日本海学講座
第2回 「海と山をつないだ魚街道」
2001年度 日本海学講座
2001年6月16日
とやま自遊館
講師 漆間 元三
前富山大講師
講演要旨
○鰤(ブリ)街道
・塩- 明治41年11月、氷見灘浦でブリの大豊漁(10万匹)があった。内臓を取って、すぐ塩をぶちこんで血ブリにした。ブリ1匹に対して2升以上の大量の塩を使った。塩1俵で30~40匹の塩付けをした。10万匹を処理するのに1週間かかった。
・輸送-氷見を夕方に出て、飛騨街道、糸魚川街道を担ぎ屋(ボッカ)が運んだ。竹の皮を使わず竹身だけで編んだ竹籠を力のある男は2荷(60キロ)、女は45キロ運んだ。ブリ4匹入り竹籠1行李4個で1荷30キロ。
・ブリの購入-ブリは主人が年末に雪上を背負って家に持ち帰った。北安曇郡池田では、頭と尾に解体した。頭は31日に食べ、尾は1年間神棚に供えた。大変高価であっても、正月に1匹のブリが家にあることが大切なことであった。
○鯖(サバ)街道
・京都と若狭-サバ、アジ、カマス、甘鯛に塩をふって小浜を基点として、陸路、琵琶湖の水路を京都へ運んだ。塩をふった魚は一塩物といって、京都に着くと良い味になっていた。海と遠い京都であるがゆえにニシンそば、ぼうだら等が好まれたのではないか。
○海と山の関係
・日本海から高山や松本へブリを運んだというようなことは、新しいことである。大林太良氏は、古代は海と山が交錯していたところを山と見なした。
・古事記、日本書記に出てくる笠沙の岬は山が海に張り出し、海と山が交錯している。古代人は山の神が海に張り出したところにござるという考え方を持っていたのではないか。
・「『魏志』倭人伝」では、「山島に依りて国邑を為す」人々の生業の場は限られており、山民すなわち海民であった。同列に考えても良いのではないか。山の神がオコゼを好んだり、海の神に鹿角を供えたりしているように、海の神が山の幸を、山の神が海の幸を求めていた。
○海神と山神の境界
・「常陸風土記」では、継体天皇の時に田を開いたタマチと日本列島に古くから住んでいたツチグモが境をめぐって争った折、杭を1本打って、杭の上を山の神、下をタマチの領有とした。
○富山県の海山の交錯
・氷見の大境や宮崎のように縄文期から人が住んできたところは、海と山の交錯しているところであり、邑を作り国を作った。「海の民は山の民」という世界であった。
・新湊の築山では、山の神を呼んでいる。氷見の大境の延長が新湊まで来ている。海で二上山と同じ形式で祭りをしている。
○海士の世界
・海士といえば、定着しない流浪の民、漂泊の民。一生涯を船で過ごし、年をとると舳先に移り、中央部を若い世代に譲るという、西彼杵の例もある。
・氷見や宮崎の漁師家を見ると、女は魚を売り歩き、田畑も耕している。男は漁だけ。1軒の中に、山民は即海民であることの証拠がある。ところが中間地の魚津や水橋などをみるとほとんど田畑を持たないで漁民で=海人でやってきた(昨今は田畑を持つように移り変わってきているが)。その意味で、氷見と宮崎は面白い域にあって、古代の姿をそのまま残しているような形態が見られる。これは、今後深めてみたいテーマ。日本海の平野ばかりではなく、時代別に 発展の基底を考えていくことに意味があるのではないか。