日本海学講座
第4回 「大伴家持のみた日本海地域」
本講演録は、日本海学推進機構事務局の責任で取りまとめたものです。
2003年度 日本海学講座
2003年10月11日
ボルファートとやま
講師 金沢星稜大学教授
藤井 一二 氏
1 大伴家持と越中国
・万葉の歌人大伴家持が、越中国司として赴任したのは、天平18(746)年7月、北陸の野山に女郎花(おみなえし)や萩の初花が咲く頃であった。
・当時の中央政界は、天皇は聖武天皇であり、皇后が藤原氏出身の光明皇后である。左大臣は橘諸兄で、大伴氏とは非常に親しい有力政治家であった。青年政治家の大伴家持とすれば、橘諸兄が左大臣でもあり、自分が越中に国司として赴いた時には、おそらく政治家としての明るい将来が約束されていたと考えたはずである。
・彼が越中で5年間の歳月を過ごしている間に、都の政治情勢が大きく変わり、その後の中央政界での出世コースは待っていなかった。因幡、薩摩、大宰府、相模、やがては多賀城へと、最後にはどこで亡くなったかさえわからないような末路であった。
・「万葉の世紀」といいながら、現実の政界の厳しさを知ることになるが、越中赴任中はそこまでは予想もしていなかったであろうから、家持は橘氏と親しい関係にあって、将来への夢を持ちながら越中での5年間を過ごしたであろう。
2 越・越中の表記
・『万葉集』において家持自身は「越中」を、「越中国守」「越中守」「越中風土」と漢字で表現している。
・しかし、「越中」を万葉仮名で発音する場合は、一貫して「コシ」であり、越中という音読の呼び方はしていない。万葉仮名で「故之」、「古之」、「故志」と3種類あるが、いずれも「コシ」である。「越」と書いて「コシ」と呼んでいると思われるところが2箇所だけある。
・もう一つ興味深いのは、「コシノウミ」という万葉仮名である。「古之能宇美」乃安里蘇乃奈美母(コシノウミノアリソノナミモ)、「故之能宇美」能信濃野波麻乎(コシノウミノシナノノハマヲ)、あるいは、「越海」之角鹿乃浜(コシノウミノツノガノハマ:敦賀のこと)などとあり、まさに「コシノウミ」という表現こそ、日本海のことを指していると考えられる。
・ところで、「コシ」とは何処かとなると意見が分かれるのだが、いずれにしても、「コシ」は北陸地域に相当する広い範囲であったと考えられる。
まず、7世紀中頃、大化改新の頃は「高志」の表記が行われた。その頃「コシ」国があったとしても、表記は「高志」で統一されていたと考えられる。
藤原京跡で発掘された木簡に「高志調」銘があり、この「高志」について、国か郡か郷かなど、いろいろ意見があると思う。京都大学近くの小倉別当町遺跡で見つかった無文銀銭には「高志」と刻まれており(文字の無い銀銭に文字が刻まれている)、これは地名か人名か今をもって謎である。
・さて、7世紀の後半から末にかけて、いよいよ「高志国」名が登場する。一つは「高志国…評…五十戸」、その次は、「高志国…評…里」という表記である。「五十戸」(さと)が「里」に変わった時期は、私の見通しでは、ほぼ天武天皇12(683)年から持統天皇元(687)年の4年間の間に絞り込んでいくことができる。
・次に、「高志国」がいよいよ3つの国に分割される。越中国は「高志中国」(コシノナカノクニ)という表現に変わった。現在のところ、持統天皇3(689)年から6(692)年までの3年間に、「高志」は「高志」の後(しり)、中(なか)、前(くち)に分かれたであろうということができる。この時の「高志中国」は、大きな行政区画を持っており、蒲原、古志、魚沼、頚城そして現在の富山県のベースとなる新川、婦負、利波、射水、これだけの郡を含んでいた。
