日本海学グループ支援事業

2006年度 「富山県お雇外国人教師C.L.ブラウネルの研究」


2006年度 日本海学研究グループ支援事業

高成 玲子

1.はじめに

 ブラウネルの2作目の著作『日本の心』第27章「宣教師たち」('Missionaries and Missionaries')は、1902年4月ロンドン日本協会第58回例会席上でブラウネルが発表した「本願寺と日本の仏教プロテスタンティズム」 ('HONGWANJI AND BUDDHIST PROTESTANTISM IN JAPAN')と深い関係があることが分かってきた。さらにその4ヵ月後、『日英新報』("ANGLO=JAPANESE GAZETTE")1902年9月号掲載の'The Japanese Archaeological Expedition'と比較検討することによって日本時代のブラウネルと本願寺関係の人々とのかかわり、ロンドンにおけるブラウネルと本願寺関係の人々 のつながり、さらにキリスト教徒ブラウネルが見た日本の本願寺派の仏教はどのようなものだったのか、が次第に明らかになってきた。とはいえ、ブラウネルの 足跡をたどることは、特にアメリカ時代に関しては、あいも変わらず暗中模索である。だがこの1年で行く手に大きな光を見出した、ブラウネルが直ぐそこにい るという確かな手ごたえを感じることができるようになったことも事実である。本稿では、先ずブラウネルの訃報記事からブラウネルにとって日本時代の経験が どれほど重いものであったかを確認し、次に『日本の心』第27章「宣教師たち」('Missionaries and Missionaries')と「本願寺と日本の仏教プロテスタンティズム」('HONGWANJI AND BUDDHIST PROTESTANTISM IN JAPAN')、および『日英新報』("ANGLO=JAPANESE GAZETTE")1902年9月号掲載の'The Japanese Archaeological Expedition'を比較検討することによって、キリスト教徒ブラウネルが見た日本の本願寺派の仏教はどのようなものだったのかを明らかにしたい。

2.ブラウネルの訃報記事

 クラレンス・ラッドロウ・ブラウネルに関する記録はこれまで
  1.『富山縣報』明治21年11月
  2.WHO WAS WHO IN AMERICA, vol.1 1897-1942
  3.Encyclopedia Americana 1947年版
  4.The obituary of The New York Times, Feb. 3, 1927
の4件であると考えてきたが、新たに『インディアナポリス・スター』紙及び『シカゴデイリー・トリビューン』紙にもブラウネル訃報記事が掲載されているこ とが判明した。現在把握している訃報記事は『ニュヨーク・タイムズ』紙を併せて3紙であるが、いずれもAP通信によってフロリダ州ジャクソンヴィルから発 信されている。今後調査が進展すればさらに別紙掲載記事が見つかるものと期待される。これらの訃報記事から言えることは、1927年(昭和2年)当時、こ れらの有力紙に訃報記事が掲載されるほどブラウネルは全米で名前を知られた人物であったということである。中でもとりわけ詳しい『ニューヨーク・タイム ズ』紙の記事は、今なお不明な部分が多い彼のアメリカ時代を推し量る手がかりを与えてくれる。(末尾の図参 照)大きな見出しC.L.BROWNELL DIES; STUDENT OF ORIENTのSTUDENTは学者、研究者と考えてよかろう。ORIENTという表現はやや古めかしい感じを与えるが、STUDENT OF ORIENTで「東洋学者」、ブラウネルは東洋学者として知られていたのである。中見出しAuthor and Educator, 63, Who Taught in Japanese Schools, Was Ill for Five Yearsから彼は著作者であり教育者であると考えられていたこと、またその彼にとって日本の学校で教えたことは大きな経歴となっていたことが分かる。記 事本文でも触れられているが、5年前に病に倒れた彼は療養のためにフロリダへ来ていたようである。次にひときわ大きな活字でHE AIDED BRITISH MUSEUMとある。アメリカ人にとっても大英博物館で仕事をすることは大きな名誉だったのである。イギリスから帰国した後、教師をしたり雑誌記事を書い たり、また教育制度についての研究を行ったりしたことが小見出しで付け加えられている。遺体は葬儀のため生地コネティカット州ハートフォードに送られた。 記事本文では彼の日本時代についてかなり詳しく述べられている。日本にいた間、現地の人々に混じって、現地の人々と同じような暮らし方をしたこと、私立学 校と公立学校で英語と兵式体操を教えたが、ほとんどいつも彼以外に「外人」がいない小さな学校で過ごしたこと、そのためにもっと長い間東洋に滞在しても外 国人居留地にしか居なかったような他の多くの人々よりも、はるかに日本人の心理を理解できるようになったのだという。彼の学歴に続いて、日本で5年間滞在 した後、イギリスへ行き、新聞の通信員をしたり東洋の問題について特別寄稿をしたこと、さらに1903年大英博物館で日本の歴史と仏教に関して特別研究を したことが書かれている。次に再びアメリカに戻って、サンフランシスコ『イースト&ウエスト』紙の準編集長、『クラリオン』紙編集員を経てデイトンラテン 語学校校長、ヴァルパライソ大学教師など、晩年になって再び教職についている。記事は最後に、彼はロンドン日本協会会員、王立地理学会フェロウ、その他の 会員であることを記し、彼の著作のタイトルをいくつか挙げて終わっている。
 『エンサイクロペディア・アメリカーナ』に挙げられている著作は9冊、Tales from Tokio(1900), Hongwanji at Home and Abroad(1902), The Heart of Japan(1902), Japanese Wrestling(1903), Japanese Archery(1903), Japanese Swordsman(1903), Europe and America in Japan, Japan in California(1906), The Pacific Pacific Ocean(1914), Japan's War Limit(1919) すべて日本に関するものであり、彼の一生は日本との関わり抜きには考えられない。まさにStudent of Orientという称号にふさわしいものであった。

