日本海学講座
第1回 「古代北越の境界・神済(かみのわたり)について」
2007年度 日本海学講座
2007年5月26日
富山県民会館 701号室
講師 富山大学人文学部歴史文化コース 教授
鈴木 景二氏
はじめに
古代越中と越後の境が「神済(かみのわたり)」と呼ばれていたことを知る人は、かなり古代史に詳しい方であろう。今回は、北陸の日本海沿いのこの境界「神済」の歴史的意味を少し考えてみたい。
神済とは
神済という語は、701年に施行された日本古代の法律『律令』の中の公式令(くっしきりょう)第51条朝集(ちょうしゅう)使条(しじょう)に「凡そ朝集使は、東海道は坂の東、東山道は山の東、北陸道は神済以北、山陰道は出雲以北、山陽道は安芸以西、南海道は土左等国、及び西海道は、皆な駅馬に乗れ、自余は、おのおの当国の馬に乗れ」と記述されているのみである。
この条文に規定されているのは、朝集使が各地から都へと往復する際の、駅馬利用の条件である。朝集使とは、各国に赴任している国司が毎年交代で担当する都への使いで、地方官人の勤務評定書などを持参し、政務の報告などを行う制度である。いっぽう駅制は、古代国家が整備した、都と各地を最高速で結ぶ駅伝式の全国的交通システムで、主要道に一定間隔で駅(うまや)を設け駅馬が常備されていた。駅馬は、都で重大な事件が起きて各地に情報伝達をしなければならないときなどに、特別に任命された駅使が使用することになっていて、他の利用は厳しく制限されていたのである。
この条文は、諸国の朝集使のうち、一定以上の遠距離から往復するものに便宜を図り、駅馬の利用を許すことを規定し、その基準が明記されている。その基準は、東海道では坂より東側の地域で駅馬使用を許す、ということである。ここでは漠然と「坂」という言葉が出ているが、833年に完成した公定法律注釈書『令義解』では、「駿河と相模の境の坂」であると書いてある。つまり、東海道では駿河と相模の境の坂(足柄峠)よりも東側では、駅馬を使っても構わないということである。
次の東山道は、江戸時代風に言うと中山道に大体一致するルートで、日本の内陸部を通って、滋賀県から岐阜県、長野県、群馬県を越えていく道。東山道では山より東とあり、同書に「信濃と上野(こうずけ)の境」すなわち長野県と群馬県の境とされていて、現在の碓氷峠であると考えられている。以上の二箇所は、大体関東地方と中部地域の境に当たる地域である。
その次に出てくるのが問題の北陸道の「神済」である。神済は同書に、「越中と越後の境の川」とある。また、『令義解』よりも古い別の注釈書「令釈」には「高志の道の中と道後の境」であるというコメントが記されている。いずれにしても越中と越後の境であり、これよりも北は駅馬を使っても構わないということである。これが都側から見て東側についての規定である。
西のほうを見ると、「山陰道出雲以北」。出雲(島根)から北は駅馬に乗っても構わない。それから「山陽道安芸以西」。安芸国(広島)から西も駅馬に乗っても構わない。南海道は、現在の和歌山県から四国すべてであるが、「南海道土左等国」とあるので、四国の土佐の国は大変遠いのでそこだけは駅の馬に乗っても構わないということである。「西海道」は九州全体で、九州内では駅馬に乗って構わないということである。それ以外の国は「自余各乗当国馬」とあり、駅馬ではなく国内で馬を雇って乗るようにということである。
さて、ここまで見てきて、朝集使の往復に際して駅馬を使ってよいという特別な待遇が与えられた地域がはっきりしたが、その境を見ると、東日本と西日本では書き方が違う。東日本は「山」や「坂」や「済」という、自然的、地形的な境で区切っているのに対し、西日本は何々の国から向こうということで国単位に区切っているのである。
神済は、関東と中部を区切る足柄峠や碓氷峠に匹敵する大きな自然境界であることが明らかである。
神済はどこか
それでは「神済」は、そもそもどこのことなのか。北陸地域の歴史にとって大事なことである。この神済については、何といっても米澤康先生の研究が基本になる。米澤先生は、利賀村におられて、越中地域の研究だけでなく古代の研究で大きな業績を残された方で、神済も米澤先生の研究によって基本的なことが明らかになっている。以下、先生の説に基づいて概観しよう。
