日本海学講座

第2回 「言語からみる日本海地域」


本講演録は、日本海学推進機構事務局の責任で取りまとめたものです。
なお、講演の中に出てくる、富山県の発音の音声データについては、財団法人富山県ひとづくり財団「とやまの方言について」のページに掲載されていますので、参考にして下さい。

2003年度 日本海学講座
2003年7月5日
富山県民会館

講師 中井精一
富山大学助教授

1 富山県と方言研究のつながり

 今日はことばからみた日本海地域ということでお話します。日本海と言いますとその中心は若狭から越中の範囲がそれにあたるものと考えています。私は秋田県・青森県でのフィールドワークをしたことはありませんが、山形県の鶴岡あたりから西は鳥取、島根あたりまでの広範な地域で時間をかけてじっくりとフィールドワークをしてきました。

 最近、富山県内のフィールドワークの成果から、「富山県音声言語地図」をいうものを学生と一緒に作りました。色々なところで取り上げてもらい、よくご存じの方もいらっしゃると思います。また、市民大学や県民カレッジでも何度か紹介しておりますのでよくご存じの方もいらっしゃると思います。この作成については、今から3年くらい前に、「方言研究を見直す必要があるのではないか。」このような問題設定がもとにありました。

 方言の研究というのは「話しことばの研究」でなければなりません。書きことばについての研究をしてもあまり意味がないと思っています。そういうことをいうと書きことばの研究をしている先生に怒られるかもしれませんが、私自身は古典を資料にした古い時代の「書きことば」研究には全く興味が湧いてきません。それは本来ことばの研究とは、ことばそのものの研究に終始するのではなく、ことばを発した人とその人々の想いを受け取る作業をすることである。ことばを発した人の想いというのはことばを通じて、音を通じて入ってくるものだと思っているからです。

 今の時代は全国が東京を中心とした画一化されたモデルによって動かされていて、私たちの日頃の暮らしの中にもかつては地域それぞれにあったようなもの、たとえば伝統的な家屋形式にしても、新たなツーバイフォーといわれるような割合簡単な方法で短期間でできるようなものにどんどん変化しています。一つのモデルに沿って日本全体が覆われている時代ですが、今日ここに集まった方々にはことばについて興味をもっておられる方がたくさんいらっしゃる。私が大学で授業をしていても、あるいは県民カレッジや市民大学に行かせていただいていても、方言に興味をもの方はたくさんいらっしゃいます。それはやはり長い人々の暮らしの中で培われてきたことばで、なおかつそのことばを使うことによって自身の思いがもっとも相手に伝わり、方言で話すことで人の思いをもっとも敏感に感じ取ることができる、そういう思いがあるから、方言に対する思いというのはいつまでたっても消えないのであろう。そう考えるなら方言というのはあくまでも話しことばで、話しことばを記録、表現できない手段をとっているようでは本当の方言の研究はできない、そういう思いになりました。

 私は大きな文化ができあがるには、多様でなければいいものはできあがりません。ひとつの国が単純なひとつの文化で支配されているような状態では、結局その国、あるいはその文化は衰弱するだろうと思うのです。方言の研究というのは地域の多様性を前提に成立している分野ですね。この研究の進展・衰退が地域文化の有り様を測る目安になると考えています。

 私たちの研究分野の先輩たちに、富山県では大田栄太郎先生がいらっしゃいます。戦前の日本の方言研究界をリードされた大田栄太郎先生は戦後富山にお戻りになって、県立図書館の館長もされた方ですが、中央の学会でも有名な方です。全国に国語学とか日本語学の講座をもっているところは国立大学99の内の半分ぐらいです。99ある中で50ぐらいの大学で国語学があるとして、方言の専門の先生を置いているのは15ぐらいの大学です。富山大学の場合は随分前から国語学の一人は必ず方言の先生を置いています。初代は都竹通年雄という先生でして、とてもユニークな方で有名な民俗学者に宮本常一という方がいらっしゃいますけれど、方言研究で宮本常一に当たるような高名な学者です。その後川本栄一郎先生、斎藤孝滋さんで私というふうになります。富山県では方言の研究が随分盛んで、地域の要請を受けて方言の担当の教官を置いているのだという説明を聞いています。大学としてもこの地域の方言に対する熱い思いというのを受けながら私たちは研究しているわけです。

