日本海学グループ支援事業

2006年度 「完新世(過去1万2千年間)における日本海の深層水循環の変動に関する研究」


2006年度 日本海学研究グループ支援事業

参考;2004年度 中間報告
2005年度中間報告

板木 拓也

1.はじめに

 日本海の200m以深に存在する海水は、太平洋の同じ水深の水に比べて非常に冷たく(1℃ 以下)また酸素が多く溶け込んでいる(5~7ml/L)という特異な性質を持っており、「日本海固有水」と呼ばれている。この水にはズワイガニやノロゲン ゲなどの豊富な魚介類が生息し、また"日本海の海洋深層水"そのものが飲料用として活用されている。ところが、近年の温暖化に伴って、この深海の環境が徐 々に変化しつつあり(日本海学の新世紀4「危機と共生」、日本海の水の危機と保全(伊宗煥)参照)、それにともなう水産資源などへの影響が懸念される。

今後の日本海の環境変化を予測するためのひとつの手段として、過去に実際に起こった環境を参考にすることが可能である。たとえば、今から7千年ほど前(縄 文時代)は現在よりも温暖な環境であったと考えられている。このような時期に深海がどのような環境であったのかはまだ明らかにされていない。

そこで本研究では、未だ十分に解明されていない1万2千年前以降の日本海の深海環境を堆積物中に記録されたプランクトンの化石(放散虫)から推定すること を目的とした。この時代は完新世と呼ばれ、人類が農耕をはじめた時期でもある。また、それ以前の寒冷な氷期に比べると比較的に気候が安定しているとされて いる。安定しているとはいっても小規模の気候変動が繰り返し起こっており、それにともなう深海環境の変化に対してプランクトン群集は敏感に反応していたは ずである。このような変化を堆積物に記録された化石群集から捉えることで、当時の環境変化を正確に捉えることが可能である。

2.研究試料

 海底から採取された堆積物の柱状試料(コア)は、安定して堆積物が供給される環境であれば、上位ほど現在に近く深くなるほどに古い時代の堆積物というこ とになる。従って、各深さで微化石を分析すれば、環境変動に応答したそれらの群集組成の時代変化を追うことが可能となる。本研究プログラムでは、図1に示 した日本海の37地点から得られたコアを分析した。中でも図1の赤丸で示したGH93-820(秋田沖の水深3200m地点)、 D-GC-6(島根沖隠岐堆の水深932m)、GH872-308(鳥取沖の水深316m地点)の3地点で採取されたコアに特に着目した。これらのコア は、(1)それぞれ底層、中層、深層を代表する水深帯に位置すること、(2)正確な年代の推定が可能であることを条件として選定された。

図1.本研究で用いられたコアの採取地点。赤丸は、特に重点的に検討したコアの採取地点を示す。


 

 コアの堆積年代は、噴出した時期の分かっている火山灰の層がコ ア中に認められればそれを参考とすることが出来る。また、GH872 -308やD-GC-6など比較的に浅い水深から採取されたコアについては、貝や有孔虫などの炭酸塩化石が保存されており、加速器質量分析計を用いてその 放射性炭素年代を測定することが可能である。放射性炭素年代法とは、化石の骨格の炭素に含まれている放射性炭素(14C)を測定し、その半減期(5730 年)から生物が生きていた時代を見積もる手法である。この分析に加速器質量分析計を用いることで、有孔虫のような僅かな量の試料でも放射性炭素年代の測定 が可能となった。D-GC-6については、Yokoyama et al. (2007)で既に多くの放射性炭素年代が測定されている。本研究では、GH872-308の7層準(貝化石2層準と有孔虫化石5層準)について年代の測 定を行った(表1)。放射性炭素年代として得られた値(測定年代)は、太陽活動の強さや海洋循環などの影響を受けて実際の年代値とは幾分異なることが知ら れている。そこで実際の年代値を知るためにはこれらの影響を考慮する必要があり、これを暦年補正という。本研究では、暦年補正はインターネット上の補正プ ログラムCalib 5.0.2を用いて行われ、地域によって異なるΔR値は日本海の平均的な値"44±24"を入力して換算された。GH93-820の年代については、これが水深3200m と炭酸塩の保存されない深い水深から採取されているため、有孔虫などを用いた放射性炭素年代の測定は不可能である。しかし、このコアには広域火山灰として 白頭山―苫小牧(B-Tm:1000年前)、喜界-アカ ホヤ(K-Ah:7300年前)、鬱陵-隠岐(U-Oki:10700年前)が存在するため、これらを年代の基準とした。

表1.コアGH872-308から測定された放射性炭素年代。暦年は2σ。

層準(cm)

測定年代(年前)

歴補正年代(年前)

