日本海学講座

第4回 「古墳から見る日本海の王者」


2005年度 日本海学講座
平成17年10月29日
ウイングウイング高岡(高岡市)

講師 富山大学助教授
高橋 浩二 氏


 富山県内には数百という古墳が存在する。富山平野は、石川県や福井県に比べて広大な平地であり、その平野のどこに古墳を造ってもおかしくない。その中で、富山県における最初の有力首長墳は、古墳時代前期、小矢部地域に出現したというのが、従来の説であった。有力首長墳とは富山県の場合、全長約50m以上の古墳、又は副葬品を多く持つものを言うが、県内のほとんどの古墳は20~30mで、有力首長墳は数えるほどしかない。その中で小矢部地域は古墳時代前期の有力首長墳が造られた拠点的な地域で、この波及と定着には、加賀からの倶利伽羅峠越えの内陸ルートが大きな役割を果たしたと考えられていた。


 この説をくつがえしたのが、古墳時代前期の氷見市南方の柳田布尾山古墳の発見である。しかも、それまで小矢部地域のものは最大でも65mしかなかったのに対し、これは全長107.5mもあった。さらに翌年、ほぼ同時期のものと見られる阿尾島田A1号墳が氷見市北方で見つかり、我々富山大学の考古学研究室で3年間かけて発掘調査したところ、崖崩れなどで元の形が分かりにくくなってはいるものの、全体の長さが約70mあることが分かった。すなわち、富山県下でナンバー1・2の大きさを持つ古墳が氷見に存在するということが、ここ数年の間に分かってきたのである。


 そこで問題になってきたのが、この氷見・伏木地域の古墳のルーツがどこにあるかということである。結論から言えば、我々はそれを能登回りの沿岸ルート、または能登からの峠越えのルートではないかと考えている。能登にも、羽咋と七尾をつなぐ邑知地溝帯周辺にたくさんの古墳が造られており、しかもそこは北陸の中でも大きくて副葬品が豊かな古墳が集中する地域となっているからである。その昔、ここには水路が存在し、能登の外浦から入ってきた舟が川を伝って、内浦まで出られたのではないかと想定している。その水路を見下ろす丘陵の両側に、重要な古墳がたくさん並んでいるということだ。昔、能登から氷見に抜ける之乎路という街道が通っていたこともこの傍証となる。


 古墳時代350年間を通じて、富山の有力首長墳にも随分動きがあった。100年ぐらいで前期・中期・後期と分けて考えると、前期には、呉羽丘陵より西の県西部に有力首長墳が多く築造されており、中でも、今お話ししたように、小矢部と氷見・伏木地域に多く存在している。なお、前期後半には、伏木に全長約 50mの桜谷2号墳が出現してくる。
 中期になると、県東部にも立山町に全長46.2mの稚児塚古墳が出現するが、氷見・伏木地域にも全長46mの稲積オオヤチ1号墳があるので、両地域に力がほぼ拮抗した勢力がいたことが分かる。また、小矢部地域にも全長30mと少し小さいが、谷内21号墳があり、ここからは甲冑、剣、刀、弓矢類などの豊富な副葬品が出土している。また、中期の特徴として、前期に見られた前方後円墳や前方後方墳がほとんどなくなり、大型円墳や帆立形前方後円墳が多く築かれるようになる。これは、近畿地方の大王から、大きな古墳や前方後円墳を造ってはいけないという規制がかかったからではないかと想像される。
 後期になると、また前方後円墳が復活してくる。しかも、面白いことに、それが小矢部地域(若宮古墳)と氷見・伏木地域(朝日長山古墳)に造られており、両者とも富山県内で唯一、埴輪を持っている。埴輪があるとないとでは荘厳さが違うので、やはり埴輪を持っているほうがランクは上だと思う。


 では、広大な砺波平野をようする小矢部地域と比べて、狭い平野しか持たない氷見・伏木地域の力の源泉はどこにあったのだろうか。氷見市の東側は富山湾に面しており、その背後には丘陵が迫ってきている。さらにその狭い平野の中に、大伴家持が『万葉集』に詠んだ「布勢水海」や、その北方に加納潟と呼ばれる潟があったと想像される。つまり、狭い平野の半分は潟と呼ばれる湿地帯で占領されていたということで、米作りができる範囲は非常に限られていただろう。ということは、米作り以外の理由があると考えなければならない。地図で見ると、前期の阿尾島田A1号墳や柳田布尾山古墳、後期の朝日長山古墳などは海に向かって延びた丘陵の先端に位置し、前期後半の桜谷2号墳などは、まさに目の前が海である。また、この周囲は丘陵地帯で、米作りをする土地などは全然ない。


