日本海学グループ支援事業

2005年度 「「とやまの北前船」普及啓発事業」


2005年度 日本海学研究グループ支援事業

日本海北前ロマン回廊構想実行委員会

1 事業の趣旨

 近世後期から近代前期にかけて、本県は北前船のもたらす富で潤い、活気に溢れ、社会資本が整備され、様々な文化が流入した。しかし、今日、その遺構は失われ、人々の記憶からも遠い存在となっている。今まさに、この失われようとしている大事な歴史的な遺産を明らかにし、富山県の次世代を担う子どもたちに普及啓発することにより、先人の英知を学び、未来への発展の礎として活用しようとするものである。

2 実施内容

(1) 「ジュニア版 とやまの北前船・DVD」の制作
 (H17県自作視聴覚教材コンクール奨励賞受賞、H18全国視聴覚教材コンクール入賞)
・DVD版、21分のボリューム(写真映像とその解説による視覚的データで構成)
・県内の小・中学校や関係機関に配布

(2) 県内の北前船関係遺構の調査
・伏木地区の現地踏査
・新湊地区の現地踏査   *石川県門前町の北前船湊町の現地踏査も実施

(3) 地域住民との交流
・事業主体である実行委員会と地区の住民との意見交換会の開催
・同じく、実行員会と地域住民による遺構把握調査の実施

3 「ジュニア版 とやまの北前船・DVD」について

この作品は、平成18年度全国視聴覚教材コンクール(主催・財団法人日本視聴覚教育協会)で入賞しました。 →詳細

(1) 仕様等

・体裁 DVD(約21分)
・素材 北前船の遺構、史料、活用状況等の写真
・手法 静止画とナレーションによる表示
・構成 第1編 北前船とは
    第2編 今に残る北前船
    第3編 北前船の果たした役割
    第4編 北前船の活用

(2) 内容

【第1編 北前船とは】

① 北前船の由来

ア 名称の由来と活躍した時代
 「北前船(きたまえぶね)」とは、江戸時代中期から明治・大正時代にかけて、日本海沿岸の西廻り航路で商品の運搬に使用された廻船のことで、日本海沿岸地域で「バイセン」、「ベザイセン」、「センゴクブネ」などと呼ばれた。北前とは、上方からみた日本海沿岸地域をさした用語で北陸の前の海という意味である。富山県では一般的に「バイセン」と呼ばれているが、その語源については、売買を行なう船であることから、利益が倍増することから、弁才船であることから、弁財天を祀る船であることから、などの諸説がある。 この船が最も活躍した時代は、江戸時代末期から明治時代前期にかけてであり、北海道開発と交易の確立、米を含む流通商品の多角化と安定供給、藩による地方廻送業の育成などに起因するとされる。安定した流通経済のもとに地域の廻船業者が成長し、湊の整備がなされた結果、廻船問屋に大きな利益がもたらされ、この富はやがて近代産業育成のための資本(銀行、保険、建設など)として活用されていくことになる。

イ 業務の内容と運搬品
 北前船で運ばれた主な産品をみると、北海道へは米、縄、むしろなどの農産品や酒などが、北海道からは鰊、昆布、鮭、鱒などの海産物が運搬された。大阪へは主に米が積み出され、上方や瀬戸内海の地域からは綿、塩、砂糖などが運搬された。 こういった商品は、沖船頭(船長)の判断により寄航した湊で随時、売買が行なわれた。この方式は「買積み船」と呼称され、運送業務の「賃積み船」とは区別される。一般に「千石船一航海で千両」などといわれているが、造船に大きな資本を必要とし、さらに海難や商品の売損などの頻度も高いことから、浮き沈みの多い業種ともいわれている。

ウ 船の構造
 江戸時代前期から中期まで日本海沿岸で用いられた和船は、「北国船」と「ハガセ船」の2種類である。「北国船」は、船首が丸く、船底がオモキ造りで、帆と櫂が併用され、多くの漕手を必要とした船である。「ハガセ船」は、船首が鋭く反り、船底がオモキ造りで、船底が浅く、むしろ帆と櫂が併用された船である。江戸時代の中期には、「ベザイ船」が使用されるようになる。これは、瀬戸内海で用いられていた船で、厚い船底材に厚い外板をはぎつけ、船梁を入れ、船首を反らせ、ずんぐりとした船体を呈する。「北前船」とは、日本海側から大阪湾へ航行してきた「ベザイ船」をさしている。

