日本海学グループ支援事業

2006年度 「魚食文化調査研究事業」


2006年度 日本海学研究グループ支援事業

参考;2007年度 報告

富山県伝統的食文化研究会
会長 田中 晋

 富山県伝統的食文化研究会では、平成18年度事業として富山県内の「魚食文化研究事業」を行った。
 まず、昭和の後期まで引き継がれてきている伝統的な魚食に関して、文献による記録を収集した。特に伝統的な魚食文化ということで、各市町村誌(史)の記 載を調べた。
 次に特徴的な魚食文化として、今回は朝日町宮崎のヒメ貝・オイボ、魚津のスリカマボコ、珊瑚蝦・弁慶蝦について聞き取り調査を行った。
 また、「富山の鱒の寿し」のルーツの検証も行った。以下にその内容を報告する。

1.引き継がれている魚食文化

まず、現在に引き継がれている富山県の伝統的な魚食文化に関して一般的な文献として、「聞き書 富山の食事、1989:農山漁村文化協会」が、代表的な資 料といえる。また、同協会の「日本の食文化⑥北陸、2006」も写真の多い文献である。
 同書の中で取り上げられている魚食にかかわるものは多い。生食、焼き魚、煮魚、干物など、基本的な魚食方法を除き、特徴のあるものを選ぶと、  イワナの骨酒、イワナずし、アユずし、ドジョウのかばやき、タニシとこんにゃくの 味噌煮、オキノジョロウの田楽、イカの黒作り・赤づくり、サバずし、ニシンのこんぶ巻き、ニシンのこんか漬け、こんかイワシ、イワシのすり身かまぼこ、イ ワシのぬた、イワシの生漬、タラのこぶじめ、たら汁、三平汁、棒だらの炒り煮、ホタルイカの甘露煮・酢味噌あえ、シロエビのてんぷら・酢のもの、ゲントの 煮なます、ブリの残と大根の煮もん、棒ノリのつくだに、べっこう、おせずしなどがあげられる。
 次に、市販されていないが「とやまの水産加工、2002:富山県水産加工業協同組合連合会・富山県食品研究所」が古今の水産加工品について、ほぼ網羅し た形で専門的知見に基づいて記されている。この中では、富山・石川県に共通する伝統食品として、イナダ、カブラずし、糠いわし、いしる(いしり)が、また富山県の水産加工品として、塩ブリ、 氷見イワシ、煮干し、ホタルイカ加工品、シラエビ加工品、黒作り、マスずし、かまぼこが挙げられている。

2.市町村誌(史)にみられる魚食文化

 今回は、漁獲物としての、水産生物ではなく、加工品や地域の特色がある水産物を求めて、富山県内の沿岸域を中心に市町村誌(史)などに記されている魚食 文化を調べてみた。

①宮崎村の歴史と生活-舟と石垣の村-:昭和29年(1954)年8月20日発行 宮崎村の明治42年現在の漁業権として、鰮地曳1、刺網4、配縄83、釣83、採藻6(下新川郡史稿)がある。採藻はワカメ及びモヅクを採集したものであって、「宮崎のワカメ・モヅク」として古来著名であった。ワカメは灰にまぶして乾燥 し、モヅクは乾かし又は生のままで売り出した。(以上の調査は明治末期のものであるが、-中略-江戸時代も同様であったと考えられる。
 「宮崎の名産 鱈」として、藩政時代には新川郡より初 鰤と共に初鱈を藩主に献上する慣例になっていた「文政4年(1828) 初鱈170本(田村旧記)」「年未詳 初鱈200本(魚津町史)」。また、「海の幸 宮崎の雛鱈」として、「鱈の餌には赤イカ(蛍イカ)が最もよい」「鱈 汁」と記されている。
 わかめ・おいぼについては、「和布の口明は5月半頃で、日はきまっていない」「舟で刈りとる」「子供や女達は 藁灰の用意をする」「和布を熱い藁灰の中に放り込んで、混ぜ合わせて丁寧に砂や小砂利の上に拡げて乾かす」「もとは浜辺に縄を張って吊って干したらし。一 番取りは値も高く品質も極上で、その後、二番、三番取り→自由取りになる」と記されている。しかし、「宮崎わかめ」の灰付加工の起源について、記録も伝承も残っていないとの記述が ある。
 また、「オイボは6月27日の御絵様迎えの日が口明け。岩礁地帯が 中心で、孟宗竹で作ったツケを沈めた。」との記載がある。
 水産統計の記録として、明治29年「い貝」23円、明治34年「い貝」15円とあるが、これ以降は記載されていなかった。

