日本海学グループ支援事業

2003年度 「『文禄・慶長の役と北陸大名-肥前名護屋陣と熊川倭城を中心に』に関する研究」(その1)


((その2)2004年度研究報告)

2003年度 日本海学研究グループ支援事業

個人 高岡徹 氏

1  はじめに-調査研究の目的-

 16世紀の末、小田原の北条氏を滅ぼし全国を統一した豊臣秀吉は、朝鮮への出兵を全国の大名に命じた。いわゆる「文禄・慶長の役」である。秀吉の本営は肥前(佐賀県)名護屋に築かれ、全国の大名も軍勢を率いて名護屋に集結した。北陸においては、加賀(石川県)の前田利家や越後(新潟県)の上杉景勝などが名護屋に赴いた。このうち、現実に朝鮮に渡海したのは、上杉景勝だけであるが、前田氏・上杉氏とも秀吉の本営である名護屋城の周辺に全国の諸大名と同様、陣屋を設け、在陣した。富山県と関わりの深い前田利家の場合は、名護屋にとどまり、徳川家康とともに秀吉の補佐役を務めた。一方、渡海した上杉景勝は朝鮮半島の南岸で拠点となる城郭の構築に従事した。
 この「文禄・慶長の役」については、すでに戦前より文献史料に基づく研究が進められ、その全体像が明らかになりつつある。また、近年では、秀吉本営の名護屋城跡をはじめ、諸大名の陣屋跡の発掘調査が進み、一部は計画的に整備され、一般にも公開されている。さらに朝鮮半島に構築された日本側の城郭(いわゆる「倭城」)についても、昭和50年代以降、倭城址研究会や城郭談話会などによる現地調査が行われている。


東から望む熊川の南山(左端の山)

 しかしながら、名護屋の場合、北陸から参陣した前田氏などの大名の陣屋については、これまで本県及び隣県でも調査研究の対象となったことはなく、見過ごされてきた観がある。また、唯一渡海し、朝鮮半島で拠点構築にあたった上杉景勝の担当した城郭(熊川倭城)についても、過去に井原今朝男氏が景勝の渡海時期を検討されたことを除けば、北陸地域における研究成果はほとんど見られない。
 私は以上の点を踏まえ、16世紀末における北陸と北部九州、さらには朝鮮半島をめぐる環日本海地域の歴史の一端を明らかにすることを目的として、「文禄・慶長の役」における北陸大名の関わり方を韓国に残された倭城跡や佐賀県名護屋の陣屋跡の実態調査と文献史料の分析などを通して明らかにしたいと考えている。
 具体的な調査研究事業は、平成15年度と16年度の2か年計画であり、15年度は文献史料の収集と韓国にある熊川倭城跡の実態調査、16年度は佐賀県名護屋の陣屋跡の実態調査と文献史料の整理・検討を行い、以上の成果を基に調査研究報告書の作成を予定している。ここでは、中間報告として平成15年度に実施した韓国・熊川倭城跡の調査の概要を報告したい。

2 熊川倭城の位置及び歴史

 熊川は朝鮮半島の南東部を占める韓国慶尚南道にあり、釜山の西方約25kmに位置する町である。ここからさらに西には鎮海という港町がある。熊川は古来、釜山と鎮海方面を結ぶ交通路の要衝であり、町を守る邑城の城壁遺構も残されている。言わば当地域の政治・経済上の中心地にあたる。
 城は海に面した南山(標高184.3m)に築かれている。山の東側には大きな入江が横たわっているが、北側にも葦の生えた低湿地が認められることから、元は東側から北側にかけて深く大きな入江が入っていたと考えられる。この入江は、倭城が存在した当時は天然の良港として使われたはずである。文禄・慶長の役の際、朝鮮半島に出兵した日本軍にとって海上からの補給こそが命の綱であり、こうした天然の良港となる入江の存在は必要不可欠であった。おそらく地形から見て、山の北麓に港湾施設が設けられ、海上からの物資が城内に搬入されたのであろう。現在、この東側入江から南側の海面一帯では「鎮海新港開発計画」に基づき、広い範囲で埋立工事が進められつつあり、近い将来、周囲の景観が一変するとみられる。


