日本海学調査研究委託事業

環日本海の玉文化の始源と展開 7.「南九州の初源期の玦状耳飾」


上田耕
鹿児島県知覧町教育委員会
文化財課学芸係長廣田晶子
宮崎県高岡町教育委員会
学芸員

要旨

 近年、南九州でアカホヤ火山灰層直下からの玦状耳飾の発見が相次ぎ、轟1式土器(縄文早期末葉)の古段階のものが確認されるようになった。ところが南九州では玦状耳飾りが登場する以前に耳栓が出現している。玦状耳飾の起源を南九州で出土する一連の耳栓に求められるのかどうか、あるいは大陸にその起源を求められるのか、課題として取上げる。

1 はじめに

 九州の玦状耳飾の起源・系譜の問題については,その地理的位置から大きな関心の一つであった。十数年前に比較し、今日、その出土例も50例をこえるものとなっているが、採集物が多く、出土しても包含層からの発見はあっても遺構に伴う事例を知らない。したがって、詳細な編年や系譜、その性格等を明らかにする有効な解決の糸口をつかめていないのが現状であった。
 ところが、近年,宮崎・鹿児島においてアカホヤ火山灰・火砕流堆積層の直下からの発見が相次ぎ、初期のものを確実な層位のもとに確認することができるようになった(1)。その共伴土器は縄文早期末葉の轟1式土器である。これらの発見で、九州地方における玦状耳飾の出自については大方整理がついてきた。これまで九州の初期の玦状耳飾はアカホヤ火山灰層上の縄文前期の轟B式土器に伴うものと考えられており(2)、玦状耳飾はアカホヤ火山灰層上層の文化の所産と考えられていた(3)。つまり,アカホヤ火山噴出後、荒廃した南九州の地ヘ轟B式土器や玦状耳飾を携えた九州以北の文化が南漸して定着していったものと考えられていた。しかし、これらの発見によって、従来の考えを変更せざるをえなくなった。九州の初期の玦状耳飾を把握することが可能となった今日、周辺地域との関係やその系譜などについて、一歩進んで論を展開できる可能性がでてきたが、ここでは、アカホヤ火山灰下層の2・3の玦状耳飾について紹介すると共に南九州ではそれ以前(縄文早期後葉)に登場する耳栓との関係についても課題として言及してみたい。
 (上田)

2 九州地域の縄文早期~前期初頭の玦状耳飾

 アカホヤ火山灰下位出土の玦状耳飾は、現在6例確認されている(未報告含む)。さらに、アカホヤ火山灰上位の前期初頭土器に伴う玦状耳飾も併せて紹介し、検討を加えたい。

2_1 アカホヤ火山灰層下発見の玦状耳飾

1)熊本県石の本遺跡(4)
 出土層位は明確でないものの、縄文早期の所産である可能性が高いものである。玦状耳飾の形態は、断面の厚みは肉厚であり、平面形は中心孔の幅が孔側辺部の幅とほぼ等しく、切目の長さも孔側辺部の幅とほぼ同じである。石材は軟玉か。

2)鹿児島県三角山I遺跡(5)
 良好なアカホヤ火山灰層下位出土であり、轟1式土器と共伴する。玦状耳飾の形態は、断面は厚みがあり、中心孔は小孔である。切目の長さが孔側辺部の幅よりも短い。滑石製である。

3)宮崎県下猪ノ原遺跡(6)
 良好なアカホヤ火山灰層の下位から出土した。現在調査中のため共伴関係は明らかでないが、塞ノ神式土器などが出土しているという。玦状耳飾の形態は、断面の厚みは偏平、中心孔は小孔、切目の長さは孔側辺部の幅と比べ短い。蛇紋岩で淡緑色を呈する。

4)宮崎県永迫第2遺跡(1)
 出土層位はアカホヤ火山灰層下位の牛のすねローム層である。轟1式や苦浜式土器と同じ包含層から出土した。玦状耳飾は、断面の厚みはなく偏平であり、平面形はやや横長の円形で、中心孔が小さく、切目の長さが孔側辺部の幅よりも短い。研磨痕が全体に残り、孔は挟り穿孔と押圧剥離を併用している。切目は上下面に平行した前後運動によって作出されており、孔頂部には切自作出時に切目がはみ出した切目突出が確認される。頁岩製で、比重は2.2を計る.色調は茶灰色(マンセル色帖817.5YR2.5/0.5)である。