 

②魚津町史:明治43年(1910年)1月10日発行
 漁業の盛んな魚津町の記録には、鱈、鰤、鮫、鮟鱇などの漁獲物としての魚の名前が多く記されている。加工品に関する記載も多く、明治37年から41年の 「魚津町水産製造物統計表」を見ると、
素乾:鰹節、鰑(スルメ)、田作(カタクチイワシ)、蛍烏賊、鱶鰭、干蝦
塩乾:鰮、鯖、鰺、鰤、鱈、鱰(シイラ)、似鱚、干鰰(ハタハタ)
煮乾:鰮、蛍烏賊、蝦、珊瑚蝦、摺蝦、翁粉
塩製:鰮、鯖、鮪、蝦、鱰、黒作、湯出烏賊、塩鰹
と記されている。
 この中の「珊瑚蝦」について、「下新町には本町(魚津町)の重要物産たる、珊瑚蝦を製造するものあり(四十万半右衛門外12 名)」とあり、また、「下猟師町に稲垣榮吉というあり、故濱田興五郎と協力して水産業に関し大いに尽力したる結果、現に其の影響を受けつつあるものあり と、そして同人は現に盛に干魚を各地に輸出するを業とすという、又本町の珊瑚蝦は元同人の工夫に基づくものなりと、本町の為め幸に健在なれ。」という記述 がある。この「珊瑚蝦」は、現在では見られない。

③魚津市史 下巻 近代のひかり:昭和47年(1972年)3月25日発行
 魚津市の史跡・観光として「タイ網と弁慶エビ」が取り上げられている。その記載内容は、
 「弁慶エビ」は、観光魚津にとって、見過ごすことができない名産品 とされ、名前の由来は、古来無双の豪傑として、また満身の力をこめたときに真っ赤な顔でも後世の人びとに伝え親しまれている、かの弁慶になぞらえて名付け られたものであるという。
 弁慶エビ製造の元祖は、高月三四郎(滑川の高月出身)といわれており、藩政時代に魚津で廻船問屋と水産業を業としていた。当時、年に一度は加賀藩に献上 していた。明治になって、彼の末裔は高橋姓を名乗り、姻戚の鍼田家とともに、今日にその製法を受け継いでいる。
 かつて、大正天皇が皇太子のころ、魚津でタイ網を台覧されたおりに、魚津名産として献上されたのはじめとして、大正15年(1925年)に、今上天皇 (昭和天皇)が皇太子として行啓されたさいも、県の物産陳列場で台覧に供され、記念状が授与されている。爾来今日まで、県内外の各種博覧会や品評会におい ても、数多く受賞している。
 弁慶エビのまたの名を、珊瑚エビというが、これは、明治初年に県の役人と四十万某が相計らって珊瑚に似 ているとして名づけたものである。

④魚津市史 下巻 現代のあゆみ:昭和47年(1972年)3月25日発行
 魚津の雑煮について、次のような記載がある。
 魚津風といえば、「コト」といわれる「かけ汁」に特徴がある。年暮れのうちに魚を素焼きするが、この魚をとくに雑煮魚といい、おもに福来魚(フクラギ)が用いられる。鰤の成長途次の魚である。正月魚・雑煮魚とし て選ばれたので、福来魚の名が生まれたのであろう。
 「コト」は、この素焼き魚をモザイ(ほぐし)て、焼き豆腐・ゴボウ・ニンジン・コンニャクをきざんで煮る。味付けは醤油である。―中略― 京都系の移住 者らしい古い家柄の家では、福来魚のほかに小鯛の素焼きもまぜる。

