日本海学講座
第1回 「日本海から見つめる縄文文化交流」
2006年度 日本海学講座
平成18年5月27日
県民会館 304会議室
講師 金沢美術工芸大学教授
小島 俊彰氏
1.桜町遺跡の最近の発見から
報告書刊行に向けて整理作業が進む桜町遺跡の整理現場では、火焔型土器、動物顔つき土器、オオバコ回転跡縄文土器、漆を塗った糸など、縄文時代の珍しい遺物が発見されて話題になっている。
オオバコ回転跡縄文土器とは、晩期(2500年ほど前)の土器皿の縁の部分にオオバコを転がして文様をつけているもの。縄痕ではないと気づいたのは、整理作業にあたる手伝いの方だった。自らオオバコを摘んで試して確認した。ちなみにオオバコとは、雑草中の雑草、雑草の王様。人に踏まれ続けるような場所を選ぶ。土器を作っていたのは女性だと言われるが、土器を作る傍に生えていたオオバコを摘み、縄の替わりに転がしたのだろうか。良寛が子供と遊んでいる歌中に「百草を戦わす」と詠んだものがある。土器作りのお母さんの周りでは子供たちが草相撲をやっている、そんな情景を思い浮かべるのも楽しい。
2.縄文時代における広範囲の交流
丸木舟で富山湾を渡ろう
桜町遺跡からは、オール(櫂)のようなものも出土している。桜町遺跡の石斧会では自ら丸木舟をつくり小矢部川を下ってみている。翡翠(ひすい)が出土していることから、翡翠の原産地、新潟県糸魚川へ向かってみようと計画を立てている。
黒潮の真っ只中にある神津島(こうづしま)産の黒曜石が長野県の矢出川(やでがわ)遺跡などで多数出土していることから、丸木舟でなくてもカヤックのような皮を張った舟で旧石器時代の人たちが海に乗り出していたことが想定されている。縄文時代の人にとっても、我々が思う以上に、海は大きな障害ではないのかもしれない。
日本海側では、その海に拠る縄文時代に交流があったと考えられる。
翡翠(ひすい)
物が大きく動いていることの一番分かりやすい例は翡翠だろう。原産地は新潟の西、糸魚川の山地だが、縄文人が採取したのは朝日町~糸魚川(いといがわ)間の海岸だろう。
翡翠大珠の孔は中央やや上側に開いている。北海道北部に位置する礼文島(れぶんとう)・利尻島(りしりとう)にも同様に孔を開けた翡翠遺物がある。
原産地北陸で製品化されたのだろうか。礼文島へ向かう方法にも、陸路も海路も考えられるし、直接向かったのか中継地点があったのかなど、考えるべきところは沢山ある。翡翠遺物の研究は、縄文時代の交流を解き明かす鍵がある。
三内丸山遺跡の円筒式土器
縄文遺跡として知名度の高い青森の三内丸山遺跡には、諸所から物資が集まったという。翡翠も多い。その三内丸山遺跡で用いられる土器は、円筒式と名づけられる土器様式である。この様式土器は東北地方に広がっているが、津軽海峡を越えて北海道にも広がっている。土器は縄文文化のメルクマールだが、海峡は障害にはなっていない。海は決して人々を遮断するものではない。
3.北陸の土器様式のことあれこれ
(1)朝日下層式と円筒下層式土器
その円筒式土器様式が、北陸と深い関係を持つ興味深い事実がある。
筒形をした円筒土器は簡単に作れるが、物を煮るのにこんなに不便な形はない。物を入れても具は底へ沈んでいくし火の回りも悪い。そんな器形を北陸が受け入れている。東北地方南部には円筒式とは違った大木(だいぎ)式土器文化圏があるがそれを飛び越えてやってきた感じだ。
富山県上市町の極楽寺遺跡に、円筒式土器のまとまった出土が最近あった。それは徐々に伝わった情報によって作られたものではなく、本場そのものという雰囲気がある。情報は陸路ではなく海路で直接に、と考えたくなる。
一方では、こんな事例もある。三内丸山遺跡に近い青森市の桜峰遺跡から出土した細い素麺のような粘土紐を貼り付けている土器片は、検証の結果、北陸の朝日下層式土器の仲間だと分かった。しかし北陸から直輸入ではなく、十分な情報をもって地元で作ったのだろうと結論づけている。
青森から円筒器形を受け入れ在地化しただけではなく、その在地化したものを青森まで送り出しているのだから、青森と北陸は一方通行ではなく、密接に結びついていることが分かる。