3.ロンドン時代

 ブラウネルのロンドン時代の足跡を確認しておこう。ブラウネルの署名入り記事、発表論文および関係記事は次の通りである。
 1  4/09/1902 The Japan Society 58th meetingにて発表
     'HONGWANJI AND BUDDHIST PROTESTANTISM IN JAPAN'
 2 『日英新報』1902年7月号 THE JAPAN OF TODAY
 3 『日英新報』1902年8月号 JAPANESE COURTS
 4 『日英新報』1902年8月号 園遊会出席者名中にブラウネルの名前
 5 『日英新報』1902年9月号 THE JAPANESE ARCHAEOLOGICAL EXPEDITION
 6 『日英新報』1902年10月号 THE HOUSE TAX QUESTION
 7 『日英新報』1902年10月号 "The Heart of Japan"書評
 8 2/11/1903 The Japan Society例会出席者名中にブラウネルの名前
これらから見る限りブラウネルの活躍は1902年4月から翌年2月に集中しているように見える。しかし拙稿「ロンドンのブラウネル」(『東日本英学史研 究』第3号、2004年)で検証したように、その当時の英学界の元も有力な指導者だった神田乃武の日記(『神田乃武先生―遺稿と追憶』)にはロンドン滞在 中の1901年8月9日、 Went to Cook's and bought tickets for the Northern tour as far as Newcastle. The whole trip covers 1062 miles. Met Mr. Brawnell at the British Museum, and went with him and Prof. Scott of Ann Arbor to have tea and chatted for over an hour.
と書かれている。Brawnell はBrownellと考えてほぼ間違いないと考えられるので、ブラウネルは1901年8月には既に大英博物館で仕事をしていたことになる。『日英新報』8 月号の「大谷探検隊のロンドン出発」記事において During the past two years he has been at work in Sanscrit and Ancient Chinese in the British Museum.
と書かれていることをも考え合わせるとEncyclopedia Americanaの記載には誤りがあり、WHO WAS WHOの'... 1900-02; spl. Work on Japanese history and Buddhism, British Museum...'は正しい記述であるとみなすことが出来る。すなわち、ブラウネルは1900年ニューヨークでの『東京からの物語』の出版と相前後してロン ドンに渡り、ほぼ2年間にわたって大英博物館の仕事をした。そのあいだに大谷光瑞をはじめとする本願寺の人々との関係が深まり、『東京からの物語』ではほ とんど触れられることのなかった浄土真宗本願寺派についての記述が『日本の心』に付け加えられた。またそれと同時に、日本協会で発表された「本願寺と日本 の仏教プロテスタンティズム」が準備されていったと考えられるのである。

