日本海学グループ支援事業

2004年度 「環日本海地域(4カ国)の小学校授業研究会を通した共生社会の模索」


2004年度 日本海学研究グループ支援事業

環日本海域小学校授業研究会
代表 富山大学教育学部附属小学
  校長 雨宮洋司

中国・大連海事大学付属学校との
授業研究交流会報告


  参考2003年度;韓国2005年度;ロシア

第一回 平成16年12月1日(水)~12月 4日(土)
第二回 平成17年3月19日(土)~ 3月23日(水)

1. 研究目的と実施事業の概要

 富山空港からわずか2時間半程度の航空時間距離である大連、ソウル、ウラジオストクには様々な大学があり、附属学校も存在している。本研究は環日本海域に住む人々の共生社会づくりのために、その地の小学校教育が果たすべき役割とその実践的な方法論を模索することにある。その目的を達するために、当該地域の附属小学校の教員が相互に学校訪問をして授業を行い、より良い授業方法を模索しながら、異文化のなかで通用する環日本海域での子どものための共通的教育論を展開するための「信頼関係」の素地を構築することに力点を置いている。これが本研究で行っているところの"国際交流"の意義になる。

 昨年度は韓国にあるキョンヒ大学併設初等学校との交流を行って一定の成果をあげることができ、今年度は新たに中国大連海事大学付属学校との交流を実施して、本報告書で述べるような成果をあげることができた。

 今年度の授業交流会は次のとおり行われた。第一回目は平成16年12月1日~4日に、当該附属学校で図画工作を担当している丁 勇 先生と管理職の副校長である劉 華 先生を招いて、富山大学教育学部附属小学校の教室で子どもたちに授業行ってもらうとともに、授業終了後、両国が当面している子どもの教育問題について意見交換を行った。その際、県内の公立小学校の先生方にも参加していただけるように配慮をした。第二回目の交流は平成17年3月19日~23日に、こちらの音楽担当教員である平井久美子、管理職の副校長 瀬戸 健 及び校長の雨宮洋司の各氏が中国・大連へ出向いて、授業と教育懇談会を実施した。これにあわせて、高橋 純 富山大学教員も今後のITを利用したTVによる交流準備に参加し、各訪問員とともに、大連海事大学及び遼寧師範大学も訪問し、教育交流の推進について意見交換を行った。

 互いの小学校教員が互いの国の教室に出向いて、異なる文化をもった中国の子どもたちに、初めての授業を展開することになった。教室では授業を行う日本人音楽教師に対して、子どもが、身体的表情による正直な反応及び日本語とは異なる言語で意思表現をするわけで、授業者にとっては実に厳しい評価にさらされるといっても過言ではない。そのような現状を目の前にして、相手方教員との意見交換会では、子どもに視点を置いたありのままで飾ることのない、教育論議が展開される傾向になる。それは真の相互理解がすすむ契機となって、そこには今後の環日本海域の共生社会づくりのキーポイントが存在していると感じられた。

2.相互理解と信頼関係の構築法

 今年度、相互訪問の授業研究会が実現した背景には双方に信頼関係の構築が事前に醸成されつつあったことを強調しておきたい。中国や韓国さらにはロシアと日本の関係では常に歴史問題が取りざたされ、そこでの相互理解と信頼関係の構築には大変困難な側面があることは否定できない。まして、両国の義務教育という聖域に先生という公的使命を持つ職業人を入れて、他国の子どもに授業という教育指導をしてもらうということは、その教育論はともかく政治的社会的なハードルが見え隠れしていることは否定できない。そこで、本研究における一連の環日本海域小学校授業交流の実施において採用した方法は、まず、第一に、こちら側が率先して、実施する内容を具体的に詳らかにしたうえ、日本で行う第一回目の交流実践費用は全額こちら側が負担するという提案であり、交流実践内容も図画工作または音楽といった言葉の壁の少ない(それは同時に歴史問題をクリヤーする)教科にしたことである。第二は、交流話題の中心が当該授業である以上、日々、教室で子どもと接している職業人としての教員にとっては、未来を背負う小学校児童の教育の大切さについては共通の認識が可能であるに違いない、という仮説を立て、授業者の視点に立った教育懇談会を管理職も入って議論をするという提案を行った。実施の3ヶ月前に行ったこの提案にたいして、承諾の返事があったのは1ヶ月前で、相手学校では、かなりの時間、検討していたことが交換文書にもにじみ出ている。その間、1990年代の初めから、富山大学教育学部の雨宮研究室では語学研修や異文化研修で、これら環日本海域の大学間で学生交流を行っており、そのひとつである大連海事大学の酷使交流学院自体からも、小学校間交流に関しては側面的支援(富山大学は信頼に足る学校であることなど)がなされたことは言うまでもない。とくに、通信手段の整備や国際交流のノウハウは附属学校よりも本体の大学の方が長けていることから、国際交流における信頼関係の構築には大学との連携が欠かせない事柄である事があらためて確認された。第三に、実施されたこの授業研究交流会が、万一、中国から来た授業者や副校長にとってあまり価値のあるものではないという結論に至った場合は、こちらの先生が訪問しての中国での第2回目の授業研究会は取りやめる事も止むを得ないとし、その判断はあくまでも先方に委ねた。結果的に、来日した授業者と管理職の先生方に、この授業研究会は大変に評価されたため、中国・大連海事大学附属学校での日本人教師による授業実践および日中教育座談会が実現の運びとなったのである。そのうえ、今後とも、このような交流を続けるために、友好交流協定書の締結も急ピッチで行われ、両校がそれぞれの地域で、小学校における文化交流についての情報発信をになうことも確認された。ただし、双方がこの交流に細かな配慮していたことにも触れておこう。中国の先生方を招待しての授業研究会の席上で、現在使用している教科書を互いに交換しようということになったが、送付されてきた教科書のなかには社会科や歴史の教科書は除かれており、こちらもそれを除いて送付することになったが、その件については双方とも、なぜそれが省かれたのかについて説明を求めることは避けるという礼儀を持ち合わせていた。

 環日本海域における国際理解教育展開の前提条件でありその目標でもある、相互理解と信頼関係は、双方が一致できる点を先行させ、このようなかたちで"互恵・平等"の精神を教育の現場で具現化する方法で進展させていったことについては今後とも留意しておくべきことであろう。