熊川邑城跡の城壁

 これまでの日本側の研究では、当倭城が日本側の手で創築されたとみなされてきたが、韓国側の地元研究者である鎮海熊川郷土文化研究会会長の黄正徳氏によると、南山には初め三つの峰があり、倭寇に備えるため朝鮮側が水軍の拠点を作る目的で山の上を平らにしたとのことである。そこへ文禄・慶長の役の侵攻があったのだという(平成15年12月23日聞き取り)。つまり、朝鮮側で城地の基盤を作ったところへ日本側の侵攻があり、そこを利用する形で倭城が作られたことになる。
 文禄元年(1592)4月、朝鮮半島へ侵攻した日本軍はまたたくまに北部へ侵攻したが、戦況の悪化に伴い、翌文禄2年には漢城(ソウル)の維持も危機的な状況に陥った。こうしたなか、2月から3月にかけて李舜臣の率いる朝鮮水軍が「熊浦」(熊川)を襲っているが、この時、湾口の東西にそびえる山の麓には日本側の防御施設のあったことが朝鮮側に記録されている(『壬辰状草』)。このうち、西側の山にあたるのが南山とみられ、この頃より日本側が熊川を補給基地などとして拠点化していたことがうかがえる。
 熊川での倭城の本格的築城は、この年の4月12日付けで豊臣秀吉が命じた方針に基づくものと考えられる。これは日本側が漢城から半島南岸への撤退へと追い込まれつつあるなかで発せられたものである。具体的な指示としては「一、釜山浦、こもかい浦手ニ付て、城々廿計も拵能候ハン哉......」 (『大日本古文書 毛利家文書』) とある。「こもかい」は熊川の日本側表記である。すなわち、釜山・熊川の海岸地帯に20か所ほどの城を築くよう命じ、あわせて城内に鉄砲・玉薬・味噌・塩などの蔵を建て、それらの物資を貯蔵しておくこと、また兵糧蔵についても、1城につき1万石ほどの貯蔵を命じている。
 さて、秀吉の指示に基づき、すでに肥前名護屋に在陣していた越後の上杉景勝に熊川での築城が命ぜられた。5千人の軍勢を率いた景勝が玄界灘を越え、熊川の地に到着したのは、同年6月21日のことである(『上杉家御年譜』)。こののち、上杉勢は現地での築城工事に従事するが、現在、南山に残る大規模な城郭遺構から見て、上杉勢が単独で工事を行ったとは考え難い。おそらくは上杉勢の帰国後に城を守ることになった小西行長などを含め、複数の大名による工事と考えるのが自然であろう。
 築城工事は8月中に完了したとみられ、景勝自身は9月8日に名護屋に帰陣している。
 上杉勢の帰国後、完成した熊川倭城を引き継ぎ、在番の任にあたったのは、小西行長である。城の完成後まもなくキリスト教の宣教師グレゴリオ・デ・セスペデスが行長に招かれ、従軍中の日本人キリシタンの宗務を司るため、熊川を訪れている。明の使者との講和交渉もこの城で行われ、文禄4年11月にはいったん成立した講和に基づき、日本側がこの城から撤退している(『宣祖実録』)。


南山中腹の登り口

 しかし、講和はまもなく破れ、慶長2年正月、再び戦端が開かれた。これに伴い、日本側がまた兵を熊川倭城に入れたが、小西行長はさらに西方の順天倭城を守ることになり、この城の重要性は薄れていったと考えられる。翌年8月秀吉が死去すると、日本軍の全面的な撤退が開始され、熊川の倭城も同年中には守備兵が撤退し、廃城になったと考えられる。このように文禄2年(1593)の本格的築城後、慶長3年(1598)の最終的な撤退まで熊川倭城では本格的な戦闘が行われておらず、日本軍の撤退によりその役割を終えたものとみなされる。

3 熊川倭城の縄張

 熊川倭城は一つの山全体を総石垣で城郭化しているが、その内部は次の三つの地区から構成されている。
・Ⅰ地区  天守台のある主郭を中心とした山上部の郭群
・Ⅱ地区  北側の山麓部に設けられた郭群
・Ⅲ地区  Ⅰ地区とⅡ地区をつなぐために設けられた山腹部の塁線と郭群
 次にこれらを順次見ていきたい。

〔Ⅰ地区〕(山上部)