4.『日本の心』第27章「宣教師たち」

 『日本の心』はブラウネルの第1作『東京からの物語』を下敷きに、それに斧鉞を加え練り上げたものであり、重なる部分も多い。「宣教師たち」の前半は 『東京からの物語』の「耶蘇の宣教師」、後半はその後に書き加えられたものである。その書き加えられた部分が「本願寺と日本の仏教プロテスタンティズム」 と重なる。先ず最初に日本に居る宣教師たちの生活ぶりが語られる。彼らは本国から十分な経済的支援を受けていること、先ず日本語を覚えなければならない が、これがなかなか大変な仕事であることであることなど、ミッションスクールに来る学生の中にはそこを利用する目的のものもいるが大多数の学生は、宣教師 から謙譲と穏和さを教わらなくてももともとそういった美徳の持ち主であることなどである。あるとき金沢の宣教師を尋ねた帰りにブラウネルたちは本願寺派の 友人と一緒になったという件から、話題は宣教師から本願寺へと移っていく。

その友人の家が京都にあり、京都で彼はアメリカ人宣教師たちが二十年前に 建てたキリスト教系の大学、同志社の教師たちの活動を、興味を持って研究していた。彼はアメリカにもヨーロッパにも行ったことがあり、オックスフォードで は、歴史と哲学研究の勤勉さでかなり注目を浴びていた。マックス・ミューラーのもとで学んだ人だと私は思っている。彼はキリスト教を称賛していたが、公平 な判断のみを求めていた。数里ばかり南にある有名な温泉へ徒歩で歩いて行った途中、彼は私たちに話した、
「私たちは同志社の人たちと仲良しです。彼らから多くを学びました。私たちの僧侶は、この素晴らしい宗教が生まれた土地で宗教制度を研究するために、海外 へ行きました。イエスは私たちが仏陀と呼んでいるものによく似ているように見えます。又、キリスト教も、仏教と同じく、幾つもの宗派に別れていることを 知っています。しかし、大体のところ、仏教の宗派は、キリスト教の宗派ほど争わず、互いに軋轢無くやっているようです。少なくとも、新聞紙上で批判するこ とはしません。海外にいた頃はただの学生で、教科書に時間の大半を奪われて、残念ながら、他のものを沢山読んでいません。横浜や神戸の新聞に多くの非常に 不愉快な投書が掲載されています。私は、同志社の人たちがそんな手紙を投稿したとは、思いません。
「研究されもしないで非難されるなんて、不公平に思えます。私たちは宣教師たちを日本から締め出すことを望んでいません。寧ろ歓迎しています。私たちをい つも慌ただしくさせているほど、仕事が沢山あるんですから。でも、私たちに真理を教えにやってきている人たちに私たちの教理を研究し、私たち自身がこの真 理のいくらかを持っていることを見て貰いたいのです。宣教師で仏教を研究している人が他処此処にいますが、その実例はごく僅かで、私たちの間で生活してい る人たち男女の数パーセントにもなっていません。日本の人たちを知らないでいて、どうして日本の人たちを教えれると思うのでしょうか?民衆の宗教を知らな いで、どうやって人々を理解できると思っているのでしょうか?我教団の外務省の役人は洋行する前にキリスト教の勉強をしています。それは外交官としての訓 練の一部になっているのです。とすれば、宗教の伝導師たちが伝導に行く土地の信仰を勉強することが、どれほどより多く必要でしょう。

「私たちの僧侶はキリスト教を研究するために海外へ行った、」「民衆の宗教を知らないでどうやってその土地の人々を理解できるというのか」というこの表現 は、ここでは独りの本願寺派僧侶の言葉として語られている。この後、宣教師が中国で失敗した理由は中国人の祖先崇拝の気持ちを誤解したことにあると説き、 本願寺の目指しているものとキリスト教が目指しているものはそれほど違っているとは思えない。そんならともに手を携えて進むことが出来るのではないかと僧 侶は続ける。

