組みを未だ持ち合わしていないということである。
 このことは、かえって、「心ある各人、各組織」には、主体的に対応していくことが求められているとも解釈できる。少なくとも、法制度等により新たな行動が要請されないのであれば自らは行動する必要がないということは、理由にならないと考えなければならない。
 もちろん、各自が温室ガスの排出を即座に大幅に削減できるわけではない。結局は「殺生」に類似する意識を持ちつつ、努力し続けざるを得ないといえよう。

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(May.09,2003.)