・やがて、大宝律令が大宝元(701)年に制定され、これを画期として国域の表記は、また大きく変わっていく。この頃に、「コシノナカノクニ」が2文字の「越中」という漢字に変わったであろうと思われる。大宝2(702)年に蒲原、古志、魚沼、頚城の4郡が越後国に併合され、その後、養老2(718)年に、能登半島で能登、羽咋、珠洲、鳳至の4つの郡で能登国が出来上がり、8世紀中頃、大伴家持が越中に来る5年前、天平13(741)年に隣の越中国と併合している。これから天平宝字3(759)年までの10数年間、越中国の中に能登半島が含まれていたことになるが、この間に、都から青年政治家の家持が赴任してきたわけである。
・当時の史料は非常に少ないが、家持はこの「越中」という漢字を、随所に使っている。
大伴坂上郎女が歌の中に読んでいるのは「美知乃奈加 久尓都美可未波…」、越中のことを、「美知乃奈加」(ミチノナカ)と詠んでいる。当の家持は、歌中で越中とは言わないで「古思能奈可」(コシノナカ)と立山の賦の中で詠んでいる。実は、平安時代の『和名類聚妙』には「古之乃三知乃奈加」(コシノミチノナカ)と見えるが、この表記は、「万葉の時代」の読み方を反映している可能性が高いと思う。
「高志中国(コシノナカノクニ)」という表現が2文字=「越中」国の名前に統一される以前に、「高志道中国」と表記した段階があるのではないかと推定する。この史料が、いずれ木簡などの形で発見される可能性があると思っている。
ここで、ひとつの傍証を挙げてみよう。「コシノウミ」に面する「高志」が越後、越中、越前に3分割されているが、これに類似した変遷を示すのが吉備国である。吉備は高志と同様に備後、備中、備前の3国に3分割される。飛鳥で発見された木簡の中から「吉備道中国」というのが出ているが、これは、まさしく「高志道中国」に対応する国名だと考えている。
3 大伴家持と「越」の四季
・家持は、『万葉集』の歌に様々な表現の万葉仮名で、北陸の自然の表情を歌いこんでいる。
家持が作った歌は、『万葉集』では巻十七から十九に集まっており、数え方によって少し違うが、220首余りの歌をのせている。足掛け6年にわたる生活の中で自然と風土の織り成す四季折々の情景や情緒を詠んだ歌が多く残っている。
(1) 春
○「物部の八十少女らが汲みまがふ寺井の上の堅香子の花」(4143)
代表作の一つ。多くの乙女たちがお寺の井戸の辺で、堅香子の花の咲いてる所で水を汲み合っているという情景である。
(2) 夏
○「立山に降り置ける雪を常夏に見れども飽かず神からならし」(4001)
非常に気高い歌で、立山連峰全体を「立山」と表現していると思われる。
(3) 秋
○「安の河い向かひ立ちて年の恋日(け)長き子らが妻問ひの夜そ」(4127)
七夕、天の川の夜の想いが込めれている。
(4) 冬
○「この雪の消(け)残る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む」(4226)
消え残る雪の中で、山橘の実の映える様子が際立って心に留まる。
(5) 布勢水海
○「藤波の影なす海の底清み沈着(しづ)く石をも珠とそわが見る」(4199)
○「渋谷を指してわが行くこの浜に月夜飽きて馬暫(しま)し停め」(4206)
渋谿の崎は、松田江の長浜につながっていくが、布勢水湖への往来に必ず通ったところで、そこから眺める波の妙、海底の色合い、海越しの立山連峰の景観など、それは昔も今も変わることはない。
4 「古之(越)」の村々 -万葉びとの活動舞台-
・『万葉集』に出てくる村は限られている。村は沢山あったはずだが、行政では村を公式の組織として扱ってはいなかった。しかし、『万葉集』に出てくる僅かな村が、近年注目を浴びている。
・旧江村
「天平勝宝2年3月9日、出挙の政せむとして旧江村に行く」。現在の氷見のどこかの地にあたる。
・荊波村
「荊波之里」だが、同じ地名を書き記した東大寺開田図(正倉院宝物)の絵図の1枚の隅に書
かれている漢字は「従荊波往紵道」(《荊波》より紵へ往く道)。紵は一方で辛虫村と書かれているから、「荊波」はおそらく「荊波之里」と言われていたであろうし、「荊波村」とも呼ばれていたであろう。家持はこの近辺を通っているから、この「荊波村」や「辛虫村」は「万葉の時代」、家持が活動した時代に実在した村であったことになる。
