日本海学グループ支援事業

2003年度 「後期旧石器時代初頭における日本海沿岸地域の研究」


2003年度 日本海学研究グループ支援事業

個人 麻柄一志氏

はじめに

 後期旧石器時代前葉の秋田県を中心とする東北地方日本海側では「米ヶ森技法」と呼ばれる特徴的な剥片剥離技法の存在が知られている。「米ヶ森技法」は秋田県協和町米ヶ森遺跡出土の石器群の分析から復元された長幅指数100程度の小型矩形・台形・扇形・貝殻状剥片の連続的剥離技術(第1図)である(協和町教委1977)。

 米ヶ森技法の分析をおこなった藤原妃敏によれば、「米ヶ森技法」の特徴は①石核は剥片を素材として石核素材の背面側を打面に、腹面を作業面とする②打面は新たに作出する場合と石核素材の背面をそのまま用いる場合もある③打点を少しずつ一方向に移動させ、台形もしくは扇形の小形剥片を連続剥離する④剥離された小形剥片の側辺部には石核素材の主要剥離面(ポジ面)が残り、このポジ面(底面)と小形剥片の主要剥離面が鋭い縁辺部を形成する⑤底面を例外なく付すため小形剥片の剥離は1回の打点の移動で終了し、逆戻りしたり重複したりすることはない⑥得られる小形剥片は米ヶ森台形石器の素材にのみ用いられる。刃潰し状の二次加工は剥片末端に限定して施される。他の器種の素材として用いられる例はない、と説明されている(藤原1984、1988)。米ヶ森技法に類似した剥片素材石核の腹面側に対し連続的に長幅指数100程度の小型矩形・台形・扇形・貝殻状の目的剥片(以下台形剥片とする)を剥離する技術はその後、秋田県を中心に多数確認され、東北地方日本海側に分布する地域性の強い剥離技術と認識されている。こうした剥離技術は、米ヶ森技法のように連続して10枚以上の台形剥片を剥離することはなく、数枚程度の剥片が剥離され、石核が放棄されてしまう場合が多い。また打点が規則的に一方向に移動するとは限らず、得られた台形剥片の片側辺に石核腹面のポジティブ面が必ず残るという規格性も認められない。こうした剥離技術は広義に「米ヶ森技法」に含められる場合や米ヶ森技法類似の剥離技術と称されることもあるが、ここでは「類米ヶ森技法」と仮称する。
 米ヶ森型台形石器の整形は台形剥片の末端に整形加工が施される強い規則性が認められるが、整形加工の方法は剥片の背面側から行われる場合と腹面側から施される場合、更に同一石器でも部位によって背面側と腹面側からと整形の方向が異なっているものがあり、また、急角度の刃潰状の二次加工や平坦剥離に近い浅い二次加工、使用痕に近い微細な剥離などバラエティに富み、整形加工の方法に強い規範は見られない。整形加工の部位も打面と平行する末端全体に細かく施される場合と末端の極一部に2・3枚の小剥離が認められるにすぎないもの、側辺の末端部近くに部分的二次加工が施されるものもある。
 同じ後期旧石器時代前葉の北陸地方には富山県福光町・城端町にまたがる立野ヶ原遺跡群に代表される立野ヶ原石器群が存在する。立野ヶ原石器群は台形剥片の末端部に整形加工を施した石器(立野ヶ原型ナイフ形石器と呼称)と刃部磨製斧形石器を特徴的に組成する(麻柄1986)。立野ヶ原型ナイフ形石器は形態的には米ヶ森型台形石器とほとんど同一で、長幅指数100前後の2~3㎝の台形剥片を素材としているが、素材剥片の生産技術は礫または分割礫を用い打面を転移しながら小型剥片を組織的に剥離し残核はサイコロ状を呈するものと「類米ヶ森技法」の二者が存在する。後者については基本的には東北地方日本海側の石器群との強い関連性が伺える。立野ヶ原型ナイフ形石器の形態、調整技術は米ヶ森型台形石器とほぼ同様であるが、米ヶ森型台形石器が素材に背面の片側辺に石核腹面(ポジティブ面)が残る台形剥片を必ず用いているのに対し、立野ヶ原型ナイフ形石器ではこうした台形剥片が使用される頻度が低いという違いがある。
 小型台形剥片の末端に整形加工を施した石器は米ヶ森型台形石器や立野ヶ原型ナイフ形石器と呼称される他に、部分加工石器として他の部位に二次加工を施された小型石器と共に含まれる場合、また枝去木型や日の岳型の台形石器、ペン先形(ナイフ形)石器を含めて台形様石器と称されることもある。田村隆はこの小型台形剥片の末端に整形加工を施した石器を端部整形刃器(反転部分加工をもつ端部整形尖頭器と総称して端部整形石器と呼ばれる)として整理し、後期旧石器時代初頭の石器群の成立について端部整形石器の位置付けをおこなっている(田村2001)。この論文で田村の指摘するとおり、「立野ヶ原型」をナイフ形石器の分類概念に含めることはこの石器群の持つ可能性を矮小化していたかもしれない。しかし「台形様石器」として他の非石刃製ナイフ形石器と一括することにもまた同様にこの石器群の位置づけを曖昧にする可能性がある。また野尻湖遺跡群の調査では貝殻状刃器や掻器状刃器と名付け、台形石器から分離独立した器種名を与えている(谷・大竹2003)。ここでは、台形剥片の末端に整形加工が施されるという意味で田村が提唱した(端部整形刃器と端部整形尖頭器の総称として田村は呼んでいるが)端部整形石器(注1)という器種名を借用したい。
 小論では日本列島における後期旧石器時代初頭~前葉の端部整形石器を主体とする石器群において、剥片剥離技術の中に「米ヶ森技法」と米ヶ森技法に類似した剥片素材の石核の腹面側に作業面を設け、連続的に目的剥片を剥離する剥片剥離技術(広義の米ヶ森技法、または類米ヶ森技法)がどの程度認められ、その分布の地域的特徴が抽出されるかを検討する。米ヶ森技法や類米ヶ森技法のような剥離技術は、報告されているtoolとしての石器だけからは認識することができず、出土した石核、剥片の特徴から剥離技術を復元してはじめて確認できる。特に石核が、素材の大型剥片の腹面に作業面を設定していることが第一条件となる。