 今日は私たちの研究室にあります先輩たちが残して下さった資料なども加えながら、富山県を中心とした日本海側の言語の特質について、お話をしたいと思っています。

2 歴史における方言の東西区画と東西方言融合の地・富山

 今日は、富山県の方言の特色などからお話ししようと思います。

 富山県は方言研が非常に盛んなところだということは先ほどお話ししました。大田栄太郎先生の話もさせていただいたとおりです。

 ところで、方言研究の分野で忘れてはならない人物に柳田国男先生がいらっしゃいます。そのご研究の中でもっとも著名なものに『蝸牛考』があります。この研究では、「カタツムリ」の方言名が全国的にどのようなバリエーションがあり、その分布がどうなっているのかというのを調べられているのですが、その結果と論旨を簡単にいうと、ことばは、関西を中心にして日本全国へ同心円状、池に石を落とすと輪が広がっていくように、中央から周辺に波状に広がっていった。都で生まれた新しいことばは都の周辺にあって、かつて都で使われていた古いことばは遠い辺境地域に残る。ですから都から遠く離れた辺境地域のことば、たとえば九州の熊本の方のことばや、青森県の弘前の方のことばというのはたいへん古いことばになる。古いことばが遠いところに残って、新しいことばが近くにあるという方言周圏論というお考えを示されました。富山県の方言を考える際に問題となる方言の東西の対立と、この周圏論というのは、方言研究の出発点に当たるものです。

 柳田先生の『蝸牛考』の冒頭は、富山県の「カタツムリ」というのはこんなにたくさんのバリエーションがあるのだというところから始まっています。いかに柳田国男が富山県の方言に関心を抱いていたかということが分かります。岩波文庫から柳田国男の『蝸牛考』は出ています。解説は、私の恩師であり、富山県出身の方言学者、真田信治先生がお書きになっています。私も真田先生が解説をお書きになった改訂版を頂戴しましたが、富山県にとって非常に縁のある本ではないかと思っています。

出典:『口語法分布図』による

 富山県という地域は方言研究の世界ではことばの東西対立を考える場合にたいへん注目されるところなのですが、「塩からい」という語彙の地図は日本の西と東を明確に分割していることを示します。地図(右図)をご覧下さい。これは日本の方言を西と東に分けた時の境界線を示した地図です。一言でいいますと富山県は西側の東の端の地域です。東側の世界というのはことばにおいても暮らしぶりにおいても西側といろんな違いがありますので、それをダイレクトに感じることが富山県の人は感じることが多いので、それだけ方言に関心の強い地域になっているのではないかと思います。簡単にいいますと富山県というのは西側の方言、図の下に示してありますが、「お金を払った」というのか「はろうた」というのか、「いい天気だ」というのか、「いい天気じゃ」とか、「いい天気や」というのか、「行かない」というのか「行かん」とか「行かへん」とかいうのか、命令形で「見ろ」というのか、「見よ」というのか、そういう文法形式上の違いで西と東に分かれます。

 これは明治30年代後半くらいから分かってきていることです。明治後期の近代国民国家形成期に文部省の中に国語調査委員会というものができます。明治時代というのは江戸時代のあとを受けて全国にまだまだ個別にたくさんの方言がある。方言だけで話されるとことばが通じない。ことばが通じなくて困るのはどういう時かというと富国強兵というもとに日本は明治国家を作るのですが、一番困るのは兵隊さんに行った時に困ります。やはり標準語というものを作らなければならないということで、日本にどういう方言があるかというのを調べないと標準語が作れないので、明治30年代から調べまして39年にその報告が出ます。

 全国の言語区域を東西に分かとうとする時は越中、飛騨、三河の東境に沿って線を引いて西と東に分けるといいと。明治30年代にいわれたことが大体今も継承されています。新潟県は越後なのですが、僕は昔の人が間違っていたから越後になったと思っています。越中と越後は親戚でも何でもない。加賀と越中、能登は親戚だと思いますが越後と越中は昔関西の人たちがよく分からなかったので越の国に入れてしまったのです。ひょっとしたら上越ぐらいまでは越の国かもしれないですけれど。

 僕が富山に来て未だに分からないのは北日本とか北国とかいうのはどこが主導権を握っているのでしょうか。福井あたりから北国とか北日本とか出てきますが、富山は北国と北日本とどちらが勢力があるのでしょうか。新聞社は北日本なのでそうなのかとか、北陸、北国、北日本、これは一体どういう順番なのかとか。どのことばをとればこの地域の人間にとって一番いいのか。ただ、北日本というのはもっと北の地域をさすと思うのです。北国というのが、歴史的にもっとも由緒ある言い方でしょうね。このあたりがよそから来た人には未だに分からないところです。

