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「富山学」、「日本海学」から「地域学」を考える

浜松誠二

1.新しい知の営み
(1)知的営みの経緯
ア.知の現況−−ポストモダニズムの危機−−
イ.科学者の営み−−エンジニアリング指向−−
ウ.科学のあり方の今日的認識−−モード論による仕分け−−

(2)総合学;横断的組織としての再構成
ア.総合学への期待
イ.地域学の隆盛

2.地域学の営み
(1)地域学の広がり
ア.アイデンティティの確認
イ.特定課題解決への対応
ウ.総合的理解への努力
エ.共生への包括的展望

(2)ディシプリン確立の可能性
ア.地域学の実践
イ.地域学を学ぶ

(3)境界領域での諸課題
ア.問題解決への実践
イ.知識の普及

3.情報化時代の総合学の進め方
ア.情報の収集
イ.情報の整理の手法
ウ.類型分類から動的分類へ
エ.情報の共有による共同作業

4.私の地域学
ア.情報の蓄積と体系的整理−−地域社会経済白書−−
イ.情報の相互関連付けと地域の総合的理解−−仮想社会システムモデル−−
ウ.維持更新と共用−−知の饗宴−−


 

「富山学」、「日本海学」から「地域学」を考える

 これまで、ライフワークとして「富山学(富山を考えるヒント)(*1)」を考え続け、さらに職業上の業務として「日本海学(東アジア共生へのシナリオ)(*2)」を学び始めている。
 このような営みは、「地域学」の範疇に入るものと考えられる。しかし、「地域学」には、規範の確立された学問領域(ディシプリン)は未だ存在しないようである。
 そこで、これまでの経験・思考を踏まえて、こうした行為が、科学的(あるいは学問的)営みとしてどのような位置付けとなり、どのような展開がありうるのか考える。
 なお、知的営みの歴史的経緯等について、創造的に検討する知識を筆者は持ち合わせていないが、「学」についての検討では避けることができない。以下は、先人の知恵を辿りながら、筆者なりの理解の枠組みの一端を示すものにとどまっていることを断っておく。

 
1.新しい知の営み
 
(1)知的営みの経緯
 
ア.知の現況−−ポストモダニズムの危機−−

モダンの系譜
 亡霊や魔女が横行する闇の世界から、合理的に思考し自然を捉えようとする光の世界への移行は、西欧においては、既に14世紀から始まっていたとされる。これは、ダ・ヴィンチ、ガリレイあるいはマキャヴェリなどにより、明確な波となって現れてきた。
 さらに、デカルト等により明晰かつ判明に世界を捉えようとする近代的合理主義が形成され、こうした知的営みを広めていこうとする啓蒙思想によって、今日の我々の知的基盤が成り立っている。
 しかし、近代的合理主義は、機械論的自然観を孕み、自然を人為的構成物と錯覚することによって、環境世界・生命世界を始めとする多くの分野で困難な課題を生じさせている。こうした事情を根底に、知に背を向ける状況が現れ、万人が悟性を働かす状態に引き上げようとする啓蒙の発想は、危機に直面している。(*3)

ポストモダンの系譜
 一方、知的営みによる知的資産自体においても、幾何学に発する絶対確実の発想は、相対主義の中で、その不確実性を増しつつある。
 ソシュールによる言語学のモデルを人間諸科学に適用することによって生まれた構造主義は、エスノセントリズムへの批判、西欧中心主義の転換へと至り、真理・理性といった近代の知を貫く立場を解体し始めた。さらには、真偽、善悪等々の二項対立の概念が崩れる中で、自らの諸制度自体にも懐疑し、社会をその存在の根源から揺るがしている。

ポスト・ポストモダンへ
 ポストモダンの危機の上に居直れば、ニーチェが予言したニヒリズムが広まることとなるのであろう。こうした中では、社会を小さな範囲で捉え理解しようとするエスノセントリズムへの指向が強まる懸念も含んでいる。
 一方で、ギデンズが言うように方向感覚の喪失として捉え、その危機と直面しようとする姿勢もある。ポストモダニズムまでの成果を活かしつつも、その悩みを脱した新たなあり方が模索されている。