② 北前船の拠点と廻船問屋

ア 富山湾沿いの湊町
 越中の北前船の拠点として、富山湾沿いの河東七浦と呼ばれる東岩瀬、水橋、滑川、魚津、生地、泊、境が、河西七浦と呼ばれる木町、伏木、六渡寺、放生津、海老江、氷見、灘浦が主要な湊町として栄えた。とりわけ、伏木、新湊(放生津、六渡寺など)、岩瀬(四方、西岩瀬、東岩瀬)、水橋(西水橋、東水橋)に大きな廻船問屋が集中した。

イ 伏木地区
 高岡市伏木は小矢部川と庄川が合流した旧射水川の河口に立地した湊町である。江戸時代中期には、砺波平野の産物を積み出す拠点として繁栄した。寛文年間には鶴屋善右衛門ら八軒の船問屋が存在した。天保3年(1832)になり、水主の宿である小宿9軒が船問屋同様の取引を願い出ており、廻船業の繁栄を知ることができる。

ウ 新湊地区
 射水平野を流れる多くの河川は放生津潟に流れ込み、運河状の内川を経て日本海に注ぎ込む。江戸時代には放生津町、六渡寺村、海老江村などが北前船の拠点として栄えた。新潟県寺泊町の住吉家に残る「御客帳」には、当地に関わる廻船業者として、放生津の綿屋彦九郎など55軒と六渡寺の湊屋清三郎など45件の記録がある。

エ 岩瀬地区
 東岩瀬は神通川河口に立地した湊町である。寛文10年(1670)に加賀藩の米倉である御蔵が設けられ、富山平野で生産された米が上方へ積み出されていた。江戸時代安政5年(1858)までに存在した船問屋として、道正屋八兵衛や四十物屋仙右衛門など5軒問屋が確認でき、安政6年には犬嶋屋仁兵衛など20軒が「諸廻船問屋」として記録されている。一方、富山藩の唯一の積み出し湊として重要な役割を果たした神通川左岸地域では、文化5年(1808)の富山藩による船舶調査で、四方地区で120石を最高の石数とした16艘の北前船が、西岩瀬地区で450石を最高の石数とした28艘の北前船が確認されている。

オ 水橋地区
 水橋は旧水橋川の河口に形成された湊町である。当時の白岩川は、この常願寺川に合流し水橋川となっていたことから、白岩川を利用した内陸水運の拠点として重要な役割を果たした。また、加賀藩の米倉である御蔵も設けられ、江戸時代後期には北前船の拠点のひとつとなっている。安政6年(1859)の「船手商売」として、東水橋に四十物屋弥右衛門ら8軒が、西水橋に石黒屋権七ら40軒が記録されている。

③ 北前船の役割の変遷

ア 江戸時代前期~中期
 加賀藩による海運での上方への藩米運搬で最も古い記録は、天正18年(1590)に若狭を経由した大津方面への輸送である。寛永16年(1639)には、中国地方と瀬戸内海を通って、船運のみで大阪まで輸送する西廻り航路が加賀藩により開拓された。正保4年(1647)以降は上方の雇船が藩米の移送を行った。加賀藩は大阪への藩米輸送にあたり、伏木、吉久、東岩瀬や水橋などの良好な湊に米を集積するための御蔵を設け、海運による迅速な運搬を試みている。江戸時代前期の藩米の大阪輸送には上方商人があたっており、在地の廻船業の未成熟を知ることができる。

イ 江戸時代後期~明治時代前期
 江戸時代中期からは新田開発が盛んとなり、後期になると農業生産の一層の安定とともに、農産品の種類が増加し、収穫量も増大するようになる。これにより、運送業の活性化がもたらされ、海運業者に新たな活路が提供された。加賀藩は上方商人による大阪廻送を、藩の直接雇用船で行うよう制度をあらため、地元の廻船業の育成を図った。文政年間には、大型船の建造奨励と浦方以外の有力者にも渡海船の所有を認めることとしている。また、北海道との交易もこの頃に活発化された。江戸時代末期には、船宿業を営む者や漁行商を営む者などが北前船を所有するようになり、北前船の黄金期を迎えた。

ウ 明治時代中期
 明治時代の前期には伏木の藤井能三により、汽船の誘致や電信の架線などの近代的な取り組みがなされ、既に北前船による運送手法はかげりを見せはじめる。明治8年(1875)の8月には能三の尽力により、三菱会社の瓊浦丸と豊島丸が、伏木港へ西洋型汽船として初めての入港を果たした。時代の変遷に応じた効率的で安定した海運業として発展していくために、北陸通船会社などの汽船会社の設立と運営に投資され始め、藤井家に加え、新湊の宮林家や東岩瀬の馬場家などの巨大な資本が投入されていった。明治20年代には新湊の南島商工や東岩瀬の馬場汽船に代表される本格的な汽船時代を迎えることになった。