 ことば(の研究)というのは今から順番にさかのぼっていきます。江戸時代に入るか入らないかの頃、徳川幕府が開かれても、十分に体制が固まったわけではありませんので、まだまだ行動に自由がきいた、宮本武蔵の頃だと思って下さい。あのころにはまだ、宣教師もうろうろしています。宣教師が何しに来たかというとキリスト教の布教に来ていたわけですが、布教するためには当然日本語のことが分からないと布教できません。いきなりポルトガル語で「あなたは神様を信じますか」といっても誰も信じることはできません。そこで一生懸命日本語を勉強します。当時の日本語、特に話しことばである方言を記録するわけです。ロドリゲスという人の「日本大文典」によりますと三河より東、今の愛知県の東部よりも向こう側というのはことば遣いが荒く、西日本の方言とは違うと書かれています。今から400年ぐらい前に既に明治38年に愛知県の東あたりで日本の西東が分かれるという結果になっています。

 もっと昔はどうなのかというと私の先生に当たる徳川先生などがおっしゃっていますが、万葉集の東歌の研究などから、奈良時代つまり今から1200年前ぐらいに、三河あたりを境にして、日本語が西と東に分かれていたことが推測されるとしています。もしもそうだったら1200年前の西と東の境も400年前の西と東の境も現在の西と東の境もあまり変わっていない。

 それでは日本海側についてはどうでしょうか。1200年ほど前、私と同じ大和の国からこの越中にやってきた、大伴家持がこちらの方言を記録していないかと調べてみたのですが、どうも詳しく記録されたものはないようです。家持は、東風をこの地の方言で「あいのかぜ」といっていると記していますが、その程度の記載しかありません。「あいのかぜ」は現在の富山県では「あいのかぜ」ブランドというか意味ある象徴的なことばになっていますが、このことばは山陰の出雲地方から東北地方日本海側に広く分布していることばです。 日本海側の東西対立については、実は文献では新潟県と富山県の間で分かれるのだということは明治38年ぐらいまで分からない。そして、明治38年と今もあまり変わっていない。400年前の太平洋側の状況は明治38年の状況と変わっていない。万葉集とも変わっていないと考えますと、日本の西と東を分ける境界線というのは変わっていないと考えて間違いないと思っています。

 そう考えますと先の「塩からい」ですが、富山県の東の方、新潟県の方にいきますと「しょっぱい」といっています。富山県の西の方や関西の方にいきますと「からい」といっています。西と東が融合した形で富山県は東側の「しょっぱい」の「しょ」というのと西側の「からい」とが足された形で「しょっからい」というのがもっとも多い。まさに西側と東側が融合した形だということがいます。特に融合した形は富山県の中央から東にかけて多い。

 富山県の西部に行けば行くほど、関西の「からい」が増えます。関西から西側の、中央の文化がどんどんポンプのように送り込まれ、それを導入しようという体制ができています。ただ、これも富山県に入ったあたり、小矢部とか氷見とか高岡の周辺で、ポンプの圧力が弱くなってきます。富山市あたりに来ますとポンプは青色吐息で「ハアハア」いっています。ポンプを助けてやろうという力が、西側の中央の文化を受容したいという力が働けばいいのですが、それはあまり働かないようです。

 東側は東側で結構な暮らしがあるわけです。西側の文化を早急に受け入れ、西側の仲間に入らなくても幸せに暮らしていけるのです。
富山県の西の方は、また、金沢の影響なども色々と受けています。金沢はポンプでもう一回圧を加えるわけです。金沢は中央の西側の文化だけをポンプで送り出すのではなく、自分たちのところでアレンジしたものも送り出します。富山県の西側は西日本のオリジナルのものが入ってくるだけでなく、いったん福井や金沢で変換されたものも入ってくる。東側は金沢からも関西からダイレクトに来るものも必要としない社会、そういう雰囲気があります。

 最近、関西や中部地域で魚をどう呼んでいるかという調査をしています。「鮎」などは全国どこへ行っても「鮎」です。けれども地域によって淡水魚の方言名は違います。富山県の場合はやはり、西側の淡水魚と東側の淡水魚の名前が違っています。「ヤマメ」と「アマゴ」は生態がよく似た魚ですが、生息域が異なっている。つまり名称だけではなく、生息場所も違うわけですね。「ことば」をもとにした生き物と人の暮らしや文化についての研究は、まだはじめたばかりなので十分なお話はできませんが、魅力ある新しい研究テーマだと思っています。
川漁師さんに色々聞きますと、川に関係するものは全部西から来る。南の方から飛騨を越えて来ることもないし、東の方から来ることもない。西の方が淡水魚の料理の仕方もバラエティーがあるし、いろんな淡水魚がいる。富山県の東の方へ行くと淡水魚はあまり食べない。西の方へ行くと小矢部川や庄川、神通川などいかにも魚がいそうな川ですが、東の方はきれいな川ですが荒々しい川ですので、富山県の文化的なものは全部西から来るのだということを何人かの漁師の方がおっしゃっていました。

