日本海学講座

第6回 「海の民俗学」


2000年度 日本海学講座
2000年11月11日
富山県民会館 702号室

講師 秋道智彌
 国立民族学博物館 教授

 こんにちは。ご紹介いただきました秋道です。今年の6月に京都市内で日本海の定置網漁業の総会があり、そこで話をさせていただきました。そのさいに、氷 見や七尾の方がたくさんいらっしゃって、少しだけお話しする機会がありました。今回ようやく富山でお話をさせていただくことが実現いたしました。また、来 年(2001年)の1月には富山大学の集中講義で参ります。
 今日は、海の民族学、あるいは「海人の知恵に学ぶ」ということでお話しさせていただきます。すでにこの講座では、2回目に富山大学の漆間先生でしょう か、「海人」のテーマでお話しされていますね。「海人」は私もよく使う用語です。「その定義は何ですか」と聞かれると困るのですが、漁師さん、漁労民、海 に生きる人びとを、男性も女性も含めて広く「海人」と考えていただければと思います。このシリーズは日本海学の講座でありますが、私が現在おこなっている 東南アジアや太平洋の水産資源管理の話とも関連づけたいので、世界で注目されている沿岸漁業の資源管理についての話題を、日本海の問題と結びつけてやろう かなと思っています。具体的には、海人が海に生きるうえで育んできた知恵を取りあげてみたいと考えています。

開発援助と知識の問題

 最初にお話ししておきたいのは、なぜ「海人の知恵に学ぶ」というテーマを取りあげたのかということです。少し話題がずれますが、資源の利用をめぐる地元と外部のあいだにある矛盾に目を向けてください。たとえば世界には国際的な援助機関があります。アメリカにある世界銀行(ワールドバンク)や国連の食糧農業機構(FAO)、おなじく国連環境計画(UNEP)などがそうです。そういった先進国や国際機関が、東南アジアやアフリカ、南米のいわゆる途上国が天然資源をどのように利用すべきかについて、よくいえばいろいろ援助をして手助けをする。悪くいえばおせっかいで、お金をたくさん供出して、現地の社会を変えようとしている。そのさいに、どのようなモデルと方法で人びとの暮らしを良くしようと考えているのでしょうか。この点でいくつもの批判があります。とくに1960年代以降に農業中心に援助が活発になりますが、ヨーロッパ中心の上からの発想で、現地の社会を「このようにしたらいいのではないか」と勝手にモデルを作り、途上国の政府あるいは上層部と結びついて、「こうしなさい」というかたちで援助を進めてきました。その結果、現地の社会にさまざまな社会経済的、生態学的な破綻が生じました。典型的な例が「緑の革命」ということばでよく知られている東南アジアの農業近代化で、換金作物の単作を導入して生活水準をあげようとしたが、実質的にはかえって農村の経済や社会を疲弊させる結果となった。ごく最近では、アフリカで、現地の貧困層の人びとの生活を救うために綿花を植えさせましたが、綿花の国際価格が暴落し、しかも日照りで綿花もできなくなりました。だれが困ったかというと、もちろん現地の人びとです。綿花が売れない、できない、食べるものがない。当初、食べるものを植えていたところに綿花を植えたのです。そういった現場を無視したようなやり方が許されるのか。とくに西欧の十字軍的な発想で、途上国を助けてあげるといいながら、結局つぶしにいっている。日本もそうかもしれない。
 このようなことから、1980年代くらいから、現地の人びとのもっている知識や考え方、あるいは人びとが行ってきたさまざまな慣行・慣習を取り入れてやらなければだめではないかといわれてきました。そのときに出てきたことばが、TEKとSEKです。TEKとは伝統的な生態学的知識(Traditional Ecological Knowledge)、SEKとは科学的な生態学的知識(Scientific Ecological Knowledge)のことです。このふたつの考え方がいつも対比的にとらえられてきました。
 漁業を例として、このことを考えてみましょう。浜のお父さんが「わしゃ小学校しか出とらんが、わしが行く海は全部知っとる。魚のことは全部知っとる」(本当かどうか知りませんが、大体よく知っています)という。そこへ、(別に水産研究所の方が悪いといっているわけではありませんが)大学で水産学の勉強をして学位を取った人が、そのおじさんのところへ来て話をする。すると、「お前は何も知らんな」となる。つまり、学校で学んだ知識と、人びとが生活のために育んできた知識とはかなり違うわけです。水産学で学んだ知識がこの100年くらいの歴史をもつものであるとしたら、浜の漁師さんが育んできた知識はひょっとしたら数百年以上の歴史をもつかもしれない。水産試験場の人たちは「漁師の言い分はサイエンスではない。実証的なものは何もない」というわけですが、ところがこちらは生活がかかっていますから、なぜ魚が獲れないか、どこで魚が獲れるかということはわざわざサイエンスといわなくてもよいわけです。つまり、獲れた方が勝ちで、それが正しいとなります。このように、二つの異なった知識の体系が対立的にとらえられてきた。先程取りあげました世界銀行のよう な援助機関は、科学的な知識だけをもとにやってきたのですが、どうもそれではうまくいかないのではないかといわれ出してきています。皆さんが実際に東南ア ジアとか太平洋などへ行かれたら、そういうことが如実にわかります。前置きが長くなりましたが、今日はこうした内容を日本海に引きつけてお話ししたいと思います。