 当倭城の中枢部とも言える地区である。その中心部は何と言っても、天守台を備えた主郭(縄張図上のA郭、本丸に相当)である。同郭は山上部の最高所である南西部を占め、四周を上面幅が3m程度の石塁で囲まれている。こうした規模の石塁は当地区のA・B・C・D(ただし、東面を除く)・E郭の周囲にもめぐらされており、その上部は外側に面して塀を設け、内側は守備兵が配置につく武者走りとして使われていたと考えられる。石塁の内側には、郭内から石塁上に登る石段が間隔をおいて残されている。石塁が存在する郭は、山上部のほぼ南面を占めており、山腹部の防備が比較的うすい海側を重点的に守ろうとした意図がうかがえる。
 さらに南面の石塁には途中に櫓台の張出部や屈折部を設け、側射(横矢)のための配慮が認められる。この内、天守台から14m東にある櫓台は両側の塁線から3m外側に張り出している。また、天守台の5m北に付随する櫓台(上面9×4m)も北側の塁線から大きく張り出しており、側射を意図した構造となっている。
 さて、郭の南西隅に位置する天守台は、上部の広さが17.5(北辺)×17m(東辺)で、朝鮮半島に残る倭城のなかでは最大の規模を有する。天守台から見渡す南方の海上一帯の眺望はすばらしく、天守閣が存在した当時は、海上を航行する船舶からもひときわ目立つ威容を誇っていたとみられる。このことは、当城が半島南岸の海上交通路の掌握と制海権の確保を目的として築かれたことを示すものである。
 ところで、天守台の東南角からは石塁のラインが空堀を伴って南南西に下っている。このように斜面を下る石塁を「登り石垣」、また空堀を「竪堀」とも呼んでいる。天守台の東南角から石塁と空堀がセットになって下る防御ラインは、山上部南側の山腹部を守る外郭線となっている。同様の防御ラインは、他に①G郭北西角の櫓台から北北西に向けて下るもの、②D郭の南東角から南東に向けて下るもの――の2本があるが、①は山上部北側の山腹部、②は山上部東側の山腹部を守るものである。


天守台(右)と南側へ下る石塁

 注目されるのは、天守台がこの外郭線に面することであり、すでに先学も指摘するように、倭城では天守閣自体が外郭線に面して建てられる場合があることを如実に示している。つまり、倭城の場合、天守閣はまさに防御戦闘の施設としても存在したのである。このことは、朝鮮半島での城の攻防戦が日本国内とは様相を異にするものであったことを示している。
 山上部に位置する郭群はこの天守台を有する主郭を中心に計8か所の郭からなり、中央部北側のE郭から食違いなど屈折を多用した計3か所の虎口(出入口)を経て主郭に入るルートが設定されている。郭群全体が総石垣で構築され、主郭など重要な郭は分厚い石塁によって外周を防御している。さらに塁線に設けられた折れや張出櫓台などによって死角をなくす工夫が見られ、濃密な防御を施した縄張となっている。こうした縄張は、戦国時代の日本国内の攻防戦によって発達をとげた築城技術の上に、当然のことながら朝鮮半島での戦闘の教訓が活かされたものとみなすことができる。

〔Ⅱ地区〕(山麓部)

 熊川湾から大きく北に入った入江が南山の北麓で西側の内陸部へ回り込むことになる、ちょうど角にあたる所に人家の集まった場所がある。その小集落を見下ろすように、真裏の山側の斜面を削って階段状にした平坦面がいくつも見出される。大部分は現在畑として使われており、新しく作られた平坦面もあるが、随所に古い倭城時代とみられる石垣の一部が残されており、この付近一帯に郭群が存在したことを示している。


背後から見下ろす居館跡の内部と入江

 この山麓部は入江に面して港湾施設の存在が推測される場所であり、その入江のそばに位置するこれらの郭群は、海上交通に直結した立地から考えて、熊川倭城の日常的な居住地区として捉えることができる。今回の調査では、これらの平坦面の内、最も規模が大きく、方形プランを有する中心的な遺構(L郭)を調査することとした。この郭は位置や規模からみて、城主の居館にあたる施設と考えられる。
 L郭は前記の小集落から約10mぐらいの高さにあり、斜面を削平して85×30mの広い平坦面を設けている。この北面(入江側)は高くそびえる切岸(人工の急斜面)となり、北西の隅角部から北面の一部にかけて石垣が見出される。この北面の高い切岸は入江側から見てもひときわ目につくものであり、城主居館としての風格を感じさせる。
 なお、この山麓地区の当時の実態を伝える史料として、前記の宣教師セスペデスの書簡の一部を掲げる(フロイス『日本史』豊臣秀吉篇Ⅱ 松田毅一・川崎桃太訳)。ちなみに、セスペデスの熊川上陸は文禄2年11月5日のことである。