1.立野ヶ原石器群の剥離技術

 富山県立野ヶ原遺跡群は1970年代の発掘調査で旧石器時代の遺跡が29ヶ所確認されており、後期旧石器時代初頭の遺跡として、ウワダイラI遺跡、ウワダイラL遺跡、ウワダイラH遺跡(富山県教委1974)、中台B遺跡(富山県教委1975)、西原C遺跡(富山県教委1977)などが知られている。この内ウワダイラI遺跡、ウワダイラL遺跡、西原C遺跡の3ヶ所からまとまった量の石器が出土しているが、いずれもその概要が示されているにすぎず、剥離技術等の実体は明らかにされていない。
 富山県内の同様の石器群として知られている立山町白岩藪ノ上遺跡(立山町教委1982)の技術基盤を分析した奥村吉信(奥村1985)は、白岩藪ノ上遺跡の端部整形石器の製作に大型剥片を石核素材とした米ヶ森技法的な剥離技術《Ⅰ類》と打面を頻繁に転位させ、残核がサイコロ状を呈する剥離技術《Ⅱ類》の二者が用いられることを明らかにした(第2図)。奥村の指摘通り、富山平野の立野ヶ原石器群の技術基盤にはⅠ類とⅡ類が普遍的に認められる。Ⅰ類の剥離技術は八尾町長山遺跡(八尾町教委1985)出土の石核や大沢野町直坂Ⅱ遺跡(富山県教委1976)にも断片的に知られていたが、立野ヶ原遺跡群のウワダイラI遺跡やウワダイラL遺跡、西原C遺跡でも未発表資料の中にⅠ類の剥離技術が一定量存在することが認められる。


写真1

写真2

写真3

 西原C遺跡から出土した石器は端部整形石器を主体にペン先形石器、縦長剥片の基部側に整形加工を施したナイフ形石器で、少量の彫器や刃部磨製斧形石器が含まれる。端部整形石器は2~3㎝程度の小型矩形のものが多く、大半が鉄石英製でこうした石核にも対応する。また端部整形石器や小型の台形剥片の背面に石核の腹面(ポジティブ面)の一部が付いているものもあり、Ⅰ類の剥離技術の所産であることが分かる(写真1~3)。西原C遺跡の石核の多くは白岩藪ノ上遺跡の技術基盤でⅡ類とされた打面転位を頻繁におこなう石核である。打面転位を行う石核もある程度一つの打面で連続的に剥片を剥離し、次ぎに作業面を打面として剥離作業をおこなっている。その過程で作業面が大きく充分な長さが確保できる初期段階で縦長剥片も剥離され、剥離が進み石核の作業面が小さくなると小型台形剥片のみが生産される。また打面と作業面を交互に入れ替え、チョッピング・ツール状に剥離する石核や規格的でなく類型化不能な石核も存在する。
 端部整形石器を多数出土しているウワダイラI遺跡やウワダイラL遺跡でも未公表の石核は西原C遺跡と同様である。剥片素材のⅠ類が含まれているが、量的には打面転移のⅡ類の石核などが主体である。このように、立野ヶ原遺跡群の後期初頭の石器群を初め、富山平野の端部整形石器を主体とする石器群の剥離技術には打面転位を頻繁におこなうⅡ類を主体とし、大型剥片を石核素材とするⅠ類の剥離技術、つまり「類米ヶ森技法」が一定量含まれている。