先生が研究される以前は、神済は神通川ではないかというのが通説であったようである。『令義解』注釈では、「神済は越中と越後の境の川」であると確かに書かれている。以前の研究者は、越中と越後の境の神済は歩いて渡れるような小さな川ではないだろう、また神通川は神が通ると書き、神済と意味が似ているから、神通川ではないかという説であったらしい。なるほど国境になるような大きな川であると考えるのは当然である。ただ、神通川という名称の由来がわからないし、室町時代以後でないと、神通川という名前も資料に出てこない。
古代では『万葉集』に売比川や鵜坂川が見られ、これが神通川の古称とされている。奈良時代には神通川という名前はまだなかった可能性が高い。したがって、神通川説は成り立たないだろうというのが米澤先生の説で、私もそう思う。
もう1つあり得るとすると境川で、現在の富山県と新潟県の県境に境川という小さい川がある。これが江戸時代の越中と越後の境になっており、現在の富山県と新潟県の県境である。難所親不知の名所は新潟県に属しており、新潟から親不知の難所を越えてようやく安全な地帯に出たところに境川があり、そこが現在の県境である。江戸時代には大変厳重な関所が置かれており、新潟県側の市振関所は越後高田藩がそれを預かって管理していた。川を挟んで富山県側は加賀百万石の加賀藩領で、前田家の領地になっていた。ここには加賀藩の境関所があった。幕府譜代の高田藩と加賀藩の境ということで、国境を挟んで両側に関所がある大変厳格なところだった。
神済はこの境川のことではないかという説もある。法律の注釈によると、越中と越後の境の川であって、川を渡るところが神済である。それでいけば確かにここは江戸時代の国境であるし、川があってぴったりするような感じがする。しかし、現地をご存じの方はおわかりかもしれないが、そんなに大きな川ではないので、この境川説も当たらないのではないか、というのが米澤先生の説である。
神済と神度神社
それでは神済を知る手がかりはないだろうか。実は古代の神社の名前に手がかりが一つある。醍醐天皇の延長5年(927年)に完成した『延喜式』という古代の法律書の中に、中央政府がお供え物を奉る対象として選び上げた神社の名前が列記してある。越中には34の神社が登録されており、砺波、射水、婦負、新川の郡ごとに神社の名前が挙がっている。
このうち、新川郡の7つの社の1つ目に「神度(かんど)神社」が出てくる。新川郡は確かに越後に接しているし、神度神社の「度」にさんずいがつくと「渡」で、「度」は渡ると同義だから、神度神社は神済とかかわる神社であると考えられる。そうなると、神度神社のあるところが神済だと思うが、ところでそう簡単にはいかないのである。
神度神社は、現在、上市町の北側の森尻にある。この神度神社が『延喜式』に出ている平安時代以来の神度神社そのものであれば神済はこの辺ということになるが、その位置はどう考えても、北陸道の重要な国境になる場所としてふさわしくないということはおわかりになると思う。現在の社地は確かに上市川のすぐ西側ではあるが、そんなに大きな川ではない。この神度神社は、古代の神度神社ではなく、むしろ立山権現の末社の森尻権現でったと見られるというのが現在の見方である。
こうなると手がかりがなくなるが、米澤先生は、「東海道坂東」「東山道山東」と比較することでわかるのではないかと考えられた。坂は足柄峠である。足柄峠は場所も確定しており、『万葉集』にも登場する有名なところで「足柄の坂を過(よき)るに、死人(しにひと)を見て作る歌」や「恐(かしこ)きや 神のみ坂に」と詠まれているように、恐れ多い神様がいる坂であると書かれている。ほかに碓氷の坂や幾つかの歌があり、これらから、「坂」というところは神様がいる大変な難所であると考えられていたことが知られている。
「済」は渡河点ではない
『万葉集』には、越中のことではないものの「玉桙(たまほこ)の 道行き人は」という挽歌の中に「海道(うみぢ)に出でて 恐(かしこ)きや 神の渡りは 吹く風も」とある。海に出てそこを渡ると、そこには神様がいる。それを神済(かみのわたり)と読むことがこの歌からわかる。