エ 明治時代後期~大正時代
 明治40年の「新湊商工会報」には、「・・・海運業は挙げて汽船に独占せられ、倭船は茲に一大打撃を蒙りて、俄然廃業するもの続々と輩出し・・・」と記されている。汽船の登場や鉄道の整備による輸送手段の近代化、日本の都市や農村での産業構造の変化などにより、賑わいと巨大な資産を生み出した北前船はここに終焉を迎えることになった。

【第2編 今に残る北前船】

① 港町の廻船問屋

ア 伏木地区
【旧秋元家住宅】:現在、高岡市伏木北前船資料館となっており、修復された建物の内部が、北前船や伏木港の関係史料とともに公開されている。
【棚田家住宅】:明治時代中期の木造切妻造り平入りで、他に茶室や3棟の土蔵などもある。内部は豪壮な小屋組を見せた「ワクノウチ」となっている。
【浜谷家住宅】:木造中二階建平屋入りで、正面上部は白漆喰の真壁となる。4間の出格子が往来に面し、典型的な町屋構造を持つ。
【高岡商工会議所伏木支所】:明治43年に伏木銀行の社屋として建てられた。土蔵造りで寄棟造りの建物で、上げ下げ窓やコリント式の柱など洋風の意匠が採用されている。

イ 新湊地区
【宮林家住宅】:江戸時代末期から明治時代にかけて県下屈指の廻船問屋として勢力を誇った。屋号を綿屋と称し、2,200石もの土地をかかえ繁栄した。
【汐海家住宅】:汐海家は江戸時代末期には大きな廻船問屋に成長した。建物は木造中二階建てで、正面間口は5間を計る。典型的な町屋の様相を呈する。
【旧南島商工本店】:大正4年(1915)に建てられた木骨煉瓦貼2階建で、緑の屋根、褐色の煉瓦面、その間に埋め込まれた御影石の色彩が見事なコントラストを示す。
【八島倉庫】:八島家は明治時代の後期に漁具などを保管する倉庫を建設し、大正時代に伏木港右岸に倉庫を建設し始め、昭和になってから本格的に倉庫業へ転換していった。

ウ 岩瀬地区
【旧森家住宅】:国指定重要文化財で、北前船やに関する史料が展示、公開されている。建物は、明治11年に建てられた木造切妻造りの平入りで、2棟の土蔵が附属する。
【馬場家住宅】:寛政年間には県内屈指の廻船問屋として成長し、明治時代後期には「馬場合資会社」を設立し、汽船による廻船業へ進出した。
【米田家住宅】:江戸時代末期の安政年間には廻船問屋を営んでおり、北海道へ米を運搬し、魚肥を購入して、県内屈指の地主として発展した。
【旧岩瀬米蔵】:4棟の建築年代は定かでないが、最も古い棟は江戸時代後期の可能性が指摘されている。頑強な木造の土蔵造りである。

エ 水橋地区
【石金家住宅】:北海道との交易で肥料商として成長する。建物は、明治45年に建てられた木造切妻造り2階建ての平入りで、座敷棟、茶室と5棟の土蔵が附属する。
【尾島家住宅】:家業は網元で、廻船業も営んでいた。現在の建物は改築されたものであるが、平成元年の調査によれば、かつての建物は18間の間口と巨大であった。
【堀田家住宅】:建物は明治26年(1893)に建てらた。木造2階建て平入りで、内部は前庭についた2列3段型のこの地域に伝統的にみられる良質の町屋である。
【山田家住宅】:建物は明治30年代に建てられたと考えられており、木造2階建て平入りで、中庭をはさんで奥に土蔵が2棟附属する。

② 北前船の様々な史料

ア 伏木北前船資料館(旧秋元家)
【引札】:江戸時代中期から明治時代にかけて廻船問屋によって作られた広告用のチラシである。
【船箪笥】:水主などが航海中に書類、衣類や金銭を収納した木製の箱を船箪笥といい、海水がしみ込まないように強固な補強がなされている。
【船鑑札】:木板に墨書された船鑑札は、北前船を所有した船主の住まいした藩が発行した船籍証明書である。
【伊万里茶碗】:秋元家には、祝い事などのハレの際に用いられた伊万里焼きの食器類が大事に所蔵されていた。鮮やかな文様が描かれた優品で、碗、小皿、大皿などがある。

イ 新湊市立博物館 【ワラ製船霊】:汐海家に所蔵されていたワラ製帆船は明治時代に造られたもので、舟の守護神である。豊漁の際と起舟祭に用いられ、船主宅の大広間の梁につるされた。
【模型和船船霊】:柴屋に所蔵されていた北前船「長船丸」(600石積)の木製の模型は、長さ3.5m、幅1.3mを計る大きなもので、江戸時代末期の作品である。
【船磁石と望遠鏡】:江戸時代の測量学者石黒信由の関係史料の中に、航海に使用された磁石がある。望遠鏡は大阪の岩橋源兵衛が製作したもので、江戸時代後期のものである。
【幟旗】:「永榮丸」と「寿榮丸」と書かれた2本の幟旗は、明治時代に作られたものである。頑丈な布地に大きく墨書されている。