2.各地の端部整形石器と米ヶ森技法・類米ヶ森技法

(1)東北地方

 米ヶ森遺跡の他、秋田県に米ヶ森技法・類米ヶ森技法による小型石器の出土が集中する。
 協和町米ヶ森遺跡(第3図)、能代市此掛沢Ⅱ遺跡(秋田県教委1984)、川辺町風無台Ⅱ遺跡(秋田県埋文センター1985)、松木台Ⅱ遺跡(秋田県埋文センター1985)、南外村小出Ⅰ遺跡(秋田県埋文センター1991)、琴丘町家の下遺跡(秋田県埋文センター1998)、能代市縄手下遺跡(吉川2003a)、秋田市下堤G遺跡(秋田市教委1983)、秋田市地蔵田B遺跡(秋田市教委1986)などの遺跡の出土遺物の中に見いだすことができる。

 山形県では遊佐町懐ノ内F遺跡(大川2001)、岩手県では胆沢町上萩森遺跡(胆沢町教委1988)、北上市愛宕山遺跡(岩手県立博物館1993)、福島県では会津若松市笹山原№8遺跡(柳田1995)、笹山原№7遺跡(藤原1992)などがある。
 以上東北地方の端部整形石器を組成しその技術基盤に米ヶ森技法や類米ヶ森技法をもつ石器群を指摘したが、共伴する石器(石刃製ナイフ形石器、台形石器、ペン先形石器、刃部磨製斧形石器など)にかなりのバラエティが認められる。端部整形石器を組成する石器群の中で、風無台Ⅰ遺跡(秋田県埋文センター1985)では端部整形石器自体が少ないためか、その剥離技術が出土した石器群からは復元できないが、多くの遺跡で端部整形石器の技術基盤として米ヶ森技法や類米ヶ森技法といった剥離技術が打面を頻繁に転位する剥離技術と共に認められ、端部整形石器群の基本的な技術基盤の一つとして米ヶ森技法や類米ヶ森技法が存在していることがわかる。
 東北地方における後期旧石器時代前葉の石器群の変遷については、これまでに様々な編年案が示されている。最近では田村隆が、小出Ⅰ→風無台Ⅱ、松木台Ⅱ、風無台Ⅰ、(上萩森)→松木台Ⅲ、此掛沢Ⅱ、家の下の順での推移を示し、小出Ⅰを南関東Ⅹ層上部を上限に、風無台Ⅱ、松木台Ⅱ等を同Ⅸ層に対比している(田村2001)。また吉川耕太郎は〈秋田Ⅰ期〉松木台Ⅲ、地蔵田、風無台Ⅱ、松木台Ⅱ、〈秋田Ⅱ期〉小出Ⅰ、縄手下、此掛沢Ⅱ、〈秋田Ⅲ期〉家の下、風無台Ⅰ、下堤Gの変遷を考えている(吉川2003b)。この両者においても個々の遺跡の位置づけはかなり異なっているが、端部整形石器が後期旧石器時代前葉の時間幅の中でかなりの時間幅をもって変遷していることが窺われる。つまりこれらの遺跡の多くで共通する「類米が森技法」と仮称した端部整形石器の素材となる台形剥片の剥離技術もかなりの時間幅が考えられる。
 端部整形石器が主体的に出土する遺跡の中で米ヶ森技法が顕著に認められる遺跡は米ヶ森遺跡の外、此掛沢Ⅱ遺跡と下堤G遺跡、懐ノ内F遺跡があるに過ぎない。この中で米ヶ森技法の模式図のように10枚以上の台形剥片を一連この工程で剥離している例は米ヶ森遺跡と懐ノ内F遺跡で数例が存在しているのみで、大半は1個の石核から3枚~8枚程度の台形剥片が剥離されている。ある意味では米ヶ森遺跡と懐ノ内F遺跡の数例の剥離技術が特殊例といえるかもしれない。米ヶ森遺跡については出土した石器群すべてが同一時期の所産であるかは議論が分かれるところであるが、台形石器やペン先形石器、刃部磨製斧形石器を組成に含まない一群として、米ヶ森遺跡を含めて下堤G遺跡、懐ノ内F遺跡などがある。此掛沢Ⅱ遺跡も刃部磨製斧形石器を有する点を除けば類似も認められる。
 東北地方では、端部整形石器の技術基盤に米ヶ森技法や類米ヶ森技法を有する石器群の分布が秋田県、山形県、岩手県、福島県で確認されているが、岩手県の上萩森遺跡や愛宕山遺跡、福島県の笹山原遺跡はいずれも奥羽山脈上に位置し、太平洋側とはいえない。こうした石器群は脊梁山脈から日本海側に偏っているといえる。