5)鹿児島県前原遺跡(7)
 玦状耳飾の可能性がある石製品が、2点発見されている。1点は、アカホヤ層火砕流堆積層(約60cm堆積)直下層から出土し、縄文早期末葉の轟1式土器に共伴する。欠損品であるが、形態は、断面の厚みはなく偏平であり、中央に穿孔が認められる。切目の部分は剥落して明確ではない。上下両面と側面に研磨痕が観察できる。石材は地元で入手できる頁岩製のものである。
 もう1点は採集品であり、切目や中央孔の確認はできていないが、円形偏平の形態から玦状耳飾の3分の1程度の欠損品の可能性があるものである。石材は粘板岩製である。
 さらに特出すべきものとして、ドーナッツ状の垂飾品が出土している。石材は頁岩である。縄文早期中葉の下剥峰式土器等に伴うもので玦状耳飾出現時期よりはるかに古いものである。古段階の玉器の一つとして紹介してみた。

6)鹿児島県上野原遺跡(8)
 出土層位は明確ではないが、アカホヤ火山灰下位の可能性が高いものである。玦状耳飾の形態は、断面の厚みは偏平であり、中心孔は小孔、切目が孔側辺部の幅よりも長い。石材はヒスイである。


2-2 後続する玦状耳飾と型式分類
 アカホヤ火山灰降灰以後の縄文前期資料については、いずれも轟B式土器が共に出土している。鹿児島県西之薗遺跡(9)、上焼田遺跡(10)、阿多貝塚(11)、荘貝塚(12)、熊本県轟貝塚(13)、野鹿洞穴(14)の例がある(表1).
 それぞれの特徴をみていくと、上焼田遺跡のものは、断面はややふくらみをもつがほぼ偏平である。中心孔は中孔で、切目が孔側辺部の幅よりも長い。西之薗遺跡や阿多貝塚、荘貝塚のものは、断面の厚みは偏平で、中心孔は小孔、切目が孔側辺部の幅よりも長い、といった特徴を持つ。石材は、蛇紋岩・軟玉・大理石などを使用する。
 このように、九州出土の縄文時代早期末葉から前期初頭にかけての玦状耳飾は、まず、使用する石材についでみると、アカホヤ火山灰上位では蛇紋岩・軟玉・大理石といった美しい石材を使用するものに限られるが、アカホヤ火山灰下位では、美しい石を使っているものと、永迫第2遺跡や前原遺跡のように、遺跡周辺で採取できる在地系の石材である頁岩を使用しているものがある。このことは、これらの玦状耳飾は、搬入品ではなく、その地域で製作されたものであることを示唆する。また、現代の感覚では、美しいとはいえない頁岩製の玦状耳飾だが、当時の装飾品の色の持つ意味や観念が存在するのかも知れない。
 さらに、形態についてみると、まず、断面の厚みによって、Ⅰ類:断面に厚みをもつ、Ⅱ類:断面は偏平、に大別され、Ⅱ類は切目と孔側辺部の幅で、切目が短いⅡa類と、切目が長いⅡb類に細分できる。

Ⅰ類=断面に厚みをもつ
Ⅱ類=断面は偏平 ―a類切目が短い
\b類切目が長い

 この分類に従えば、アカホヤ火山灰下位には、Ⅰ類の石の本遺跡、三角山Ⅰ遺跡、Ⅱ類の前原遺跡、Ⅱa類の永迫第2遺跡、下猪ノ原遺跡、Ⅱb類の上野原遺跡が認められる。アカホヤ火山灰上位はⅡb類(上焼田、西之薗など)のみであり、I・Ⅱa類はみられない。
 東アジア的視点に立つと、まず日本列島では、玦状耳飾が多出する北陸地方の資料を対象に藤田富士夫氏による編年作業が挙げられる(15-16)。藤田編年に今回の分類を当てはめると、Ⅰ類は早期末葉~前期前半に、Ⅱa類は前期に、Ⅱb類は前期後半に多くの類例をみることができる。
 さらに北陸地方の初現期には、断面が厚く中心孔が大孔のタイプがある。また、大陸の中国東北地域や江南地域では、日本列島の縄文早期末葉以前の玦状耳飾が出土している。断面が厚いⅠ類で、東北地域は中心孔は大孔のもの多く、江南地域は小孔のものが多い。
 ここまでの検討で、南九州を中心とした九州地域の玦状耳飾は、縄文時代早期末葉にI・Ⅱa・Ⅱb類、前期以降にⅡb類が存在し、日本列島の北陸地方や大陸の中国東北・江南地域の玦状耳飾と形態・時期的に異なった様相を見せることが明らかとなった。
 (廣田)