 西と東の差は西からの文化をどのくらいの濃さで受け入れるか受け入れないかによって決まる、特に富山県の西と東を分けている色々な文化的な事象というのは西のものの受け入れ方の濃い薄いがそれを作っているのではないかと思います。地図をみていただきますと東の方は面積は広いですが、人の住むことのできる地域は限られています。高い山があります。東の方で地点が少なく感じられるのは、山岳地帯だからです。人の住んでいるところの重心をとりますと富山市よりもずっと西の方に重心があるという感じです。東の方が人が少なく地点も少ないと言うことを考えますと、「しょっぱい」といっている比率が高くなります。東日本的なもの、非西日本的なものは富山県の東部の方に多くなっていると言うことができます。

 富山県の文化や方言で特徴的にみることができる東西の対立の図式というのは、中央あるいは西側の文化の受け入れの濃淡がそれに対応しているのです。ですから、富山県の方言については、これまで長くいわれてきたような、「富山方言は、西日本方言圏に属する」といった簡単な枠組みのままでいいのかというと、実はそう単純ではなく両方が融合した形なのだということを考えていかないといけないわけです。これまでにたくさんの方言研究がおこなわれていますが、私はそういったことを改めて洗い直しする時期に来ている。再検討してみなければいけないと思います。

3 日本語東西対立と富山方言のアクセント

 ここからは特に日本海側のことばの特徴の話に入ります。一つは富山県のアクセントの問題を考えていきたいと思います。このアクセントについては「富山県音声言語地図」をみていただきながら考えてみたいと思います。

 音声言語地図は、地図上の記号をクリックすればその地点の実際の音声が再現される声による言語地図で、誰もが簡単に郷土の生の方言にふれることができるという特徴があります。研究の面でも実際の音声を聞いて検討・考察することができ、多くの研究者からの有益な情報の提供が期待され、研究を大きく前進させる可能性をもつと考えられます。

 こういった音声言語地図は、徳島大学の岸江信介教授と私たちの研究グループの共同で検討を重ねてきたのですが、完成し、地図を公開させたのは、富山大学が全国で、きっと世界でもっとも早かったと思っています。

 この地図を作成するための調査は2000年10月~2002年7月の約21ヶ月間にわたり、私が担当していた富山大学の日本語学演習の受講生を中心にしておこないました。調査では、音韻・アクセントを中心にした調査項目を読み上げてもらい、DATなどの高性能の録音機材を使用して記録したのですが、困難な音声言語地図の作成には、今日、会場に来てくれている4年生の山崎千恵子さんほか、大学院生の小山拓郎くんや三輪勇人くん・中村雅志くん・岡村早映子さん・内藤智美さん・藤岡香織さんらの学生が一生懸命作成してくれました。最後の追い込みの時には何日も徹夜することもあり、いいものができていると思います。(音声言語地図は、音声が収録されたCD-ROMとなっていますが、本記録では、割愛します。)

 音をまず聞いていただきます。

 資料では、表で1類から5類まで並んでいます。

 アクセントの全国比較で、L,Hというのは、Lはlowで、Hはhigh、つまり低い、高いを表しています。
〈「竹」の音声再生。右図参照。〉

 「竹」以外にも「枝」とか「風、腰、道、杉」などがみな同じ高低というのが大体のルールになっています。低いところで始まって高いところで終わるということで、地元のご出身の方はこの様になるといって大丈夫だと思います。

出典;平山輝男「全日本アクセント分布図」

 これがよその地域ではどうなるのか。北陸でも福井の話し方は独特だというのは感じられた方がいると思います。

 今度は右の地図をみて下さい。無型アクセント・1型アクセントと書いてあります。熊本県の方から鹿児島県、宮崎県の方に無型とか1型とかいうアクセントのところがあります。茨城県、福島県、山形県の一部にもあります。よくみますと福井県に小さな丸のようなところがあります。こういう地域ではほぼ同じような話し方をします。アクセントの形がない、あるいは一つで、どれをいう時にもたとえば2つ目が上がるというふうに、いつも上がるところが決まっているというのがこの形です。