(2)中部地方

 新潟県では朝日村樽口遺跡(朝日村教委1996)、新発田市坂ノ沢C遺跡(鈴木1999b)、安田町上野林J遺跡(安田町教委2004)、新発田市上車野A遺跡(阿部1993)、新発田市田家池ノ平遺跡(小林1999、2000)で端部整形石器と類米ヶ森技法の存在が認められる。
 石川県では押水町宿東山遺跡(石川県立埋文センター1987a)、同宿向山遺跡(石川県立埋文センター1987b、1988)、同竹生野遺跡(石川県立埋文センター1988)において同様な石器群が指摘できる。
 長野県信濃町野尻湖遺跡群((財)長野県埋蔵文化財センター2000)の内、日向林B遺跡、東裏遺跡第1地点、大久保南遺跡、貫ノ木遺跡第3地点の下層出土の石器群は台形石器、ナイフ形石器、端部整形石器、刃部磨製斧形石器などを組成し、剥片素材の米ヶ森技法に近い石核が含まれている。特に日向林B遺跡の日向林Ⅰ石器文化には多量の端部整形石器が出土しており、背面にポジティブ面が認められるものがかなり含まれ、類米ヶ森技法の石核も多数存在する。野尻湖遺跡群ではこのほかに刃部磨製斧形石器を組成する遺跡は多いが、端部整形石器は必ずしも組成される訳ではなく、近い時期の遺跡でも石器組成の違いが認められる。端部整形石器と米ヶ森技法的な剥離技術のセットは刃部磨製斧形石器を組成する石器群の中でもⅤb層に主な出土層位を有する谷・大竹編年(谷・大竹2003)の野尻湖遺跡群第Ⅰ期に限られ、Ⅴa層に出土層位が想定されている第Ⅱ期の石器群にはほとんど見られない。つまり刃部磨製斧形石器を組成する石器群の中でもより古い一群に端部整形石器と米ヶ森技法的な剥離技術のセットが含まれているといえよう。
 長野県でも南部の佐久地方にも後期旧石器時代初頭の遺跡が多く分布し、立科F遺跡や香坂山遺跡などで端部整形石器がまとまって出土しているが、これらの石器群の技術基盤は打面を頻繁に転位しながら台形剥片を剥離する技術と大型剥片を石核の素材とする剥離技術も認められるが、剥片素材の石核も打点を横に少しずつ規則正しく移動させながらの剥離ではなく、チョッピング・トゥール状の剥離などである。後期旧石器時代初頭において長野県内でも北部と南部で技術基盤の差が認められる。
 新潟県のこの種の石器群については、南関東の石器群の変遷に照らして坂ノ沢C遺跡・上野林J遺跡(Ⅸ層段階)→前山遺跡・中束A遺跡・上車野A遺跡(Ⅶ層段階)との編年案が提出されている(鈴木1999a)が、前者の対比は問題ないにしても後者につては対比できる南関東の石器群が思い浮かばない。未発表資料や表面採集資料のため全容を把握していないこともあるが、断片的な資料からは前山遺跡などは必ずしも後出的でなく、年代的に遡る可能性も検討しなければならないであろう。
 北陸地方(中部地方日本海側)の端部整形石器はかつて奥村が白岩藪ノ上遺跡の剥片剥離技術の分析で明らかにしたように、打面を頻繁に転位し、残核がサイコロ状を呈する剥離技術と、大型剥片の腹面側に主として作業面を設定し打点を横に移動させながら連続して数枚の台形剥片を剥離する剥離技術の二者が目立つ。このほかにも打面と作業面を入れ替えながら剥離する「交互剥離」と呼ばれるようなものも存在するが、普遍的ではない。これらの内、類米ヶ森技法と呼べるような剥片素材の石核の割合は必ずしも高いわけではないが、まとまって端部整形石器を出土する遺跡においては決まって一定量は認められ、技術基盤の柱の一つとなっている。
 中部地方の日本海側以外では山梨県長坂町横針前久保遺跡(山梨県教委2000)で台形石器、ナイフ形石器、刃部磨製斧形石器と伴に端部整形石器が出土しており、技術基盤に剥片素材の石核が多用され、1点ではあるが米ヶ森技法に類似した石核が出土している。また、太平洋側では静岡県本川根町ぬたぶら遺跡下層石器群(高尾2000)に剥片素材の石核が存在している。端部に明瞭な整形は施されていない使用痕の認められる小型台形剥片が存在している。側辺を刃部として使用しており、端部整形石器と機能は同じと考えられる。
 以上のように中部地方でも端部整形石器とその技術基盤の一つである類米ヶ森技法の分布は日本海側に集中しており、地域性が認められる。