現代漁業のなかの伝統

現代日本で沿岸漁業を管理し、運用している実質的な組織は漁業協同組合(以下、漁協)です。漁協では、沿岸域に一種のなわばりを設けて、漁協の成員以外はそのなかに入れないこととした。世界でもこのようなシステムをもったところはあまり類例がありません。全般的には資源を管理するうえで、漁協はたいへん有効な機能を果たしてきました。それで、いつころからこうしたやり方というか慣行があったのかというと、意外と古い。
 たとえば18世紀の江戸時代の法令で、浦方、つまり漁村の資源利用について、磯(=沿岸域)は村のものであるが、沖(=沖合域)は「入会い」とされていました。入会いにはいろいろな意味があって、まだ学問的にきちんとしていないようですが、その村の人だけが自由に行けるとか、土地をもっている人だけ行けるような場合をさすときと、違う村の人も入れることをいう場合もあります。これは幕府が決めたことですが、18世紀中葉から日本の津々浦々に「沿岸は陸地の延長であるが、沖は少なくとも違う」というシステムが広まった。そして、村ごとに浦の独占的な利用権が主張されてきたのです。この考えは現在にもつな がっている。なぜなのかというと、明治期以降、漁業の近代化や改革をすすめるときに、明治政府のとった考えは前例主義です。前例があれば認めるし、前例がなければ取らない。漁業に関しても江戸時代に前例があったので、それに従いましょう、となりました。大正時代にも、さらに戦後、漁業法が改正されるさいにも、漁業の制度をどうしましょうかとなったときにも前例主義が適用された。この前例主義をどんどんたどっていくと、結局、現在の漁協が管轄している共同漁 業権漁場とか漁協のあいだの境界とかは、ひょっとしたら原理的には数百年以上さかのぼるということです。ですから、近代的な協同組合の経営のやり方で「これは新しい昭和の法律である」と簡単に考えたら大間違いなのです。もちろん、時代的な変化を考えなければなりませんが、それにもましてずっと続いてきた慣習のようなものが現在の制度を支えているということを、常に考えていく必要があると思います。つまり、伝統と近代を切りはなしてはいけないということです。