 富山県の場合はどうかといいますと、今、「竹」というのを聞いてもらいましたが、他のものもあります。
〈「石」の音声再生。〉

 みな石〈HL〉といっています。

 みなさんも全員「石〈HL〉」だと思います。こういうふうに富山県のアクセントは地図を作ることにより明確に傾向がつかめるということが分かります。

アクセントの全国比較 富山県 関西 東京 福井
1類 竹・枝・風 腰・道・杉 LH(MH) HH LH LHH LH
2類 歌・音・胸 石・夏・橋 LH HL HL LH LHL LH
3類 池・腕・山 足・鬼・炭 LH HL HL LH LHL LH
4類 跡・糸・稲 種・麦・箸 LH(MH) LH LLH HL HLL LH
5類 雨・井戸・鍋 猿・露・モズ LH HL LF LHL HL HLL LH

 アクセントというのは、類ごとにまとまっていて、それぞれの地域で「竹、枝、風、腰、道、杉」というのはみな同じ〈高低〉で発音します。

 2類の「歌、音、胸、石、夏、橋」というのは関西では〈高低〉と発音するし、東京の方では〈LH〉と発音します。富山県ではおもしろいことに後ろの母音が狭い時、広い時によってアクセントが変わってしまいます。たとえば、「胸」では後ろの母音はネ(エ)ですから広い母音です。「石」と言う時にはシですから狭い母音です。後ろが広かろうが狭かろうが、関西では2類だったら「石〈HL〉」、3類だったら「足〈HL〉」と決まっています。5類だったら「雨、猿〈LF〉」と決まっています。富山県の場合は後ろの母音が広いか狭いかによってアクセントが変わる。類の中でもう少し細かい分類があるわけです。

 こうして全国の状況をみていきますと、関西では「跡が、雨が」、というふうに助詞の「が」がついた時を含めますと、全部で型が1類で一つ、2類3類で一つ、4類で一つ、5類で一つということになって、関西ではアクセントの型が、4つの種類をもっているわけです。東京では1類で一つ、2類3類で一つ、4類5類で一つということになって、アクセントの型が、3つの種類をもっているわけです。

 富山については2つの型、つまり1類と4類は同じで、2類と3類と5類が同じアクセントを示します。母音の広い狭いによって変わる特徴をもつのですけれども。福井は1です。アクセントだけで考えてみるとこういうふうに、関西は4型、東京は3型、富山は2型、福井は1型というふうになります。

 個々の類の高低に注目すると、どうなるでしょうか。富山県のアクセントは、ある時は東京と同じような発音をします。たとえば「竹、枝」、これは東京と同じです。「歌、音、胸」は東京と同じ発音をして、「石、夏、橋」は関西と同じ発音です。ある時は東京と同じように発音し、ある時は関西と同じように発音しているわけですね。アクセントもまさに西側と東側の融合したものが富山県の形だということができるのです。

4 日本海側に特徴的な音韻現象

 富山県はアクセントの面からみても西側と東側の緩衝地区であるということは、音声言語地図によってよりはっきりとしてきました。音声の面については、アクセント以外に音韻がそれを明確に示してくれます。日本語の標準的な母音は「アイウエオ」の5つですが、沖縄の方では「アイウ」の3つの母音が基本になっています。具体的には「アイウエオ」が「アイウイウ」というふうになります。

 標準的な日本語の場合、アイウエオのイの音とエの音が規則的に入れ替わるような状況があります。そういうふうに規則的に入れ替わっていくようなものを見つけていくのが音韻の研究になるわけですね。音韻には母音以外にも子音の地域差があります。たとえばマミムメモの音とバビブベボの音、ローマ字になおしますとmの音とbの音ですけれども、これは比較的入れ替わりやすいといわれています。

 子音ならば子音が規則的に入れ替わる現象、そういった地域の規則的現象や特徴を「音韻現象」と呼んでいます。
〈獅子舞を見るの音声再生。〉

 よく聞きますと最初のシは同じシかもしれないですが、2つ目のシはスィに近い。シの音をスィのように発音するような言い方を、中舌母音と呼んでいます。

 シとスの区別がなくなったりイ段の音がウ段に近い音で発音されたりあるいはイとエの区別が少ないとか、こういうことが富山県の音韻の特徴だといわれています。こういった現象は、富山県では、海岸から10キロぐらいまでの間に多いといわれています。内陸の方に入っていきますとそういうのは減っていきます。海に近い方で今いいました「獅子舞を見る」が「スィスィ舞を見る」というふうに発音するわけです。

 こういう富山方言の特徴的な発音の仕方は、現在ではどんどん消滅していっています。 30、40年前のデータをもとに考えているのですが、シとスの区別の有無といった中舌母音の分布は、富山県および能登の一部のみならず、山陰の島根県から東北の山形県から青森県にかけて、つまり広く日本海全体に認められる音韻の特徴なのです。