 
イ.科学者の営み−−エンジニアリング指向−−

科学者のための制度
 科学者が現実の社会の中で研究活動を進め、自らの生活を支えていく制度としては、教育機能を目的とした大学がその役割を果たしてきた。
 ヨーロッパの大学については,元来、神学を中心とし,キリスト教のためのものであった。こうした中では、学問の領域は分化せず、全体性を持った形で、知的営みが展開されていた。(*4)
 科学者としての独自のディシプリンが成立したのは19世紀半ば以降とされる。ちなみに「種の起源」1859年は、一般向けの書として刊行され、「特殊相対性理論」1905年は、学術専門誌『Annalen der Physik』に掲載され発表されている。
 しかし、学問のディシプリンが個別に確立していくことによって、相互の交流が乏しくなり、総合的見地は失われていく。これは、C.P.スノーの文科系、理科系の分離の指摘(*5)にも見られるところであろう。


テクノロジーの優勢
 日本の大学については、明治維新の後、富国強兵のための教育研究機関として理学部・工学部が一定の地位を占めた世界でも稀なものとして始まっている。しかし、日本においては、これまでの反省から一旦は、逆方向の基礎科学重視へと転換をしている。もっとも、一方では、大学を独立行政法人化するなど、応用科学を指向せざるを得ない体制を形成しつつある。
 他方、欧米諸国においては、経済のグローバル化が進む中で、国際競争に打ち勝つための学問として、基礎科学重視から応用科学重視の指向が起こっている。科学者たちもオリジナリティや知的好奇心のみから脱皮して、独創的でなくともやるべきことをやるという時代に入りつつある。


 
ウ.科学のあり方の今日的認識−−モード論による仕分け−−


モード1モード2
ディシプリンの
有無
有り無し
(困難と考えられている)
研究の動機好奇心問題解決
評価当該学問領域固有の
規範
実効性のある解決策の
提示
社会的責任不問
(仲間内での評価)
説明責任がある
研究の連携個人が主
仲間内の共同研究
多様な領域の専門家の
参加と連携
(トランス・ディシプリナリな活動)
モード論
 こうした知の営みのための制度の混迷の中で、それを整理して捉えるためのフレームが、マイケル・ギボンズ等によって提起されている(*6)
 それは、従来型の知的好奇心に動機付けられた(curiosity driven)科学的営みをモード1の科学として、現実的問題解決を指向した(problem oriented)科学の営みをモード2の科学と規定している。
 モード2の科学は、功利的な知への姿勢を持ち、主として経済的社会的課題の中での要請、科学の展開による複合的な課題への対処の期待から生まれている。

2つの科学の評価
 ギボンズ等は両モードのいずれかが重要などとは主張していない。
 しかし、一般には、モード2を重視しモード1を否定的に捉える風潮が強い。日本での大学の独立行政法人化の議論の中でもこうした方向が色濃く出ている。
 確かに、これまでのモード1の科学では、内輪の評価にとどまり、十分な知的活動を展開しない側面があることは事実であろう。
 しかしモード1における基礎的知識の展開は、まさしくモード2での応用のための基礎となるものであり、不可欠な知的活動である。特に、正義論など道徳律に関する基礎的な問題などの解明が蔑ろにされがちで、現在の知の状況の中では非常に危険ともいえる。
 モード1の科学自体を否定するのでなく、そのあり方に関して疑問を呈しつつ、改まる部分は改め、新たな制度的枠組みを形成していくことこそ肝要であろう。
 モード論は、科学のあり方を検討するための用語として活用することには好都合であるが、その双方のバランスあるあり方こそ模索しなければならないのだろう。


 
(2)総合学;横断的組織としての再構成
 
ア.総合学への期待
 これまでの科学の進歩の中で、環境問題・生命問題・都市問題など数多くの錯綜した課題が現れている。
 こうした分野は、これまでの個々の学問領域では十分な理解が困難で、包括的な理解を図る必要が出てきている。同時にこうした課題の解決を支援する科学も求められている。近年、日本の大学で「総合学」あるいは、「人間学」、「社会工学」等々の学部・学科開設が数多く行われてきているのは、このような要請に応えようとするものであろう。いわば、モード2の科学を学問領域とした組織の形成である。
 例えば、1967年には既に、東京工業大学工学部社会工学科が設立されているが、広辞苑による社会工学の定義では、「社会科学の知識に基づき、種々の社会問題を解決する科学技術の開発を目指す学問」となっている。
 ただし、一般的には、多くの大学の運営上の論理から組織が形成されており、当該学問領域を極めることが確実に指向されているかは定かではない。また、こうした学問を体系的に教育できるかといった課題も抱えたままとなっている。
 他方、こうした趣旨の学会も数多く設立されている。しかし、そこに参画する大多数の人は、その学問の確立を目指すというより、自ら行う学問のアッピールの場を求めていることが多いようである。これ自体は別段に咎められることではないが、学問の集団があるからといって、一定の学問形成の動きがあると誤解することは避けなければならない。
 結論的に言っておけば、総合学に何かを求め、何かを主張する人は、自らの総合学の範疇を明確にするとともに、自らその内容を深めることが求められていると理解することが妥当であろう。