氷見のブリ漁とその慣行

 富山県では氷見のブリが有名ですが、ブリの話をおさらいします。対馬暖流に乗って北上あるいは南下するブリの魚群を獲る漁場は全国各地にいろいろあって、季節によって形成される漁場が違ってきます。対馬、山口、隠岐、兵庫の但馬沖、若狭、越前、富山湾、越佐海峡、下北半島と、ブリ漁場が分かれています。ブリを獲る漁法には、まき網、定置網、釣り、はえ縄、刺網などがあります。ブリの漁獲がどうなっているかを調べるときに、日本海全体で行う。そのさい、全国には一応海域ごとのブロックがありますから、ブロックごとに漁獲量の統計的な分析から、科学的に資源変動を調べるわけです。
 一方、それぞれの地域では、1年のいつ頃からブリが獲れだし、いつ頃に獲れなくなるとか、夏の気温が高いとその冬のブリは不漁だといった経験的な知識が蓄積されています。しかも、ブリがよく獲れる漁場もおおよそ見当がつく。定置網などは場所によってブリがよく獲れる場所ととれない場所が決まっていることがある。たとえば、富山湾の灘浦にはものすごい量の近世文書が残っていました。19世紀の最初(元治元年)のブリ定置網の位置図が残っています。氷見の沿岸から沖合いにかけて、ブリの定置網がずらっと並んでいます。もちろん秋から冬にかけてのブリだけでなく、夏にはマグロが、春にはイワシがよく網に入る場所が決まっている。
 これが19世紀の初めです。そのあと、明治時代に同じような定置網の設置場所を書いた文書が残っていました。どこでどんな魚が獲れるかをずらっと書いてありますが、少し増えているところがありますが、江戸時代のものとほとんど同じです。この文書は明治11年のものですから、前の調査からそれほど時間が経っているわけではありません。50~60年です。定置網の場所が同じであるのは当たり前で、魚道が決まっている。ブリが回遊してくる道沿いにこのような定置網を仕掛けるという知恵は、おそらく室町から戦国時代に始まったとされています。魚道は気候により変動することはありますが、人間様がちょんまげの時代からズボンをはくようになっても、お魚のブリの方は毎年同じようにやってきている。その上に漁師さんの知恵がさまざまな形で蓄積され、このようなブリの大漁業地帯ができていったと考えられます。漁場の位置は非常に重要であるし、それを知っているのはここに住んでいる地元の漁師さんであることには間違いありません。
 そのために、漁場利用についてさまざまな慣行が発達しました。一番よく獲れるところもおおよそ決まっているので、とくに問題となったのはだれがどの場所を使うかということです。特定の人がある場所を独占すると、ほかの人から「何でお前がここを使うんだ」と文句が出る。そこで、機会均等のための輪番制、 ローテーションを組みました。
 ところが、網の利用権をぐるぐる回しているのに、「わしは絶対にここを動かん」という人が江戸期にいました。「ここは絶対にわしのものだから動かん」と。その方のお孫さんがまだいらっしゃいます。現在も漁をされています。まだ150年くらいのことですから、元治のときに頑張った方の曾孫さんがまだ漁をされているわけです。このように漁場利用をめぐって作られたさまざまな慣行は比較的よく残ります。それが、漁場紛争になったり、申し合わせ事項になったり してきている。さきほどの開発援助の例で申しましたように、外からよそ者が来て、何か新しいことをやろうとしても、まず地元の慣行を調べなければ、無視してはだめだということになります。地元にいればわかるのですが、東京やニューヨークからやってきても、地域のことはすぐにはわからない。それを無視するとやること、なすことが全部失敗することになります。