 阿尾島田A1号墳の後円部の墳頂からは長さ6.8mの木棺の跡が発見された。棺の大きさもそこに葬られる人の実力を反映するとすれば、相当の実力者が葬られたことが分かる。そして、その人物が葬られたと思われる中央部分の両端に副葬品が置かれていた。槍や長剣、短剣、矢の先端につける鉄鏃、鋤先などの鉄器類、魚を取るときのヤス、そのほかには、ガラス玉、管玉、ヒスイなどの玉が合計100個近く出てきており、これも富山県内では破格の数である。また、これより大きい柳田布尾山古墳は、盗掘されなければ、もっとたくさんの副葬品を持っていたはずである。さらに、前期後半の桜谷2号墳では石釧(いしくしろ)が5個出てきている。石釧というのは恐らく近畿地方の大王から地方の実力者に配られたもので、富山県ではここしか出ていない。また、現在は土取りをされて昔の面影はない後期の朝日長山古墳の調査の記録からは、埴輪のほかに、剣や刀、須恵器、菱形の形をした馬の装飾品、鉄鏃など、さまざまな副葬品が出土したことが分かっている。

 以上、氷見・伏木地域の古墳の重要性が明らかだと思うが、ではなぜ、氷見・伏木地域なのだろうか。そのヒントになるのが、潟という地形である。現在、埋め立てられているものを含め、日本全国に存在する潟(潟湖・ラグーン)は、日本海側、しかも山陰から富山にかけて偏在しており、潟と潟の間が 30~100kmで、舟で一日行けば次の潟へ到達できる。また、潟というのは内湾なので、非常に波が穏やかで港として使いやすい。しかも、今のようにコンクリートで固めるのではなく、当時は天然の地形を利用して、船着き場を造らなければいけなかった。また、今から1000年以上前の当時は造船技術も航海技術も未熟だったので、波の穏やかな所に舟を着けなければいけなかった。ゆえに、潟の分布は当時の港の在処を知るうえで非常に重要である。


 実際、潟の近くの日本海を見下ろす位置に大古墳が造られていることが分かってきた。例えば能登半島の邑知潟の雨の宮1号墳(64m)、丹後半島の竹野潟の神明山古墳(190m)、同じく丹後半島の浅茂川潟の網野銚子山古墳(198m:日本海側最大)、鳥取県の東郷池を見晴らす馬ノ山4号墳(約100m)がそれである。さらに、日本海交流に関係あると思われる重要な遺跡が、4年前に七尾市で発見された。倉庫と思われる巨大な建物が数棟立ち並ぶ遺跡で、万行遺跡と言う。中心の建物は312平米あり、100坪を超える。大阪にある大王が造った建物でも、大きいもので100平米少々だ。ゆえに私は、これは七尾地域だけの倉庫ではないと思っている。

 まとめると、潟湖周辺になぜ有力首長墳が偏在するのか。一つには、潟湖が日本海沿岸交易・交通の拠点的役割を担っていたので、それを取り仕切る有力者がいたということだが、これはほかの学者も口にするところである。私は独自の視点として、もう一つ理由を考えてみた。それは、潟湖というものが、米作りに匹敵するような、非常に多くの資源を持っている所だということである。潟湖の重要性を示す発掘調査はまだ数例しかないが、その一つが鳥取県の青谷上寺地遺跡のものである。弥生時代の中期から古墳時代にかけて栄えた、海に突き出た半島にある遺跡で、田んぼを作れる所はほとんどない。しかし、ここからは朝鮮半島から輸入したと思われるたくさんの鉄製品、北陸から運ばれていったと思われるヒスイなどが出てきている。


  ここでは、地の利を生かして漁業を多く行っていたと思われ、ヤスやアワビおこしという道具、アワビ、サザエなどの貝殻、マグロ、アシカなどの骨などがたくさん出てきている。私が思うには、この遺跡は山にも囲まれ、海にもすぐ出ていける。もちろん沿岸にも行けるし、遠い外海にも出ていける。また、潟というのは、そもそも渡り鳥が渡ってくる所だし、動物が水を飲みに来る場所である。あるいは、たくさん集まってきた小魚を食べに大型動物、小型動物がたくさん集まってくる所でもある。つまり、潟湖の周辺は四季を通じて食料が比較的たくさん取れる場所だった。したがって、こういう所では、米作りの代わりに、潟湖に集まってくる多様な資源を集めて、蓄え、それを他地域の物品と交換する勢力が存在したと私は考えるのである。氷見・伏木地域に存在した有力者もまさにそういう存在だったのではないだろうか。