 
イ.地域学の隆盛

地域学の起源
 総合学のこうした隆盛の中で、地域学への期待も高まっている。
 その一つは、都市計画系統を主とした地域経営のための様々な研究であろう。例えば日本地域学会(*7)の活動はこの系譜に近いものと見られる。なお、上述の社会工学の出自の一端も都市計画系統にある。
 また、国外を対象とした地域学もある。これは、かつては欧米等において植民地経営のあり方、ついで経済社会の開発のあり方として研究されてきたものである。ルース・ベネディクトの「菊と刀」もこうした研究の一つといえよう。また日本の幾つかの大学には、特定の地域名を冠したセンターがあり、当該地域の総合的研究がなされている。
 これらの活動はモード2の科学ということができよう。
 他方、現在、日本国内で、最も一般に流布しているのは、各地のアイデンティティを求めたものであり、これはモード1の科学ということができよう。

日本海学の範疇
 「日本海学」について、その範囲が誰かによって明確に定義されているわけではない。
 実際に「日本海学」と称して行われている活動については、アイデンティティ探しにつながるものが多い。しかし、一方で、その必要性としては、環境問題の解決を始めとする地域の共生のあり方を探ることなどが主張されている。
 「環日本海学会」(*8)の活動も包括的であるが、それらを総合化しようとする強い動きは見受け難い。
 これらは、否定的に捉えようとしているのではない。モード1の科学とモード2の科学が併存することを認め、さらにそれらが容易に統合されるものでないことをことも認めていかざるをえないであろう。そして、それぞれの立場で、双方の科学への接し方にほどよいバランスをとっていくことこそ肝要なのであろう。
 なお、国境を越えて、日本海、あるいは環日本海を範囲とすることについては、アイデンティティ探しも広がりを持っていることが求められる。また、問題解決のための施策については、主権国家が複数となっていることを念頭に置かざるを得ないことも当然である。


 
2.地域学の営み
 次に、上述のような知的営みに関する環境の中で、地域学のあり方について検討する。
 ここでの地域学は当該地域を総合的に理解する学問、地域の運営(経営)に資する学問としておく。
 
モード論に現れる2つの性向の地域学での交差

対象理解への好奇心問題解決指向
個別的(ア)アイデンティティの確認(イ)特定課題への解決対応
総合的(ウ)総合的理解への努力(エ)共生への包括的展望
(1)地域学の広がり
 地域学には多様な広がりがある。これを知のモード論に現れる動機の所在及び総合性の2つの視点に沿って整理すると、(ア)アイデンティティの確認、(イ)特定課題への解決対応、(ウ)総合的理解への努力、(エ)共生への包括的展望に分けて考えることができよう。
 具体的な個々の知的営みが、特定の区分に属するということではない。しかし、現実的な内容、指向性から勘案して、このような区分が設定できよう。
 知的営みそのものの有用性を主張するため問題解決型で総合的な活動を標榜することも多いであろう。しかし、それぞれの区分に優劣がある訳ではなく、各自の好奇心の方向ついても賛否を議論する必要はもとよりない。地域学と称して、多様な活動がなされることを拒否する必要はない。ただし、それぞれが自らの知的営みの由来を自覚してとおくことは、重要であろう。
 仮に、地域学を総合的体系として描くとすれば、好奇心を背景に地域を知ること、地域の多様な問題の解決に資することの両建てのもので個別的対応を確実に図ると同時に総合的視点を持つといった、この区分を網羅したものとなろう。
 