3.中国の先生による授業と教育懇談会

(1)丁 勇 先生による「剪紙(きりがみ)」授業

 中国の小学校で図工を担当している丁 勇先生が附属小学校で実施した授業の様子を描写してみよう。 

 図工室に、5年2組の子どもたち全員が勢揃いし、前方の中央に、丁勇先生が笑顔で子どもたちに向き合う形で立ち、その横の窓側の所に、鋭い目をした劉華(リュウファ)先生が立っている。その中間の位置に、担任の阿久津先生が全体の動きを見守っている。やがて子供達が静かに立ち上がるとともに、女子児童の弾くオルガンの伴奏で、きれいな歌声が鳴り響いた。"ハオー♪ イートラオジ♪ メイ・リーテイモ♪♪♪・・・・・・"いつの間に練習したのであろうか、中国語の歌である。いつも合唱で鍛えているだけあって見学している人達の心を打つ、何かしらジーンとしてくるもの静かな唄声で、通訳の中国人も、"あのときは感激して涙が出てしまった。まさか、このような中国の歌がこんなきれいな子供達の合唱で聞くことが出来るなんて夢のようであった"と述べていた。中国からの先生方も同じ思いであったためか、遠慮がちな丁先生が授業の終了間際に、突然大きな声で"すいませんが、もう一度、皆さんの素晴らしい唄声を聞かせていただけないでしょうか?"と注文を出したぐらいである。その歌の題名は"まつり華"という名で、内容は"風に揺れている♪♪ まつり華♪♪ 枝に一杯♪♪・・・・"が歌詞の一部であった。それを指導してきた担任の先生のもてなしの心が見事に通じた一瞬であり、このような展開は異文化交流にはなくてはならない潤滑油であることが分かる。

 丁先生は授業の開始を宣言して、持参した袋から真っ赤な色の細長い袋を子どもたちに配り始めた。"コレハ ミナサンヘノ ワタシカラノ プレゼント デス"言い終わらないうちに子どもたちは袋の中を覗いた。その中には、袋と同じ真っ赤な色をした紙が入っており、所々に穴が空いて、その周りも様々な形に切られている。子どもが袋から取り出したモノを見ると、それは色紙をハサミで切って作った精巧な紙細工品であった。子どもたちはめいめいそれを手に持って"これは海老みたいだ""ヒラメだ?""にわとりだ""像だ""ライオンだ"等々と騒ぎ始めた。

 "これは先生が皆さん一人一人に別々のものを差し上げるために、紙を切って作ってきたものです"と言いながら、パソコンの操作を始めた。画面には中国の民間芸術である各種の「剪紙」の作品が映し出された。その画面を見ながら丁先生は説明を加える。"このほっそりとしたソフトな作品は中国の南の地方で作るもので、大連など東北部では線が太くなります""この剪紙細工は農村から来たもので、出来上がったものはガラスに貼り付けて、お祭りやお誕生日のお祝いを盛り上げるのに一役買います。今日は皆さんに、このような作品をハサミと色紙を使って作ってもらいます!!"と言い終わらないうちに、丁先生は1枚の色紙をみんなが見えるように、高く掲げて、まず△の形を作り、さらにそれを△に折った。そして、おもむろに右手でハサミを取り出し、その紙をゆっくりと切り始めた。要領は"紙を切り落とさないで、出来るだけ長く切っていくこと、時々、曲線を作るように切ること、所々に穴を開けるように切ってみること"などと要領を手際よく説明しながら、先生はまるで手品師のように、器用に手を動かしている。その間、わずか1分程度。先生はハサミを置き、色紙を広げた。何とそこには、ラーメンどんぶりの周りに描かれている卍モノに似た模様がちりばめられた作品が出来上がっているではないか。まさに手先の芸術を目の当たりにした感じだ。そして先生はそれに糊を付けて、窓ガラスにぺたんと貼り付けた。太陽の光線を通して見るその作品は見る角度によって、色々な雰囲気を醸し出すから不思議だ。"さー作りましょう"と先生の声。"無理だー""難しいよ"と、即座にあちこちから子供の声がする。時計を見ると、授業はあと20分しかない。子どもたちを見ると、先生と同じように、折り紙を三角形に二回折って、ハサミで切り始めようとするが、すぐに切るのを躊躇してしまう。どうやら、失敗を恐れているみたいだ。ひょっとすると、何も出来ないままこの授業は終わってしまうかも知れない、と周りで見ている誰しもが、そう思ってくるような雰囲気が教室に漂った。

 "どんどんやって見ようよ!!"担任の阿久津先生の大きな声が聞こえ、丁先生が近くの子を指導し始めた。劉副校長先生はもちろん、通訳の人もみるに見かねて、子供にアドバイスを始め、だれが先生なのか分からなくなる。どうやら同郷の人を助ける心情と中国の伝統芸術を少しでも日本の子どもたちに味合わせたいといったナショナリズムが中国人同士に共鳴し合っているようだ。

 "コレヲ ミテクダサイ タイヘンスバラシイ モノガ デキアガリマシタ"突然、丁先生が1人の子の作品を高く掲げて他の子どもたちに見せた。何と、先ほどパソコンの画面で見た難しそうな作品にそっくりなモノが出来上がっているではないか。それに刺激されたのか、子どもたちはリズミカルにハサミを使い始めた。中には、色紙の上に見事な線画を描いてから、それにはさみを入れる子も出てくる。こうなると急ピッチで色々な作品が生まれてくる。出来上がった作品は子どもたちの手で次々と窓に貼られていく。時々、丁先生による切り方のアドバイスが飛ぶ。それにしたがって切ってみると、思いもかけない作品に仕上がり、剪紙細工の奥の深さについて、私達に強烈な印象をあらためて与えることになった。

 授業開始から、ちょうど45分が経過した。子どもたちの"もっともっとしたいなー"と言う声を聞きながら、見事に中国の民間芸術「剪紙」の授業は終了したのであった。最後に再び中国語で唄われた哀愁を帯びた「まつり華」は、窓に貼られた切り絵がもたらす雰囲気のせいもあって、深い感銘を与えた丁先生の授業に対して惜しみのない拍手がわき上がった。

 以上が授業の様子であるが、次第に子どもたちが授業に引き込まれていく様子が手にとるように分かる。良い授業はどこでも子どもたちをひきつけるに十分なものがあるようだ。

(2)中国における現代教育問題(劉 華)

 ここに掲載するのは丁勇先生の授業終了後に行われた日中教育座談会で、劉華副校長先生が話題提供のために提出した中国における当面する教育問題のレポート「新課程に対する教師の役目の変化」である。少し翻訳がよくないところもあるが、抱えている問題は日 本のそれと類似していることが知れよう。

 A.伝授を重視することから発展させることへ転換すること
 伝統的な教学では知識の伝授は"結果"を重視し、"人"の発展を軽視する傾向があります。新課程の改革は教師が人間を基本として、人間の主体的精神に呼びかけることを要求しています。したがって教学のポイントは知識の伝授を重視することから、生徒を発展させることに転換することです。

 皆さんご存知のように生徒は注ぎ込みを待っている瓶ではないし、しかも無生命の物ではありません。イキイキとした思想があり、自主能力がある人間です。生徒は教学の過程で知識を身に付けることを学習し、同時に情操の陶治、知力の開発と能力の養成を習得します。良好な個性と健全な人格を形成します。教学の過程は生徒が知識を身に付ける過程であり、しかも心身、潜在能力を発展させる過程です。

 21世紀を迎えましたが、市場経済の発展と科学技術の競争により、教育に新たな挑戦も既に出てきました。教育はもうただ一枚の学歴を追求することではなく、人間の潜在能力を充分に発揮させ、人間の個性を自由、調和的に発展させることです。教育はもうだだ就職の需要のためではなく、学習者の一生について回ります。20世紀の学校の教育がたどった歴史を振り返ると、大体このような発展軌跡が見えます:知識本位――知力本位――人間本位。現代の教学は生徒の知力を含めての全体の個性と全体素質のアップに努力しなければなりません。