 

3 まとめ

 これまでに見てきたように南九州の玦状耳飾は、アカホヤ火山灰層下位の縄文早期末葉にはすでに出現しており、その形態は偏平で円形なものから肉厚で円形の形態のものまでバラエティーに富んでいることがわかった。しかし、その形態から明確な変遷を捉えるまでには至っていないが、大方ではあるが、アカホヤ火山灰層上位の玦状耳飾には中央孔が小さく、切れ目が長いタイプ(Ⅱb類)のものが多い傾向が読み取れる。さらに石材では在地産の使用は少ないこともその特徴としてあげられる。一方、永迫第2遺跡(宮崎県高岡町)や下猪ノ原遺跡(宮崎県清武町)、前原遺跡(鹿児島県知覧町)などアカホヤ火山灰下位から出土の玦状耳飾は、偏平で中央孔が小さく、切れ目の短いタイプ(Ⅱa類‐藤田編年C1)もみられ、明らかにアカホヤ上位の玦状耳飾とは様相を異にしていることがわかる。中でも、三角山Ⅰ遺跡(鹿児島県中種子町)と石の本遺跡(熊本県熊本市)など断面が厚く、小型の円形なものや(Ⅰ類‐藤田編年D類)、上野原遺跡出土のような偏平で切れ目の長い(Ⅱb類‐藤田編年E類)ものまであり、日本列島の北陸地方や大陸の中国東北‐江南地域の玦状耳飾と形態・時期的に異なった様相を見せることが明らかとなった。ただし、三角山Ⅰ遺跡や石の本遺跡にみられるようなD類の発見もあり、中国江南地域の玦文化との関連性も否定されたわけではないので(15-16)、引き続きその関連を探求する必要がある。しかし、日本の玦文化の祖形を中国江南地域に求める藤田氏の説に対し(15)、日本の玦状耳飾が登場しだす縄文時代早期末葉の年代が河姆渡文化よりも古い可能性がある以上、伝播の方向が中国から日本という考え方には説得力に欠けていることや中国では玦と共に首飾りと考えられる玦がセットとなっているのに日本では玦が出現していないことも両者間の関係を否定する材料になるのではという指摘もある(17)。また、中国から伝わったとみられる玦状耳飾の搬入品がどれなのかはっきりしない。モデルとコピーがどのようなものなのか明確に示されていない(18)、などなど課題も提示されているので、もう少し両者間の玦状耳飾の差異や玦状耳飾以前の装飾品の有無などを調査してみる必要もある。
 ところで、南九州では玦状耳飾に先駆けて登場する装身具に土製耳飾(耳栓)がある。耳栓は東日本を中心に縄文中期に盛んに用いられ縄文晩期に至っては透かし彫りなどの装飾が施されて華美なものヘと発展し、弥生時代にはみられない。かって、その起源については、関東地方でみられる縄文前期の土製の玦状耳飾に求められることもあった(19-20)。ところが、南九州では、アカホヤ火山灰下位の縄文早期後葉の撚糸文系塞ノ神式土器(平椿様式)に伴うことが判明し、縄文早期後葉の石製‐土製耳栓から縄文早期末莱以後の石製玦状耳飾ヘと関東地方とは逆の変遷をたどることが明らかとなっている(21)。特に鹿児島県上野原遺跡(国分市)では、アカホヤ火山灰下位の平杵式土器期(縄文早期後葉)の土製‐石製の耳栓(臼型・滑車型耳飾)が十数個出土している。その中には、直径l0cmをこえ、装飾性の高い表現を施したものまである。南九州では、玦状耳飾は縄文早期末葉に、耳栓は縄文早期後葉にはすでに出現していることが判明したわけである。同時にこれらの発見は、この時期、すでに耳栓を使用する文化が南九州では確立していたことを裏付けている。耳栓と玦状耳飾、着装方法にはやや違いはあるものの耳たぶに孔を開け挿入する点では基本的には同じであることから、東日本ではまず考えられなかった玦状耳飾の起源を南九州で出土する一連の耳栓に求められるのかどうかを追及してみる必要もある(22)。また、玦状耳飾が中国江南地方と何らかの関係があると考えた場合、それ以前に登場している耳栓も中国に存在するのかどうかをまず調査しなけれぱならないだろう。起源の有無については、もう少し解決しなければならない課題があるように考える。
 (上田)