クジラの回遊と地域主義

 もう1つ、クジラの話をします。この前、水産庁から定置網にクジラが混獲されたら、それを地元以外に売ってもいいという通達が出ました。私も新聞社の電話インタビューに答えて、「歓迎すべき」というコメントを出しました。書いたというか、そうなってしまったのですが、私のコメントの横にグリーンピースの人の「まだまだ慎重にやらないと、ざる法になってしまう」というコメントが載っていました。詳しい背景を書かずに、その部分だけが強調されてしまったわけです。新聞の限界でも利点でもあるなあと感じざるをえませんでした。
さて、事例として長門の国、山口県の日本海側の場合を取りあげます。江戸末期から明治中期くらいの話ですが、このあたりは捕鯨で有名な地域で、村むらの沖合いをクジラが回遊します。クジラが沖合から小魚を追って沿岸のほうに入ってくると、その海域に属する浦の人びとが銛で獲りに行きます。ところがクジラも逃げたいですから、隣の村のほうへ行ってしまう。するとその村の管轄になり、最初に獲りに行った村の人は境界を越えて獲ることはできません。先程の磯の利用と同じ発想です。磯の場合は、アワビやサザエ、海藻などの根付きの資源ですから、村のものという意識がはたらくのは当然かもしれない。ところがクジラのような回遊性の資源についても、そのような取り決めが厳然としてあったわけです。ですから、動いていくものだから「誰のものでもない」と思うと大間違い で、私たちのご先祖様は本当に微に入り細にわたり、村どうしのけんかが起こらないようにこと沿岸に関するさまざまな出来事を決めていたのです。漁場利用に関する文書もずいぶんと残っています。ここに入ってきたクジラに銛を撃ったが逃げてしまった。逃げた先の村の人が獲ったクジラに、前に撃ち込まれたと思わ れる銛跡があった場合は、先に撃った人にも分け前をあたえる必要があるなど、細かい規定を江戸時代から決めていたのです。ですから、そういうことを日本全国で調べだすと、本当にいろいろなことが出てきます。それを無視して外から考えを押しつけるのはだめだということになります。そのことをブリとクジラの例でご紹介しました。
 さてコメントとしてあげておきたいのは、科学的な生態学的知識(SEK)と伝統的な生態学的知識(TEK)の関係です。両者は本来、性格のちがうものであるといえますが、まったく異なった2つのシステムと考えるかどうかについては、一考を要すると思われます。といいますのは、SEKといえども、歴史的に TEKの考え方を導入してきた部分がある。TEKにしても、テレビ、新聞、雑誌などを通じて、知らず知らずSEKの考え方が入っている。漁協での会議で漁民と研究者が話し合うことがあるし、講習会における指導とかでSEKの考え方を漁民が学ぶ機会がずいぶんとある。このように考えると、経験知と科学知が協力していく可能性も出てくるといえましょう。この点は最後にもう一度取りあげます。

日本海を中心とした海のスライド(スライド省略)

 ここで、日本海を中心とした海のスライドをご覧いただきます。

○これは、下北半島の大間における冬のミズダコ漁です。大きなタコですよね。北海道でやっているのと同じやり方です。樽を流して樽からおもりをつけた空ばりを擬餌として海底のタコを獲ります。

○これは、岩手県の津軽石川におけるサケ漁です。12月になると岩手県ではシロザケが産卵のために河川を遡上します。網でサケを一網打尽にします。もちろ ん、人工ふ化のためです。ふ化場では、卵にオスの精子をかけて人工ふ化して稚魚になったものを放流します。日本全国で広くおこなわれています。

○これはサケの干物作りで、このように腹を裂いて木の棒を入れて開いたまま乾燥させます。

○これは山形県の飛島です。酒田から高速船で1時間ほど行くと、飛島に着きます。大漁旗をつけている船が見えますが、これは夏祭りだからで、ちょうどトビ ウオ漁の解禁日の時期に相当します。この島には3つの村がありますが、昔から村境における紛争が絶えませんでした。それから、飛島ではタコを獲るタコ穴を 個人が所有する慣行がありました。戦前までは、個人が所有しているタコ穴に対して固定資産税をかけていた。つまり、タコ穴はある個人の私有物だったわけで す。そんな慣行は、飛島以外の人から見ると「そんなん、うそや」ということになります。しかし、地元にいけば不文律として皆さんが認めているのです。地域 の慣行を外から見ると顕著な違いがあるわけで、こうした慣行が地元のさまざまな資源利用で果たしてきた役割を考える必要があります。

○飛島で獲れるトビウオです。わりと小型の小さなトビウオで、刺網で獲ります。この刺網を入れる場所も、毎年くじ引きで決めます。ものすごくたくさんの刺網が入りますが、一番よく獲れる場所に一番くじを引いた方が網を1年に限り仕掛けることができます。

○トビオウの卵は皆さん大体、家で煮付けにして召し上がります。皆さん、お寿司でトビコを召し上がりますね。オレンジ色のものです。あれはほとんどインドネシアから来ています。インドネシアでも獲りすぎて、一時輸出禁止になりました。