 B.統一的な規格教育から多様性のある教育に転換する
 生徒を全面的に発展させることには各生徒の各方面で皆統一された規格により平均な発展をさせることではありません。一律に、統一規格、統一要求――これは現代教育の中に存在している際立った問題です。授業の準備は同じモデルで、授業は同じ方法で、テストは同じ尺度で、評価は同じ基準です――これは"千婆百態"、"風格各具"の生徒を同じモデルの人間に"育てます"。明らかに分かるように一律の統一的規格の教育は生徒の実際に間に合わないし、また人材の育成にもよくありません。現在授業の中に現れている問題及び教学品質の低下は一律に、統一的要求と関係があります。

 ある人は『黄砂が海の如くあるが、絶対同じ砂はない』、『線集が雪の如くあるが、完全に同じな集がない』と言われました。そうすると、私たちは人間がまったく同じ生徒は居ませんし、すべての生徒に合った教育方法をも見つけることができません。したがって私達は生徒の差異を研究する必要があり、"因材施教"(人によって教える不同)の科学的根拠を求める必要があります。

 C.教師の"教え"を重視することから生徒の"学"へ転換する
 一体どうやって授業をすべきでしょうか?伝統的な授業は教師が生徒を引っ張っていく、生徒が教師を囲んでいると主張しましたが、これは"教"を元にして"学"を決め、生徒が教師に適応させるのです。長い間生徒が受身の学習に慣れて、学習の主体性もだんだん失っていくようになりました。言うまでもなくこのような教師の"教え"が中心とした授業は生徒が受身の状態になり、生徒の潜在能力、心身の開発に不利になります。例えば:良く見られることで、国語の講読の授業には教師の説明、分析が多過ぎます。このような情況を生じる原因:教師は相変わらず自らを授業の中心として、生徒が本文を理解できないかなと心配し、そうすると任せる状態のようになります。

 新課程の提案――教えは生徒の学習のため、授業の評価の注目点も生律の学習状況を主にします。葉 聖陶教師(中国で有名な教育家)が言ったように"もっとも大事なことは生徒を見る、教師の授業だけではない"。

 D.結果を重視することから過程を重視することに転換する
 "結果を重視し、過程を軽視する"ことも伝統的な教室授業での明らかな問題で、しかも授業の弊害です。結果を重視するというのは教師が授業中にただ知薇の結論、授業の結果を重視し、知識の経緯を軽視し、知らずのうちに生徒に新知識学習の思考過程を圧縮させ、ポイントが生徒に標準答案を暗記させることになります。過程を重視するというのは教師の授業のポイントは過程を示す、知識の形成規律に置くこと、生徒に感知――概括――応用の思考過程を通じて末理を発見させ、規律を身に付けさせることです。このような過程の中で、生徒が知識も身に付け、能力を発展させます。過程の授業の重視には教師が授業の設計で知識の発展の過程を示し、思考の過程を明るみに出すことを要求されています。生徒に授業中に思考の訓練をさせ、知識、能力を増やさせます。

 ご存知のように過程と結果は同様に大事なことで、そうではなければ過程がない結果は、"無源之水"、"無限の木"になります。もしも生徒が自らの学習の知識の概念、原理、定理と規律の過程を理解しなければ、自らの学習才能の開発の能力が育成されず,、ただ必死の暗記と機械的当て嵌め学習があるだけです。

 ご存知のように、生徒の学習はよくこのような認識過程で"(具体的)感知―(抽象)概括―(実際)応用"を経験します。この認識過程には二つの飛躍があり、一回目は"感知→概括"で、即ち:生徒の認識活動は具体的な感知の上に抽象的な概括を通じて、知職の結論を得ます。二回目の飛躍は"概括→応用"で、これは身につけている知識結論を実際過程に応用するのです。明らかに生徒は学習の過程に本当にこの二回の飛躍を実現してこそ、授業の目的が実現できます。

 そうすると、過程を軽視することは出来ません。学生の思考過程を圧縮させ、省略させ、直接に彼らに結論を出させ或いは他人の答案をカンニングすることは本末転倒で学習に有害です。有る教師は授業中、生徒の知識の発展過程を軽視し、感知→概括の過程を弱め、急いで自分の結論を出し、結局生徒に生半可な、分かるような、分からないような、感知と概括の間に思考の段差を生じます。それ以外に、生徒が"概括→応用"の基本的なところにも繰り返し順序を追っての思考訓練が必要です。しかしある教師は概括された結論をすぐ応用し、生徒に始めから変式題をさせ、重大な"消化不良"を起こし、生徒の負担を重くさせます。明らかに''急いては事を仕損じる"のようなやりかたは授業の質を保証できないし、更に生徒の学習才能を発展できるわけがありません。

 E.一方的な情報交流から総合的な情報交流に転換する
 情報論でいえば教室の授業では教師と生徒が共同で情報を伝達する過程です。教師が使用する授業の方法により、以下のような4種類の情報交流方式があります。

1.教え方を主としての一方の情報交流方式で、教師が実施する方で生徒が受け入れる方法です。
2.話し方を主としての双方の交流方式、教師が質問するほうで、生徒が回答する方です。
3.議論を主とした三方交流の方式で、教師と生徒の間に互いに回答します。
4.研究、ディスカッションを主としての総合的な交流方式で、共同で研究、実験します。

 最も優れた授業の過程はきっと情報量の流れがベストの過程です。明らかに3.4.のような授業方法で形成された情報交流方式はベストです。特に4.のような多種の交流方式はベストです。この方法は生徒の自らのフィードバック、生徒たちの情報交流、生徒と教師間の情報のフィードバック、交流をタイムリーに繋げて、多層、多構造、多方他の立体的な情報交流ネットワークになります。
 このような授業方式は生徒が合作の学習を通じて互いに啓発でき、助けあいます。異なった知力レベル、認識構造、思考方式、認知の特徴を持った生徒たちの間では"互いに補充"するかたちになり、共同で水準アップとなります。この方式はまた生徒の間の横方向の交流及び生徒と教師の縦方向の交流をも強化し、両方を繋げ、情報の交流は縦横交互で立体の構造になります。これはベストの情報を伝達する方式で、生徒の思考は学習中にずっと積極的、活躍的、主体的状態になり、教室の授業では生徒が立体的な活動の展開と整合する過程になります。

 F.見晴しが利く指導法から平等な打ち解け法へ転換すること
 伝統的な授業には教師が生徒に"我が教え、君が学""わが講、君が聞く"の状態にさせ、生徒が完全に教師の言いなり、教師の教え込みになり、教師は見晴しが利き有利な立場になり、生徒との間は明らかに不平等の関係になっています。

 現代の教育研究では、生徒の学習は二つの心理過程からなっているといわれます。1つは感覚―思考―知識、知恵(知識技能の運用を含む)であり、もう1つは感じ―意欲―意志、性格(行為を含む)です。前者は一種の認知過程であり、知力の活動です。後者は感情の過程であり、非知力の活動です。両者は密接な関係であって、分離することはできません。1方が足りなかったら、本当の合理的な学習にはなりません。但し伝統的な教育理論はただ認知の過程を重視し、感情の過程を軽視し、非知力の因子が生徒の学習過程中の巨大な作用を放棄しました。これも今生徒は勉強に飽き、教室での授業の効率が低下した重要な原因です。