材料

45-47

3490±40

3210 - 3400

底生有孔虫

91-93

6550±40

6889 - 7148

底生有孔虫

131-133

8690±50

9148 - 9448

底生有孔虫

182

9770±50

10478 - 10731

211-213

10070±50

10780 - 11160

浮遊性有孔虫

226

10960±70

12199 - 12764

293-295

11400±40

12840 - 12960

浮遊性有孔虫

 

 図2には、コア GH872-308について堆積物の深度に対する堆積年代の関係を示した。226cmの貝殻を基にした年代値は堆積速度を示す直線から幾分離れており、再 堆積または生物擾乱などの影響を受けた貝殻を測定した可能性がある。本コアには広域火山灰である喜界-アカホヤ(K-Ah)と鬱陵-隠岐(U-Oki)が それぞれ深度0~ 104cmと166cm狭在している。これらの火山灰は、それぞれ約7300年前および10700年前に噴火したと考えられている。放射性炭素年代に基づ く堆積速度からもこれらが7300年前と10000年前の層準にそれぞれ対応しており、この堆積速度の妥当性がわかる。図からも明らかなように、約 9500年前を境界 にして、それよりも下位では堆積速度が著しく速い。これは、最終氷期が終わって海水準が急激に上昇し、それにともなって陸源砕屑物の日本海 への供給が増加したことと関係していると考えられる。

 

図2.浮遊性有孔虫(Planktonic foram)、底生有孔虫(Benthic foram)、貝化石(Shell)の放射性炭素年代測定に基づくコアGH872-308の堆積速度の変化。年代値の幅は2σで示してある。

 

3.放散虫群集の変化

 3本のコアGH872-308、GH93-820、D-GC6に保存されている放散虫化石を詳細に観察したところ、未査定種も含めて現在までに188種 が確認された。深海環境の指標として本研究でとくに注目しているのは、Actinomma borealeとCycladophora davisianaという2つの種である。以前行った日本海におけるプランクトンネットの調査結果から、前者は水深1000m以深、後者は500m以深の 深海に限って生息していることが明らかにされている(Itaki, 2003)。そして、これらは、深海の冷たく酸素に富んだ環境を好んでいる低温・好気性の種と考えられる。また、両種の現在の分布などから判断すると、 A. borealeの方がより低温で酸素に富んだ環境を好んでいるようである。すなわち、A. borealeとC. davisianaのコア中における産出を見ることで、過去の深海環境がどのような状態であったかを推定することが出来る。また、深海の環境変化は、表層 環境の変化とも密接な関係がある。例えば、対馬海流によって運ばれた塩分の高い海水は、ウラジオストック沖で冬に冷却されることで密度が増加し、これが深 海にまで沈み込んで日本海固有水を形成している。そこで、外洋からの高塩分水の指標として対馬海流の表層水に生息するDictyocoryne spp.の変化を先の2つの深海種と比較した(図3)。

 

図3.対馬海流指標種(Dictyocoryne spp.)、深層水指標種(Cycladophora davisiana)、底層水指標種(Actinomma boreale)の全放散虫に対する相対頻度変化。緑線、紫線、青線は、それぞれ中層、深層、底層の水深帯から採取されたコアのデータである。橙帯は、 C. davisianaの値が、底層で著しく増加した期間を示している。

 

 図3からも明らかなように、ここに示した種はそれぞれ異なった変動を示し、また水深(海域)によってもそれらの頻度やその変化パターンが異なる。
 A. boreleは、3200mで採取されたコアGH93-820では9千年前以降産出するのに対し、1000mよりも浅い水深で採取されたそれ以外のコアに はほとんど認められない。これは、本種が常に底層に生息していたことを示している。GH93-820に記録された本種の頻度変化から、5つの時期が認定で きる。すなわち、1万1千年~9千年前(産出しない)、9千年~7千5百年前(産出の開始)、7千5百年~6千年前(一時的な減少)、6千年~2千年前 (著しい増加)、2千年前~現在(やや減少)である。
 C. davisianaの相対頻度は、深い水深で採取されたコアでより高い値を示す。また、いずれのコアでも1万1千年~9千年前では増加しており、その後、 徐々に減少する傾向がある。本種の現在の生息水深は500m以深であるため、現在から約2千年前までは900m以深で採取されたコアD-GC-6と GH93-820には本種が産出するものの、316mからのコアGH872-308にはほとんど産出しない。しかし、1万1千年~9千年前には、コア GH872-308でも比較的に高い産出が認められることから、当時の本種の生息水深は300m以浅に広がっていたと考えられる。図中で橙色の帯で示した 期間は、3200mから採取されたコアの値が932mのD-GC-6よりも著しく高い値を示した期間である。このように水深に伴って産出頻度が増加するの は、本種の生息水深が1000m以深にも広がっていたことを示唆している。言い換えると、両深度帯で頻度が類似する9千~8千年前や6千~5千年前は、本 種の生息深度が1000m以浅に限られていた。
 Dctyocoryne spp. は、対馬海流の影響を強く受けた日本海南部で採取されたコアGH872-308とD-GC-6では多産するものの、対馬海流の流軸から外れたコアGH93 -820ではほとんど産出しない。本種の産出頻度は、日本海南部では9千年前以降になって急激に増加し、4千年前付近には一時的に減少する傾向を示す。

