日本海学講座

第3回 「富山はいかに海を越えて紹介されたか?」


2005年度 日本海学講座
平成17年8月27日
富山県民会館(富山市)

講師 富山国際大学教授
高成 玲子氏

1.ALTの先祖

 初代文部大臣森有礼は、中学の教育で英会話を必須とした。
 各中学で取り組んだ。いわば現在のALTのご先祖といえよう。
 しかし、必ずしもうまくいかず、まもなくなくなった。
 富山ではまじめに取り組んでおり、3代も続いて採用している。このような中央政府への素直さは今に続いているように思える。
 3人は、順に、ブラウネル、ウェルズ、フォスター。
 このうちブラウネルは、帰国後日本通フリージャーナリストとして活躍している。
 特に、日清、日露戦争の勝利で日本への関心が高まっており、ハーンの「神国日本 一つの解釈」と並んで、ブラウネルの「日本人の心」はもっともよく読まれた。

2.ブラウネルの履歴

(1) ブラウネルに関する記録
 『富山懸報』明治21年11月には、辞令が載っている。
 また、紳士録("WHO WAS WHO in America,vol.1" 1897-1942)、百科事典("Encyclopedia Americana)にも載っている。

  
WHO WAS WHO in America,vol.1 1897-1942

Encyclopedia Americana

(2) 大学卒業まで
1864年 アメリカ・コネティカット州ハートフォード生まれ。
スタンフォード兵学校卒業
ハーバード大学文学修士
スティーブンス工科大学理学士
世界漫遊へ

(3) 日本での行動
1886年11月 東京専門学校(現 早稲田大学)外国人教師
1888年11月 富山県尋常中学校外国人教師
 富山では、ネイティブスピーカーを求めて奔走
 『日本の心』本文によれば、富山ではオオカシ某(但し本名ではない)の世話を受ける。
 校長より高い給与
 中学では紛争が日常的
 当時、幾つかの学科は英語での教育が普通。多くの生徒は分からなかったのでは?
 1年半勤めて離任
1890年9月 福井県尋常中学校外国人教師
 富山、福井では主に寺などに寄宿、それが縁で大谷光瑞との交流もあったのであろう。

(4) 帰国後
1891年 帰国
1900年 『東京からの物語』
 ロンドン出版局に記事を投稿
1902年 『日本の心』(『東京からの物語』の修正版)
 イギリスでは大英博物館の日本歴史と仏教に関する仕事に従事
 戴冠式があり日本からの参加者にはブラウネル知人もいた
 大谷探検隊のロンドン来訪時及び探検隊の出発を詳しく報道
1903年 帰国
1914年 『太平の太平洋』
1916年 『教育の相互作用』、『日米通商関係』
1919年 『日本の戦争財源限度』
1927年 没

3.The Heart of Japan (日本の心)

 「日本の心」を翻訳中である。
 この中では「富山」でなく、「越中」が使われている。

Ⅲ OUR LANDLORD(私たちの家主)

 「私達は旅人の通る道筋から離れて、いや、外国人がほとんど誰も来たことのないところに暮らしてきた。私達にとって面白く悲しく風変わりないしは一考に値すると見えることをずいぶんたくさん見もし聞きもしてきたので、この国の生活の本当の内なる精神、この古くて魅力的な日出ずる国の、旅行客慣れした地域のそれとは全く違った精神を垣間見たとまで信じている。私達が不当にうぬぼれているかどうかは問わないことにして、私達の一人が日本の内陸部で、時には官立の学校で英語を教え、時には無為に過ごしながら、だがいつも土地の人達と同じ暮らしをして過ごした5年の歳月は楽しいことでいっぱいであった。こうした魅力の色合いを僅かながらでも再現しようと努力してみて、もっとも賢明なのは、一つ一つのエピソードや印象記を別々に、ここには個人的体験を、ここにはある百姓小屋とか寺院で聞いた話を、あるいは封建時代の老いたる武士から聞いた話を、そしてまた、時には大胆なコメントを並べて、日本の生活の異なった様相を次々とスクリーンに映すように描いていくことだと思った。多分一見して繋がりがないと見えるだろうが、日本の人達の物の見方を示そうという、この内奥の願いで繋がっているのである。」