 次に「明治末期の水産加工業者」として、以下の記載がある。
 おもなものは、スルメイカ・イワシ(塩乾物・煮干し・塩蔵)・タラ・ホタルイカ・ ブリなどである。
 ことに有名であったのは、「蒲鉾」である。当浦で取れたニギスを原材料として生産されたもので、その味のうまさは格別であった。いまか ら100年前から生産され、俗に「猫またぎ」(猫でもまたいで通る)といわれた蒲鉾でさえも、どんどんと直江津・松本方面へ移出されていたという。

 

文献名 発行年月日 魚食文化に関連 した記載内容
舟と石垣の村
     宮崎村の歴史
    と生活
昭和29年8月20日 灰付ワカメ、モヅク、鱈、雛鱈、オイボ、い貝
朝日町誌 文化編 昭和59年8月1日 特になし
入善町誌 昭和42年8月15日 二番鯣、塩乾鰮、煮乾鰮、煮乾えび、塩鰮、塩ぶり
黒部市史 昭和39年11月1日 塩干魚、昆布、かまぼこ
魚津町誌 明治43年10月20日 素乾:鰹節・鰑(スルメ)・田作(カタクチイワシ)・
蛍烏賊・鱶鰭・干蝦、塩乾:鰮・鯖・鰺・鰤・鱈・鱰
(シイラ)・似鱚・干鰰(ハタハタ)、煮乾:鰮・
蛍烏賊・蝦・珊瑚蝦・摺蝦・翁粉、塩製:鰮・鯖・
鮪・蝦・鱰・黒作・湯出烏賊・塩鰹
魚津市史 下巻
    近代のひかり
昭和47年3月25日 弁慶エビ、珊瑚エビ
魚津市史 下巻
    現代のあゆみ
昭和47年3月25日 雑煮(福来魚:フクラギ)、スルメイカ、イワシ
(塩乾物・煮干し・塩蔵・味醂干し)、蒲鉾(ニギス)、
塩干し(ニギス・カマスひらき)、弁慶エビ、珊瑚エ
ビ、ホタルイカ(煮干し・桜煮・串焼き・佃煮・みりん
干し)
滑川市史 通史編 昭和60年12月25日 烏賊の黒作り、ホタルイカ加工品(煮干・干マツイ
カ・塩マツイカ・儀助煮・金波煮・金波糖・桜煮)、
塩漬け(カツオ・イワシ・アジ)、乾燥物(ほたる
いか・アジ・イワシ・スルメイカ)、こぬか漬け(カツ
オ・イワシ)
富山市史 通史 上巻 昭和62年1月10日 鱒・鮎は鮨に、鮭は新巻きに加工。
富山市史 通史 下巻 昭和62年1月10日 冬 ブリのフト(内臓)やブルカゲ(えら)を買って、
大根のカブシにして食べた。
干鱈、サケの塩引き、ボウユレン(干にしん)、
ヒシコ(煮干し)
婦中町史 通史編 平成8年7月31日 ドジョウカバヤキ、ムシベシコ(煮干イワシ)、
シファラ(干だら)
新湊市史 平成4年3月25日 素乾(田作)、塩乾(真いわし)、煮乾(真いわし・
背黒イワシ・ほたるいか)、塩製(真いわし・背黒
イワシ・さば・ぶり・さけ・たら)、雑類(かまぼこ類)、
塩ブリ、青ブリ(イナダ)、ベッコウエビ、黒作り
庄川町史 平成14年10月5日 特になし
福岡町史 続編 平成16年12月20日 養鯉(慶応2年に大和の国郡山から稚鯉を移入
したのが始まり)
福野町史 昭和39年9月18日 越中国誌に「小矢部川 鮴鯎(ゴリ・ウグイ)」
井波町史 上巻 昭和45年5月30日 生魚はほとんど食べず。ときおり、干鰯、ニッシンボ
(身欠鯟)、干鱈
氷見市史 昭和38年4月25日 名吉ずし(ボラ)、煮干(マイワシ)、丸干イワシ
(ウルメイワシ)
富山県史 資料編Ⅶ
        近代下
昭和57年12月11日 煮乾鰮、桜干鰮、鼈甲蝦、煮乾蛍烏賊、塩鰤