○これからはカニですね。これは金沢の近江町市場で撮ったものです。

○これは京都府の伊根です。舟屋は独特の景観をもっています。舟屋の1階部分が船の収蔵庫で、2階が居住空間になっています。舟屋の2階にいると本当にのんびりします。

○これはその伊根の大型定置網です。ここもブリが有名で江戸時代から伊根鰤の名があります。昔はクジラも湾内の網で獲りました。4年ほど前の正月のときの写真です。早朝、日の出時から3か所で大型定置の網を揚げているところです。

○ 伊根近くの本庄浜です。先程いいましたように、沿岸の磯は自分たちの村のものである。このような小さな船を使い、沿岸でサザエ、アワビ、コンブ、ウニのような、いわゆる根つきものを採捕するわけです。

○丹後の網野周辺でバフンウニの出荷作業をしています。おいしいけどお寿司屋さんで食べると高いので、私はいつも遠慮しています。こういうウニなどは、その地元のものという認識が非常に強いわけです。

○同じところですが、沿岸域では漁業の規制があります。部外者がアワビ、サザエ、アサリ、ワカメ、ウニなどを獲ることは禁止。潜水具や水中銃を使うことも 罰金の対象になると決められているわけです。それから、資源保護のためにマダイの稚魚は海へ帰しましょうというアピールもある。このような資源利用の規制 や資源管理を進める主体は、日本の場合は漁協です。もちろん、海上保安庁や警察のような役所も沿岸域の管理の上で関与していることになります。

○これは長崎県対馬の北西部の海岸部に打ち上げられた海藻です。このおじさんは何をしているかというと、対馬はご承知のとおり畑作地帯です。このあたりで は畑作の肥料に海藻を昔から使ってきました。海藻は冬のしけのときに、とくにたくさん打ち上げられます。すると、この浜に属する村人が、打ち上がった海藻 を自分たちの家の畑に使うのに取りに行くとしても、どこで取ってもいいのではなく、家ごとになわばりを決めます。「ここからここまではお前、そこからそこ までは二郎さんの家、その向こうは五郎兵衛さんの家のものだから取ったらいかんぞ」というかたちで、村の中で非公式に申し合わせが決められた。浜に打ち上 がった寄り物の海藻など、何の価値もないものと思われるかもしれませんが、対馬では海の資源をうまく分配して使っていくシステムが発達してきたのです。細 かいことですが、そういうことも見ていかないと、海に生きる人びとがどのような知識を育んできたかはわかりません。私たちのような外部の者がそこへ行っ て、勝手に好きなようにやるのは絶対に許されません。地元を尊重することを忘れて、「俺たちがやってやっている」というおこがましい、ある意味で犯罪的な 行為は絶対にだめだと、私などは学生にきつくいっています。

○これは東シナ海に面する五島列島の上五島にある小値賀島では、3月3日に節句磯がおこなわれます。これは春の大潮に町全体で行われる潮干狩りです。島の磯で小さな貝やウニなどを採っているわけです。これには漁業協同組合員だけでなく、町の住民であれば参加日を1,500円納めて参加することができます。 ただし、制限が1つあります。それは決してアクアラングを背負っていってはいけないことです。あくまでも磯で歩いて貝やウニを採集することができるのです。小値賀町というコミュニティ全体を構成する人びとが、1日だけですが磯の資源を共有することができるわけです。
 五島列島と目と鼻の先にある長崎県の西彼杵半島のある村では、たとえばだれかの家に病人がいるとすると、おなじような節句磯で採れた分から、病人用に分配します。「これは病人のためや」とみんなが渡す。そのように地域でおたがいに助け合うようなことをやってきました。
 ところが、近代というのはこれまで述べたような考え方をきれいに切ってしまう。「メンバーだったらいいけど、お前はメンバーじゃないからあげませんよ」というやり方になります。たしかにそういう考え方は合理的ですが、本当にそれでいいのだろうかと感じざるをえない。ですから、上にあげたような慣習が生き づいているのは非常にいいことだと思います。富山県では、地域ぐるみの活動はどのようなかたちで存続しているでしょうか。文化祭のシーズンですし、体育祭なども行われるでしょうが、存続していること自体が非常に重要です。お年寄りから男女にかかわらず子どもまで、地域の成員がいろいろな形で何らかの活動に参加している形が重要なのですが、それがだんだんなくなっているのが日本の現実です。