 授業の過程で最も活躍するのは教師と生徒の関係であり、教師と生徒はみんな感情があり、思考がある授業の統一体になります。授業中では教師は充分に生徒の人権を尊重するべきです。同時生徒も教師の仕事を尊重しなければなりません。お互いに授業中に感情が溶け合いであり、雰囲気が朗らかであってこそ教師と生徒の感情が共鳴し、新たな平等な融和的な関係になります。

 G.授業のモデル化から授業の個性化に転換する
 何十年、何千時間数えても、何代の人間を送り出しても、自分のやり方はどのような授業モデルだろうか?授業の特徴は何でしょうか?ということを考えると、本当にはっきりとしたことが言えないです。これは私達の一部教師も経験することです。現代の授業では教師たちが特徴のある意識を樹立すること、個性化された授業をすることが要求されています。

 授業方法のなかで、一番懸念されることは単一化、モデル化、公式化です。一体どうやって自らの個性化の授業が形成できますか?これは教師たちが古いしきたりにとらわれない、改革、積み重ね、総括、向上することを要求されています。授業は一種の創造活動です。この問題を明確に認識しないと、正確に教師の授業に個性の特徴が有るかどうか?新時代に即した素質教育の要求を一致するかどうか?知恵、創造性がある一代の新人を育てるかどうかについて分析、判断はできません。

 教師の授業の創造性はまず教材をどのように処哩するかということです。教材はいつも知識を決めた形で生徒に提示していますが、生徒が見ることができたのは思考の結果(教学結論であり、思考の活動過程は見えません。創造性のある教師としては、教科書の知識をイキイキとさせるべきです。監督による脚本の処理は一種の再創造です。したがって教師は教材と参考書のレコードではありません。生徒の心理特徴と自らの知識に対して教材に科学の分析と芸術の処理を行わなければなりません。だから授業の筋道を操作できます。これは教学の再創造の過程です。重要なことは"教材を使って教え、教材を教えることではありません"。

 次に、授業の創造性はまた編成と優化教授法に現れます。各種の教授法は各利益と弊害があり、如何に授業に応用すべきだろうか?これは教師が教材を充分に理解した上、教授法の立案、設計と加工を行い、組織形式のモデル化を避けます。授業中の過程は教師はよい組織者、引率者になり、生徒に積極的、主体的教材を利用して自らの学習に役立つよう助けます。 又、授業の創造性は教師が個性的な授業風格に現れています。授業は一般の芸術であり、授業風格は授業芸術の創造性の表現です。教師は授業中には、ただ一般の教学規律に従わないで、自分の実際と生徒の具体的状況により突き込んで、新な創造をしなければなりません。

(3)劉華先生による日本の小学校教育についての感想
       (劉 華)

 中国へ帰国後、劉華副校長先生が感じとった日本の小学校と子どもたちについての感想を「人格、個性と平等」というタイトルで綴って、送付してくれたのが以下に記した文章である。この交流から学び取ったことも多くあったことが行間からも読み取ることができる。双方に利点が存在するということが交流の継続を意味することから、この交流は有意義なものであったと思われる。翻訳に少し分かりにくいところがあるが、原文のまま掲載する。

 3日間の教育交流は時間的に短いものでしたが、収穫がとても大きいものでした。日本滞在期間に、私達は富山大学附属小学校及び富山大学附属中学校、幼稚園、養護学校を視察し、見学させて頂きました。日本の先生方の授業を見学させていただき、富山県の教育行政官、校長先生、先生及び生徒たちと接触し、交流させていただきました。今回の観察、見学はただ表面的な面もありますが、何といっても(結局)臨場感があっで、身をもって日本の教育のいろいろな側面を感じました。まずいくつかの感じたことを述べさせていただきます。

A. 学校へ入って
  "清掃員"――生徒毎 日本の学校へ入るときに靴を履き替える必要があり、学校の清潔さに私達は感服させられました。ひとつも抜けたところがないと言えます。始めに学校はどれぐらい掃除人を雇っているかなと思いました。昼食後"掃除大軍"が現れました。なるほど全ての掃除は生徒が担当しています。各生徒が自覚的に参加しています。一年の生徒は床につまずきながら行ったり来たりして拭いていました。

  "食事勤務兵"――皆のご飯を分ける 日本の五年生の教室で一緒に昼食を頂きました。昼食を取る前に生徒が上手に机、椅子の位置を調整して、服を替えました。七、八人の生徒が忙しそうにしていた。先生と話して、やっと分かりました。今日彼らの当番です。即ち:"食事勤務兵"です。彼らは作業の内容をよく理解しています。食器を分け、ご飯を入れ、おかずを入れ、それぞれの担当者を決め、動作がきびきびし、互いに配膳をよく行っていました。昼食の後各生徒は慣れているようで食器を戻して、当番の生徒はお椀、お盆、食器などを厨房に持っていきました。

 以上の小さな場面で、富山大学附属学校のリーダの先生は非常に生徒の労働習慣の養成に気をつけています。生徒に小さい時から労働の価値を認識させています。これは人格教育には有効な方法です。

 真剣に学校のモジュールによる日程表を見れば、学校は先生に自ら創造の空間を大きく与えています。且つ総合学科、徳育学科、文化学科、体育学科を学校の基礎学科にしています。其の目的としては以下の幾つかの問題を解決するためです。(1)個性、創造性がある教育を樹立、養成教育を学校数育の中心任務として、教育を通じて生徒の個性を発揮させ、生徒の個性の相違を重視します。(2)生徒の創造能力、想像能力、総合概括能力、是非の判断などの能力を養成しています。(3)健康教育を行って、心身とも健康な少年を育てます。例えば:学校が集団給食、生徒が自ら給食のサービスを行います。(食べ物の配膳、机の並び方、掃除など)

 私達は学校訪問中、豊富な教学設備を見ましたが、それ以外、学校は校舎の装飾、生徒の机、椅子、先生の数学用品等がとても質素、実用的である事を痛切に感じました。これもひとつの側面で貴校の運営方針は物事のうわべだけではなく、実用性を追求しているからだと考えます。経費は本当に教学、生徒のために使われています。

 四日間、御一緒させていただき、雨宮 洋司校長先生、瀬戸 健副校長先生の人格に魅力を感じました。先生方の仕事の核心は、子供たちに楽しい教育をさせることにあります。校長先生及び先生方の奉仕精神に非常に感心させられました。

 三日間の見学においで私達は日本富山大学附属小学校の教育には以下の幾つかの特徴を見て取りました。

(1)生徒の個性の養成、(2)道徳資質の養成の重視(3)良い習慣を身につける教育(4)健康教育の重視(5)実践能力の養成の重視(6)創造能力の養成の重視(7)伝統的な文化の教育の重視(8)総合能力の養成の重視