 

3.聞取り調査

①朝日町宮崎の「ヒメ貝」と「オイボ漁」について、聞き取り調査を行った。「ヒメ貝」は「イガイ」のことで、昨今の沿岸で多数見られるムラサキイガイ(移 入種)とことなり、成長すると殻長が10cm以上になる大型の二枚貝で、足糸(そくし)と呼ばれる強力な糸で岩礁に殻を固定している。「オイボ」は「(オ オクチ)イシナギ」のことで、成長すると全長1mを越し、体重も100kgに達する。普段は水深400~600mの岩礁域に住むが、産卵期には水深 100~200mと浅場に移動する。大型個体の肝臓には多量のビタミンAが含まれていて、食べ過ぎると頭痛、皮膚の剥離といったビタミンA過剰症になるの で、食品衛生法で肝臓は食用禁止になっている。
 聞き取りを行ったのは不破政直さん(60歳)と水島昭二さん(55歳)で、両人とも宮崎で産まれ育っており、現在、漁業(兼業)に従事している。

ヒメガイの解禁日と漁

 

イガイ

 


 

 ヒメガイは、宮崎地区では昔から食されていた貝ではあるが、水揚げされ市場にならぶものではなかった。この貝は、表向きは採ってはならない貝であった が、部落の人々は暗黙の了解で、まかない程度に漁をおこなっていた。つまり、家族の分だけを採ってきて食べることで、おいしい貝をむやみな乱獲を防ぐこと ができた。しかし、20年程前にヒメガイを全面的に解禁したことがあった。ヒメガイは、岸壁に複数で固着し生活している貝なので、発見すれば容易にとるこ とができる。宮崎のヒメガイが解禁ということを聞きいれた各地の人々は、スコップなどを使って乱獲した。その結果、ヒメガイは減少してしまった。このこと で、解禁を一、二年でとりさげ厳しく禁漁とした。

 4年程前(2003 年頃)から、お盆の3日間だけ地元宮崎の者のみが漁をしてもよい決まりがつくられた。これは、禁漁による保護活動と漁師の数が減少する中、ヒメガイが増 え、貝の上に貝が付き、間引いた方がよいのではという考えと、お盆に地元へ帰ってきた親戚に、懐かしい地元の浜の味であるヒメガイを食べさせてあげたい思 いで設けられたものらしい。勿論、水揚げされ市場に並ぶことはなく、家族が食べる分しか採ることはないという。昔から暗黙の了解で漁を行ってきたが、お盆 の3日間だけは地元の人間同士でも人目を気にせず漁ができるというわけである。宮崎地区の人々は、また来年も食べられるようにと、採り尽くすようなことは せず自分たちが食べられる分だけ採り食している。

ヒメガイの食べ方

 宮崎地区では、ヒメガイを塩茹でで食べている。塩茹でといっても塩を入れて味付けをするわけではなく、ヒメガイが貝の中に蓄えている海水が塩味となって あらわれる。調理はいたって単純で、水を張った鍋にとれたての生きたヒメガイを丸ごといれ、茹でるだけである。茹で上げた貝はそのまま食べることもある し、細切りにして、きゅうりと酢の物にして食べたりする。身はオレンジ色から白っぽいオレンジ色のものがあり、ほんのり甘くホクホクしてとても美味。塩茹 でのほかには、採ってきたヒメガイの周りについている小さなヒメガイの子貝をとりシジミ汁のように吸い物にしたりする家庭もあるようだ。