ウ 旧森家 【梁組】:オイの間の天井は豪壮な梁組(ワクノウチ)の構造を持つ。太い梁が縦横の二重に組まれ、材はきれいに磨かれている。訪問者を意識した見せ場となっている。
【スムシコ】:表構えはスムシコの出格子となっており、割り竹を編んだ目の細かなもので、外からは内部は見えないが、内部からは外の様子をよく窺うことができる。
【部屋割】:前庭のある三列四段型の部屋割り様式である。透かしの入った板欄間や棹縁天井など、洗練された意匠が用いられている。
【土蔵】:奥には土蔵が2棟ある。2棟をつなぐ蔵前が設けられ、ひとつの部屋としての構造でもある。戸前土扉は龍と虎の鏝絵で装飾されている。

エ 旧水橋郷土資料館 【加徳丸模型】:石金家が所有した加徳丸の模型で、この北前船は江戸時代中期から大正時代初期にかけて活躍した越中で最大の千石船とされる。
【松右衛門帆布】:和船の帆には、筵を用いた「筵帆」、麻を用いた「麻帆」、綿を用いた「綿帆」がある。この帆布は播州高砂の工楽松右衛門によって製造されたものである。
【帆縫い用具】:北前船の帆に用いられた丈夫な布の細工には技量と道具が重要であった。縫い合わせには太い麻糸が用いられ、耳の大きな針、強固なはさみなどが常備された。
【「石黒屋権吉」掛軸】:石黒屋権吉は、長者丸で漂流し帰国した次郎吉らを厚岸で親切にもてなした北前船主である。石黒家は廻船業と売薬業で財をなしたとされる。

③ 身近な北前船遺構

ア 伏木地区
【藤井能三の銅像】:伏木小学校の校庭に、昭和27年に創校80周年を記念して現在の銅像が造られた。御影石の台石の上に左手を腰にあて、遥か遠くを望む穏やかな顔の能三が建てられている。
【藤井家の門】:高岡伏木図書館の敷地内に、かつて藤井能三が住まいした居宅の門が保存されている。伏木地内では、藤井能三を偲ぶことができる唯一の遺構である。
【金比羅神社の絵馬】:伏木錦町の松本与三吉らにより奉納された板絵馬がある。絵馬の製作は絵師より明治初年頃と推測されている。
【堀田善衛を記念する海風会館】:伏木中学校には富山県初の芥川賞作家である伏木出身の堀田善衛を記念した「海風会館」がある。著作物などの展示と保管がなされている。

イ 新湊地区
【内川】:内川は放生津潟と庄川を結ぶ運河状の河川で、約3.6kmの距離を東西に流れている。江戸時代の記録によれば幅20間、深さ3、4尺を測ったという。
【日枝神社の鳥居と玉垣】:合掌形態の鳥居は瀬戸内海の御影石で造られている。地元の廻船問屋である湊屋清右衛門と北野屋与八が寄進している。境内を囲む玉垣272柱には、兵庫の海商として大きな勢力を誇った北風荘右衛門をはじめとする北海道から大阪までの廻船問屋とその所有する北前船の名前が刻み込まれている。
【昆布絵馬】:放生津八幡宮にある昆布絵馬は、海産物を商っていた京屋九右衛門、伏木屋善四郎、川口屋仁左衛門により奉納された。中国の故事で、不老不死の薬を求めて東征した「徐福」を題材にした絵馬である。
【放生津八幡宮の大常夜燈】:御影石製の1対の巨大な常夜燈で、背後に灯明のための石段が設けられている。境内の周囲の玉垣も「廻船船方中」により奉納されたものである。

ウ 岩瀬地区
【諏訪・恵比須社の絵馬】:岩瀬萩浦町の諏訪・恵比須社には、県内で最も古いとされる文政2年(1819)銘の北前船の船絵馬がある。
【金刀比羅社の常夜燈】:金刀比羅社の境内には、江戸時代末期に設けられた常夜燈がある。石製方形で、佐渡屋傳次郎により元治2年(1865)に奉納された。
【長者丸の太三郎の墓】:太平洋に漂流した長者丸に乗船していた鍛冶屋太三郎は天保14年に帰国した。帰郷してからも加賀藩の取り調べなどを受け、嘉永2年(1849)に48歳で他界した。その墓がJR東岩瀬駅近くにひっそりと建立されている。
【西岩瀬諏訪社の大ケヤキ】:西岩瀬の海岸に接する諏訪社には欅の大木がある。樹齢は数百年とみられており、富山湾から四方へ入港する北前船の目印とされていた。
【西岩瀬諏訪神社の常夜燈】:西諏訪岩瀬諏訪社の境内には、西岩瀬の「船持中」により奉納された奉納された1対の常夜燈が建立されている。
【四方神社の絵馬】:四方神社には中浜伝治により奉納された絵馬が1枚ある。北前船の徳寿丸の帆走する様子が画面いっぱいに描かれている。

