日本海学講座
第1回 「北前船の伝承を探る」
1999年度 日本海学講座
1999年6月12日
新湊市農村環境改善センター
講師 漆間 元三
富山大学講師
対談 荒木菊男
新湊市文化財審議委員
1.北前船(黒部を中心として)
米を積み荷として北海道を目指した。佐渡へ行って西南西のワカサ風が吹くと3日で北海道に着いたという。佐渡~粟島~飛島と北上し深浦港で認定証をもらった。深浦には200艘並んだ。船頭が問屋と直接交渉し、契約が成立すると鰊肥を積んでアイの風を待った。風にさえ乗れば帰りも3日で帰れた。経済性を競って風待ちをした。3月~6月が1回目、6月~8月が2回目の交易となった。
乗組員は船主、4~5人の正式乗組員、あとは日雇いであり、この日雇いの採用希望者は多かった。理由は収入が良かったこと(農家の3~4倍)。船主の家の草むしりをするなどご機嫌をとりながら、採用されるように努めた。
商談をまとめるために青森、江差は勿論福島まで行った。持ち帰った鰊肥を売り現金化した。この漁肥が富山の農業を支えた。
2.風の力
風が大切であった。越中漁民が北海道に移住したのも風の影響が強いと考える。
明治18~19年の不漁の年、小船5~6艘で組んで北海道へ行った。ムシロ帆で陸を右に見ながら進んだ。風を受けるために帆に水を絶えずかけて、帆をぴったりと濡らした。漁群を探し、陸で売りさばいた。太平洋の三陸へ。宮崎浜の漁師がムシロ帆で千葉まで行ったという。
輪島の舳倉島は鮑の生息地である。鮑を取る海女・海士12人が福岡の宗像郡鐘ケ崎から永禄年間にやってきた。海に境界線はなく、彼らは鮑の生息地、販路を求め韓国までも隣感覚で行っていた。宗像から能登に来たのは獲物と風の影響であろう。
3.船住まいから陸住まいへ
早い時代の海士たちは、家を持たず、船で暮らし、結婚し、葬式をするというように、漁師は船の上で生涯を終わるものであった。「船の上に暮らしていた海人は陸に上がったらどうするか」という問題である。すぐ気付くのは船と漁家の間仕切りである。浜の船と家の間取りが三間縦並列になっている。漁家も縦並列、片側廊下という住居になっている。町屋にも漁師の船の構造が入り込んでいる。広く沿海州も含め『池』ともいえる日本海の周辺一帯に注目してみる必要がある。浜のトイレ(汚物)に対するこだわりの希薄性に目をやると、日頃海で用を足せる様式に影響されていることがわかる。
4.対談要旨
<漆間>弁財船について補足を願いたい。
<荒木>地乗り-山をみながら、沖乗り-風に乗る行き方があった。ワカサ風(ワカサモン)を受けるために能登へ。律令時代は能登から敦賀へそこから陸路琵琶湖へと向かった。その時も風を利用した。北前船の頃は底がヘラ船で荷は多く積めたが早く進まないので、風を利用する必要があった。
<漆間>黒部周辺では浜に道路を作ろうとしたら、「なんでおらの土地にタダで作る」と抗議する風潮があるが、新湊周辺の浜に対する所有意識は?
<荒木>ここらでも浜に境界を作ったり、浜争いはよくある。大正8年海老江で網争いをしている。砂浜は大切なものだった。
<漆間>地面(浜)以外に川はどうだったか?川も船が停まっている所を自分の屋敷だと思っていたか?
<荒木>思っていた。杭を打つのも大変だった。川に降りるために階段を作ったりして所有意識があった。
<漆間>恵比寿さんについて。
<荒木>鯛を抱えた大漁恵比寿、商売恵比寿等恵比寿にも色々ある。
<漆間>恵比寿は気ままな、融通無碍な神。死んだ人も恵比寿という。
<荒木>恵比寿は流れ仏。コモで包んであげる。
<漆間>私は死体恵比寿を見た。2日後に大漁になると聞きそのとおりになった。
<荒木>船の神は女だから、女を乗せる時は2人以上乗せた。大漁になると良い女。
<漆間>海の神といえばワダツミ(海神)で立派に聞こえる。それに対して、恵比寿はいろいろ派生していく。
<漆間>風について。タマ風はどこから吹く?
<荒木>南西。魚も来るけど、突風で危ない。
<漆間>タマ風-霊魂、悪霊を含んだ風。
<荒木>モンの風は亡霊の風。南西の風で9月26日前後。その日に限って大漁になり、船がひっくり返る。漁師は警戒する。
<漆間>富山湾は竜宮といえるだけのアイガメがある。アイは藍色の意味ではなく、多くの魚がいる甕と見れないだろうか。