宮崎のオイボ

 オイボは宮崎の漁師からは神の魚として崇められている。この魚は宮崎の漁師にとって特別な魚である。オイボを釣って初めて一人前の漁師と認められるから だ。晩春、産卵をするために浅いところにあがってきたものを、生きたスルメイカを使って釣り上げる。解禁は6月上旬の日曜日から10月31日までである。 この日曜日からという決まりは、兼業でオイボ漁を行っている漁師が多く、一人でも多くの人が平等に同じスタートラインから漁にいけるようにと考えられたも のである。
 宮崎では、着け場・まき餌は禁止されている。昔から着け場を作ったという習慣はなかったらしい。宮崎の海はくりが多く、十分に漁ができることが理由では ないかという。くりの数は、網、釣りなど様々な漁法を合わせると48ヶ所あるといわれている。しかし現在はそれを知る者も少なくなっている。話を聞かせて くれた不破政直さんも釣り場のくりだけであるが12ヵ所しか知らないという。山を見てくりを知ることは、海に目印を打つ最良のやり方であると漁師は語る。
 この魚は昔から刺身で食べられている。刺身を作る過程で、包丁に魚の脂がびっしり付着して、切れなくなるくらい脂ののっている魚だ。味は良いが少々脂が 多い感じをうける

②魚津の珊瑚エビ・弁慶エビについて、魚津市史に出てくる鍼田家が経営する㈱ハリタ冷蔵の木下義則さん(65歳)から聞取りを行った。木下さんは、18歳 で入社以来、勤務しておられ、現在、部長職にある。

珊瑚蝦・弁慶蝦

 木下さんが就職した昭和17年には、珊瑚蝦も弁慶蝦も作って販売していた。両方とも、アマエビ(ホッコクアカエビ)を乾燥させたものだが、珊瑚蝦は剥き 身で、弁慶蝦は頭を取り外した状態で殻付である。珊瑚蝦は薄いピンク色で、弁慶蝦は赤い。

 

弁慶エビ

 


 

 本来の製造方法は、乾燥器内に並べたアマエビを下から炭火で乾燥させる。これは電気では火力が弱いので、炭火で温度を高くして乾燥させるためである。逆 に温度が高いと焦げやすいので、20秒間隔くらいで、軍手を付けて、手でひっくり返して乾燥させるので、大変手間がかかった。
 乾燥器は木でできており、上方に窓があり、熱気が通りやすくなっていた。また、窓にはスライドの蓋が付いており、これで温度を調整していた。乾燥にかか る時間は、半日くらいかかっていた。
 アマエビが底引き網(9月1日~5月末)で漁獲される冬場に作っていた。
 弁慶蝦は今から25~30年程前までは、炭火で作っていたが、現在は電気乾燥で10時間くらいかけて作っている。しかし、炭火の方が甘み、香りがあって 美味しかった。
 珊瑚蝦は、いつ、止めたか記憶がないが、自分が入社した後の、早いうちに手間がかかることから中止している。
 利用法としては、弁慶蝦は雑煮に入れたり、出汁にするほか、飴炊きにして甘くして食べた。珊瑚蝦はそのままで美味く、珍味として珍重された。

③スリカマボコについて、大黒富子さん(73歳:滑川市生まれ。昭和30年に魚津の網元に嫁ぐ)から聞取りを行った。

スリカマボコ

 スリカマボコは、物心着いたころから、家で作っていたので、子供の頃(7歳くらいであろうか?)から手伝いをしていた。当時は、市販されていなかった。
 魚津に嫁いで来てから、すぐにスリカマボコ作りをした。嫁ぎ先は網元で、毎日、新鮮な魚が入手できたので、スリカマボコ作りは、日課のようなものであっ た。
 魚は定置網で捕れるイワシやアジ、そして沿岸の船引き網漁(保中:ほうなか)で漁獲されるニギスを良く使った。魚は大きさによって、中骨を取ることも あったが、小型のものでは、コアジは頭・内臓・鱗・皮を取ってから、イワシ・ニギスは頭と内臓を取った状態で洗って鱗などを洗い落とした後に、すり鉢で すって作った。婚家にはミンチを作る機械があり、これで下ごしらえをしてから、すり鉢ですって作った。
 利用方法は、当時は御つけ(汁)の具にしたり、醤油で煮付けにして食した。現在のように、焼いたり、油で揚げたりはしなかった。
 いつの頃からか、市販されるようになった。