エ 水橋地区
【金刀比羅神社の鳥居】:金刀比羅神社は明治9年に廻船業を営む有志により建立された神社で、石製の鳥居は明治29年に設けられている。
【艀場跡】:白岩川の河口には昭和63年に設けられた艀場跡の記念碑がある。かつては、沖に停泊した北前船まで艀が通い、荷物の運搬が行なわれた。
【水橋恵比須社の絵馬】:水橋恵比須神社には、鍋谷秀次郎ら3名により、明治10年に奉納された板絵馬がある。
【石黒屋権吉の手水鉢】:水橋神社の境内には、石黒屋権吉が奉納した石製の手水鉢がある。正面には奉納した嘉永5年の文字が彫られている。背面には朝日丸権次郎など6丸6名が彫られており、石黒家一族の沖船頭と所有した北前船の名称と考えられる。

【第3編 北前船の果たした役割】

① 藤井能三の活躍

ア 藤井能三とは
 藤井能三(ふじいのうそう)は、屋号を能登屋と称した伏木の北前船廻船問屋の八代目当主である。弘化3年(1846)に生まれ、大正2年(1913)に68歳で没した。その生涯において、社会資本の整備、経済の活性化、教育の推進に尽力し、富山県の近代における発展の基礎を築いた偉人である。

イ 社会資本の整備
 明治8年(1875)に藤井能三の尽力により、三菱会社の同社の瓊浦丸と豊島丸の2艘が、伏木港へ西洋型汽船として初めての入港を果たした。明治10年には本県初の近代的な灯台である伏木灯台を私費で建設した。明治11年には電信の開設を請願し、翌年には、高岡と伏木間に電信線が架設された。さらに、私財を供して明治16年に本県初の気象観測施設である伏木測候所を開設した。何よりも大きな功績は、伏木港の整備である。明治17年に有志が合同で「伏木港築港ノ議ニ付請願」を国重正文県令に提出し、伏木港の近代的な築港は富山県としての利益につながることを強調した。しかし、港湾整備の着手にはあまりにも巨額の経費を要することから、事業採択は延び延びとなり、明治33年(1900)に内務省の直轄工事として開始された。

ウ 経済の活性化
 藤井能三は元号が明治になるやいなや、加賀藩から「商法・為替・廻漕会社」の棟取を命じられ、この役職は明治4年(1871)に金沢為替会社の頭取として引き継がれた。この会社は明治17年に私立の銀行へと発展した。明治16年には第十二国立銀行の設立とともに取締役となり、現在の北陸銀行の基礎を築いている。また、明治14年に「射水郡農商協会」、同16年に「高岡米商会所」を設立するなど、取り扱い物資の価格安定と供給安定を図った。明治14年には本県初の汽船会社となる「越中風帆船会社」を設立し、「北陸通船会社」などいくつかの船会社を次々と設立していった。これは、日本海における海運業の活性化を促すものであり、地域の経済力の底上げに大きな効果を及ぼすことになった。

エ 教育の推進
 明治6年(1873)の1月に藤井能三は新川県の参事あてに願書を提出し、住民は「時勢ト道理トニ暗」ことから「文明開化の域に趣」せることが急務であり、「一日後ルレハ百年ノ損失」として「速ニ小学校設立」が必要であることを力説した。この年の2月には、県下初の公立小学校である伏木小学校が開校している。開校にあたっての教師の確保や校舎の建設などは、藤井能三の私財でまかなわれた。伏木小学校では現在でも、能三祭の開催、記念室の設置、銅像の建立などをとおして氏の偉業を讃えている。

② 築港と河川改修

ア 伏木湊と小矢部川
 旧射水川は、小矢部川と庄川が合流し富山湾に流れ込む河川であり、伏木湊は江戸時代の内陸水運による物資の集積地として、また、北前船による物資の積み出し基地として、重要な役割を果たしていた。次第に、土砂堆積により河口が閉塞しはじめたこと、直接汽船が着岸できる岸壁が必要となってきたこと、地元で期成同盟会が結成されたことなどにより、明治33年(1900)に内務省の直轄工事として改修工事が開始された。事業の内容は、庄川の河身新設、川幅の拡幅、伏木港の浚渫と岸壁建設から成り、大正元年(1912)に竣工した。これにより、3,000トン級の船が入港できる近代港湾としての整備が完成した。さらに、河口が分離され、現在に見る小矢部川と庄川の2本の河口ができあがった。