ア.アイデンティティの確認
 知的な好奇心を背景に、多様な個別的話題についての理解を深めようとする活動である。
 自然・歴史を強く指向し民俗学的研究が主体となっているものが多い。当該地域の関係者にとっては、それなりに興味深いものであり、専門家に限定されず広範な参加を得ている。さらに、これらの活動は各地域の生涯学習サービスの話題としても提供されることが多い。
 これは、自らのアイデンティティを求めることでもあり、より深い理解への強い欲求がともなう。
 このため、地域興しにつないでいこうとする目的が掲げられることもある。
 近年各地域で関心が持たれている地域学はほとんどこの範疇に属していると見られる。縄文学や各地の地名を冠した地域学はこの事例であろう。
 こうしたことへの理解は、地域の人々がこぞって行動していくための拠り所をもたらすものであり、決して蔑ろにできない。
 こうした好奇心を基礎に置いた活動はモード1の科学に近いものである。
 なお、専門性の垣根を低くすることによって、それだけ内容が浅いものとなっている懸念がある。
 また、アイデンティティの議論があまりにも地域に限定され狭隘なものにとどまる場合、さらには独善的な発想に偏り、他者からの理解が得られなくなるという危険性が伴う。
 
イ.特定課題解決への対応
 個々の現実的な問題を解決して行こうとする活動である。
 自然科学・社会科学の多くの専門的研究者等が活動している。
 特に、環境問題等への関心は高く、この分野では民間非営利団体(NPO)の活動も多数見られる。
 また、都市計画系統の課題の解決は、各種の公的事業の展開の前提となり、多くのシンクタンクの活動等が動員されている。
 さらに温暖化や食糧危機など地球規模の課題であっても、地域として、自らがそれにどう対応していくかは重要な課題であり、ここでの関心の対象となる。
 既存の個別の学問領域との境界は曖昧であり、各種の問題解決手法が、そのまま地域学の一端として持ち込まれることが多い。
 バルト海にかかる活動(*9)は、この実際的対応の好事例としてあげられよう。ただし、この活動は、決して環境問題への対応のみにとどまるものでなく、広範な地域興しとしての成果をもたらしている。
 
ウ.総合的理解への努力
 地域への好奇心を背景に地域の現況を総合的に理解しようとする活動である。
 多くの実務者、著述者等々が努力しており、多様な地域情報の収集整理を基本として、多様な形での報告がなされている。知的創造活動に至っているか否かはともかく、多様な情報の白書的な整理を提供している。
 フェルナン・ブローデルの「地中海」(*10)は歴史書ではあるが、こうした側面を持った好事例であろう。なお、この書は、単なる白書等にとどまらないことは言うまでもなく、アナール学派の基礎的な手法を形成していったものである。
 また、「富山を考えるヒント」は、こうした発想で始めたものであるが、これまでの蓄積を踏まえて、地域課題への発言を模索し始めている。
 
エ.共生への包括的展望
 現実の課題を総合的に解決しようとする活動である。
 他の区分の活動が深化し広範囲化してくるとこの活動に移行してくることとなる。
 国内の特定地域を対象とした包括的研究がまとまってなされている例はあまり見かけない。
 研究を職とするものが、地域から出発し、地域を超えた普遍的事実に達することを主題とすることは立場上不利なのであろう。
 実際には、当該地域の自治体が総合計画を策定する際などに総力を挙げて行っているといえるのかもしれない。
 また、現実の政治的行動においては、その基礎としてこの部分を踏まえ、バランスある行動を探らざるを得ない。さらに、地域に住む者が議論を展開することは、政治的主張に直結する側面がある。
 「東アジア共生へのシナリオ」もこの位置づけを確保したいと考えているが、実際には、前段の白書に留まる部分が多い。

 
(2)ディシプリン確立の可能性
 
ア.地域学の実践
 特定の地域名を冠した知的営みには、歴史・地理・自然などに主軸を置いたものが多く、地域学独自の領域は求め難い。もちろんこれらを総合的に捉えるところに地域学が存在するのであろう。
 日本地域学会では、地域の課題を解決する知的手法の実践的事例が主たる関心事となっている。特定の地域を包括的に理解するといった地域固有の話題は、関心事にはなり難いようである。このため、実際には、既存の他の学問分野の内容と重なることとなる。
 地域固有の特定課題を解決しようとする営みについては、むしろ技術者(シンクタンク)の行為として捉えられ、一定のディシプリンを確立する可能性は少いのかもしれない。また、問題解決を指向した地域での個々の営みが、狭義の地域学に該当するか否かの設問に拘泥するすることは無意味になるのかもしれない。
 地域学を目指すというより、地域理解のための多様な営みの蓄積の中から、手続きとして普遍化できるもののの発見があれば、それが学問(ディシプリン)となっていくのであろう。