(3)関東地方

 かつて千葉県権現後遺跡と御山遺跡、東京都中山谷遺跡出土の石器群に「立野ヶ原型ナイフ形石器」の存在を指摘し、「立野ヶ原型ナイフ形石器」の編年的位置づけにそれらの出土層位を根拠とした(麻柄1985、奥村・麻柄1991)が、その後田村隆が東日本後期旧石器時代初頭の石器群の再検討で各地の石器群の中に端部整形石器が含まれることを指摘している。特に関東地方の該期の石器群から「端部整形刃器」と「端部整形尖頭器」を抽出し、関東地方での台形石器群成立以前の様相を明らかにしている(田村2001)。ここで示された資料の中に、端部整形石器の素材となる台形剥片の剥離技術に類米ヶ森技法に含めることができる剥片素材の石核を認めることができる。
 千葉県四街道市御山遺跡((財)千葉県文化財センター1994)第Ⅱ文化層の石器群はⅩ層上部からの産出で、端部整形石器がまとまって出土している。刃部磨製斧形石器と石刃等を組成するが明確なナイフ形石器は存在しない。端部整形石器の素材の台形剥片はサイコロ状の石核から多くが剥離されているが、剥片素材の石核も存在しており、数例ではあるが、類米ヶ森技法の石核も存在する。おなじように端部整形石が出土している八千代市権現後遺跡第6文化層第11ブロックでは、石核は剥片素材で素材剥片の腹面側に作業面を設けているが、規則的に剥離されているわけではない((財)千葉県文化財センター1984)。
 北関東の群馬県伊勢崎市三和工業団地Ⅰ遺跡((財)群馬県埋蔵文化財調査事業団1999)では最下層の第4文化層から台形石器、石刃素材のナイフ形石器、端部整形石器が出土しており、刃部磨製斧形石器が組成される。またペン先形石器に類似のものや類型化できない小型部分加工石器も多数存在する。ナイフ形石器を除く小型石器の素材となる剥片剥離技術は多様であるが、大型剥片を石核の素材とする石核が主体を占め、石核素材の腹面側に打点を横に移動させながら剥離を連続させる例がある。しかし、米が森技法や類米ヶ森技法のように規格性のある目的剥片を剥離している訳ではなく、得られる剥片の形状や大きさにばらつきがある。
 関東地方にはこの他に、端部整形石器との結びつきは認められないが、台形石器群などの技術基盤として剥片素材の石核から幅広横長剥片を剥離する技術が普遍的に見られる。かつて砂田佳弘が南関東の剥片素材石核の分析をおこない、Ⅸ層段階にこうした石核が急増し、その後またⅤ層・Ⅳ下層に増加することを指摘している(砂田1986)。こうした剥離技術は瀬戸内技法との関係で注目されていたが、後期旧石器時代初頭の石器群においては小型の幅広剥片や矩形剥片の剥離に多用され、打面転位のサイコロ状石核と共に台形石器群との結び付きも目立つ。一例をあげれば、千葉県成田市天神峰奥之台遺跡((財)千葉県文化財センター1997)では、Ⅸ層下部に相当する第1文化層で多数の台形石器にナイフ形石器、刃部磨製斧形石器を組成するが、石核は剥片を素材とするものが多く、打面転位を行うサイコロ状の石核と共に小型剥片を剥離している。また、東京都府中市武蔵台遺跡Ⅹa層、Ⅹb層出土の石器群にも剥片素材の石核から小型横長剥片・矩形剥片を剥離する剥離技術が認められる(都立府中病院内遺跡調査会1984)。しかし、剥片を素材とはしているが、打点を規則的に一定方向に移動させ規格的な剥片を剥離することはなく、米ヶ森技法や類米ヶ森技法とは一線を画す。南関東地方では後期旧石器時代の最下部から大型剥片を石核素材とする剥離技術が認められるが、これが御山遺跡など一部の遺跡を除き、端部整形石器と結びついて規格的な小型剥片を量産する技術には結びついていない。