イ 岩瀬湊と神通川
 東岩瀬は神通川河口右岸の天然の良港であったことから、寛文10年(1670)に加賀藩の米倉である御蔵(おくら)が設けられ、北前船の拠点として繁栄した。西岩瀬は神通川河口の左岸の良港であり、四方とともに富山藩の物資の移出入の拠点として繁栄した。明治34年(1901)に神通川のショートカットとなる馳越工事が開始されたことを原因として、河口に土砂が急激に堆積しはじめ、港への船の直接乗り入れができなくなってしまった。そこで、北前船で財をなした森正太郎、馬場道久、米田元吉郎などの有力者からなる東岩瀬商工会等が尽力し、順次、突堤の築造、地先の浚渫、河道と港の分離、河道の新設といった大工事が内務省の直轄工事として実施され、昭和3年(1928)に竣工した。これにより、1,000トン級の船が着岸できるようになり、近代港湾として、現在の富山港となった。

ウ 水橋湊と白岩川
 旧水橋川は白岩川と合流した常願川が富山湾に流れ込む河川であり、河口の水橋は白岩川を利用した内陸水運の湊として栄えた。加賀藩の米倉である御蔵も設けられ、江戸時代後期には北前船の拠点として繁栄した。明治24年(1891)に富山県の要請を受けた政府は、内務省工師ヨハネス・デ・レーケを派遣した。デ・レーケは勢力的に現地調査を行い、常願寺川の改修の設計を行った。これに基づき、堤防の強化、合口の用水取水口の設置、河身の付け替え工事が実施され、明治26年(1893)に完成した。これにより、常願寺川は西水橋の西側に新たに河口が設けられ、白岩川の河口と分離することにより、土砂堆積の問題は解決された。

③ 文化の普及

ア 教育の振興
 江戸時代の漂流をテーマとして研究に取り組んでいるキャサリン・プラマーはその著書『最初にアメリカを見た日本人』において、長者丸で漂流した東岩瀬浦方の次郎吉の学力を高く評価している。次郎吉の記憶力の確かさ、知性、スケッチの芸術性などに才能を認め、さらに、わずか10箇月間での英語の習得を特筆している。
 伏木の藤井能三は県下初の公立小学校である伏木小学校を開設し、本県における初等教育の礎が築いた。東岩瀬の馬場はるは、旧制富山高等学校(現、富山大学)の創設には力をいれ、大正12年に県へ多額の寄付を行い、「富山県教育の母」といわれている。

イ 食文化と民謡など
 一所帯あたりの昆布の消費金額は富山市が全国のトップで、ダシ用、副食用、おやつ用と多彩であり、食生活には欠くことのできない食材となっている。なかでも、「昆布巻き蒲鉾」は富山県では日常的に食卓を彩る食品である。ニシンは、現在では高級魚で、身欠きニシンをくるんだ昆布巻きとし食卓に供される程度であるが、富山独特の食品として根強い人気がある。
 伏木で伝承される「伏木帆柱起祝唄」は、北前船の出航を示す帆柱起しを祝った民謡である。新湊で伝承される「新湊めでた」は、九州の馬渡島から北前船により日本海側沿いに伝わってきた「まだら系統」といわれる民謡である。岩瀬にも同系統の「岩瀬まだら」という民謡が伝承されている。入善町の吉原には「吉原木遣り」が伝承されている。

④ 諸外国との接触

ア 長者丸の漂流
 天保9年(1838)の4月、富山藩領内の湊である西岩瀬から出航した長者丸は、大阪、新潟、北海道の松前を経て仙台まで航海し、11月に仙台沖で暴風雨に遭遇した。10名の乗員を乗せたこの船は、太平洋を漂流し、翌年の3月にアメリカの捕鯨船ジェームス・ローバー号に救助された。救助された乗員はハワイ、カムチャッカ半島ウスト・カムチャック、シベリアのオホーツク、アラスカのシイトカへと移動し、天保14年(1843)にロシア船でエトロフ島へ送還された。無事帰国した乗員は鍛冶屋太三郎、米田屋次郎吉ら6名であった。
 長者丸の漂流については、次郎吉の口述をまとめた『蕃談』という記録集と加賀藩の高官(定番頭兼御算用場奉行)で自然科学に知識の深かった遠藤数馬高璟により詳細にまとめられた『時規物語』(全10巻25冊)という著作物により、知ることができる。様々な国際的な情報が次郎吉らによって鎖国下の日本にもたらされ、遠藤ら知識人にとって最先端の情報として活かされたことが考察される。

