日本海学グループ支援事業

2005年度 「氷見古墳フォーラム(仮称)」開催事業


2005年度 日本海学研究グループ支援事業

編集・発行氷見古墳フォーラム実行委員会

報  告

現地見学ツアー
古墳の発見とその分布状況について 富山考古学会副会長 西井龍儀
柳田布尾山古墳について 氷見市立博物館主査・学芸員 大野究
発掘! 阿尾島田A1 号墳 富山大学人文学部助教授 高橋浩二
氷見市域における
古墳時代の集落跡について
-中谷内遺跡での調査例を中心として-
富山県文化振興財団
埋蔵文化財調査事務所
 文化財保護主事 青山晃
文献からみた
射水郡の豪族と柳田布尾山古墳
富山大学人文学部助教授 鈴木景二

 

<現地見学ツアー>

 

桜谷古墳(1号墳)の後背には二上丘陵

 10月から週末になると天気が崩れ、また、1週間ほど前から雨天が続いていたため、当日の降雨が心配されたが、"古墳巡り日和"の晴天となった。
 参加者は65 名。定員40 名を大きく上回って、予備の車を使う"嬉しい悲鳴"。
 JR氷見駅と会場から参加者を乗せ、桜谷古墳群、柳田布尾山古墳、氷見市立博物館を見学した。
 (公園として整備された柳田布尾山古墳には古墳館が4月8日にオープンする。)

 


<特別展示>


<フォーラム>

古墳の発見とその分布状況について

富山考古学会副会長 西井龍儀

 平成10 年6 月、柳田布尾山古墳を発見した。そもそも布尾山周辺の丘陵に足を踏み入れた理由は、氷見市域で未発見の旧石器を探してのことであった。また、周辺で土砂採取が進行していることも気になっていた。
 布尾山にブッシュと蜘蛛の巣をかきわけて足を踏み入れたとき、古墳と2 号墳の間が中世城跡の堀切のように見えた。しかしよくよく観察してみると、大きな古墳ではないかと思えた。頂部に大きな穴が開いていたが、これも盗掘坑とみれば、ますます古墳の可能性が高まる。こうして、古墳の発見につながった。  阿尾島田A1 号墳も、富山湾を見下ろす絶好の位置にある。こうした丘陵にも古墳があってもおかしくないと考え、踏査をおこなった。実際阿尾から稲積にかけて多くの古墳が尾根上に並んでいた。阿尾島田A1号墳は山道によって断ち切られているが、小矢部市の谷内16 号墳と似たタイプの前方部の長い前方後円墳ではないかと考えた。
 富山県の古墳分布をみると、西高東低の状況にある。古墳が集中するのは氷見地域と小矢部川左岸、次いで呉羽山丘陵である。
 氷見には「何々谷内」という地名が多くあるが、これは大きな河川がなく、小さな谷がたくさん入り込む地形が主体であり、こうした場所は水を容易に得ることができ水田として開発しやすかったと考えられる。古墳が多い理由のひとつとして、こうした地理的条件があるのではないだろうか。
 県東部は大きな河川が多く、古墳時代の段階ではこうした水系では開発が及ばなかったと考えられる。しかし、白岩川や上市川などの流域では古墳が確認されており、今後分布調査が進めば、小河川の水系で未知の古墳が発見される可能性は残っている。
 ここ数年で県内の古墳の数は飛躍的に増加し、測量調査や発掘調査の事例が増えてきた。
 今後もこうした地道な調査を積み重ねることで、古墳時代の様子が明らかになると思う。