(4)北海道

写真4

 函館市桔梗2遺跡((財)北海道埋蔵文化財センター1987)桔梗2遺跡からは、形態と加工部位にかなりの幅があるが、まとまった端部整形石器が出土している。接合資料や石核から明らかなように剥離技術は打面転位をおこないながら不定形や台形の剥片を剥離するもの、礫面や分割礫の分割面を打面とし、比較的打面を固定し連続的に不定形剥片を剥離するものと剥片素材の石核の腹面側に作業面を設け、打点を横に移動しながら連続的に台形剥片を剥離するものが認められる。後者の中には一つの打面から打点を移動させながら6~7枚の台形剥片を剥離している石核(母岩資料6注2)も存在し(写真4)、米ヶ森技法と技術的には同じで、得られた台形剥片には片側辺に規則的にポジティブ面が認められる。端部整形石器やその他の石器にも背面側にポジティブ面が観察されるものが見られる。石器は端部整形石器のほか部分加工石器としか分類できないものが多いが、貝殻状の小型剥片の打面部周辺に調整剥離を施した形態のものが存在する。白滝遺跡群のⅠ群の石器群とされるものに顕著な石器である。石器群に石刃は含まれておらず、比較的単純な組成を示す。


写真5

写真6

 白滝村の白滝遺跡群では奥白滝1遺跡(写真5、6(財)北海道埋蔵文化財センター2002)、上白滝8遺跡((財)北海道埋蔵文化財センター2003)で同様な石器群の存在が知られている。
 清水町共栄3遺跡((財)北海道埋蔵文化財センター1992)でも端部整形石器がまとまって出土している。剥離技術は米ヶ森技法のように規則的な剥離ではないが、大型の剥片を石核の素材に用い長幅指数100程度の小型台形剥片を量産しているものが顕著であり、得られた剥片も背面にポジティブ面を有するものが認められる。同様の石器は千歳市祝梅三角山(千歳市教委1974)からも出土しているが、石核が僅か3点しか含まれておらず、剥離技術は不明な点が多い。このほかに上似平遺跡下層や勢雄遺跡などからも端部整形石器が出土しているが、類米ヶ森技法のような剥離技術は認められない。
 これらの石器群はいずれも石器組成が単純で、端部整形石器の調整は微細で使用痕との区別がつきにくいものがある。寺崎康史編年ではこれらの石器群はいずれも北海道最古の後期旧石器時代前半期1群に置かれ(寺崎2003)、佐藤宏之編年では後期旧石器時代最古の「後期旧石器時代成立期」(南関東のⅩ層段階相当)に奥白滝1遺跡、次の段階に位置づけられている「後期旧石器時代前半期前葉」(南関東のⅨ層段階相当)に桔梗2、共栄3、祝梅三角山遺跡の石器群が当てられている(佐藤2003)。いずれにせよ北海道における類米ヶ森技法を技術基盤に含み、端部整形石器を組成する石器群は北海道の後期旧石器時代の初頭段階に位置づけが可能と思われる。