4.完新世の深層循環

 上記に示した深層・底層種の動態は、深海環境の変化を敏感に反映した結果であると考えられる。以下に放散虫群集の変化から推定される日本海の深層循環を 5つの期間に区分して説明する。また、それぞれについての概略を図4に示す。なお、ここで言う"対馬海流水"、"深層水"、"底層水"という用語は、それ ぞれDctyocoryne spp.、C. davisiana、A. boreleの多産する水塊として便宜的に定義したものであり、水塊特性や水深などを厳密に定義したものではない。

 

図4.放 散虫化石群集から推定される完新世日本海の深層循環

 

 1万1千年~9千年前:対馬海流水の流入が少なかったが、表層水が日本海北部での冬季冷却や海氷の発達などにより沈降し、深層水が活発に形成され、しか もその分布は水深<300mから3000mに達する広い範囲に及んでいた。一方、この時期には底層水は形成されていない。
 9千年~7千5百年前:対馬海流水の本格的な流入に伴い日本海に供給される高塩分水が増加した。その結果、冬季冷却による表層水密度の増加が促進し、底 層水の形成が始まった。この期間の深層水の分布は、1000m以浅に限られていた。
 7千5百年~6千年前:縄文海進期として知られる温暖気候で表層水の冬季冷却が弱まり、底層水の形成も一時的に減少した。代わりに深層水がやや増加し、 その深度分布も1000m以深にまで広がった。
 6千年~2千年前:この時期の寒冷化(ネオ氷期)に伴い対馬海流水の流入はやや減少した。しかし、冬季モンスーンの強化に伴い表層水の冬季冷却が促進 し、大量の底層水が形成された。また、この時期における深層水の分布の中心は、1000m以浅にあったもとの考えられる。
 2千年前~現在:対馬海流水の流入は、この期間、2度の極大を示して現在とほぼ同様の値となる。底層水の形成がやや減少して、代わりに深層水の分布中心 が1000m以深に移り、またその形成量も増加した。
 以上を概観してみると、深層水と底層水の変化は、それぞれ逆の関係にあるようである。すなわち、底層水が減少すると、深層水の分布が広がり、またその形 成量も増加する。逆に底層水が増加すると、深層水はその分布の中心が1000m 以浅に移行し、形成量も減少する傾向にある。対馬海流水の流入がほとんど無かった1万1千年~9千年前を除けば、底層水の減少と深層水の増加は、比較的に 温暖な時期に現れる傾向がある。この原因としては、温暖化に伴い表層水の冬季冷却が減少して沈み込み深度が浅くなり、またそれによって深海における酸素量 の供給が消費を下回ってしまうことが考えられる(図5)。

 

図5.寒 冷期と温暖期における深海循環のモデル

 

5.おわりに

 本研究では、東アジア地域の気候変動が日本海の深層循環に大きく影響していたことを明らかにした。完新世における日本海の深海環境動態をここまで詳細に 明らかにした研究はこれが最初である。ここで最も注目されるのは、温暖期に底層水の形成が抑制されて、代わりに深層水の形成が促進されていたという点であ る(図5)。同様の現象は、現在も起きつつあることが海洋観測から指摘されている。それによれば、過去数十年の気候の温暖化に伴って表層水の沈降が深層水 で留まり、底層水の溶存酸素量が徐々に減少しているらしい。今年(平成18年度)は例年にない暖冬が世界各地で観測され、環日本海においてもそれが認めら れていた。このような冬がもし毎年のように続くようであれば、縄文海進期のように底層水の形成が無くなって深層水が広がるか、あるいはそれ以上に状況が進 行すれば深海の酸素が完全に消費され尽くして2万年前の最終氷期に存在したような無酸素環境が形成されることも否定できない。仮に近い将来このような状況 が起きた場合、我々は海産資源に与える影響をより正確に評価する必要があるだろう。
 最後に、本研究を推進するにあたり富山県「とやま国際センター」より平成16~18年度の日本海学研究助成金の援助を受けた。また、北海道大学の小泉  格名誉教授と大場忠道名誉教授、東京大学の多田隆治教授、産業技術総合研究所の池原 研博士には、研究に対する様々な助言や試料の提供を受けた。以上の方 々にお礼申し上げる。