イ 日本海の交易
 新湊の南島家は文政年間に放生津に進出し、廻船業を始めたとされる。南島間作は明治19年(1886)に26歳で家業を継ぐとともに、ドイツ汽船の奈古浦丸(1,084t)を購入し、1箇月に2航海半もの北海道交易を行ったとされる。さらにウラジオストクとの航路を計画したがこれは実現されなかったものの、明治28年には中国大陸との定期航路を開設し、日本海における交易の活性化を図った。
 北前船主による北洋漁業の開始は明治24年頃とされ、沿海州や樺太で、鮭・鱒の捕獲を行ったことが記録されている。

ウ 密田家と薩摩貿易
 加賀藩に次ぐ大きな石高であった薩摩藩は長らく緊迫した財政状況にあったが、幕末には琉球を介した中国との密貿易により財政の立て直しを行い、明治維新を率先する筆頭雄藩となる。越中の北前船は、この密貿易に大きな役割を果たしている。嘉永2年(1849)、薩摩藩は越中の売薬商(薩摩組)に対して、領内での営業の条件として北海道からの昆布の輸送を申し付けた。中国では貴重な昆布の需要が大きく、これに着眼した調所広郷の施策であった。薩摩組の中心であった密田家(富山市荒町)の古文書からは、北前船による北海道での昆布の仕入れ、その航路や売買の状況を知ることができる。

⑤ 北前船の富と産業形成

ア 銀行業の形成
 明治政府は近代的金融制度の確立のためにお札(太政官札)の発行や国立銀行条例の公布などを推し進めたが、北陸の北前船主は、その蓄積した財産を新たな銀行の設立に積極的に投資した。明治10年代は資本の提供という性格が強かったが、北前船が斜陽となる明治20年代からは、北前船主による自主的で積極的な銀行経営がなされるようになる。明治時代に創立されたこれら多くの銀行は、昭和になってから合併集約され、現在、北陸地方の経済を支える地方銀行として成長している。

イ 近代産業の育成
 北前船によって蓄えられた富(資本)は、電力業、米穀・肥料業、保険業、運輸業、水産業、倉庫業などに投資された。
 明治時代後半から大正時代にかけて、北陸地方では河川の急勾配と豊富な水量を活用した水力発電が盛んになる。米穀・肥料業では、北前船による北海道への米の移出と魚肥の移入を専らとした船主も多く、大地主として地域の発展を促した。明治時代の高岡米穀取引所、高岡肥料、富山米穀株式肥料取引所、北陸人造肥料、新湊商業、岩瀬物産などの役員には、廻船問屋の船主が名を連ねている。

ウ 売薬業の助長
 富山売薬は江戸時代中期に行商により、全国に販路が設けられたが、日本海沿岸を結ぶ西廻り航路の確立とともに、大阪方面には売薬が北前船の積荷として送られ、また、大阪などで買い求められた薬の原料は北前船で富山まで運搬された。安定した運輸方法の導入により、売薬業は発展し、一層の販路の拡大がなされた。富山の密田家は薩摩藩の命を受け、北前船による北海道からの昆布の運搬を行い、薩摩藩の財政建て直しを担い、明治維新への原動力となった経緯はあまりにも著名なエピソードである。

⑥ 北前船文化の群像

ア 嵯峨寿安(学ぶ心を持って日本人ではじめてユーラシア大陸を単独で横断)
 明治2年(1869)寿安は、金沢藩からロシア留学を命じられた。船で日本海沿岸のウラジオストクに渡り、ユーラシア大陸を横断した。明治4年5月20日、31歳の寿安は、ロシア船・エルマーカ号に乗り、函館港からウラジオストクに向けて旅立った。目的地のペテルブルグに、8ヶ月以上もかかり到着した。
 帰国した寿安は、明治7年(1874)政府から北海道開拓使御用係、明治9年には東京外語学校の教官となったが、これも翌明治10年には退官し、一旦、岩瀬に戻り医者となった。晩年は、明治29年(1996)頃、サハリン島のコルサコフ(大泊)に滞在し、翌年には参謀本部の広島師団でロシア語を教え、明治31年に広島で亡くなった。
 現在、寿安の偉業を刻んだ石碑(1936年建立)が、岩瀬小学校の前庭にある。