5 音韻の特徴にみる弥生時代以前の日本海地域のつながり

 音韻というのはアクセントもそうですが、本人はあまり意識していないものですね。意識していないものは変わりにくい。変わらないものは残るというのが重要なものの見方だと思います。音韻というのはなかなか変わりにくいものだと思います。

 ことばの中でもっとも変わりやすいのは、「カボチャ」というか「ナンキン」というかというような名詞に関するようなもので、意識すればすぐ変えることが可能です。語彙は1つ1つのものについては一番変わりやすいといます。

 その次は文法です。文法も多分に語彙的な要素がありますが、「ええ天気や。」というのを「いい天気だ。」というのは「ええ」と「や」の部分を変えればいいだけなので、これもまあまあ簡単です。ただ、音声に関しては、たとえばアクセントは類ごとにアクセントの型が決まっていますので、その全てをマスターするのは難しい。また、音韻も「スィスィ舞を見る」といっている人に「獅子舞を見る」といえといってもなかなかそのとおりに発音することはできない。

 しかし、今の時代はこういった伝統的な発音は、なくなってきています。学校で受ける共通語の教育と、何より早朝から深夜までテレビやラジオから共通語が一方的に遠慮なく耳から入ってくるのですからね。家庭の中に遠慮のない「東京の人」が住みついている、東京の人と暮らしているようなものなのですから、幼い頃から聞き取り能力も身につけることになります。

 かつて学校でそれほどの教育を受けなかった時代、ことばは全て、親や家庭や地域社会の人々によって教えてもらって身につけていました。そしてそのことばは、「話しことば」でした。つまり、その地域で培われた方言が耳から入ってくるわけですね。

 さて、変わりやすいと考えても差し支えないであろう文法事項でも、先のお話で述べたように400年あるいは万葉の時代から変わっていないのですから、音韻というのはそれ以上に変わりにくい古い時代の特徴を残していると思います。そう考えると富山県や島根県に残っている、東北とつながっていくような音韻現象というのは、ものすごく古い時代に形成されたであろうと推測されると思っています。

 日本で米を作り始めた弥生時代は2300年から2500年ぐらい前だといわれていました。それが最近になってあと400年ぐらいさかのぼるといわれて、今から3000年ぐらい前に弥生時代は始まったのではないかといわれています。学生の頃から指導を受けています考古学者の金関恕先生(大阪府立弥生文化博物館長)に、この間電話をかけて聞きましたら「あれはたぶん正しい、間違いないと思うよ」といってらっしゃいました。

 私は現在の日本語を考える場合に、4つの歴史的画期を想定しています。1:縄文時代(南方的要素と北方的要素の融合と隔絶) 2:弥生時代の開始期(水稲耕作の受容・大陸語の受容) 3:古墳時代から奈良時代(朝鮮半島系の渡来人) 4:明治から現代(中央語の変化と共通語の伝播)それを以上のように考えているのですが、「スィスィ舞を見る」というような出雲や東北につながっていくような言い方は、記紀などによっても出雲と越中・能登が密接な関係をもつことから共通性は理解されるのですが、弥生時代が始まる以前にこれらの地域が共通した文化要素をもっていて、その共通した発音の残存が中舌母音だと思っています。つまり縄文時代に培われた地域間交流や日本海地域の特性によって形成された縄文日本語の残存がこれだと思っています。

 富山県には翡翠の耳飾りの研究で有名な藤田富士夫先生がいらっしゃいます。玉の研究では日本で一番の研究者ですけれど、藤田先生の研究でも、縄文時代から糸魚川の翡翠というのは全国に出回っている。もちろん出雲の方にもあるわけです。翡翠は糸魚川以外でもとるのですが、そのほかのところでは深い穴を掘ってやっととるものなので、縄文人にはとなかっただろうといわれています。日本で唯一産出するところは姫川のあたりなので、富山の越中、能登と出雲の交流というのは3000年、4000年になるといわれているわけです。弥生時代にも島根と越中はつながりがあったのですが、もっと前からの深いつながりが反映されて弥生時代になってもそういうつながりを続けていたのだと思います。そう考えるとシの問題、イとウが近いような発音の仕方は古い時代の日本海の交流のあり方を、やはり残している人たちの発音といっていいものだと思うのです。

 なお、日本海側に共通の文化要素を考えようとする場合に、日本海沿岸地域に上方から蝦夷地に向けて物資を運んだ「北前船」が、沿岸の文化やことばを変化させたという指摘があります。私もこのルートが沿岸地域に対して上方文化の伝播を大いに促すことにつながったと考えています。しかしながら、たとえば行商でものを売りに来る時の発音みたいなものまでが、私たちの身につくかというと、身につかないだろうと思うわけです。「獅子舞を見る」と発音する人に毎日「スィスィ舞を見る」と言って、彼らがそのような発音にならないと思います。語彙的なものは、変化させることはできますが、発音はものの交流だけではちょっとやそっとでは身につかない。表層文化は物流によって変化しても基層文化は変化しないというのが私の基本的な考え方です。