○ これはイシダタミという巻き貝で、煮付けにして裁縫用の木綿針でなかの肉を出しておやつとして食べる。貝を採りにいく楽しみもあるとおもいますし、私も磯遊びが大好きです。小規模だけれど楽しみにつながる活動が海辺にはあったのですが、それもだんだんとなくなってきました。なくなってきた要因は、イシダタミのように商品化できなものは切り捨てる近代化の論理であるし、この前のナホトカ丸のような海の事故や埋め立てにより磯が汚染されあるいは消滅してきたプロセスでしょう。台風避けや津波避けなどいろいろな理由で沿岸域の整備、改変がなされてきたわけですが、コンクリートの壁が連続的に展開する浜から磯、磯から海という空間を分断してしまった。これにはいろいろな経緯がありますが、事実として昔の浜や磯がなくなった。これは単なるノスタルジーとしていっているのではありません。生態学的に重要な場である浜や磯の消滅が何を意味するのかをわれわれはきちんと理解しておく必要があると思います。

日本海の漁場利用慣行と規制

 ここで、いまご覧いただいたスライドを思い出しながら、日本海全体を視野において漁場利用の慣行と規制について取り上げてみたいと思います。ただし、とくに理由はありませんが、資料のなかには北海道、青森、秋田の事例は入っていません。山形の飛島から、新潟の越佐海峡、富山湾、越前、伊根・袖志(京都)、田後(鳥取)、隠岐、長門、対馬、五島とあります。これは、江戸時代から現在までいろいろなかたちで資源をどのように利用してきたかを、文献や自分の調査(ほとんどのところへ自分で行っています)をもとにまとめたものです。
 表1にありますように、慣習のレベルでの資源管理の方法が一方に、科学的な方法による資源管理が他方の極にあるとすれば、申し合わせやそれを知っている人が限られているようなインフォーマルな場合と、国の法律として認められている漁場利用や管理のフォーマルな方法がもしあるとしたら、その間にはさまざまなレベルで少しずつ異なった資源管理のやり方や考えがあります。
 飛島のタコ穴は個人ものです。個人が固定資産税を払って「あれはわしの穴や」と主張する。そんなことはふつうは許されませんよね。「そこの浜にある石は私のもの」といってもだれも認めてくれません。「なんでお前のもんなんや」ということになります。ところが、この飛島では当然なことになります。また、たとえば富山湾ではブリの定置網の場所はローテーション制です。福井県ではかつて澗主(まぬし)制度といって、親方が漁民に「自分に魚を売れば水揚げの場所を貸してあげる。獲れたシイラはかならず自分に売ってくれれ。そうすれば、ずっとこの浜で船を出せるし魚も全部売れる」という一種の契約関係をむすぶやり 方があります。
 丹後の伊根では昔からブリを獲っていますが、株制を採用してきました。ブリを獲るための網一反が一株として、伊根では村全体で124しか網を出さなかった。これは現在の資源管理でいうところの総量規制です。だから、お父さんが死んで2人の子どもたちで株を分ける場合には2分の1づつ、その子どもになると4分の1などという感じで、非に厳しい制度の下で網の数を制限してきた。つまりは、資源の管理を行ってきたのです。こうひたやり方を隣の村から見ると、なんときびしいということになりますが、これは狭い海域で、しかも耕作地もたいへんすくないところで生きていくための術であった。伊根の人びとは本当に血みどろの戦いをやってきたのです。そんなことは、伊根から離れたところにいる人はまったく知りません。しかし、私たちはそこで人びとが育んできた知恵にたいして尊敬の気持ちを抱かざるをえません。伊根とは内容がちがうものの、資源管理のさまざまな事例をレジメに書いておきました。
 下から5つ目のサザエの禁漁期をめぐる問題は、科学的な資源管理の運用面で検討に値する例です。私が島根県の隠岐で聞いた話です。ご存じのように、島根県は東西に細長い県です。6月ごろにサザエが産卵期を向かえます。卵を放出してしまうまでは、資源管理のためには禁漁にするのがもっとも有効です。これはまことに理にかなった方法といえるでしょう。そこで全県的にサザエの資源管理が実現しました。ところが問題が起こりました。なぜかというと、県が東西に長いために、県の東部と西部とでは産卵期が微妙に違うのです。産卵期の期間に産卵せず、産卵期が終わって「よし、行け!」というときに産卵が始まるということが起こりました。これでは資源管理の意義がないことになります。もう1つは、密漁です。禁漁期には漁業者は漁を控えますが、密漁者が獲るので禁漁の意味がなくなります。密漁である筋の人びとが随分もうけています。
 科学をもとにした制度が地元に密着してあるかというと、必ずしもそうではない。つまり、産卵期が地域によって少しずつずれますから、この場合は産卵期がいつかということを地域ごとに調べて、それに応じて「この期間はやめましょう」と自主規制をやった方が現実的に資源管理ができることになります。ですから、慣習が悪くて科学がいい、科学が悪くて慣習がいいということにはならない、ということを申し上げたいのです。
 資源管理の上で最悪の結果となったのが越佐海峡の例です。越佐海峡で、小規模な一本釣り漁民と底曳網漁船が漁場利用をめぐって対立しました。県が乗り出してさまざまな漁業調整を行いましたが、結果としてうまくいきませんでした。結局、県を越えて霞ヶ関の水産庁まで話がいきました。それでもうまくいかず、時の水産庁のお役人の方々が全部辞めさせられました。そこまで事態が進むと、「いったい環境や資源を守るとは何だろう」という疑問がわいてきます。世界では、日本と同じような図式での紛争やいざこざが起こっています。日本の特殊論として片づけられない問題が世界にあるものですから、日本の事例も慎重に検討する必要があるわけです。