  「イエスが教えたこととキリスト教徒がすることが何故あんなに違って いるのか、私たちは理解できません。イエスは「汝の敵を愛せよ」と言いましたが、キリスト教徒は何処かでいつも戦っています。キリスト教徒がどれだけ多く のキリスト教徒を殺してきたでしょうか?なぜ?その答えを私たちはイエスの教えの中に見つけることはありません。(中略)私たちは生け贄より開放の話を信 じます。エホヴァが己が息子を捧げ出した話はドゥルイド族が抱いていた考えと同じく、人身御供の考えに立脚した神話に近いものです。新日本は科学的であ り、批判的です。外国の思想を比較することを学び、識別することを学んでいるところです。日本は外国の思想を、初めはそうせざるを得なかったのですが、 そっくりそのまま受け入れました。その体験は日本に評価判断の拠り所となる何物をも与えませんでした。人間の堕落と救済といった宗教的理論、計画、プラン は、殆ど大衆の受け入れるところではないのですが、キリスト教はそれら無しでも、進んで行けるだろうと、私は思うのです」

ブラウネルが金沢からの帰路、実際に本願寺派の僧侶と同行することになったか否かは別として、ドゥルイドの例まで引き出して、この堂々たるキリスト教批判 を展開した人物は大谷光瑞から派遣されてオックスフォードに留学した数名の学僧の一人ではないかと推察される。ベルリンやパリに学び、さらにオクスフォー ドで研鑽を積んだ藤井宣正、薗田宗恵といった大谷光瑞側近がブラウネルの近くに居たことをうかがわせるところである。

5.「本願寺と日本の仏教プロテスタンティズム」

この日(1902年4月9日)ブラウネルの発表に先立って議長のアーサー・ディジーはブラウネルが『東京からの物語』という著書を著していることと、彼の 日本での5年間は他の人が普通に過ごす15年分にも相当すると紹介している。『日本の心』に言及していないところを見ると、この時点では『日本の心』は未 だ刊行されていなかったことが分かる。

  日本は最初「芸術の日本」として我々の前に登場した。まもなく日本は 富国強兵の日本、近代国家たりうる日本であることを示した。明治維新後の廃仏毀釈の嵐の中で、仏教は衰退していくかに見えた時期があった。ところが大方の 予想に反して仏教界は大きな巻き返しを図った。その中心にあったのが法然の弟子親鸞によって開かれた浄土真宗であった。それを率いるのは親鸞(日本のマル ティン・ルターのような存在だと宗徒は考えている)の子孫、大谷光尊(本派または西本願寺派)と大谷光叡(東本願寺派)で、西と東があるのは家康によって 政治的に分けられたからである。親鸞が皇統の血を引いていたので、大谷家は特別な存在と考えられており、法主の地位は代々世襲される。

彼は詳しく本願寺の成立を語る。さらに次の事情は日本時代に富山、福井の宗教事情をつぶさに見てきたことに加えて、大谷光瑞やその側近たちと交流があった からこそ語れたことではないかと思われる。

  浄土真宗が立ち直ったのは大谷光尊の力によるところが大きい。彼は先 ずキリスト教伝道方式を見習って、国内だけでなく中国、朝鮮、ハワイ、アメリカ等々に本願寺別院を作り、伝道隊を送り出した。伝道先の言語を学ぶ学校や医 学校を作り、一方で優秀な若い学僧を英米に送り出して、西欧の哲学、倫理学、宗教を研究させた。その中には光尊自身の息子大谷光瑞もいる。光瑞は王立地理 学会のフェロウであり、この日本協会のメンバーでもある。光尊は教団を組織化して五修行省からなる管理形態を打ち立てた。さらに大金を積んで災害の際の人 道支援もしているし、生命保険会社も作った。これらに必要な経費は蓮如生誕400年祭を機に全国の門徒宗に割り当てられたものである。
本願寺はキリスト教に対して偏見なしに大きな関心を持って見ている。十分に研究し、最近設立された同志社は人々を教育していく上でどうしたらよいか、よい 例を示してくれていると考えている。アメリカ、ベルリン、パリ、ロンドンで学ぶ学僧たちはキリスト教を打ち立てた人々の生涯に大きな関心を抱いている。し かし、キリスト教国同士が何故争うのか不思議に思っている。「キリスト教各宗派が目指すものは結局あまり違わないのではないか。仏教もキリスト教もともに 衆生の救済を目指しているのだから、仏教徒とキリスト教徒は互いにやっていけるはず。日本亜細亜協会の紀要を見ると、仏教を研究する人はあまりいないよう に見える。西欧人に仏教を研究してほしい。宗教を理解しないでどうしてその民族を理解できるであろうか。」これが学僧たちがたどり着いた結論である。