 私は大学の時に最初にフランス語をとって、毎週発音の試験がありました。3回目で日本人にそんなことがいるわけがないと思ってやめました。アクセントや発音というのはちょっとやそっとでは変わりません。私も「北前船」を少し疑ってみたのですが、これはたぶん違うと。もっと古いといって大丈夫だと結論づけました。そう考えていきますと音声的なものはかなり古い。しかしこうしたものは急速になくなってきているわけです。

6 日本海沿岸地域の言語特質と日本語の形成

 先ほど日本語のアクセントの話をしましたね。福井の方のアクセントは、竹も歌も池も跡も雨もみな同じ高低で発音します。アクセントの高低の型が一つしかない地域でした。富山は2型と申し上げました。関西は4型といいました。東京は3型といいました。

 福井のような、アクセントの型を一つしかもたない、全部同じ高低で発音する地域を1型アクセント地域と呼んでいます。この1型アクセント地域は、栃木県、茨城県といった北関東地域や福島県や山形県のなどの東北地方の内陸部、九州の熊本から宮崎にかけた地域に存在しています。つまり日本国内の辺境地域に存在しているといるわけです。私はこれは、日本語の古層に関わる事象だと思っています。こういうアクセントの型が一つしかないアクセント地域が、日本列島を取り巻く北アジアや南洋にたくさん存在すると報告されています。たとえば沖縄はアクセントの高低の型が一つしかない地域ですね。もっと南の方に行くと、戦前に日本が統治していた南洋群島がありますが、サイパンやグアムの方の人たちに日本語を教えますと、アクセントの型が一つしかないので福井の人と同じような発音になります。

 また、韓国の大邱(テグ)のあたりに行きますと東京と同じような3型のアクセントがあったり、釜山から少し海側に行った慶尚南道では、2型ないし3型のアクセント地域のあることが分かりました。つまり、日本列島の周りは、ほとんど1型アクセント地域であるのに、韓国には日本語のアクセントに類似したアクセントタイプを有する地域の存在が分かってきました。アクセントの型が多いところほど外来の影響をダイレクトに受けているのではないかというのが、私が最近考えている日本語形成のモデルの一つです。関西には、たくさんのアクセントタイプ=4型形がありますが、大和はもとより、河内・和泉・摂津・山城・近江などの関西は、渡来系の人たちがたくさん入ってきたところですよね。一番最後に渡来人が大量にわたってきたのはいつかというと、百済が滅亡した時なのですが、とにかく何度かの渡来の画期があって、関西にたくさんの外来の人々が来たわけです。関西にアクセントタイプが多い事実は、渡来系の人たちによる言語の融合による複雑化という考えにはそれなりの納得できる推測といるのではないでしょうか。

 さて、日本海沿岸や富山県に視点を戻して考えてみることにしましょう。

 アクセントの型の多いところは、外来の人たちが数多く渡来した地域であって、型の少ないところは辺境や渡来系の人たちの影響が少なかった。日本に昔からいた人たちがそのまま大きく変えられることがなかった。そう考えるとなぜ福井があまり影響を受けていないのか説明するのが難しいのですが、北関東や九州にそういうものが残っているということの説明は可能ではないかと思います。

 現在の日本語をもとにその形成を考えるには、ルートはもうはっきりしています。天気が偏西風の影響で西から東に移り変わるしかないように、島国:日本の文明は、朝鮮半島ないしは東シナ海を通って、日本海側のルートを通り、日本に入ってくるしかないのです。 黒潮に乗って南の方からたくさんやってきたというのはもっともっと古い時代だと僕は思います。4000年、5000年、6000年前は黒潮に乗ってトビウオを追ってくるという話を聞いたことはあります。それは来たかもしれません。しかしお米をもってやってくる人たち、今の富山の少し前までの原風景というのは水田であり稲作である。弥生時代以降の日本というのが今の日本のもとだと考えます。お米をもってやってきた人たちは日本海を通ってやって来た。そのことと日本語の関係はオーバーラップしている。日本海側の日本語を考えるということは、そういった時代に焦点を当て、それ以降の変化と今どうなっているのかということをクロスさせることです。それによって、色々なものが見えて来るという視点でこれからも日本海側を調査したいと考えています。