・畝田村
『日本霊異記』下・第16に出てくる加賀郡大野郷畝田村である。「コシノウミ」に隣接する地域で、秋田から鳥取、山口県にかけて、『万葉集』の時代の遺跡がもっとも集中する場所として、金沢港の周辺地域がある。狭い平野部を北陸道が通っていたわけで、この辺りは海の深さがあり、大型の船舶が入って来れる所である。今、発掘が進んでたくさんの遺跡や遺物が見つかっているのだが、日本で初めて、「天平ニ年」という年号を書いた土器が発見されて注目を集めている。
5 「古之(越)」の海と渤海使の往来
・日本海を挟んで大陸から渡ってきた渤海使が、ある時期現地に滞在した場所がある。加賀郡もそのひとつで、港があったことが確認されている。その港周辺の遺跡のひとつが、金石本町遺跡である。大型建物も含め建物が40棟を超え、墨書土器が100点以上発見されている。その横に畝田・寺中遺跡があり、土器に天平2年と書いてあった。港の役所を示す「津」や「津司」も見つかっている。実は、天平2年という年号は、日本の初期の対外交流史を考える上で、画期的な意味を持つ。
・中国の東北三省、ロシアの沿海洲、朝鮮半島の北部の領域を全部包み込んだ渤海国があった。唐はこの国が大きくなることを懸念し、妥協して「渤海郡王」という称号を与えた。この国は郡のように小さいわけでなく、大変大きな力をもった大王が支配する国で、歴史も長く続く。日本には、神亀4(727)年に始まり、延喜19(919)年まで、わかるだけでも33回、数え方によっては34回、使いを寄こしている。一回目は蝦夷が支配する出羽国のもっと北の方に着き、24名の内16人が殺され8人だけが許されている。都に行っていかに蝦夷が驚異かということを詳しく説明させる意図があったのだろう。二回目も何故かこの危険なルートである。風と潮の影響で、出羽国の方へ流されたのではないかという見方があり、あるいは、それ以前から出羽国の方へ行く、私的な交易のルートがあったのではないかという意見もある。
・家持が越中に赴任したときには、すでに渤海と日本の交流が始まっていたため、いつ越中国の香島津(七尾)へ使いが来ても不思議ではなかった。
やがて越前国にしばしば到着し、長く滞在した。また、能登の福良津(福浦港)という良港に到着して、その後に加賀郡の港に入っていった。日本のどこかに到着してから都に入るまでは、すぐ移動せず、季節の衣服や食糧を与えられて、大体正月に合わせて都に入っていく。天皇から官位をもらったり、さまざまの宴会や接待をこなして、やがて夏の風、日本側から大陸に風が吹く頃に、能登半島を経由して日本海に船出した。日本に来る時は、冬の風、大陸から日本に向けて吹く風を利用してやって来る。冬風と夏風をうまく利用して航海していた。
越中も関係ない訳でなく、その情報は逐一入っていたと思われる。そこへ来ていた使いの一人をわざわざ招いて、越中国庁で若い学生たちに渤海語を教えている。これは、やはり渤海の人たちと積極的に交流することを目的としていたのだと思われる。
・渤海の研究は、今、中国の研究者が活発に始めている。かつて、日本の東大の研究調査団が大きな成果を出していたのだが、その後は、中国の黒龍江省、遼寧省、吉林省等で新たな調査研究成果がでていて、日本でもこうした学術情報が入手しやすくなっている。
おわりに
・この講義は、「万葉の時代」の北陸を理解する上で、参考になればと願っており、きっとこの事が、私たちの生活している「越の国」の持っている歴史や、風土を理解する上で、無意味ではないと考えている。
・『万葉集』に詠まれている多くの歌に見える地名・花・鳥や風物は、現在の日本海沿岸地域に色濃く形を留めていること、形は当時のままではないが、その場所から眺める、たとえば、海の色や山の眺望から受けとれる季節ごとの想いは、1,200年以上の時空を越えて「万葉の時代」に共通するものを感じとることができるのではないかという夢を抱かせてくれる。