日本海学講座

第3回 「鰤の道と海辺の縄文遺跡探訪」


1999年度 日本海学講座
1999年10月2日
氷見市立博物館、大境ビジターセンター博物館

講師  小境卓治
氷見市立博物館主査

1.日程 (県政バス利用)

10:30~11:00 氷見市立博物館見学 (解説 小境博物館主査)
11:30~12:00 大境ビジターセンター、大境洞窟見学
              ( 解説 小境博物館主査)
12:00~13:00 昼食(大境九殿浜休憩所)
13:30~14:10 光久寺拝観

2.博物館概要

氷見市立博物館、大境ビジターセンターは漁労・漁具関係の展示が特色である。それぞれコンパクトなスペースに近世から昭和30年代の実物が展示されている。先人の努力と成果をしのびつつ将来を考える博物館。「あゆみ~縄文からのあゆみ」「とる~定置網発祥の地の漁業」「つくる~開拓と副業」の三部構成の展示。

3.展示品解説概要

・大型定置網の始まり  明治40年秋、県内で初めて、資本金3万円の出資で仕掛けられた。10月末に仕掛けて、1月に決算をして13万円の水揚げ。一網で万本単位の鰤が上がった。動力船ではなかったので、大境からピストン輸送で氷見まで運んだ。

・ 江戸時代の漁期  春は3月いっぱい、鰯(いわし)、いか。夏は5~7月の祇園祭までは、まぐろ、飛魚。秋は9月~12月、 かます、ふくらぎ、 鰤 、黒マグロ。

・ 藁で作られた網  藁で作られた網は2ヶ月、つまり、各漁期ぐらいの寿命であった。寿命がきた網を切り刻んで魚場に投げ入れた。この藁が分解してプランクトンがつく。それを食べる小魚そして大型魚が集まるという、食物連鎖が繰り返された。つまり、藁の網が連鎖の元となっており、理にかなっていた。藁は氷見で稲作がある限り出てくる材である。米を収穫した後の剰余物が縄となり、浜でそれを買い入れて網を作った。

・網の仕掛け  網は台形で台網といわれた。鰤は高岡方面から来る「下り潮」に乗ってやってきた。能登側からの潮は「上り潮」といった。 鰤を受ける網口(高岡寄り)は広く開けてあり、能登側に集めて捕る仕組み。網の目も 能登側に向かうにしたがい細かくしてあった。佐渡で鰤が上がると、1週間から10日で氷見にやってくる。江戸の網は単独で下ろさなかった。それは、どこへ鰤が流れてきても網で捕らえるためにつないで下ろした。網の設置場所は大船頭が全部決めた。大型網は潮をさえぎる深い場所に、小型網はそれより浅い場所に仕掛けられた。また、漁師の言葉でフケという海底谷の魚道があることを漁師は経験的に知っており、その魚道をさえぎる形で網が下ろされていることにもなる。

・網起こし  網起こしは1船団120から130人くらいでおこなった。現在は機械化のおかげで30~40人でおこなう。 船上に竹の骨組みにゴザを掛け、火鉢をおいたの小さなスペース(氷見言葉で「野間=ノマ」)を設け、そこで3~4日寝泊りして魚の見張りをし、魚がかかったのを見計らい1日に何度も網を起こした。10人の乗組員がいたら10個の「野間=ノマ」を作った。

・現在の網の数  大型50、小型20 計70程度の定置網が仕掛けられ、湾の回遊魚を捕獲している。

・胴船について  かつて無動力の胴船(どぶね)が使われ、一艘に12~3人乗りこみ7~8艘で1船団を組んだ。胴船には当初舵がなく、7㍍ある櫓を使った。艫=船尾につけられ艫櫓といわれ、ひとりで操作した。ひとりで艫櫓を操作できて一人前として、給金が払われた。他に小さな補助櫓が2本ついた。また、推進力は櫂であり、8本ついていた。

・網材の変遷  江戸の末期から麻が使用された。マニラ麻が輸入された。昭和に入ると綿が使用され、昭和40年代からは化学繊維が使用されている。化学繊維は1年間入れっぱなし。ただし、藻がついたりすると網がつまり、波に流されるので、早いものだと1~2ヶ月で袋の部分を入れ替える。浮きは杉材~竹~ガラスという変遷がある。網の防腐剤として柿渋を使った。渋柿をつぶして醗酵させた液に綿の網を浸した。

・鰤街道  氷見で捕れる鰤は塩漬けされて、鰤籠に詰め、富山を経由して高山へ運ばれた。 鰤籠には4本詰め、4籠で1カ荷ともいわれた。鰤籠は竹製であったが、竹の身で作られ(皮ではなく)ていた。身で作ったのは、使い捨ての発想。高山まで送ればそれで終わりという考え。竹の身は、皮とちがって弱い。使い捨てのつもりだから、身を使い、編み方も粗かった。

ビジターセンター概要

・鰯と大坂  江戸時代から昭和10年代まで、鰯は肥料として重要な意味を持った。鰯をゆでて油(脂肪)をしぼり、干鰯=ほしかを河内へ送った。河内は、河内木綿の産地であった。綿の栽培はは多くの肥料を必要とした。逆に、河内から木綿が送られた。氷見と河内はこうして品物を通じて結びついていた。

解説

・鯨と氷見  1年を通じて(夏はあまりないが)、鯨が網にかかった。鯨の身を塩漬けする専用の桶があった。鯨がかかると、藩に報告することになっていたが、サイズは小さめに報告されていた。流通経路に乗らなかったため、近所に分配(大盤振る舞い)された。塩漬けにすると何年でも保存できた。明治に入ると、半分は地元、残り半分を流通経路に乗せた。藁の網では鯨が上がらないので、麻の網を番小屋に持っており、金網と呼んでいた。

・木鍬  船倉の鰯などを掻き出す時に魚を傷つけないためになくてはならないものであった。

大境洞窟遺跡

1918年、日本で最初に調査された洞窟遺跡。6層の年代別の遺跡が発見された。
その時点まで縄文遺跡と弥生遺跡のどちらが年代的に古いのか分かっていなかったが、縄文が古い年代の遺跡であることが判明したという点で、意義深い。

光久寺

開創1200年、真宗大谷派に所属。江戸初期に築造された庭園の評価が高い。