柳田布尾山古墳について

氷見市立博物館主査・学芸員 大野究

 柳田布尾山古墳は、平成10 年6 月24 日に西井龍儀氏によって発見され、平成13 年1 月29 日に国指定史跡となった。
 古墳は、標高約25mの丘陵端部に立地し、平野との比高は約18m、海岸からの距離は約2km である。前方部を北北西に向けた墳丘は側面を富山湾に向け、主軸ラインは約2km南東の二上山丘陵を指している。 墳丘規模は、全長107.5m、後方部長54m、後方部幅53m、後方部高10m、前方部長53.5m、前方部幅49m、前方部高6mである。
 前方部裾に幅5~18m、深さ1.2~2.3mの不定型な周濠がめぐり、東側コーナーに陸橋がある。陸橋の幅は約2.5m、長さは約5mと推定される。
 また、古墳には埴輪・葺石がなく、テラスの幅が狭い段築によって、全体が二段になっている。
 埋葬施設は、盗掘によって大半が失われているが、後方部中央やや東寄りに、主軸とほぼ平行する粘土槨があったと考えられる。石室の構築はない。さらに土層の観察により墳丘の築造と内部施設の構築及び遺体の埋葬が、一連のものとして行われたことがうかがえる。なお、レーダ探査及び電気探査の結果、前方部では埋葬施設とみられる反応はなかった。
 墳丘は地山を前方後方形に削り出し、その上に盛土をして築造されている。盛土の厚さは前方部で約4m、後方部で約7mに達し、盛土総体積は約14000m3である。これは古墳総体積約23000m3の約60%にあたる。 2 号墳は直径約25mの円墳であり、幅約5m、深さ約1.6mの周濠がめぐる。
 柳田布尾山古墳は、日本海側最大の前方後方墳であり、全国の前方後方墳でも9番目の大きさである。
 日本海側の全長100mを超える大型古墳の分布をみると、前方後方墳は柳田布尾山古墳に限られ、さらに最も東側に位置している。
 氷見地域の古墳分布からみた場合、柳田布尾山古墳は中心から外れた位置にあり、その隔絶した規模とあわせて、氷見地域の首長墳系列では語ることが難しい。柳田布尾山古墳の被葬者は、より広域の地域の首長が短期的もしくは臨時的に連合することで登場したのではないだろうか。
 被葬者は古墳時代前期に富山湾を中心とした海上交通を掌握した人物と推定される。なお、柳田布尾山古墳は現在氷見市が公園として整備を行っており、平成18 年4 月に開園する予定である。

発掘! 阿尾島田A1 号墳

富山大学人文学部助教授 高橋浩二

 私たちが実施した阿尾島田A1 号墳の発掘の意義を要約すると次のようになる。 第一に、山崩れや山道による破壊によってやや不明確ではあるものの、墳形は前方後円墳と推定され、前方後円墳であるならば全長は約70m と考えられる。
 これは、柳田布尾山古墳に次ぐ規模であり、それによって富山県内第1 位と第2 位の大きさの古墳が氷見市に存在することになる。
 第二に、埋葬施設は、舟形ないし割竹形構造の木棺を直に土中に葬る簡易なものであったが、木棺の規模は長さ6.8m と長大なものであった。これは現在確認されている富山県内の前期古墳の中では最大であり、能登の首長墳である雨の宮1 号墳の6.5m と比較してみても遜色のないものといえる。第三に、鉄製の槍1 点、槍ないし短剣5 点、長剣1 点、鉄鏃5 点、刀子2 点、ヤリガンナ1 点、鋤先2 点、鉄斧1 点、袋状ノミ1 点、ヤス1 点、ガラス製小玉66 点、石製管玉24 点、錫製小玉7 点、ヒスイ玉1 点、碧玉(ないし緑色凝灰岩)粗割品1 点という豊富な出土品が発見され、これによって柳田布尾山古墳の副葬品の内容についても、ある程度の類推が可能になってきたと思われる。 第四に、出土品などから築造時期は、古墳時代前期中頃(およそ4 世紀中頃)と推定され、県内で最も古い古墳の一つであることが明らかになった。
 以上をもとに、富山県における古墳時代の幕開けを考えてみよう。①従来、古墳時代前期の中規模以上の古墳は、関野1 号墳(約65m の前方後円墳)や勅使塚古墳(66m の前方後方墳)など、小矢部地域や呉羽丘陵に存在すると捉えられてきたが、柳田布尾山古墳と阿尾島田A1 号墳の発見・発掘によって、氷見地域も古墳文化揺籃の地の一つであることが明らかになってきた。それによって、②内陸ルートによって加賀から小矢部へ古墳文化が伝わる以外に、能登から氷見へというように沿岸ルートの存在を想像することが可能になってきた。では、③なぜ氷見地域にこのように大型で、出土品の豊富な有力首長墳が築かれたのであろうか。その理由として、沿岸ルートの要衝をおさえるという政治的意義が大きかったのではないかと推定されるとともに、海洋や沿岸地帯と深く結び付くという潜在的地域力が有力首長墳築造の経済的・社会的基盤となったのではないかと思われる。