B. 教室に入って
 私達は教室に入って、教室における自由な姿勢、生き生きした表情に私達の足を止めさせられました。これは生活科授業でした。先生は生徒に自由に自分のお正月の様子を言わせます。教室には活発な雰囲気が漂い、帰ったときもう一度先生の顔を見たら、かすかな轍笑みを浮かべています。

 これは低学年の体育科の授業でした。先生が活動を手配し、生徒が積極的に参加し、仰向けになったり、伏せていたり、立てたり‥‥‥する生徒がいました。授業が終わったとき先生は各生徒にこの授業の感想を書かせました。

 より味わいが尽きなかったのは高学年の社会科でした.先生の"盲導犬"の授業は深く印象に残りました。

 私達が見た各教室の周囲の装飾はそんなに精緻ではありませんが、しかし、よく見ると、それらは生徒が自分で製作したものであることがすぐに分かりました。これらの作品は選別したものだけではありません、ただすべて生徒の作品を展示したものです。各生徒が皆自分の作品を展示する権利があります。

 富山大学附属小学校の先生は教室の中で多くの生徒の作品を展示するだけではなく、廊下でもそのようになっています。廊下と教室はどれから見ていいかまごつくほどでした。一つ一つの掲示板に生徒の美術作品、書道、工芸品と科学技術晶が展示されています。これらの作品を見たら本当に私は貴校の学校運営方針――一新しい教育を理解させていただくことができました。

 正直に言えば数多くある展示品は私達から見ればごく普通のものでしたが、しかしあれはクラス全部の生徒の作品が展示されている"腕前"の舞台です。各生徒には皆提示する権利があり、彼らの"腕前"がどうであっても、この舞台には生徒の良い、悪いの区別はありません。

 イメージとしての日本人は一番個性を重視しない、集団性と協調性を強調する国民だと思っていましたが、学校を見学したとき、私は貴校が生徒に寛容で、特に生徒の発展を重視し、"人"を元にする教育観念はもう貴校の教育の中に優勢な地位を占めていることを感じました。先生たちはこれについてこのように説明してくれました。"個性を発展させるのは生徒の学習能力、思考能力と創造能力をアップさせることにつながると思うからです"。

 学校はとても民主的教学を重視しています。これも私達がとても感銘したところです。生徒が先生に"敬"があり"畏"がありません。教室で"教と学"関係はとても打ち解け、いつもディスカッションの中で行われています。生徒で違った意見があればいつでも先生の授業を中断でき、且つ皆あれこれと取り沙汰し討論し始めました。このような活発な教育雰囲気の中に身を置いて、自分の見方を発言しない人はいないでしょう。

 丁 勇先生の授業の内容はわが国の民芸美術の「剪紙(きりがみ)」でした。生徒が手を動かす前に先生は生徒に大量の作品を見せました。始めに言葉のハンディもあり、生徒が困った感じもありましたが、しかし先生の意志を理解した後、生徒の積極性を充分に発揮して、生徒は勇気を持って自分にチャレンジし、向上心及び創造の能力を十分に発揮しました。

 日本の中、小学校の教室授業は教学の手配、力量と態度はわが国と比べものになりません。しかし、貴方たちは生徒に実際操作させ、自らの体験でその理由を体得して、思考をさせて、自分の知識財産とさせ、学習能力の養成を強調し、次第に学習の主体性を身につけさせています。したがって貴方たちの教学思想と実践は我々に大層な啓発的意味がありました。

 結言を述べます。日本はアジア大陸の東辺にあり、太平洋の1つの島国です。国土が狭く、天然資源が少ないですが、第二次世界戦争以後、迅速に、廃墟の上に今日世界に注目されている技術的、経済的な大国を構築しました。日本の現代化に成功した秘訣はあくまでも教育にカを入れ、人的資源を開発し、多くの国民経済発展に必要な各人材を持っていることにあります。今日の日本の教育は数量的にも、質的にも既に世界一流のレベルに到達しています。

 今回の日本訪問で環日本海教育研究会の方針を理解しました。貴方たちの研究の意義は非常に重要です。貴方たちは国際間の文化交流に熱心で、実務に励む精神が私を感動させました。尊敬しています。私達は同じ職業ですが、国の事情が違い、相違があり、互いに交流と協力を強化すれば、研究を進展させ、長所をお互いに学び、短所を直すということからも意義深いものがあります。交流の活動がすっと継続されることを望んでいます。

 もっともっと貴方たちの研究結果を知りたいと思います。再度、貴方たちの真摯なご招待に感謝申し上げます。2005年3月に、私達は貴校のリーダ及び先生を我が校へ交流のために招待いたします。

4.日本の先生による中国での音楽授業実践の記録
       (平井久美子)

 3月21日,23日の二日間、大連海事大学附属小学校の3年生に対して、平井久美子先生が音楽の授業を実践した。外国での初の授業であり、その準備段階から苦労が多く、実際、授業が始まってからも初めて体験することが多かったわけで、今後の授業者の参考になることが多かった。ここに授業者本人が、今回の授業実践で考えたこと、感じたことを以下のようにまとめてもらった。

(1)教材選択への迷い

 中国で音楽の授業をするという話を初めて聴いたとき、頭の中にいろいろなアイデアが一度に湧き上がってきた。言葉がなくても感じ合えるのが音楽の特性だと思っていたからである。素直に楽しみだと思った。

 ところが、いざプランを提出するようにと言われると、あふれていたアイデアが、次々に消えていってしまった。それは、例えば歌の学習を突き詰めて考えていくと、歌詞をどう扱うかという問題にぶつかったからである。また、楽器を使う学習を突き詰めて考えていくと、日本でよく使う楽器と中国でよく使う楽器が同じではないという問題にぶつかったからである。日本の子供たちが好きなトーンチャイムやベルを持って行って授業をしても、それが中国ではあまり使わない楽器だとすると、子供たちが学習を発展させていくことができないからである。

 それなら、日本の伝統音楽を教材にして授業をしてはどうかと考えてもみた。箏を音素材とし、「さくらさくら」のメロディーをモチーフにして簡単な音楽づくりをしてみようというアイデアである。しかし、それも1週間ほど考えているうちに頭の中から消えていった。なぜなら、それぞれの国の独自なものが伝統音楽なのだから、違いを感じたり、新鮮さを感じたりするのは当たり前のことだからである。個人的にはたいへん興味深い分野ではあるが、安易に伝統音楽の交換をしても、環日本海域交流授業研究の目的に照らすと、研究の深まりが期待できないと考えたからである。

 では、何をしたらよいのか。さてさて、本当に困った。

(2)教材選択の決め手

 よし、3年生を対象にこれをしよう!」 ずいぶん考えた末、リズム打ちや手合わせなどの音楽遊びを活動の核に据えて、拍を体感する授業をすることにした。それは、次のようなことを考えたからである。

 ・ 体感するということは理屈ではない。したがって、言葉を必要としない。 ・ リズム打ちや手合わせ遊びは体さえあれば世界のどこででもできる。  ・ この授業のやり方は日本でよく実践される方法である。日本の授業の一端を紹介 するという意味で意義があるだろう。 ・ 学習内容を遊びの要素で包み、活動を楽しむうちに自然に音楽の力が高まるようにするスタイルの授業は、国が違っていても下学年の子供たちの学習意欲を引き出すことにおいて効果があるだろう。いや、あるという仮説を検証したい。