7 学際的研究の必要性とこれからの方言研究

 東京語、共通語というものはとにかく一方的に入ってくるわけです。そしてどんどん、もとからあった地域的な特色を変質させて、消滅させていきます。これは明治以降の近代化の流れの中で全国一律の画一化を進行させてきた功罪なのですが、日本語の研究でそのもっとも「罪」の部分は、沖縄、琉球のことばを沖縄方言として、日本語に閉じこめてしまったことだと考えています。

 ご存じのように明治になってから琉球は日本の国に入りました。琉球のことばは今日本語といわれていますが、私は違うと思っています。琉球を日本に無理やり隷属させたかったので、琉球語は方言になりましたが、別の国あるいは異なる民族と違いを前提に考えるのであれば、世界で一番日本語に近い言語が琉球語だと考えられるようになったと思います。琉球語を日本語の方言にしてしまったから日本語に一番近い外国語は朝鮮語になったわけです。

 日本の集団というのはいったんそのグループの中に入れてしまうと、その中で差をつけて色々順番をつけて差別したりいじめたりする理由にします。そういう国民性、社会性があるので目立つことを避けるという特性につながります。それぞれの個別の地域にあるような言語の問題を特別に取り上げるというようなことは、あとの差別の種にされるかもしれないので、なかなか言い出しにくい雰囲気になっています。本当に個性を認めるというのならば、それぞれの地域にそれぞれのことばがあってもいいと思います。それを前提にしないと、日本海側に特徴的といわれていることばの現象も、それが非常に古い時代にさかのぼるといわれている言語の特徴も、なにか異質の差別される異民族の言語の特徴のようなとらえ方にされてしまいます。

 古代の北方地域に暮らしていた中央の、ヤマトの人々の生活様式とは一線を画した集団に蝦夷といわれる人々がいました。蝦夷という表現は、中央やヤマトの見方ですね。中央からみて自分たちと異なっていて、仲間に入りたがらず、味方をしてくれない人たちを野蛮と決めつけて蝦夷といっているだけです。中央の見方と違う見方でそれぞれの地域をみる目をもたないと、中央と違う日本語、関西と違う形で形成され残存されている日本語は、異民族の、蝦夷の言語研究というマイナスのレッテルが貼られて、研究というのはなかんか進んでいかないと思います。
私は、明らかに日本海側にある特徴というのは太平洋側、特に九州、瀬戸内、近畿、東海と違う暮らしをしていた日本人のことばの名残というふうに捉えています。そういった正統や異端、本流や異質といった視点を排除し、政治性を克服する努力をすることで、近代以降に積み重なった誤った学問感が是正され、日本海全体、つまり朝鮮半島や対岸の研究も進むと思います。

 富山県は方言研究の盛んなところで、本当に恵まれたところで研究生活が過ごせていることに感謝しています。

 日本海側のことばの研究の原点になるものは富山県だと思っています。富山県のこと、つまり富山県の海側と内陸部と五箇山の問題をしっかり研究すれば、ほぼ日本海全体のことは分かると思います。ここでしっかり頭の訓練をして日本海全体の大きな物語、ストーリーを作れるかどうか、もし作れれば日本海全体のことが分かってくると思います。日本語の研究を文献だけ読んでおこなうのは随分昔のやり方です。それぞれの土地へ行ってそこで色々なものを収集して、それをもとにして日本語を考えるという時代になっています。

 最近は忙しくなって十分にフィールドワークをする時間もなく、まだまだ調べ方が足りないと思っています。日本海側の音韻的特徴である中舌母音は、近畿に近い若狭や丹後からは報告されていません。同じようなものがあると思いますが、全国地図をみてもないでしょう。この夏に若狭の敦賀あたりから転々と調べていって丹後、久美浜のあたりまでずーっと行き、出雲の方まで行ってみようと思っています。

 出雲あたりの気候はこちらとよく似ていますよね。11月ぐらいになったら寒く、日本海特有の冬の雷が鳴って、雪もたくさん降る。日本海側の気候です。植物の植生も似ていると思うし、植生が似ているということは自然環境が似ているので、それぞれの土地で植えられてきたものや食べてきたものが似ている。古い時代から日本海側は一つの文化領域としてつながっていたという仮説をより堅固な形で実証してみたい。その仮説検証のためのフィールドワークをおこなう準備をしています。

 富山大学の人文学部にはこういうふうにフィールドをやりながら日本語の研究をしている人、また留学生に日本語を教えている人、言語学の理論を高めていこうという人、いろんな人がいますし、考古学の先生、地理学の先生、歴史学の先生も自身の研究領域に閉じこもることなく、通分野的に学際的な研究をしています。

 この講演をご縁に、富山大学に興味をもっていただき、富山大学に足を運んで頂けたらと思います。