 
イ.地域学を学ぶ
 ディシプリンが明確にならない、知的営みをどのように遂行するか。既存の学問のディシプリンを援用できる場合はともかくとして、地域の総合的理解と課題の総合的解決を念頭に置いた地域学を目指す場合にあっては、独自の模索が避けられない。
 まず、基礎的な知識として習得しておくべきことは、一つは、地域を捉えるための枠組みとなる諸概念であろう。これは、経済学・社会学・心理学・倫理学等々の原論を理解しておく必要がある。
 また、問題解決のための種々の分析総合のための手法も必要である。これには、統計学・OR等々多くの内容がある。
 実際には、こうした幅広い学問的教養を基礎として、特定の地域について考え続けることこそが必要であろう。
 このためには、当該地域に関した知的好奇心が欠かせず、さらには、専門的教育研究者や公務員等として絶えることのない緊張感のもとでの日々の研鑽が期待される。

 
(3)境界領域での諸課題
 
ア.問題解決への実践
 個々人の知的営みと現実的課題への対応とは別の問題である。
 しかし、社会全体としては、この研究を踏まえて問題解決への現実的対応がなされていくことが前提であり、これがあって始めて、知的活動の存在が支持される。逆に、こうした部分を欠いたまま地域学を説くと、現代の困難な課題の前でサイキックナミング(心的無感覚)な状況に陥りかねない。例えば、地球温暖化に対応すべきことを説いても、地域での具体的な行動を欠いては空言となり、知的営みの意味が求められなくなる。
 さらに、必ずしも研究の進捗を待つのではなく、その時点なりの知識で行動していくことが求められるし、これに対応するための研究者からの発信も不可欠である。
 地域学は、自らもそこに生きていることによって、各自がバランス感覚を持って、自ら判断して行動しているほかはない。
 
イ.知識の普及
 モード1の科学は興味本位、好奇心に基づく行動であって差し支えない。ただし、その好奇心の結果を他者に伝え、関心を抱かせることができなければ、その存在は支持されない。これはモード1の科学であっても、アカウンタビリティが求められるということである。大学等に籍を置き、身分が保障された元で、独自に進めることも可能であろうが、社会的には次第に許容されなくなってきている。
 もし科学者が自分の関与している仕事のおもしろさと意味を本当に確信しているなら,それを一般の人たちにも説明できるはずという考え方もある。この際、科学者自身が包括的な教養を持たないと、その内容について、自ら判断できないことは否めない。
 大衆に開かれたという状況は,集団が稀釈されている状況で専門家と大衆の境も不明確になる。このことによって、逆に,「大衆」と呼ばれている人たちもまた,ある種のリテラシーを持たなくてはいけなくなっている。
  この点の自覚がないと、専門家と大衆が混ざって、いつまでも同じ地点にとどまって繰り返しの議論を続けることが起こり始める。
 このため、知識の普及と深化あるいは進化は両建てで進められるべきことであろう。


 
3.情報化時代の総合学の進め方
 
ア.情報の収集
 地域学を進める基礎的作業として、地域に関連する情報を収集する必要がある。
 まず基本的な情報としては、フィールド探査であろう。当該地域に住み日常生活の中で地域について体感していくことが基礎となろう。これは文章化されない暗黙知を形成していく意味合いもある。これと同様に、新聞情報等から多様な知識を得ていくことも重要である。
 また、統計情報を収集していくことも必要である。
 既存の知的活動として生み出された情報も積極的に収集していくことが求められる。各種の著述はもとより、シンポジウムを始めとする各種イベント等の情報も集めていくこととなる。
 収集すべき情報は列挙すれば際限がない。しかし、自らの関心、活用可能性等との関連させて、日常的な努力の中で、実践的な範囲を探っていくこととなろう。収集のみを業としてやることは、目的の倒錯が始まり、苦痛が大きくなるとともに成果もあいまいなものとなっていく。