(3)題材構想での悩み

 授業の土台は決まったものの、45分×2回の題材として具体的に構成しようとすると、不安なことがたくさん生じてきた。そのときの自問自答の中身をあえて述べてみたい。

Q.普段の授業では歌を大事にする。リズム打ちやで手合わせなどをするにしても、ま  ずは楽曲を歌うことに親しんで、"楽しい歌が、リズム打ちや手合わせなどを入れるともっと楽しくなる"と子供たちが感じ、子供自らが学習を発展させていけるようにすることを大切にしている。また、ただリズム打ちしたり、手合わせをしたりするより、歌を口ずさみながらした方が音楽的に豊かな活動になると考えている。しかし、言葉が違うので、歌詞を付けて歌う活動は難しいだろう。
A.ラララ唱ならできるかもしれない。中国語にもラの発音はあるからできるかもしれ  ない。2小節ずつぐらいの短さでの模唱(教師が歌うのを子供がそのまま真似て歌う)をしてみよう。

Q.いつもなら、教師が提示するリズム打ちだけでなく、子供がリズム・パターンをつくることも大切にしている。また、手合わせをするにしても、教師が提示する手合わせを楽しむだけでなく、子供が手合わせを考えて音楽活動を発展させていくことを大事にしている。しかし、それをするときは、かなり言葉でのやりとりが必要になり、難しいのではないか。
  A.今回は、"子供がつくる"という要素ははずそう。その代わり、教師からいろいろなリズム・パターンや手合わせの仕方を提案しよう。  

Q.日々の授業とは違い、交流授業研究として2回の授業の機会をいただいているのだから、単に2日間にわたって続きの授業をするということでよいのだろうか。
A.敢えて違いをつけてみよう。1日目は、4拍子のリズムを打ちをしながら4拍子の拍感を感じ取る授業にしよう。そして、2日目は、3拍子の曲に合わせて手合わせやバンブーダンスなどをして3拍子の拍感を感じとる授業にしよう。内容的には2題材分の内容を盛り込むことになるが、明確な違いを付けることができるだろう。

(4)学習指導プランニングへの思い

 1日目は4拍子の拍を体感する、2日目は3拍子の拍を体感するというふうに、2回の授業にはっきりとした違いをつけたのは、環日本海域交流授業研究の目的を意識したからである。 しかし、忘れてならないことは、一番大切な子供の思いを考えることである。突然やってくる異なった国の先生を温かく受け入れてくれ、いつもとは違うやり方かもしれない授業に真剣に参加しようとしてくれている子供たちの思いを大切にしたい。楽しみながら力が高まる授業になるように工夫したいところである。そこで、次のような指導プランを立てた。

◎1日目の学習の展開案

学習活動 教師の意図
① 4拍子の音楽 『鉄腕アトム』に 合わせて肩たたき 遊びをする。 ○ 中国でも『鉄腕アトム』はTV放送されて人気がある。その主題歌に合わせて友達と肩たたきし合う遊びを導入ですることにより、子供たちが心を開いて今回の学習に取り組めると考える。また、この活動そのものが拍を体感する経験の一つとなる。
② 4拍の拍の穴埋め遊びをする。 ○ 教師が4/4の拍打ち●●●●をし、●●○●とか●○○● のように、4拍のどこかを打たずに穴をあけ、そこを子供たちが拍打ちして穴埋めするという遊びを挿入する。そうすることで、"拍"を意識して次の活動を行えるようにする。
③ 教師が提示する6種類のリズムパターンを4拍子の拍にのってリズム打ちする。 ○ リズムを感覚で理解できるよう、中国の言葉と結び付けて提示する。また、楽しみながら拍にのってリズム打ちできるよう にするために、活動に変化を付けながら繰り返す。
  ・リズムパターンをつないで長いリズムフレーズをつくる。
 ・テンポを速くしたり、つなぐ順番を入れ替えたりする。
 ・『鉄腕アトム』の音楽に合わせる、など

 

◎2日目の学習の展開案

学習活動 教師の意図
① 3拍子の音楽 『いるかはザンブ ラコ』をラララ唱 する。 ○ 『鉄腕アトム』と比較提示し、拍子が違うことを理解できるようにする。また、言葉が違っても歌えるようにラララ唱にし、楽譜がなくても歌えるように2小節ずつの模唱をする。
② 『いるかはザン ブラコ』に合わせ て手合わせ遊びを する。 ○ 3拍子の拍を体感できるように、手合わせ遊びをする。また、楽しみながら3拍子の拍にのる体験を多くもつことができるよう、活動に変化を付けながら繰り返す。
・一人での手合わせをいろいろな動きでする。
・二人での手合わせや四人での手合わせをする。
・手合わせの最後にジャンケンを入れる。
③ 『いるかはザン ブラコ』に合わせ てバンブーダンス をする。 ○ より全身で3拍子の拍を体感できるように、バンブーダンスをする。ただし、バンブーダンスは難しいので、紹介程度とする。

 

(5)授業の実際からの学び

 1日目、中国の子供たちが日本の『さくらさくら』を歌ってくれることから授業が始まった。胸がいっぱいになり、負けじと『ティエピエ アトム』を歌った。そう、この日のために、『鉄腕アトム』を中国語で歌えるように、秘密の特訓をしてきたのである。発音がおかしいかもしれないなあとドキドキしながら、ユエクォリャオクォティエンコン~ラララ...と歌った瞬間は、清水の舞台から飛び降りる思いだった。

 その歌に合わせ、肩たたきをしようと、ジェスチャーで伝えた。一人の男の子をモデルとして前に呼び、二人でアトム肩たたき体操をやってみる様は、漫才のようだったかもしれない。何しろ言葉が通じないのだから、二人ですったもんだの格闘をしているようだったからである。だが、言葉が通じなくても「動きのうつし」ならジェスチャーで伝わるということを感じた貴重な場面であった。

 さて、アトム肩たたき体操には子供たちが大喜びした。"楽しい"と感じる勘所は、日本も中国も関係なく、子供には同じなのだ。拍の穴埋めをしているうちに"拍"に意識が集中してくる姿も、全く同じである。

 十分に心がほぐれたところで、次の6種類のリズムパターンを提示した。

 このリズム打ちはすぐにできた。要因として次のことが考えられる。まず、リズム譜を提示したため、言葉が伝わらなくても視覚的に理解できたのだろう。さらに、上の楽譜に中国の漢字や中国で使うローマ字の読み方も付けて提示したので、授業者の言葉の指示が分からなくても、何をすべきかが分かったのだろう。




 また、この6つのリズムパターンをつないで長いリズムフレーズをつくったり、つなぐ順番を入れ替えたり、テンポを速くしたりなどの変化を付けたところ、子供たちは夢中になってリズム打ちをしていた。また、授業の最後に、上の6種類のリズムパターンから4つを選んでリズムフレーズをつくり、『ティエピエ アトム』の歌に合わせてリズム打ちをする活動をしたときも、子供たちは集中して取り組んでいた。