調整と合意形成について

漁業紛争をいかに解消するか。これには当事者や関係者がたがいに調整をするしかないのでしょうか。そして、合意を取り付けるプロセスとはどのようなものなのでしょうか。
お酒の例でたとえましょう。昔アメリカであった禁酒法、「絶対に飲んだらいかん」という法は、国で管理する方法です。一方、「私は少し血圧が高い」、「糖尿です」という場合は自分でコントロールするしかない。これは自主管理の方法です。ただし、自分でコントロールするとしても誘惑が多く、難しいところです。
 国家による規制と自首規制を両極とすれば、漁協がやるような管理の方法は共同体基盤型管理といいます。これが世界で注目されているCommunity- Based Resource Managementです。しかし、共同体だけに全責任をあたえると、どうしても利害関係のある共同体同士で紛争が起こる。そこで、共同体よりも上位の機関や組織が仲裁や調停に乗り出して、意見調整をする。これが共同管理(co-management)と呼ばれる管理方法です。
 自主管理や共同体基盤型の管理から国家管理に至るさまざまな考え方や知識のあり方のバックグラウンドとなるのは、伝統的な資源管理と科学的な資源管理でしょう。自主管理型の特徴は民俗的で地元中心の、かならずしも科学的ではないけれど、非常に経験的な性格のものです。それらと、コンピュータに打ち込んでやるような科学は対立するものではなく、たがいに影響し合うものといえますし、歴史的にも変わってきた面があります。

