日本海学講座
第5回 「古代北陸の国際交流」
2002年度 日本海学講座
2002年11月16日
ボルファート富山
講師 小嶋芳孝
石川県埋蔵文化財センター
調査部長
○富山県は対岸の地域をにらんで、日本海学の刊行物やシンポジウム等で全国的なアピールをしていることを評価したい。能登臣馬身龍が見た北方日本海世界と北陸が、対岸とのかかわりでどのような働きをしてきたかという視点で話を進めたい。
○日本海沿岸と太平洋海沿岸の対岸観の違い
・日本海沿岸の人々は、朝鮮、沿海州から海岸に物が流れ着く場所であったこともあり、海の彼方に人の住む世界のあることを古代から認識していた。一方、太平洋沿岸の人々は、中世末期以降にヨーロッパと接触するようになってはじめて海の彼方に人の住む世界のあることを認識した。
・対岸世界の認識
6000年前の縄文海進による干潟の形成によって、日本海沿岸の干潟付近に人間が住み出し、貝塚が形成され、この時期に日本海沿岸の人々は丸木舟を作り海に出た。対岸でも同様で、ロシアのザイサノフカ遺跡などの貝塚も日本と同時期に形成された。日本海を挟んで、人々の海洋適応が始まり、対岸世界の認識が生み出されたのであろう。
○加賀(現在の金沢周辺)は高句麗との交流基地
・百済、高句麗滅亡という北東アジアの大動乱の7世紀に、北陸の果たした役割は大きい。日本書記によれば、570(欽明31)年加賀に高句麗船が来着し加賀の豪族道君が大王と詐称し、高句麗の使節を迎えた。その後、欽明朝は使節を飛鳥に迎えた。これは、大和王権と高句麗の初めての公式接触である。その後、668年に滅亡するまで18回の渡来記録があり、来着地の記録がある分では越が4回、難波津、筑紫各1回と加賀が交流基地となっていたと見られる。高句麗は、新羅を避けるために加賀に来たのではないか。
・また、670年、江沼郡(小松周辺)に河内から百済公一族が本籍を遷している。オンドルの住居跡群があることなどから、江沼には多くの亡命百済貴族がいたと考えられる。加賀地方は朝鮮から渡来人を受け入れる素地があった。
○能登臣と北方日本海世界
・660年能登臣馬身龍が越国守の阿部臣に従って、北方日本海=佐渡~津軽~北海道南部へ航海し渡嶋(余市から小樽の海岸か?)で、粛慎(あしはせ)と沈黙交易をしようとして、失敗し戦死した。
・この阿部臣の航海は北方征伐ではなく、緊張する北東アジア情勢の中で、外交政策が破綻した朝廷が、阿部臣に北方の国際情勢を視察させることが目的だったと考えられる。
・馬身龍が見た古代の北方日本海世界は、沿海州南部の靺鞨(まつかつ)人が貴重な錫製品を持って渡来し、オホーツク人が北海道の島づたいに南下する一方、倭人が鉄製武具等を持て北上し、蝦夷(えみし)を仲介して活発な交易が展開される豊かな交流世界であった。
○渤海と北陸
・699年に興った渤海は、唐との葛藤の中で生まれた。都城は8世紀には図們江流域で、9世紀には牡丹江流域にあり、都城から五道(日本、新羅、唐・長安、唐・営州、契丹)があった。
・渤海は唐に対抗して日本と連携する狙いがあり、日本も新羅政策上渤海と連携することを望んでそれぞれ使節を派遣した。当初は軍事的様相が濃く、唐が渤海を冊封(認知)後は交易が主目的となった。
・渤海と日本の航路は、8世紀は加賀から東北、9世紀は加賀から山陰の範囲であったが、加賀は全期間を通じての来着地となっていた。加賀に渤海使節を滞在させる便処が設置されていた。日本から渤海への派遣13回、渤海から日本への派遣は34回あった。2001年に渤海のものと考えられる帯金具が出土した畝田ナベタ遺跡は加賀の便処か?帯金具は花柄のデザインなどから、源流は契丹と考えられる。
・渤海使節に関する史料で、「越中」に関する記述は『日本紀略』の中で「弘仁(810)5月27日 高南容を大使とする一行の、首領高多仏が越前国に残留。高多仏を越中国に安置し、史生・習語生に渤海語を習わせる」という内容の記述が一箇所だけ見受けられる。この越中の場所は呉羽か小杉辺りではないか。この辺りは製鉄の遺跡があり、渤海の優れた製鉄技術を受け入れる目的があったのではないかと考えられる。
○日本海側こそが表日本
・渤海と日本を結ぶ日本道は、長安-渤海-日本海-奈良をつなぐ、もう一つのシルクロードであり、この日本道の方が人や情報の往来が多かった。高句麗、渤海との交流において、加賀は来着地として、能登は出発地として役割分担をしていた。
・日本海を越える交流は縄文時代からあり、7~10世紀が最盛期であった。まさに、日本海側は表日本であり、富山県が作成した「逆さ地図」(これが正地図か?)を頭に入れて、世界観をつくるべきではないか。
*570年高句麗船来着に関する見解 江沼氏は大和王権の影響下で朝鮮南部(百済)の渡来人を受け入れ、道氏は大和王権の枠外で朝鮮半島諸国との接触を試み、事件後は大和王権の枠内で道氏が高句麗との窓口となった(ただ、現段階では、道氏と高句麗の交流の遺物は未発見である)。高句麗は、新羅を避けるために加賀に来たのではないか。
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