日本海学講座
第7回 「日本海の海難と漂着」
2000年度 日本海学講座
2001年2月3日
高岡文化ホール
講師 吉田清三
富山商船高等専門学校名誉教授
これまで、海難救助一筋に歩んできた。現在、加賀、越中、能登に関する海難を調べている。
最大の海難事故はタイタニック号の海難。2208人の乗船定員に対して、1178人分のボートしか準備していなかった。しかも、船が高くてボートに乗り 移ることが容易ではなかった。結局、705人しか乗れなかった。その中に、日本人が1人乗っていた。自分の孫に出した手紙が先年やっと届いたという。
ジェリコが絵画に描写した漂流--フランスのメデューサ号のイカダ漂流は、ヨーロッパを震撼させた。150人が乗ったイカダは6日後には15人となっていく極限状態のなかで、最後は発狂や人肉食いも明らかになり、人間にとっての漂流(極限)とは何かを考えさせた。
日本海最大の海難--大正13年、福井県河野村に座礁した海軍の1万トン級の「関東」の海難が日本海側最大の事故。12月であったため、浜の村 の男たちは酒作りの出稼ぎに出ており、浜の女たちが断崖絶壁を瀕死の兵士を引き上げ、女たちの人肌で温めた(5人で1人)。結果的には、97人の死亡、行 方不明を出した。
古代の漂着と浦島太郎伝説--渤海との交流のさなか、9世紀前半能登の珠洲に着岸。青年の頃、渤海の首都東京城=竜宮城に連れていかれ、接待漬けの日々 を送った後、帰国の途中で転覆。珠洲から丹後をめざしたが、手取川のあたりで乙姫(渤海国姫)からもらった玉手箱を開いた。その後父を尋ねてやってきた5 人の子供たちが石を置いて帰ったという松任の伝説がある。
北前船以降の漂流--「日本漂流資料」に多くの実例が載っている。督乗丸、宝順丸、長者丸(岩瀬を出航した、越中富山の北前船)、良栄丸などの長期漂流 の例がある。督乗丸の船頭は「船長日記」を著し、漂流の様子を残した。メデューサ号のような惨劇は起こらなかった。それは、冷静な統率力があったことに起 因する。
漂流の際の水の確保方法--釜に塩水を入れ、沸かして蒸気を溜めて生きながらえた。
日本海側の長期漂流--普通なら一週間ほどで漂着するはずであるが、日露戦争時にロシア兵が一ヶ月かかって珠洲に漂着した例がある。能登沖で、グルグル 回る場所があるのではないか。なお、その漂着したロシア兵の亡骸を墓に葬った人物がおり、ロシア大使館から感謝されている。
現代の日本海側の漂流--伊崎氏の漂流メモによって、漂流の状況下の工夫や捜索・救助の問題点が分かる。
遭難船の心得--はっきり遭難船であることを明示すべきである。信号炎では見つかりにくい。捜索飛行機や巡視船が大型化しているが、そこには捜索の死角が多いなど、課題が多い。