日本海学講座
第4回 「日本海捕鯨の起源と発達」
2004年度 日本海学講座
2004年16年11月6日
富山県高岡文化ホール
小ホール
講師 金沢医科大学
教授 平口哲夫 氏
真脇遺跡から出土したイルカ
石川県真脇遺跡では1982、83年に発掘調査が実施され、その際に多数のイルカの骨が出土した。動物考古学を専門とする私に整理・研究が依頼されたことがきっかけでイルカ、クジラに関わることとなった。また、真脇遺跡発見以前には、富山県朝日貝塚でイルカの骨が顕著に出土していたことが研究者の間で知られていた。
遺跡から出た哺乳動物の組成を個体数で比較すると、鯨類は真脇遺跡で約90%、朝日貝塚で約60%を占める。しかしながら、縄文イルカ漁の証明は、イルカの骨がたくさん出土するだけでは足りない。集団漂着したイルカを縄文人が利用していた可能性があるからだ。
また、マイルカを捕る時には、大声をだしたり、舟べりを叩いたり、棒で海をたたいたり、威しつけながら、入江の奥へ追い込み、浅瀬にきたら抱きかかえるようにして捕まえる、という「追い込み漁」なので特別の道具は不要である。従って発掘調査で丸木舟やオールが出てもそれだけではイルカ漁の証明にはならない。
イルカの種類は、真脇遺跡ではカマイルカが一番多く、また朝日貝塚ではマイルカが一番多い。マイルカは追い込み漁で比較的簡単に捕まえることができるが、カマイルカはそうはいかない。
真脇遺跡では形の整った石槍が多く出土している。海沿いで、しかもシカやイノシシがあまり出土していない遺跡で石槍がたくさん出るということから、この石器がイルカ漁に関連するのではないかと考えられる。
真脇遺跡は深い海がすぐ近くまできており、リアス式海岸という、イルカ漁に適した地形的特徴も備えている。富山藩側に18世紀初期の富山湾のイルカ漁についての文献があり、カマイルカは網では捕まえ難いから銛で突くのがよいという意味のことが記されている。また、真脇では1838年に著された『能登国採魚図絵』にイルカ漁についての詳しい説明がなされている。江戸時代同様、縄文時代もイルカを捕りやすい環境だったと想定できる。
集団漂着については、江戸時代以来のいろんな記録をみても、集団漂着は能登半島や富山湾沿岸ではない。また、外浦側と内浦側の比較では、鯨類の漂着は外浦側に多く、内浦側では定置網による混獲が多い。真脇周辺は集団漂着のしにくい環境であったと思われる。
クジラ漁の起源と盤亀台の壁画
クジラ漁はいつからか。古代・中世の文献には捕獲記録がほとんどない。
韓国東南部、ウルサンの海岸線から10キロ以上内陸に盤亀台というところがある。1972年、異常気象で渇水状態になり、盤亀台にあるダムが干上がって、その岸壁から壁画が発見された。その壁画には、海陸の動物が描かれており、海の動物でとりわけ目立つのが鯨類である。これは当時大きな話題になり、韓国の新聞は大々的に報じた。
調査報告書をみると、盤亀台岩刻画の描き手は、どうやらクジラの種類を見分けていたようだ。また、捕鯨船で捕鯨をしている様子を描いたものもあるなど、積極的に捕鯨をやっていたことがわかる。
問題は、描かれた年代であるが、これはまだはっきりしていない。韓国南部で、縄文時代晩期から弥生時代にかけての時期にクジラ漁が行われていたとすれば、日本海側、特に北九州でも同様にクジラ漁をやっていた可能性は十分考えられる。盤亀台岩刻画の発見以前に、北九州では古墳時代あるいはそれ以降の「捕鯨図」らしき壁画がいくつか知られていた。盤亀台岩刻画の発見により、これら「捕鯨図」がまさしく捕鯨を描いたものである可能性が出てきた。
韓国南部から北九州にかけての海岸地域や能登半島や富山湾側において、イルカ・クジラの骨が出てくる率が高いということは、イルカやクジラが漂着しやすい、あるいは捕獲しやすいといった条件下にあったと考えられる。
北九州から西南九州にかけての縄文時代の中期以降の遺跡からは鯨底土器(クジラの椎骨の椎端板を土器製作のマットに使用した結果、土器の裏底に椎端板の圧痕がついたもの)が出土している。この鯨底土器が特定の時期・地域に分布していることから、その時期・地域に捕鯨が行われていた可能性が指摘されている。縄文人が大きなクジラを捕ることは技術的に十分可能だったと思われる。たとえば丈夫なロープの存在は捕鯨に大いに役立ったはずだ。また、網によるクジラを捕る方法は、江戸時代以前から、魚を捕るための定置網に偶然クジラが迷い込んだのをきっかけに改良を重ね、クジラ捕り専用の網が作られるようになったと考えられる。
古事記、日本書紀には、イルカ、クジラに関する記述がある。たとえば、敦賀という地名はイルカが集団漂着して浜が血だらけになったことに由来する、というようなことが書いてある。また、久米歌には、山で「シギ」を捕ろうと思ったら「クヂラ」が網にかかった、と歌われているが、山中で鯨が捕れる訳がないから「クヂラ」は「鯨」を意味するのではないのではないか、という説もあった。しかし、古代にクジラ漁が行われていたことが考古学的に明らかになったことから、古事記、日本書紀の記述を再評価していくことが今後必要だと考えている。
古代(飛鳥・奈良・平安時代)~中世初頭にかけて、北海道のオホーツク文化ではクジラ漁が行われていたことが分かっており、これが本州の江戸時代の捕鯨に関係あるかないか、これは今後の研究課題だと思っている。
最後に
縄文早期、約9000年~6000年前からクジラを食べ、遅くとも縄文前期5000年以上前には確実にイルカ漁が行われていた。また、遅くとも弥生中期約2000年前にはクジラ漁が行われていた可能性が高い。そして日本食の多様性は縄文時代からの伝統であり、海産物に依存して生きてきた私達にとって、漁業を末永く営むことができるよう豊かな海の環境を守ることが、捕鯨・反捕鯨の対立を超えて何よりも大切だと思う。
*以下のサイトもご参照願います。
論文フォト 縄文時代のイルカ漁
論文フォト 韓国盤亀台岩刻画の鯨類