 このことから、次のことを実感できたことが、1日目の授業の成果と言えるだろう。音楽は、言葉がなくても感じ合える。音楽を介して、人と人がいっしょに心地よさを共有したり、共感し合ったりすることは、対話を考えていくうえで一躍を担うことになるだろう。




 2日目、今度は1日目とは違ってかなり苦戦した。 まず、『いるかはザンブラコ』のラララ唱をする場面で、2小節ずつの模唱をするのに時間がかかった。それは、授業者が「ラララ・・・」と歌って「はい!」と合図するときの「はい!」も歌のうちだと勘違いし、子供たちが「ラララ・・・はい!」と歌ったからである。なるほど、確かに「はい!」は日本のかけ声である。中国のかけ声を事前に調べておけば、それだけでスムーズにいったはずである。                    

 また、歌に合わせて手遊びをする場面でも、たいへん学ぶことが多かった。まず、手合わせが子供たちの興味関心をひきつけるということには、国の違いはないと感じた。やり始めたら子供たちがにこにこと夢中になっていたからである。ただ、子供たちがいったん体の動きに夢中になり始めると、指示の手段は言葉になってしまい、「ペアをつくりましょう」「ペアを交替しましょう」「最後にジャンケンをしましょう」などという指示を伝えることに苦労してしまったのである。考えてみれば当然のことである。

 この2日目の授業では、次のことを実感できたことが成果と言えるだろう。音楽そのものの感受には言葉は不要である。しかし、それは、音楽活動が成立するようにするための指示が理解できているうえでのことである。例えばこの授業の場合、どのように模唱するかということを、授業者と通訳の方とで実際にやってみせればよかっただろう。また、ペアをつくったり、ペアを変えたり、最後にジャンケンをしたりする複合的な動きは、本校の子供たちのやっていることをビデオに撮影していって、視覚的に提示するとよかっただろう。

(6)違う国の教壇に立ったことへの感想

 言葉が通じない条件で授業をすると、指導技術が明確に問われる状態となり、たいへん勉強になった。日頃は授業の多くの部分を、言葉でさばいているのだと改めて感じさせられた思いがする。言葉がなくても伝えられる指導技術は、日本の子供たちへの指導にとっても大切だろう。

 それにしても、大連海事大学付属学校小学部の子供たちの、表情の豊かさが印象的である。心の内面から沸き起こる歌心がないと、あんなにも豊かな表情で音楽活動に取り組めるわけはない。今後は、中国の音楽の授業がどのように行われているのか、ぜひ拝見したいと願わずにいられない。

5.中国との授業交流実践から見えてくるもの(瀬戸 健)

(1)はじめに -学校で学ぶことの意味-

 わが国で起こった学力低下論争で明らかになってきたことは、単純なことであった。すなわち、学力が以前に比べて低下している理由は、児童、生徒、学生(以下、子供という)の学習意欲の低下と学習時間の減少によるものだということである。また、子供たちは学習するグループとそうでないグループに二分され、特に、勉強しない本も読まない層が増大しているという。

 今回、大連海事大学付属学校との交流で感じられたことは、例えばわが国で団塊の世代といわれる人たちがもっていた学習に対する「勤勉さ」を、中国の子供たちは今も持ち続けているということである。先進国型といわれる個性重視の教育の潮流の中で、わが国が長く持ち続けてきた美徳をも、いつのまにか失ってしまっていることは、注目しておかねばならないと思う。

 中国では、改革解放政策以後、農村から都市部へ大量の人口移動と、それにともなう階層移動が起こっている。このことは、一人っ子政策によって「小皇帝」とまでいわれるようになった家族に一人しかいない子供が、その家族の期待を一身に受け、家族全体の社会階層移動の責任を負わされているのであるから、熱心に取り組まねばならない社会環境にあると言える。一方わが国では、多少なりとも親の援助を受けることができればフリーターで十分生活できる社会環境にある。大学への進学率が50%を超え、大学卒業が即エリートを意味しなくなって久しい。わが国において、学校で学ぶことが色褪せてきている時代だといえよう。しかし、だからといって「昔はよかった」と嘆くことは生産的ではない。 近代学校はその誕生から本来的に二つの機能をもたされてきた。一つは階層移動に象徴的に見られる「選別機能」である。中学卒業者は「アンスキルド ワーカー」として、高校卒業者は「セミスキルド ワーカー」として、大学卒業者は「テクニシャン」、そして大学院修了者は「プロフェッション」として社会が受け入れていくことが、日常的に行なわれた時代がある。子供たちは、学校体系上のより上位の学校に進もうとし、そのためにはメイン ストリームを確保するのがより確実であり熱心に学んだのである。もう一つは、最も大切にされるべき「教育機能」である。これは、学ぶ者が自らの意志で自己実現を目指して学ぶぼうとするとき、学校が場と機会を準備する施設として働くということである。これまでのわが国の教育的な風潮は、「選別機能」が「教育機能」に勝ると言う状況ではなかったか。

 だから、わが国の従来見られた教育熱が、「選別機能」を原動力とするものであったとしたら、今後私たちは学校の本来的な「教育機能」に立ち返って学ぶことの意味を再構築し、熱心に学ぶ子供を作り出していかねばならないと考えている。そして、そのヒントがこの環日本海交流に、表面的には激しい競争が行なわれている大連海事大学付属学校の中にもあると思っている。いつも子供を相手に仕事をしている教師には、言葉の壁を越えて分かりあえる「授業」という別の言語がある。授業交流を通して、互いに得るものは大きい。

(2)高い学習内容を支えているもの

 ① 高い大連海事大学附属学校の教育内容

 かつてわが国がそうであったように、大連海事大学付属学校の教育内容は、非常に高い。例えば、小学校1年生の算数では、二桁のたし算、ひき算を行い、それを予め書かれている和や差と不等号で結ぶ学習を行なっていた。これは、わが国では小学校3年生に相当する内容である。また、同じ小学校1年生の図工では、紙の上に手を置き、その輪郭を幾つか写し取らせたあと、その手の形を別のもの、例えば虫や鳥、獣などに見立てさせて着色していく内容が扱われていた。これも、わが国の小学校3年生の内容に相当する。

 さらに目を見張ったのは、英語である。この学校では、小学校1年生から英語科が時間割りに組み込まれているが、小学校6年生では、わが国の中学校3年生ぐらいの会話が十分できるし、中学校3年生では、教室の後にある掲示黒板が全て英語で書かれている上に完璧なまでの発音を獲得し、まるで大学生にでも会ったような錯覚を覚えた。例えば、雨宮先生が、英語で「勉強は楽しいですか」と尋ねられたとき、一人の女の子が立って「とても楽しいです」と英語で答えたのであるが、その発音は見事であった。そこで、「いい発音ですね」と英語で言うと、今度は彼女は、「ありがとうございます」と美しい日本語の発音で返したのである。かなりの学習の蓄積を感じ取ることができた。