民俗的資源管理の問題

 科学的な管理と対極的な考え方が、民俗的資源管理と呼ばれる考え方です。鎮守の森や聖なる森を例としましょう。白山でもどこでもいいのですが、「神様がいるから、あそこでカモシカを撃ったら絶対に逃げろ」とか、「黒部峡谷には山の神がすんでいるから、あそこでゼンマイを採ったら絶対にいかん」などという ようなかたちで資源をとらない、という民俗的な慣行があります。そんなことをいうと、ほかの人は「アホなことを。この20世紀も終わりの時代に何を言うか」と排斥しますが、これは知識ではなく知恵なのです。 人びとは神の世界を認めながら資源を使い、守ってきた。そのような体系があるのです。しかし、近代がそれらの世界を全部切ってしまっている。私は、それはまだ残しておこうと主張しています。なぜなら、全部、科学で切っても、人間の自然を支配しようという発想はおこがましいこと甚だしく、この間に起こっているさまざま事故や犯罪を見ても、どうも人間様の思い上がりとしか考えられない面があります。人間は、地球上の動物・植物全部にお世話になっていながら、自分だけ偉そうにやるなということです。その世界を失ってはならないと考えています。
 カミの世界を認めるのとは胎教に対極にある極端な例は、国家が管理する発想です。いうまでもありませんが、これこそ「何様だと思っているのか」ということになります。もちろん、人殺しをしてはいけないといった人権に関するようなものは国家が強く主張すべきでしょうが、たとえば日本に1億何千万と人がいて 全部性格も違うのに、よほどのことがないと個人の自由を許さないというのはどうか。やはり、このぐちゃぐちゃとした世界で引き続き、「小学校しか出とらん」といっても一生懸命魚を獲ってきたその経験というのは、私たちが未来に引き継いでいく知恵として尊敬していかなければいけません。

富山の海と川と山を考える

 時間が迫ってきました。再来年から総合教育が始まります。「環境」とついていればすぐに本が売れるような時代になっていますが、地元である富山県の海・山・川で生きている人びとが育んできたさまざまな知恵を子どもたちに継承していくような場を、県の方や教育委員会の方たち、学校の先生方、地域の方たちがいろいろなかたちで作っていかれることが重要だという気がしてなりません。そういうことをないがしろにして、環境一般とか、地球はどうだという教えが本当 にインパクトがあるものになるだろうかと考えてしまいます。そして、人間が人間を支配するとか、人間が自然を支配するということを助長するようなことはやはり問題でしょう。
 言葉だけではなんとなく浮ついた話にしか過ぎないことになります。私たちは生きざまとしては神様も信じつつ、自主管理もしながら、地元と密着したような 輪の中で生きたい。けれども、やっぱりあまり馬鹿にされるのもいやだから、多少なりとも科学的なことも知りながら、日本の国の行く末も考えていこう。経済以外のことばかりを考えてもだめだから、効率も欲しいという生き様もあるでしょう。
 これは資源の問題だけの話ですが、より柔軟な生き方をした方がいいのではないか。相手は生き物であり、こちらも生きています。ですから、「かわいそうだ」という論理だけで「絶対に獲ってはだめ」というのは、特殊な場合をのぞいてふつうはありえません。自分たちがかわいそうと思っていても、世界中には全然平気な人がいっぱいいます。
 もちろん、絶滅に瀕する動物種を資源管理の上からも捕獲禁止にする方策は肯定されるべきでしょうが、それ以外の種類も同じような論理で捕獲禁止にするのはどうかと思います。相手も数は一定ではないし、こちらの人間の数も増えていく上、環境は汚れていく一方です。どこがどうなると柔軟な考え方で対処していくことを考えないと、ますます事態が硬直化する。ますます禁止令ばかりが世の中に蔓延することになってしまいます。「一切御法度である」ということになったら、これはもうファッショです。環境時代におけるファッショが一番怖いのです。
 もちろん、有害なリンを流す、工場からシアンを流すなどは絶対に御法度ですから、全面禁止の法令はちゃんとものによって適用すればいいのです。私たちが生き物を育むためには、かなり柔軟な姿勢を一方でもつべきでしょう。この世の中に物質循環があるかぎり、そのなかに生きる生物は物質循環の媒体となっています。環境ホルモンが生物に取り込まれるゆえんであるわけです。それを食べたりするから人間に環境ホルモンが濃縮されるわけです。その生物を捕獲して生きてきた人びとの考え方について今日は申し上げたかったわけです。そのとき、海人の知恵は1つのよりどころにはなるに違いないし、今後とも引きつづき尊敬の念をもって、会話を続けていこうと考えています。
 時間になりましたので、これで終わります(拍手)。