 城の麓に、すべての高級の武士、アゴスチイノ(小西行長)とその幕僚、ならびに連合軍の兵士らが陣取っています。彼らは皆、よく建てられた広い家屋に住んでおり、武将の家屋は石垣で囲まれております。
 ( 中   略 )
 彼(小西行長)は私が朝鮮に来たことを喜び、彼の幕僚が家屋や宿舎を設けている城の下方に私がいると、多くの城塞から日本の異教徒が大勢そこへアゴスチイノを訪ねて出入りするから好ましくないと言って、私は城の高いところでビセンテ兵右衛門殿といっしょに住むように取り決め、そこへキリシタンが私を訪ねて行って告白するようにと命じました。
 ( 中   略 )
 この熊浦城にはアゴスチイノといっしょに、有馬、大村、五島、平戸、天草、栖本の諸侯ら、彼のすべての同盟軍とその幕僚がおり、いずれも海に沿ったところに居を構えています。

 この書簡の内容から、当時、南山の麓(すなわち、このⅡ地区)には、城主である小西行長とその重臣の部将らが石垣で囲まれた広い家屋に住んでいたことがわかる。ここに記された居館の構造がL郭の遺構の構造に一致する点は注目される。また、行長の軍団を構成していたとみられる有馬・大村・五島・松浦などの九州の諸将らもこの山麓部に居館を構えていたことがわかる。おそらくL郭周辺に残る他の郭跡がそれにあたるのであろう。
 書簡によると、セスペデスは初めこの山麓部の居館に滞在していたが、あとで行長の指示により山上部に居住することになり、途中の登り道が急坂のため、麓の施設との往復に苦労している。この様子は現在でも変わらず、セスペデスの書簡の内容が正確であることを示している。

〔Ⅲ地区〕(山腹部)

 戦国時代、日本国内に見られる山城の代表的な形態は、織田信長の岐阜城のように山上部に要害となる城郭を築き、麓に日常居住する居館を設ける形である。熊川の場合も基本的にはこの形態を踏襲しており、山上部のⅠ地区が中心となる要害部分、山麓部のⅡ地区が日常的に居住する居館部分とみなせる。
 日本国内では、戦闘のみを目的とした臨時の城砦はともかく、領主の本拠地となる山城の場合、184mもの標高を有する山であれば、こうした配置(要害と居館の分離)は一般的である。ただし、この配置では、いったん城が攻められると、防御の弱い麓の居館が真っ先に攻撃を受け、陥落するケースがほとんどである。そして城を守る側でも、当然のようにそうした事態を予想し、初めから居館部分を放棄する覚悟を持っているのが普通である。


天守台から南側へ下る石塁のライン

 ところが、ここ熊川ではそうした旧来の防衛方式が根本的に否定されている。端的に言えば、山上部の要害と麓にある居館・港湾施設を分離することなく、防御線で連結して一体的に守ろうとする意図が見られるのである。これは朝鮮半島の拠点を海上からの補給によってあくまでも確保しようとする強固な意志の表れであろう。それをはっきり示すのが、山上部から麓に向けて下る石塁のラインである。この石塁は外側に空堀を伴うものであり、途中には張出櫓台や折れを設けて側射が考慮されている。184mもの高さの山上部から麓まで直線的に下る、この一大防御ラインこそ、熊川倭城の大きな特徴である。


4 おわりに

 今回の調査を通して、朝鮮半島に築かれた熊川倭城が山上部に設けられた郭群と山麓部に設けられた居館部、さらに両者をつなぐ山腹部から構成されていたことが確認できた。大きな特徴となるのは、山腹部に築かれた石塁と空堀からなる防御線であり、同時期の日本国内では例を見ないものとなっている。これは朝鮮半島における戦闘の教訓から生まれた必然的な縄張であったと考えられる。半島南岸には約30か所の倭城跡が存在するが、熊川倭城はそれらの中でも、高く大きな山全体を城域化している点で特筆されるものである。
 今後の課題は、こうした特異な縄張による築城工事を経験した上杉氏が、帰国後、その経験をどう活かしたか、あるいはどのような影響を受けたかを考えることであろう。

朝鮮半島南岸の主要倭城

熊川倭城とその周辺

熊川倭城 山上部縄張図