Ⅳ THE HONOURABLE BATH(おふろ)

 「私が皆さんの立場に立っていたら、大学生をガイドとして雇います。大学生なら信頼して大丈夫だし、よい相手にもなるでしょう。条約港のプロのガイドに手をだしてはいけません。彼らはあらゆる手段をつくして皆さんをカモにします。英語をよく話す大学生が一番です。ま、大学生ならたいてい上手いようです。もっとも面白いほど形式ばった話し方をしますが。そして西の海岸方面に出発しなさい。できるだけ人のさほど行かない道を、外国人の通らない道を行くのです。外国人が誰もまだ見ていない素敵なところが何百も見つかるでしょう。そうしたところの多くには温泉があります。鉱泉があります。もちろん熱海、箱根、大地獄、草津など有名な温泉にも行かねばなりません。たとえ、人の足で踏み固められた道であったにしても。」

Ⅵ THE AUGUST DEPARTURE(厳粛なる旅立ち)

 「翌日の葬列の用意が万端整えられると、弔問の人達は容器を白い棺の中に入れ、前のようにその上に白い布をかけます。白は日本で弔いの色です。それからお寺から来た白衣の従者達が肩に担いだ担架に乗せられて棺が運ばれていきます。棺の直ぐ前を鈴をもった一団の人達が歌っていきます。この人達も白い装束です。皆が白い服を着ていますが、おおかしきんたろうは別です。彼は素敵なドレススーツを着ています。外国の方に合わせて作られているので、彼には大き過ぎるし、ピンク色の絹の縫い取りがしてあるものです。
 ズボンは裾を18インチほど折り返してあるのですが、後ろ前に着たようで全然似合わない代物でした。帽子も変でした。高いシルクハットで縁が幅広く平でしたので、おおかしに耳があったのは幸いでした。さもなかったら帽子は肩まですっぽり落ちていたことでしょう。このおかしいと同時に情けない珍妙ないでたちで歩いて行く彼の姿には、喪失と孤独の陰が色濃くうかがわれました。私も行列に加わる栄位を得て、白いダックスーツ、白いダック靴、白いヘルメットという姿で人力車に乗って行きました。」
 「それから僧侶達が遺体を棺から取り出して、念入りに白い布にくるみ、鉄の格子に乗せ、窯の方に押し滑らせます。窯は皆によく見えるのです。火炎は始めは激しい勢いで、それから優しく、ほとんど愛撫するように遺体を包み込みます。時々火炎は猛烈な勢いで燃え上がり、打ちかかっていって、奇怪に結び合った炎が、亡骸の手足を縛っていくように見えるのです。すると手足が伸びたり曲がったりして、まるで命がまだ残っていて、凄い熱さを感じ取っているかのように震え動くのです。亡き人が炎の中で身を捩りながら焼けていく間に、私達は宴を張るのです。それは物凄くおぞましいことでした。とりわけ亡き人の身内の誰かが、時々窯のところに行って、向こう側をよく焼くために鉄の棒で遺体をひっくり返したり、炎がよくかかるように遺体をまっすぐに伸ばしたりするときは、不気味で凄く感じられたことを私は告白します。私はかねがね火葬をよしとしてきたのですが、まるで料理長がグリルの上で肉を返すように、身内の人が裏返しにした死体が身を捩りぐつぐつ音をたてて焼けるのを座って見ているのが好きだなどと到底いえません。」

Ⅶ THE OBEDIENT BED(従順なベッド)

 「あなたは、柔らかではあっても、この上で寝ることに慣れていないから、布団を2枚、もし体が痛いときは3枚と言った方がよろしい。伝令のボタンを押すのではなくて、手をたたくと家の奥から「はいいいー、ただいま」と引き伸ばした声が応えます。「はい」は合図のシグナルで、女中が聞きましたと言っていることを意味します。イエスと言ったのではありません。「ただいま」は辞書によると「今」「ちょうど今」「じきに」「すぐに」を意味するのですが、お茶屋ではそれがスペイン語の「MANHA」,「明日」に相当することをあなたは知るでしょう。しかし東京の女中はすばやくて、まもなく片方の唐紙が開いて、向こうに小さな体が膝をついて命令が下りるのを待ち受けているのです。」