この前期の終わり頃の北陸(十三菩提式期)は、実は東北とだけではなく、近畿、東海、長野、さらには関東とも結びあう非常に広い交流があることを見せている。縄文土器の歴史の中では特別なこの時期に、東北南部を飛び越えて、円筒下層式土器が入ってくる。
(2)土器に正面性が
富山県の朝日貝塚から出土した動物顔をした土器装飾部分は、よく知られている。深鉢の口縁部に一個付くのだから、これが土器の正面を示していることになる。円筒土器が入ってきた時期に、こうした正面を持つ土器が北陸で生まれる。これ以前の縄文土器には、飾られた装飾突起はあっても、一正面を示したものはない。顔を付け正面を持たせることで、土器は動物となった。何らかの神を意識したのだろう。縄文土器が正面を主張することは元来少ないのである。こんな意味を持った土器作りをやるようになったのが、この時期だ。
何故そういうことが起きたのだろうか。今までにない意識で土器を飾り、動物や神を意識するようになったその要因は、日本海による東北からの流れではないだろうか。
(3)火焔型土器の誕生まで
火焔型土器が生まれる直前の新崎式土器の口縁部にはまだ顔が付いたものが多く、土器に正面性を持たせていると思われる。先の時代の残影だろうか。だが時期を追うごとにこの造作が顔であることは忘れ去られ、意味を取れない文様と化していく。装飾突起は四個となり、強い正面性は失われていく。この時期に突起の有様に最も意を用いたように見えるのは、新潟の人たちである。そこから生み出されたのが、火焔型土器である。新潟に東北地方との結びつきが強かったことによるのだろう、東北南部の大木様式の姿を参照にして突起を立体化する方向へ向かったのである。
(4)北陸には天神山式土器
新潟で火焔型土器が作られた時代、北陸は天神山式という別の様式土器を用いる。渦を巻く半隆起線文で土器全面を飾る土器で、火焔型土器と似る面もあるが、突起は全く別物である。この天神山式土器の代表が、「奇怪の趣を有するに関わらず、而も原始的工芸の美を留めて、大いに見る可きものがある」「之は藁づと又は蔓にて製する器物をモデルとして製せるものかとも思われる」と評され、バスケット型土器と名付けられた土器である。
バスケット型土器には、三つの大突起が四つ付いている。三つの山というのに意味があった。四つというのにも何か意味があるのだろう。これを左右に付け、ペタンと貼るのではなくずらして立体感を出す。天神山式土器の中では出色の土器である。
(5)火焔型土器が富山に少ない訳は
火焔型土器は長岡辺りを主にした信濃川流域に広がっている。桜町遺跡で出土した残片は最西端の出土資料であるが、富山県内では極めて少ない。
北陸と新潟は、火焔型土器・天神山式土器の直前には共に新崎(にんざき)様式土器を用いる仲間だったのに、なぜ袂を分かったのだろう。
その答えを「飛騨ブリ街道」に垣間見る。富山湾で揚げられたブリが高山の集積所に渡り飛騨ブリとなるが、それは野麦峠でアルプスを越えて松本へ、松本からは諏訪へ、木曾福島へ、飯田へと行き渡る。江戸時代のことを縄文時代に結びつけるのは唐突だが、新崎土器に似た動きを追うことも可能なのである。富山・石川は、新崎式期にアルプス越えをして信州と組んだ。ところが新潟はこの時期、信州との接し方が弱い。富山・石川が信州に顔を向けたことで、それぞれの地域意識が強まり、北陸が火焔型土器を受け入れを拒むこととなったのだろうと、仮説として思いを提示する。
4.土器から見た北陸のクニグニ
中期中ごろ、中部日本の日本海側それぞれの地域の土器は日本全体から見ると一つの仲間だが、その内部ではそれぞれ地域性を主張する。
・新潟の火焔型土器は、口縁を飾る大きな突起、鶏頭冠突起で。
・信州北部から群馬北部の焼町式土器は、大きな円環突起で。
・北陸の天神山式土器は、三山装飾付き円環突起で。
天神山式土器の旗印三山装飾付き円環突起は、飛騨、石川、富山、糸魚川辺りまでは「おらっちゃは一つの仲間」と、宣言しているのだ。
縄文時代の人々がそれぞれの地域で結びつき、時には強くその地域性を主張する裏には何があったのだろうか。興味深い事柄ではあるが、私にはその答えの用意はまだできていない。