イ 堀田善衛(国際的視野を持った芥川賞作家堀田善衛)
 伏木の北前船廻船問屋に生まれ、港に出入り利する北前船を見つめながら、海外への思いを膨らませ、やがて、本県初の芥川賞作家となった人がいる。江戸時代から続く「鶴屋」で育った堀田善衛(ほったよしえ)である。善衛は、大正7年(1918)、現在の高岡市の伏木において、代々廻船問屋を営んでいた家に生まれた。大正時代になると、それまで活躍していた北前船に代わり蒸気船が登場し、その結果、かつて商売繁盛した善衛の家も経営が苦しくなった。善衛は、かつてあんなに栄えた自分の家が倒産するのを見て、「万物は流転する」とか「諸行は無情なり」ということを子ども心に身にしみて体験した。そのことが、善衛の文学の根本となる『繁栄するものは、かならず滅びる』というような考え方を形づくったのだと思われる。
 善衛は、大学卒業後、就職した国際文化振興会から上海に派遣され、昭和20年上海で第2次世界大戦の終戦を迎えた。昭和22年に帰国し、昭和26年に「広場の孤独」を中心とする作品群を対象に芥川賞を受賞された。

【第4編 北前船の活用】


① 先人の英知を学ぶ

 北前船は江戸時代後期から明治時代中期にかけて、経済と社会の発展に貢献し、一世を風靡した。そこには様々な創意と工夫がみられ、現在にも引き継がれている。先人のたゆまない努力と英知を学び取りたい。* 和船は、速くて安定した構造の船に改造され、磁石など道具にも工夫がなされた。
* 寄港地で積荷の売買を行うという買積み船の方式を採用し、ニーズに応じた弾力的な商いを行った。
* 次郎吉のように船員としての任務をこなすために、数学など様々な知識を身に付けた。
* 藤井能三のように社会の新たな動向にすばやく反応し、近代的な思考と方法を導入するとともに、地域社会と住民の福祉の向上に努めた。
 昭和62年に、岩瀬に住まいする研究者などが「岩瀬バイ船文化研究会」を組織し、様々な視点にたつ調査研究活動を行いながら、『バイ船研究』という研究誌を刊行し、全国に富山の北前船文化の情報発信を行っている。県教育委員会は「北前船 日本海夢航海」を実施し、北前船の学習と雄山丸での富山湾の航海をとおして、子どもたちの航海の知識を深めている。さらに、北前船ロマン回廊構想実行委員会では、子どもたちの北前船の模型づくり教室をとおして、和船の構造把握と機能の理解を深めてもらっている。

② 活力ある地域づくりに活かす

 北前船の活躍により、町並みが創られ、人々が行きかい、郷土は活況を呈した。湊や河川の整備が進められ、現在の港町の礎が築かれていった。その歴史を紐解き、携わった人々の意気込みを地域の活性化に役立てたい。
 伏木小学校では、校舎内にふるさと学習室を設け、貴重な歴史史料の展示と体験学習をとおして子ども達の郷土の文化や伝統を大切にする心の醸成を図っている。また、岩瀬小学校では、6年生が総合学習の時間を活用して「北前船と岩瀬の関係」と題して、地域文化の詳細な把握を行なった上で、旧森家住宅を会場としてその成果の発表会を行なった。伏木で活躍するボランティアグループは、地域の成り立ちを学習しながら、訪れる人々への解説活動を行っている。東岩瀬の米田芳彦さんらは、埋もれている北前船の資料を発掘しながら旧森家住宅で解説活動を行っている。
 このように、近年、徐々に地域の成り立ちの礎となった北前船に対する関心が高まっており、こうした活動をとおして地域に対する愛着と誇りを醸成していきたい。

③ 次世代へ保存し継承する

 約100年という長い時間と多くの人々の努力により、北前船を母体とした歴史と文化が形成された。現在でも例えば、建物、町並み、河川、港、人々の風俗や慣習などとして生き続けており、それらを保存し継承することが我々の責務である。
 伏木では、廻船問屋であった旧秋元家住宅を伏木北前船資料館として公開し、富山市では旧森家住宅を「北前船廻船問屋森家」として公開している。また、岩瀬米蔵は修復され、アトリエなどとして再利用されようとしている。馬場家住宅の前にある、ポケットパークには、北前船の銅像も設置され、憩いの場として重宝されている。富山港展望台は北前船関係者により奉納された常夜燈をデザインしたもので、地域の歴史を偲ぶ拠点として機能している。
 平成13年に富山市岩瀬・水橋バイ船フォーラム2001実行委員会により作成された北前船パンフレットは、東岩瀬と水橋の北前船関係の遺構などを紹介したもので、訪れた人々に喜ばれている。景観に応じた案内板の整備などが今後の課題であろう。
 何よりもまず、地域に住まいする人々がその重要性に気づくことが大事であり、住民自ら率先して現存する財産の保存に努めなければならない。その後には、それらの活用をとおした継承を図り、かけがえのない財産として次世代へのすばらしい贈り物としなければならない。