4.鱒の寿しのルーツについて

 富山の名産として知られる「鱒の寿し」の歴史について、平安時代の「延喜式」や、江戸時代中期の享保2年に8代将軍・吉宗に献上した話が、広く語られて いる。この典拠を調べてみた。

 

鱒の寿し

 


 

延喜式

 越中國の作物として、鮭楚割(スヤワリ)、鮭鮨、鮭氷頭、鮭背腸(セワタ)、鮭子が 記されている。
 当時の越中では、鮭が遡上する河川には、鱒(サクラマス)も遡上していたのは、間違いない。鮭も鱒も全長60cm を越す大型の魚で、同じサケ科であるため、外形は似ている。神通川上流の飛騨高山地域では、鮭と鱒を区別せず、記載されていることも指摘されている。これ は、上流の飛騨地方に鮭や鱒が達するのは、産卵期の秋から冬で、同所的に見られるため混同された可能性が高いと思われる。しかし、下流域である越中では、 鮭と鱒は海から河川に遡上する時期が明確に異なり、鮭は秋から冬、鱒は春であるので、区別されていたと推測される。また、氷頭、背腸などは、現在でも氷頭はナマスに、背腸は塩をしてメフンに加工されて おり、鮭で用いられている加工方である。以上のことから、鮭と鱒を混同したとは考えられない。
 加えて、当時の鮨はなれずしと考えられるので、現在の鱒の寿しのような早ずしとは、歴史的につながるとは考えられない。

享保2年に8代将軍・吉宗に献上

 越中資料 巻之二「享保2年(紀元2377 年)(1717年)」に「利興、富山鮎の鮓を将軍吉宗に献す」とあり、「富山名物 鮎の鮓」を当時の富山城主であった前田利興の臣下で吉村新八が、鮎の鮓 を発明し、時の将軍吉宗に献上し、大変喜ばれたことが記されている。吉宗の求めに応じて、吉村新八は鮎鮓の作り方を記録している。この中に、現在の鱒の寿 しに通じる早ずしの技法が用いられていることが、歴史的な源と考えられている。「献上鮎鮓漬覚」として、鮎鮓の作り方が記されている。

 

 


 

原文を分かりやすく書き改めると(原文縦書き)以下の感じである。

献上鮎鮓漬けの覚え

一 鮎は、越中国神通川にて取りました鮎でございます。一 鮎を取ると早速能く洗い、辛塩にしておき、後に引き上げ、水気が無くなる様に乾かして整え、江戸へ取急ぎ送ります。
一 江戸へ到着すれば八時(約十六時間。一時は約二時間)計り塩出しをして洗い上げ、三年酒(前々年に醸造した酒精の強い、上等の酒)に漬けて一時(約二 時間)余り置き、その酒にて能く洗って取り上げ、醤(ひしお)(塩漬けした鮎)を乾かし鮓に仕立てます。
一 (発酵を促す)漬飯は、白米を固めに炊き、塩水で三回計り洗い、竹ザル(竹籠)に上げておいて水気を切り、そのうえで鮎と飯の塩加減を試して仕込みを いたします。
一 漬ける日数は、十二日ほど経ると宜しいと思います。ただ、(漬ける)日数そのものは、時節により遅い速いがあります。
一 献上いたします前日に、漬け込んだ飯を全て取除き、新しい飯に替えます。この時に、酒に塩を少し加えて漬けます。飯一遍一遍(飯を一段ごとに)右の酒 を少々注ぎ、漬け込み整えます。

右の通りにいたします。以上。
十月二十三日
          野瀬竹庵(より)
       御用所(宛)