『万葉集』の歌からいうと、神済は必ずしも川を渡ることに限らない。例えば海に出て迂回するのも神済と呼ぶ。そう思ってみると、北陸の神済も川を渡ることにこだわる必要はないのではないか。現在の県境の狭い境川にこだわるとそこしかないが、「海の道」ということも考える必要があるだろう。「ちはやふる 神のみ坂に 幣奉(ぬさまつ)り 斎(いは)ふ命は母父(おもちち)がため」という歌がある。これは長野県の神坂峠であるが、交通の難所の峠道は神様のいる場所と考えられており、大変恐ろしいところであるとともに、聖なる神のいるところを通る際に、お供え物をお祭りしたと詠まれている。一般的に古代の旅をする人たちは境の峠を越える際には神様をお祭りして旅の安全を祈る。同じように、神済と呼ばれているからには、神済は水路の神がいるところと考えられ、そういうところでもきっと安全を祈って神様をお祭りしたのではないかと考えられる。そうなると神度神社も、その境の神済を越える際に無事に通れるように、海で交通安全のお祭りをした神社ではないかと考えられる。
さらに、足柄峠も碓氷峠もともに関東地方と中部地方の境に当たる。碓氷峠には『日本書紀』で有名な日本武尊の物語がある。日本武尊が服属しない人たちを関東のほうへ攻めた帰りに碓氷峠を越えた際、峠に上って関東平野を振り返り、「ああ、我が妻は」と言ったので、それ以来関東平野を「東(あずま)」と言ったということが書かれている。それぐらい碓氷峠と足柄峠は中部と関東地方の大きな境になっていた。
そういう点で見ると、同じような境として扱われている神済も中部地域と以北を区切るような、かなり重要な大きな境であるに違いないということになる。最終的に神済はどこかということになるが、小さな境川とか、川を渡るところだと考える必要もないし、足柄峠や碓氷峠に匹敵する日本列島規模のかなり大きな境界だろうということになると、親不知しかないだろうという結論に落ちつく。つまり特別な川を渡るところという考えではなく、親不知全体の越中宮崎から青海の間の一帯を広く神済と言うのだろうというのが米澤先生の結論である。
現在の私たちの感覚では、境界は線を引かないと気が済まない感じがするが、法律の条文自体が、東日本の境に関しては「坂東」とか「山東」ということで線が引けるような書き方をしていない。だから足柄峠、碓氷峠に関しても、同じように峠の頂上に境界線があって、そこから向こうということではなく、もう少し広い範囲全体が境になっているのではないかと思う。
幅のある境界
今、幾つかの万葉集の歌などを見てきたが、奈良時代には「峠」という言葉はまだなくて、峠のことを「坂」と言っていたと考えられている。峠という漢字は国字で中国にはない文字で、万葉集の時代にはまだ存在していなかったようである。古代にはその辺一帯を「坂(境)」と言っていた。
柳田國男以来の民俗学で言われていることだが、「坂」とか坂から来る「境」は、今の私たちが考えるように線になっていない。向こうの世界とこっちの世界があって、その間にどちらともつかない幅のある中間の世界があって、これが「坂」というものである。そういう古代の坂のあり方を考えると、足柄の坂も碓氷の坂も同じように幅があるので、法律でもそのように表現をした。「坂東」「山東」は、幅がある世界から向こうという意味である。したがって、神済も境川とかの川ではないかと考える必要はなくて、ある程度の幅を持った境界地帯であると考えられる。北陸道の場合は海に面していて、しかも親不知は大変な難所なので、きっと船で越えたのだと考えられる。
現在は、境川が県境になっているが、恐らく大宝律令ができたころの越中と越後の境は厳密な線ではなく、青海から宮崎の親不知一帯が幅を持った国境だったのだろう。それは関東と中部を境にした足柄や碓氷の坂でも同じような状況だったわけで、そう思って改めて日本列島の地図全体を見渡すと、神済は北陸道、日本海を通って行く道の大きな境目だったことがわかる。
むすび
今回の私の講座では、古代の資料にたった1つしか出てこないこともあり、あまり注目されないが、極めて重要な日本海側北陸道の境界である神済について、米沢先生の研究に基づいて取り上げてみた。
足柄の坂や碓氷の坂に匹敵する歴史的な意味を持つ場所ということで、皆さんももう少し注目されて、機会があればお訪ねになられるとよいと思う。私もこの神済について、これからも何かわかることがないか、考えていきたい。
繰り返しになるが、神済は広い範囲で越後と越中の境であるということなので、それも含めて、富山側としても意識を持って地域の研究をしていくことが必要だろうと思っている。<
参考文献:米澤康『北陸古代の政治と社会』法政大学出版局 1989年。