 
イ.情報の整理の手法
 収集した情報は、その都度、地域社会を展望できるような体系の中で整理していく必要がある。
 むしろ、このように整理できる情報こそ収集する価値があり、整理できず、結局後日にも利用できない情報は、価値を持ち得ない。
 この情報の整理方法については、研究としてフィールド調査を行う分野等から様々な提案がなされてきている。各自が、自らにふさわしい整理方法を形成していくことこそ必要であろう。
 この手法として、近年の情報技術の進歩の中で、デジタル情報として一元的に管理していくことが容易で効果的なものとなってきている。例えば、HTML文書の中にはめ込み、蓄積するとともに同時に検索も可能としていくことができる。この利点は、これと同時に、ウェッブ・サイトに置けば、情報の共有化が実現していくことである。
 なお、単に情報を整理し、蓄積しただけでは、学問的行為といわず、たかだか白書の作成に留まるものかもしれない。しかし、この適切な整理によって、実態の理解へと近づいていくことができる。

 
ウ.類型分類から動的分類へ
 地域学の主題の一つは地域についての理解を深めることそのものにある。
 情報の整理において、当初は既存の分類枠組みの中に位置付けつつ整理することから始められるであろう。しかし、理解が進むにつれて、その内容に相応しい枠組みを設定し、集積情報を再構築する営みが重要な作業となる。
 分類整理(*12)は、まずあらかじめ持っているイメージによる類型分類から出発し、次第に関連性に基づく、系譜分類を重ねていき、動的分類(複合分類) を形成していくこととなろう。HTML書式であれば、リンクを張りつつ、必要に応じ横断的視点の項目を設けていくこととなる。
 この過程では、既存のグランドセオリーの持込みやKJ法的な描写で系譜分類を行うこともあろう。
 このような作業によって、地域を展望し理解する営みをさらに深いものとしていくことが可能となる。

 
エ.情報の共有による共同作業
 地域の経営を考えるための基礎として地域を理解したいとする者が、このような知的営みを展開するのであれば、その連携を図ることが得策であろう。
 これは、原理的には、各自の成果をウェッブ・サイトに掲載することでそのまま実現する。こうしたサイトがある程度存在し、知りえた知見が活発に提示され続ければ、サイバースペースにおける知の饗宴が開催されるという次第である。
 知的創造の著作権を主張する向きもあろう。しかし、万人への公開のもとで展開する行為であり、知の蓄積に貢献した人が正統に評価されていく可能性はある。少なくとも既存の印刷物を中心としたシステムに比して劣るということはないであろう。
 さらに、各地域における同様の営みが盛り上がれば、ディシプリン確立の糸口が見えてくる可能性もある。
 なお、こうした環境の中では、専門家と素人の境界が曖昧なものとなっていく可能性がある。このため専門家が素人におもねて、学の深化を省みない事態も予想される。しかし、ある程度の範囲の素人は、それなりに理解を深めて、専門家を評価し、深化を促していく役割を持っていく必要がある。
ここで述べていることは、決して抽象的な思考でなく、「富山を考えるヒント」を開設している筆者自身が日常的に抱いている願望である。


 
4.私の地域学
 以上述べてきたように、地域学には、特定のディシプリンが形成されておらず、各自の関心によって、様々な知的営みが重ねられている。このため、地域学について具体的に語ることができるのは、自らの営みの位置付けであろう。ここでは、私自身がライフワークとしている「富山を考えるヒント」により、私自身が形成しつつあるディシプリンについて、自省してみる。

 
ア.情報の蓄積と体系的整理  −−地域社会経済白書−−
 「富山を考えるヒント」は、私自身が、地方公務員として、地域の在り方(地域経営)を考える際に必要な、地域の情報を体系的に整理し続けているものである。
 主として統計情報の分析を出発点としているが、統計の取捨選択では、自ずと問題意識が背景に現れていよう。
 HTMLの書式で体系的に整理し始めたのは、1995年の末頃であったが、ウェブサイトへの転載は、1996年11月から始めている。
 整理の体系については、富山県民総合計画(1982年)以来、富山県の県政の取りまとめの3つの柱として用いられている「郷土」、「生活」、「産業」を核として、導入のための総論部分として「豊かさの課題」及び富山県の置かれた環境を確認する部分として「富山の舞台」で構成している。
 情報全体としては、体系に基づき一貫したページを中核に置いている。これを通読すれば、富山の理解の緒に着くことができよう。多様な情報については、一貫したページの中の関連事項からリンクを張り、参照できるようにしている。この結果、一貫したページを辿りつつ、各参照事項に立ち寄れば、蓄積された全情報が閲覧できるようになっている。
 このような内容構成のものは、従来の概念では、「地域社会経済白書」とでも言われるものであろう。