(5)西日本

 西日本一帯にも端部整形石器は広く分布している。かつて立野ヶ原石器群との関連を指摘(麻柄1982)した岡山県野原遺跡群早風A地点(岡山県教委1979)など中国山地に特に集中している。この中で、島根県松江市古曽志清水遺跡Ⅲ区出土の石器群は、点数は少ないがメノウ製の端部整形石器と類米ヶ森技法の石核が出している(島根県教委1989)。端部整形石器は背面もポジティブ面の剥片の末端に部分的な加工を施したもので、石核は素材剥片の腹面側に打点を横に移動させながら小型台形剥片を連続的に4枚以上剥離しており、東北地方日本海側の典型例に近い。
 野原遺跡群早風A地点からは多数の端部整形石器、台形石器、ナイフ形石器、刃部磨製斧形石器が出土しているが、報告者は出土層位などから細石刃核を除き2期細分しており、広く受け入れられている。しかしこれらの石器群は2期に細分されるにしても後期旧石器時代初頭の比較的短い時間幅に限定できそうである。Ⅱ期とされているユニットAには黒曜石、水晶製の端部整形石器と伴に水晶製の剥片素材の石核が出土している。素材剥片の打面側に腹面・背面両面に剥離がおこなわれているが、最終的な剥離は石核素材の腹面側である。得られる剥片は長幅指数100程度の台形剥片である。
 岡山県の蒜山高原の中山西遺跡、城山東遺跡、下郷原田代遺跡からも端部整形石器が出土しており(岡山県教委1995)、剥片を素材とする石核も存在するが、打点を横に移動させながら台形剥片を連続的に剥離するようなものは認められない。中国山地の後期旧石器時代前葉の石器群は水晶や黒曜石など様々な石材が使用されているが、これらにサヌカイトが含まれていることは注目される。例えば下郷原田代遺跡ではAブロックで黒曜石製の台形石器と端部整形石器が出土しているが、Bブロックでは斧形石器とサヌカイト製の横長剥片を素材とした石器群であり、剥片の多くは底面を有し、剥片素材の石核から剥離されている。剥片素材の石核といっても、類米ヶ森技法のように小型台形剥片を剥離するのではなく、石核素材剥片の打面部側から横長剥片を剥いでおり、瀬戸内技法の祖型的な在り方を示している。ここでの在り方から、中国山地では後期旧石器時代前葉において、剥離技術の基本として、剥片素材石核の腹面側に作業面を設け、打点を横に移動させる技術が確立していたが、黒曜石等では小型台形剥片を剥離し、類米ヶ森技法として東北日本日本海側と共通する剥離技術が多用され、サヌカイトにおいては瀬戸内技法の祖型的な剥離技術に使い分けられていると見なすことができる。共通の技術基盤から石材によって剥離技術が分離していった可能性を検討する必要がある。つまり瀬戸内技法をはじめとする底面を目的剥片の残す剥離技術は、類米ヶ森技法かこれと共通する初期の剥片素材石核から剥片を連続的に剥離する技術の中から出現したことも考えてよいと思われる。その点では大阪市長原14層出土の石器群が初期のサヌカイトを用いた剥離技術を端的に示している(絹川1999)。
 島根県古曽志清水遺跡、また岡山県野原遺跡群、同中山西遺跡、同城山東遺跡、同下郷原田代遺跡などの遺跡の分布は、岡山県内の遺跡といえども大まかには日本海側といってよく、瀬戸内海側には現時点では類米ヶ森技法を技術基盤に含む端部整形石器群は知られていない。
 九州における後期初頭旧石器時代石器群の剥離技術を分析した村崎孝宏によれば、AT火山灰降灰以前の石器群の剥離技術は、打面を一面あるいは上下両端に設定するもの(Ⅰ類)、剥離面を打面とし頻繁に打面を転位するもの(Ⅱ類)、厚手の剥片を素材とし周縁を巡るように剥離が行われるもの(Ⅲ類)に分類することができ、この内、石の本8、曲野Ⅳ、耳切などのⅠ期の石器群では剥離技術はⅡ類、Ⅲ類が主体を占めるという(村崎2002)。こうした状況は中国地方の後期初頭にも認められるようで(藤野2003)、サヌカイト地帯を除くの西日本一帯の様相として理解できそうである。