 ② 高さを確保するための教科担任制

 このような高い教育内容を維持するためには、系統的、継続的な積み上げが必要であろう。大連海事大学付属学校を含め中国では、このような指導を可能にするため、小学校低学年から教科担任制をとっているのが一般的である。もちろん、小学校低学年では学校に親しませることも大切であり、子供たちの成長を考慮して、学級担任は国語と算数を指導しているが、学年が進むにつれて全ての教科をそれぞれ教科専門の教員が教えるようになる。このようにすると各教科担任は、小学校入学から中学校卒業まで、どのように内容を配列すればよいかを考え、子供の成長に合わせて効果的に指導することができる。逆に、一人の教師が果たす教科指導の役割と責任は、たいへん重いとも言えよう。

 特に大連海事大学付属学校は、小中一貫校であり教員たちは小学校、中学校の区別なく一つの学校の教員として小学校も中学校も指導している。そして、このような高さを象徴的に見せてくれたのが、12月2日に富山大学教育学部付属小学校で5年生を対象に図工の授業をした大連海事大学附属学校の丁勇先生である。

 丁勇先生の実践テーマは、中国の伝統芸術である剪紙(きりがみ)であり、彼は子供たちの目の前で鋏を使い、ごく短時間に作品を切り抜くことができた。さらに、図工の時間を離れて学級の児童と懇談中にも、龍の絵を黒板いっぱいにわずか3~4分で描き上げるという離れ業をやってのけた。教師自身が、子供にさせたい学習活動を完璧に行い、一つのモデルになれるのである。子供たちは、その高い技術力に驚き、また憧れてあっと言う間に中国伝統芸術の世界に引き込まれていった。

 教師にとって、「出来る」ということは大切なことである。最近は、「出来る」先生になかなか出会えなくなった。長い修練の上に獲得されていく専門的な技術は、私たちが置き忘れてしまった教師の力量の一つであろう。

(3)新たな学校教育の方向

 

 ① 個性重視の教育へ

 丁勇先生の授業とともにもたれたシンポジウムで、大連海事大学附属学校副校長 劉華先生から語られた中国の新たな学校教育の方向性は、私たちが10年前に「新学力観」として学んだ内容とほとんど同様のものであった。つまり、従来からの学習内容を教えるときに、子供の関心・意欲・態度をさらに重視し、個性的で充実した授業を目指すというものである。しかし、わが国では「関心・意欲・態度」を偏重し、内容を軽視する傾向が現れて、結果として学力低下を引き起こすこととなった。

 中国では、学級の定員が50名と多く、学習指導技術の面で避けられない課題がある。つまり、決められた時間に決められた内容を的確に指導するには、教師の指導性と要求する到達度を明確に示す必要がある。教師の指導性が強くなればなるほど、子供の自主的な動きは制限されざるをえない。つまり、理想として求めている方向と条件整備との間に、齟齬が散見されると言える。

 では、わが国ではどうか。中国の子供たちに比べて、かなり自由度の高い学習活動を見ることができる。しかし、その質となると疑問があるものも少なくない。現在、少人数指導などの方法で、きめ細やかな指導が目指されているが、成功している例は余り多くないのである。それは、欧米型の学習指導方法であり、多人数を一斉指導することに長けてきたわが国の教員にとっては、これまでに体験したことのない指導方法である。さらに、少人数指導を行なうには、各学校への教員加配が必要となるが、例えば関西のある地方自治体では、新規採用教員に十倍する非常勤の教員が発令されており、期待されたほどの教育効果が得られていないとの風評もある。それは、いかに仕組みを整えても、教師の力量がともなわなければ、教育実践は成功しないことを示している。

 ② 語学教育の充実

 さらに、われわれが目指すものの中に、英語を中心とする語学教育がある。昨年から授業交流を開始している大韓民国慶煕初等学校においても、大連海事大学附属学校においても、英語教育は小学校1年生から開始され、例えば慶煕初等学校では毎年1回の児童作品を掲載した英字新聞が発刊されているし、大連海事大学附属学校では前に述べたとおりである。もはや、東アジア諸国でも英語教育はグローバル・スタンダードとして認知されているのではないか。また、大連海事大学外国語学部4年でわれわれの通訳をしてくれた古さんは、一度も日本に渡航の経験がないのに、わずか4年の日本語学習で十分通訳の役割を果たしてくれた。その能力と大学がもつ教育力に驚嘆するほかはない。

 富山県内の状況を見ると、毎週定期的に英語活動を行なっているのは私の知るかぎり高岡市だけで、市町村によってかなりのバラツキがある。富山大学教育学部附属小学校ではこの高岡市教育委員会が実施する英語活動をモデルとして、ALT、JTLと担任教師の3人による英語活動を立ち上げてきた。しかし、その歴史はわずかに1年半である。

 今後、環日本海交流を授業交流を基礎に、子供たちの交流学習へと展開しようと考えるとき、この語学力の差が大きな障壁となるだろうと予想できる。日本の子供たちが十分英語を理解できるようになれば、eメールやテレビ会議システムなど、ITを活用した交流が日常的にできるようになる。

 個性化の教育の充実とグローバルスタンダードとの調和をいかに図っていくか。環日本海域授業交流で得た経験と課題は、さらに重みを増してきていると言える。

6.簡単なまとめ

 昨年度から開始された日韓小学校授業研究会は今年の3月で第4回目が行われ、順調に推移している。特に、竹島・独島問題が浮上したことから、韓国で実施される予定の授業研究会は中止になるのではないかと危惧をしていた。しかし、韓国での受け入れ態勢は着々と進み、何のトラブルもなくキョンヒ初等学校での授業研究会は大成功に終わった。しかし、その陰には学校当局による信頼関係に裏打ちされた確固たる交流についての信念があったからこそであるといえる。中国の場合も、座談会の席上で、一般教員から出された社会科の教科書についての議論は、議長役の校長の配慮で、別の話題へ誘導され、両校の友好交流を優先する方針が貫かれた。いずれの場合も、将来を担う子どもの教育指導は未来志向型でなければならないという小学校教育関係者の暗黙の前提が作用しているものと思考される。これは共生社会に向けた多元的価値観の尊重とその育みという現代社会が直面している重要な課題に一歩前進するものである。これが、これまでの研究で判明した第1の点である。

 第2は韓国及び中国の小学校が抱えている教育指導の課題は道徳教育を重視しながら、いかに個性を重視した多様性のある教育に挑戦していくか、という日本とほぼ同様な問題に直面していることである。さらに、異文化のなかでの子どもと教師の授業を通した接触は自国内だけでは得ることができない教育に関する新しい知見を獲得できるというメリットも相互に見出すことが可能であった。これらのことは、相互に学ぶものがあるという互恵精神が息づいているならば双方の教員が積極的に交流を維持していく要因になろう。

 第3は互いに、授業のためのスキルを相手教師の授業実践の中から学んでいこうという謙虚な姿勢に溢れていることである。そしてそのスキルの中で日本が遅れをとっているのは英語教育の小学校段階での導入問題である。さらに、環日本海域での小学校授業研究で授業者が多種類のアジアの言語を駆使するのは到底不可能であり、代わりに国際語としての英語によるコミュニケーションが有効な手段になることはこれまでの交流のなかで十分に確認された。

 以上の3点は、環日本海域での共生社会づくりのために必要な最小限の諸要素でもある。