氷見市域における古墳時代の集落跡について
-中谷内遺跡での調査例を中心として-

富山県文化振興財団埋蔵文化財調査事務所
文化財保護主事 青山晃

 氷見市域での古墳時代集落跡の調査事例は少なく、その生活の様子を知ることは難しい。今回は、集落の様子を知る手掛かりとして、弥生時代~古墳時代の遺跡分布や、いくつかの調査例を概観する。さらに中谷内遺跡で確認された古墳時代中期末~後期の集落跡の調査成果を紹介していく。
 弥生時代では、中期以降に十二町潟と富山湾を隔てる砂州上や、潟周辺の平野部に遺跡の分布が増加してくる。古墳出現に至るまでの、生産基盤が確立されていった段階と考えられる。集落跡の調査例としては、仏生寺川流域の上久津呂中屋遺跡で後期の周溝建物4棟や掘立柱建物2棟が、上庄川流域には小久米A 遺跡で終末期の竪穴住居4棟が確認されている。
古墳時代では、古墳とそれ以外の遺跡に分けて分布を示しておく。後者は遺物散布地であることが多く、明確に集落とは言い難いが、当時の人々の生活・生産に関わりが深いものと考えておく。古墳の分布は上庄川流域が最も多く、次いで仏生寺川流域、余川流域、阿尾川流域、灘浦地区の順となる。対して、集落・遺物散布地では、仏生寺川流域を含む十二町潟周辺の平野部に中期以降のものが多く確認されている。今後、上庄川流域や他地域でも多数の古墳造営を支えた集落が確認される可能性がある。また、後期には県内最古の須恵器窯跡である園カンデ窯跡があり、当時の先進技術をいち早く導入していた地域であったと言えよう。
 集落跡の調査例として、平成15~17 年度に調査された中谷内遺跡を紹介する。仏生寺川の支流である中谷内川の両岸に広がる遺跡で、古墳時代・古代・中世の遺構・遺物が確認される。古墳時代では、竪穴住居・粘土採掘坑・自然流路・土坑などがある。竪穴住居は後期に該当し、6棟が確認される。平面形は一辺5~6mの正方形で、4本柱となる。竪穴中央付近には地床炉が検出される。いくつかの竪穴住居の周囲には幅50cm 程の周溝が掘られている。竪穴住居群の近くには自然流路があり、中期末~後期の土器が多量に出土している。土師器を中心に、須恵器・手捏土器・カマド形土器・鳥形土製品が見つかっている。また、自然流路の両岸には粘土採掘坑が多数確認され、これらも出土遺物から中期末~後期となる。竪穴住居と粘土採掘坑の時期が一致する段階があることから、粘土の採掘に何らかの関わりをもっていた可能性がある。

文献からみた射水郡の豪族と柳田布尾山古墳

富山大学人文学部助教授 鈴木景二

 柳田布尾山古墳について、文献史学の方法から位置付けを試みた。この古墳が造営された4世紀前半の文献は残されていないので、8世紀以降の史料から豪族の勢力圏を考え、それを遡及させて考察した。
 古墳の所在する射水郡の古代豪族は、射水臣氏と安努君氏が確認されている。射水臣氏は郡名をもち、射水川(小矢部川)下流域、とくに式内射水神社(二上射水神社か)付近を本拠とし、河口付近の亘理津(国津)という港をおさえ、「伊弥豆国造」にも就任したと想定されている。安努君氏は、安努郷(氷見市中心部)を本拠とし、古江郷にも居住したように氷見平野を支配した豪族らしい。射水郡の大領(郡司の長官)になっているから、射水郡を代表する伝統豪族と考えられている。
 米沢康氏が指摘されたように、ヤマト政権は北陸への進出にあたり、地域内の隣接する豪族の親ヤマト政権の方を掌握して「臣」姓(カバネ)を与え、それと拮抗する豪族を「君」姓とした。射水郡では射水地域と安努地域(氷見平野)とで両豪族が拮抗し、北陸道沿いの射水臣が親ヤマト政権と考えられる。こうした状況を、約300 年遡らせて柳田布尾山古墳の位置を検討する。これまで、布尾山古墳の立地は富山湾および二上山を意識していると指摘されている。わたしは古墳の東直下に、高岡市守山付近から海老坂を越えて氷見平野へ至る古道(巡見使道)が南北に通っていることを重視すべきと考えている。この道は、北陸道沿いの射水地域から、峠越えで氷見平野へ直通する交通路である。しかもその海老坂峠の南側には式内物部神社が存在し、この交通路が古代にさかのぼるとともに、ヤマト政権の軍事を担当した物部氏の進出を暗示する。氷見への進入路の手前に物部氏、越えたところに布尾山古墳が位置するのである。
 この状況と前方後方墳の一般的評価を勘案すると二つの解釈がありうる。前方後方墳をヤマト政権からやや独立した地方豪族の墳墓とみるなら、氷見平野の豪族(安努君氏の祖先)が、海老坂から入ってくるヤマト政権、あるいはそれを背景とする親ヤマト政権勢力(射水臣の祖先)に対して威力を誇示したものと考えられる。前方後方墳をヤマト政権構成豪族の墳墓形態とみるなら、ヤマト政権またはそれを背景とする親ヤマト政権勢力(射水臣の祖先)が、峠を越えて氷見平野に進入し支配を及ぼしたことを象徴するものと考えられる。

 

 

 

平成18 年3月31 日
編集・発行氷見古墳フォーラム実行委員会