まとめ

 ここまでやや冗長に各地の端部整形石器を有する石器群の剥離技術をみてきたが、東北地方日本海側を中心に本州島では山陰地方の日本海側まで端部整形石器の技術基盤の一つとして米ヶ森技法や米ヶ森技法というまでは規格性と量産性を持たないが石核素材の剥片の腹面側に打点を横に移動させて台形剥片を連続的に剥離する剥離技術が存在する。また北海道島にもこうした剥離技術は分布しており、台形石器や刃部磨製斧形石器が組成されていないが、端部整形石器の存在と併せて本州島の後期旧石器時代初頭の石器群と密接な関係を認めることができる。つまり北海道の後期旧石器時代初頭も本州の後期旧石器時代の初頭と年代的に大きな隔たりはないものと考えられよう。
 後期旧石器時代初頭の剥離技術は列島各地で分析されており、剥片素材の石核の腹面側に剥離作業面を設定し、長幅指数100程度の小型剥片を剥離する技術は列島各地に散見する。南関東の石器群の分析から剥片素材の石核がⅨ層前後にピークを持つことが砂田によって指摘されているが、こうした剥離技術が後期旧石器時代の前葉に卓越することは南関東だけでなく列島各地の状況として認められる。また、近年の発掘資料の増加で後期旧石器時代の最古の石器群に剥片を石核として用いる技術が各地で認められ、列島の後期旧石器文化始まりの段階でこうした剥離技術が列島の各地に既に確立していたことがわかる。
 「米ヶ森技法」はその提唱以来、米ヶ森遺跡例があまりにも組織的に大量の台形剥片を剥離する特殊な在り方だったために米ヶ森遺跡以外に類例が見いだせずにいた。近年山形県懐ノ内F遺跡でようやく米ヶ森遺跡例並みの多数の台形剥片を連続的に剥離した石核が出土したが、懐ノ内F遺跡においても米ヶ森遺跡と同様に主体は素材剥片の腹面側に数枚の台形剥片を剥離しただけの石核である。米ヶ森、懐ノ内F遺跡においても出土している石核からみれば模式図的な「米ヶ森技法」は少数派である。「米ヶ森技法」は後期旧石器時代前葉の日本海側に広がる端部整形石器の技術基盤の一つである「類米ヶ森技法」と仮称した剥離技術の特殊化したものとみなせよう。さらに「類米ヶ森技法」とここで呼んだ剥離技術は九州から本州一帯に広がる後期旧石器時代初頭の剥離技術の一つである大型剥片を石核に用い、素材剥片の腹面側に作業面を設けて目的剥片を剥離する技術が、端部整形石器の製作と結びついて本州島日本海側から北海道で多用されたものと理解できる。
 「米ヶ森技法」などで得られた台形剥片は背面側辺にポジティブ面を有する。このポジティブ面は瀬戸内技法で得られる翼状剥片の底面と同様に端部整形石器として加工が施された場合、多くの例が使用された痕跡が認められることから石器刃部として用いられている。つまり、「米ヶ森技法」などの剥離技術は平坦な作業面に対し、打点を一定間隔で一方向に移動させることによって剥離される剥片の一側辺に必ず規格的な刃部を得ることが目的といえよう。剥片の腹面と背面の一枚のポジティブ面がなす刃部を規則的に得る剥離技術は近畿・瀬戸内地方の瀬戸内技法などの有底剥片を剥離する技術に通ずるものがある。
 中国山地において水晶や黒曜石とサヌカイトでは同じ様に厚手の剥片を石核に用いながら石材によってその特性を意識してか剥離技術の使い分けが認められることや、列島における後期初頭の技術基盤の一つとして剥片素材の石核の腹面側に剥片を剥離する技術が存在することなどから瀬戸内技法に連なる有底剥片剥離技術も大阪市長原14層の石核と剥片の接合例などは「類米ヶ森技法」と共通点も認められ、「類米ヶ森技法」の成立と同様に列島に広く分布していた剥片素材の石核の腹面側に剥離作業面を設ける剥離技術がサヌカイトと結び付き有底横長剥片の連続剥離技術に特殊化したことも考えられよう。
 東北地方の端部整形石器と「米ヶ森技法」・「類米ヶ森技法」を持つ石器群は、端部整形石器の形態的特徴や剥離技術の微妙な差、石器組成など様々な在り方を示しており、資料数が多いこともあるが、他地域に較べて最も変異幅が大きくある程度の時間幅が考えられる。東北地方の後期旧石器時代前葉石器群の変遷は先にも触れたように研究者間の一致をみていない。しかし、いずれも米ヶ森型台形石器とよばれた「米ヶ森技法」によって量産された規格的な端部整形石器群を後出的に位置づけている。確かにこれらの一群は刃部磨製斧形石器を伴出しておらず、台形石器やペン先形石器、刃部磨製斧形石器を組成する一群とは一線を画すことができる。中部、関東、山陰等の端部整形石器群については、その組成などを参考にすれば、極めて類似しており、時期的にも近い位置づけが可能であろう。その場合、千葉県の御山遺跡、権現後遺跡が一つの層位的基準として現段階でも重要である。
 「米ヶ森技法」や「類米ヶ森技法」と呼べる様な端部整形石器製作のための剥離技術の分布は列島では日本海側に色濃く現れており、後期旧石器時代の古い段階から大きな区分での地域差として捉えることが可能かもしれない。その後の石器群の動きをみても硬質頁岩を用いた石刃石器群の分布、安山岩を用いた瀬戸内系石器群の東日本への広がり、削片系細石刃核の西への拡散等いずれも日本海側での動きが顕著に認められる。後期旧石器時代においては、中部地方・東北地方の日本海側、場合によっては山陰地方から東北地方の日本海側に共通の石器群の広がりが確認されており、こうした日本海側特有ともいえる広い範囲での分布圏の形成は後期旧石器時代の初頭の段階に既に存在していたといえよう。

 
注1 「刃器」という用語はかつてBladeの訳語に当てられ、二次加工がなくてもそのままtoolとして使用可能という意味で使われていたこともあり、端部に整形加工が施された台形剥片を「端部整形」という肩書きは付けるにしても「刃器」と呼称することに抵抗感を覚える。
注2 報告書の実測図では石核素材の剥片の腹面が自然面のように表示されている。確かに連続的に剥離されている台形剥片の腹面とは色調が異なっているが、剥離面であろう(図版64)。

 
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