 
イ.情報の相互関連付けと地域の総合的理解  −−仮想社会システムモデル−−
 情報の蓄積とともに、情報相互間に参照引用するリンクも張っている。内容の蓄積とともに幾何級数的にこのリンクが増えている。相互間のリンクを高密度に設定することによって、結果として、富山の地域社会を一つのシステムとして立体的に描きつつある。いわば仮想社会システムモデル(ヴァーチャル・ソーシャル・システム・モデル)を形成しつつあると言えよう。
 地域の多くの課題の解決に関して、総合的検討の必要性が説かれるが、これは必ずしも容易ではない。しかし、こうした形での情報の蓄積によって、比較的容易に総合的視点に立つことも可能となる。
 ただし、この「富山を考えるヒント」によって、作者である私でなくとも総合的な視点を即座に持ち得るかは疑問があろう。やはり、基本的には、富山について考え続けている背景が求められよう。
 ちなみに、私自身が講演等で富山について説明する場合には、その際の主題に沿った、目次を書き出し、関連箇所にリンクを張り、引用しつつ説明している。また、このリンクを張った目次自体をウェブサイトにも掲げることとしており、関心を持った聴講者は事後的に内容に深く入り込むことができるようにしている。

 
ウ.維持更新と共用  −−知の饗宴−−
 日常的な情報の更新、追加は比較的容易にできる。しかし、状況の変化あるいは認識の変化を踏まえて、構成を変更しようとする場合には、リンクの再整理を含めて、面倒な作業となる。例えば、「富山を考えるヒント」も開設以来6年以上が経過しており、5年周期の統計も更新しつつあるが、1990年代後半以降の経済社会の基調的変化については、内容の再構築が必要な部分も多く、時間を要している。
 一方、こうした情報の蓄積が社会的に共用され、複数の人によって維持更新され共同管理されていくことが期待されるが、この可能性については、今後の検討課題である。
 仮に共同管理が困難であるとしても、多くの人がそれぞれなりに情報を蓄積するとともに公開し、時には相互の引用等も行っていくことも考えられよう。いわば地域の理解を深めるための知の饗宴である。

 以上、私自身が行う地域学の在り方(ディシプリン)とは、地域の諸課題を解決していくことを念頭に置いて、「総合的な地域理解に資する仮想社会システムモデルを形成していくこと」となろう。
 こうした営みが、創造性を持った学であるか否かの議論も提起されうるが、私自身はそうした議論に拘泥しない。また、モード2の科学を学として認めるのであれば、学の範疇に入るのであろう。


(*1)浜松誠二「富山を考えるヒント」1996年(初掲載)ウェッブ・サイト(http://www.ne.jp/asahi/hamamatsu/seiji/)
(*2)浜松誠二「東アジア共生へのシナリオ」2001年(初掲載)ウェッブ・サイト(http://www.nihonkaigaku.org/ham/eacoex/)
(*3)石崎嘉彦・石田三千雄・山内廣隆編「知の21世紀的課題−−倫理的な視点からの知の組み換え−−」2001年ナカニシヤ出版
(*4)村上陽一郎・黒崎政男対談「制度としての科学と哲学……対話から統合へ」InterCommunications18ウェッブ・サイト(http://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic018/contents_j.html)
(*5)C.P.スノー著、松井巻之助訳「二つの文化と科学革命」1967年 みすず書房
(*6)マイケル・ギボンズ編著・小林信一監訳「現代社会と知の創造−−モード論とは何か−−」1997年 丸善ライブラリー
  Michael Gibbons他"The New Production of Kowledge: The Dynamics of Science Research in Contemporary Societies" 1994 Sage Publications of London, Thousand Oaks and New Delhi
(*7)日本地域学会ウェブ・サイト(http://jsrsai.envr.tsukuba.ac.jp/index_jap.html)
(*8)環日本海学会ウェブ・サイト(http://www.s.fpu.ac.jp/u-gakkai/)
(*9)百瀬宏・志摩園子・大島美穂著「環バルト海−−地域協力のゆくえ−−」1995年 岩波新書
(*10)フェルナン・ブローデル著・浜名優美訳「地中海」199-1995年 藤原書店
  Fernand Braudel "La Medoterranee et le monde mediterraneen a l'epoque de PhilippeU" 1949 Armand Colin
(*11浜名優美「ブローデル『地中海』入門」2000年 藤原書店
(*12)中尾佐助著「分類の発想−−思想のルールをつくる−−」1990年朝日選書


(Jan.08,2003.)



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