参考文献
(1)2003「玦状耳飾について」『永迫第2遺跡』高岡町埋蔵文化財調査報告書第25集
高岡町教育委員会
(2)上田 耕1981「九州における玦状耳飾について」『鹿児島考古』第15号 鹿児島県考古学会
(3)新束晃-1984「鬼界カルデラ(アカホヤ火山灰)の爆発と縄文社会ヘの影響」『MuseamKyushu』No4
(4)報告書と池田朋生氏のご教示による。玦状耳飾が出土した早期遺物包含層は、二次堆積のアカホヤ火山灰に覆われ、後世に撹乱された可能性も考えられた。しかし、早期の遺構出土状況、礫接合の結果から、比較的安定した早期包含層の可能性が高いとしている。さらに周辺で轟A式土器が出土していることから、この時期の玦状耳飾の可能性が高い。また、玦状耳飾の近くで、玉(軟玉製?)が出土している。形状は弧状で装飾品と考えられる。大孔の玦状耳飾の欠損品もしくはその再加工品の可能性も考えられる。
2001『石の本遺跡群Ⅲ』熊本県文化財調査報告害第194集熊本県教育委員会
(5)鹿児島県埋蔵文化財センター大久保浩二氏、菅牟田勉氏、上床真氏のご教示による。
(6)清武町教育委員会秋成雅博氏のご教示による。
(7)2003『前原遺跡群-南-ノ谷地区・前原地区‐堂山迫地区-』知覧町埋蔵文化財発掘調査報告書第11集 知覧町教育委員会
(8)200l『上野原遺跡(第l0地点)』鹿児島県埋蔵文化財センター発掘調査報告書(28)鹿児島県埋蔵文化財センター
(9)1977『指辺l横峯‐中之峯・上焼田遺跡』鹿児島県埋蔵文化財発掘調査報告書)鹿児島県教育委員会
(10)1978『西之薗遺跡』鹿児島県埋蔵文化財発掘調査報告書(8)鹿児島県教育委員会
(11)1978邱可多貝塚』金峰町埋蔵文化財調査報告書(1)金峰町教育委員会
(12)8点の製品・未製品が出土.大理石製の外チャート製のものがある。l979『荘貝塚』出水市文化財調査報告書1 出水市教育委員会
(13)上田耕1998「九州発見の玦状耳飾」『東亜玉器』香港中文大学中国考古芸術研究中心
(14)l93『大分県史 先史篇』
(15)藤田富士夫1998「日本列島の玦状耳飾の始源に関する試論」 『東亜玉器』香港中文大学中国考古芸術研究中心
(16)藤田富士夫1983「玦状耳飾の編年に関する-試論」 『北陸の考古学』石川考古学研究会々誌第26号
(17)中村慎-1987「中国出土の玖状耳飾」 『東南アジア考古学会報』7東南アジア考古学会
(18)中山清隆 1965「縄文文化と大陸系文物」 『季刊考古学』38 雄山閣
(19)高山 純 1965昧騒文時代に於ける耳栓の起源に関する-試論」『人類学雑誌』73~4
(20)披辺 誠 1973「装身具の変遷」『日本史発掘』2 講談社
(21)新東晃 l993Γ縄文時代の二っの耳飾り」『南九州縄文通信No7 南九州縄文研究会
(22)上田耕・楽畑光博1997「宮崎県の玖状耳飾」『南九州縄文通信』Mo11