時間をかけて直に見聞きしたものにしか語れない内容がさらに展開してくのであるが、『日本の心』の「宣教師たち」の内容は、ここで述べられていることのほ んの一部に過ぎないことが分かる。この後に続く「神道は本願寺派のように民衆の心を捉えているわけではない」という記述はブラウネルが北陸にいたからこそ 出て来る言葉で、ラフカディオ・ハーンのように出雲で暮らしていたらまた別の所見があったことであろう。さらに本願寺では1年を通してどのような行事が行 われるか、浄土真宗における「自力と他力」について述べ、最後にグリフィスの『皇国』を引用して、次のように結論付けるのである。

  仏教は、それを研究したたいていの外国人には、キリストのいないロー マンカトリック、或いはアジア型のローマンカトリックに過ぎないのではないかと思えてくる。真宗はプロテスタントの信仰教義の一形態を有しており、イエス の代わりに仏陀を信じている。目的の単純さがこの宗派の特徴である。

5.ブラウネルと本願寺

このように見てくるとブラウネルは日本の仏教の理解者というよりも本願寺教団のあり方への理解者でありスポークスマンとしての役割を果たしているように思 われる。彼は1888年(明治21年)11月から1890年(明治23年)3月まで富山県尋常中学校外国人お雇い教師であった。半年のブランクを置いて福 井県尋常中学校にも勤めた。富山も福井も浄土真宗の非常に盛んな土地柄である。恐らくブラウネルが暮らしていた頃は現在よりももっと人々の信仰心は篤かっ たことであろう。しかも『日本の心』によれば、ブラウネルと友人のガードナーの宿舎となったのは浄土真宗のお寺であった。講演の中で福井の信仰の篤さに触 れてもいる。5年足らずの在日期間のうち、半分以上を富山と福井で過ごした、そのことが彼の日本観を決定的なものにしたのではないだろうか。人々の暮らし に生きる神道の心よりも、光尊師(明如上人)の北陸巡幸(巡行)の後先を熱狂的に追いかける宗徒の熱気のほうが彼には圧倒的なものに感じられたのであろ う。そのせいであろうか。『日本の心』第25章「神々の中で」に出て来る神々もすっかり仏教化して仏の眷属に変身している。若き日のブラウネルにクリスチャンの臭いを感じ取ることは難しい。本願寺派僧侶の言葉を借りて旧約聖書と新約聖書の違いに言及している程度である。ロンド ン大英博物館で大谷光瑞一行と親交を深め、その結果大谷探検隊のロンドン出発を世界に報じることになったことは北陸で過ごした日々とは無縁ではあるまい。 かつて富山県尋常中学校でブラウネルの並外れて優秀な生徒であった南日恒太郎は、今や神田乃武の片腕として活躍しているのである。その神田がロンドンでブ ラウネルと談笑する、そのあいだを取り持ったのは南日恒太郎であったか、はたまたブラウネルと神田にそのような仲立ちは必要でなかったのか。日本と英国の 関係が最もよかった時代に、かつての北陸での人脈が大きな輪を描いてロンドンにまで広がっているような気がするのはわたしだけだろうか。

6.終わりに

この1年間、それまでいくら手を尽くして資料を探しても手がかりが得られなかったことが、国立国会図書館、横浜開港資料館に加えてアメリカ大使館リファレ ンス資料室の協力と龍谷大学図書館の協力を得て大きな進展を見ることが出来た。未だ全貌解明とはいえないが最終段階に達しつつあることを確信している。5 月のアメリカでの調査によって、一度は最もよく知られたジャパノロジストであったブラウネルが何故、いま全く忘れ去られてしまった存在となったのかも含め て、彼のアメリカ時代を明らかにしたいと考えている。

残念ながら平成18年度中にブラウネルの全貌を明らかにし、『日本の心』翻訳を刊行するという所期の目的達成にはいたりませんでしたが、研究に大きな成果 を得られたのは、日本海学研究グループ支援事業による助成を頂いたお陰であると深く感謝しています。

『ニューヨーク・タイムズ』のブラウネル死亡記事