 右の通りに書上げ申します。但し、文言は御用所に於いて将監(小塚将監)殿が筆を加えました。御台所より書出しましたのは、右の通り献上としてあります が、此の(献上)の上に「御」の字を付け、又は前二ヵ条も御用所の御差図により書き入れました。右書付は、御用所に於いて引き改めて、吉川只右衛門が相調 え、聞番(連絡渉外係。留守居、情報収集係)中へ相渡し、露三(御坊主衆のうち、長谷川露三)殿へ上げられました由。

 概要としては、鮎を塩漬けしたものを、いったん塩出しし、三年酒に軽く漬けた後、漬飯と一緒に鮓に仕込む。(時節によって異なるが)12日ほど漬け込 む。食する前日に、漬け飯を新しいものに交換し、アユと塩・三年酒を加えた漬け飯を次々に漬け込むことが記されている。

これは、乳酸発酵によるなれずしで、決して早ずしではない。日本酒を使うなれずしは、井波別院端泉寺で虫干法会の際に、漬けられるサバのなれずしで行われ ている(一方、城端別院善徳寺では、同じサバのなれずしでも日本酒は使わない)。
 しいて言えば、なれずしの鮎を新しい漬け飯と漬け込む点くらいだが、これも三年酒を振りかけており、酢を使った現在の早ずしである鱒の寿しとは異なり、 この鮎の鮓を富山の鱒の寿しの原点と考えるには無理があると考える。

5.おわりに

今回、文献資料として調査した各市町村誌(史)には、魚食文化にかかわる記載は少なく、水産業しての漁獲物と加工品が記されている場合が多くで、民俗的な 情報が欠けていた。今後の調査を進めるには、古い文献の拾い出しと、年配者からの聞き取りが重要であろう。
 聞取り調査として、今回は朝日町宮崎のヒメ貝・オイボ、魚津のスリカマボコ、珊瑚蝦・弁慶蝦について行ったが、季節的な差異もあり、写真試料などの収集 ができていないので、更なる調査が必要である。ただ、本調査がきっかけとなって、㈱ハリタ冷蔵では、本来の炭火での弁慶エビの製造を再開することになり、 喜ばしいことである。
 最後に、鱒の寿しのルーツの検証も行った。現在、多くのパンフレット等で宣伝されている内容は、根拠に乏しい。寿しの歴史を大きくみれば、なれずしから 早ずしに変化してきたことは知られているが、現状の鱒の寿しは「押し寿司」の仲間とみることもでき、他の地域で見られるサバやサケを使った押し寿しの歴史 などをもっと調査する必要がある。
 誤った情報が拡大されていくのは好ましいことではなく、正しい情報をもっと掘り起こしていく調査の必要性が、今回の調査を終えて一番感じるところであ る。

6.文献

宮崎村役場.1954.舟と石垣の村-宮崎村の歴史と生活
朝日町役場.1984.朝日町誌 文化編
入善町役場.1967.入善町誌
黒部市役所.1964.黒部市史
魚津町役場.1910.魚津町誌
魚津市役所.1952.魚津市史 下巻 近代のひかり
魚津市役所.1952.魚津市史 下巻 現代のあゆみ
滑川市役所.1985.滑川市史 通史編
富山市役所.1987.富山市史 通史 上巻
富山市役所.1987.富山市史 通史 下巻
婦中町役場.1996.婦中町史 通史編
新湊市役所.1992.新湊市史
庄川町役場.2002.庄川町史
福岡町役場.2004.福岡町史 続編
福野町役場.1964.福野町史
井波町役場.1970.井波町史 上巻
氷見市役所.1963.氷見市史
富山県.1982.富山県史 資料編Ⅶ
北日本新聞社.1994.富山大百科事典 上・下
富山県.1909.越中史料 第2巻
農文協.2006.伝承写真館 日本の食文化⑥ 北陸
農村漁村文化協会.1989.聞き書 富山の食事
氷見市教育委員会.1997.氷見のさかな
富山県水産加工業協同組合連合会・富山県食品研究所.2002.とやまの水産加工品
(順不同)