日本海学講座

特別講座 「環日本海環境考古学」


1999年度 日本海学講座
1999年11月27日
県民会館

講師 安田 喜憲
国際日本文化センター教授

1.講演内容

(安田)今日は環日本海環境考古学、「環日本海文化圏の構想」ということをお話をしたいと思います。今まで縄文時代の人間や弥生時代の人間というのは、ものすごく移動している、特に日本海を縦横無尽に移動しているということは夢にも思わなかったのですが、最近、私たちのいろいろな研究から、古代の人々は東シナ海をかなり自由に行き来をしていたということがわかってきたわけです。
 それでまず最初にスライドを見ていただきます。これは1994年に青森県の三内丸山遺跡という、ものすごく大きな遺跡が発見されたわけです。青森県の北の端です。富山県がここですから、どうしてこの青森県という本州の果てで高い文化が発展したのだろうかと。これは実はまだ謎なのです。当然考古学をやっていらっしゃる人も、このような青森県の北の端で、直径1mもある柱を6本立てて、あるいは長さ30mもあるような大きなログハウスというような。三内丸山遺跡に行ったことがありますか。ちょっと手を挙げてください。やはりこの中にも2~3人いらっしゃいますが、ともかく私たちが縄文時代ということでイメージする原始的な世界とは全然違う、全く予想もしないような巨大な遺物、遺構が見つかったわけです。
 このような北の端で文化が繁栄したわけですから、当時は現在よりも気候が暖かかっただろうとみんなが思っているわけです。ところが私たちが環境考古学、特に花粉分析、あるいは酸素、炭素の安定同位体というのがあるのですが、そういうものを使って過去の気候を復元すると、この三内丸山遺跡が発展した5000年前という時代は、現在より寒い時代なのです。つまり、三内丸山遺跡よりも前の6000年前という時代は、現在よりも気候が暖かいのです。縄文海進といいまして、海面が現在よりも2~3m高くて、そして温度が2~3度高い、そういう温暖な時代だったわけです。ところがこの三内丸山遺跡が発展する時代というのは、そのような温暖な時代が終わって、気候がぐっと寒くなるときです。なぜ寒くなるときに、このような北の東北地方の端の、今でも寒いところで文化が発展したのか。それを証明するためには、実は日本のことだけを考えていたのではだめだということがわかったのです。
 実はこの日本海を取り巻く巨大な交流というものが、縄文時代にすでに存在したということがわかってきたわけです。その一例をスライドでお見せしたいと思います。スライドの前にもう1つ、その縄文時代の文化を考える点で非常に重要なところは、先程の地図でいいますと、この遼寧省から内モンゴルというところにかつて高い新石器時代の文化があったのです。これは縄文時代の前期という時代に相当する時代です。今から約6000~7000年前に紅山文化という非常に高い文化があったのです。この文化があるところをもう少し詳しく、遼寧省から内モンゴル自治区の地図を示しますと、こういうことになります。
 これが大連です。これが遼河という川ですが、この遼寧省から内モンゴル自治区の東部、こういったところにたくさんの新石器時代の遺跡が見つかってきたわけです。そのスライドをちょっと見てみたいと思います。
(以下スライド併用)

○ 現在ここに行きますと、こういうふうに全く森がないのです。黄土の大地ですから、森のない大地がずっと広がっているわけです。

○ これもそうです。現在は全く森のないところなのですが、実はかつてここには深い森がありました。花粉の分析をして、土をボーリングして、土の中に含まれている花粉の化石を取り出して分析してみますと、かつてこの大地には、深い落葉のナラ、ニレ、カエデの仲間、満州グルミというような落葉の広葉樹と松の針葉樹が混交した森があったということがわかっています。現在ではほとんど森がない大地の森の中で、今から約7000年前や6000年前に高い新石器時代の文化が発展していたのです。

○ これが査海遺跡という遺跡なのです。これが博物館です。今はトウモロコシが生えているだけなのですが、査海という遺跡です。

○ これは今から約8000年前の遺跡です。打製の石斧がたくさん出ているのです。これはおそらく畑を耕すために使ったのだろうと、こういうふうに考えられます。

○ これはサドルカーンというのですが、雑穀をすりつぶして、粉にするものです。こういうものが見つかっています。

○ 私たちは、これはおそらく粟を栽培していたと考えています。ただ、今のところ粟の確定した証拠はないのですが、こういう粟を栽培していただろうというふうに考えています。

○ そこから出た土器がこれです。これは7000年ほど前の土器です。7800年前といわれていますが、この土器は、ぱっと見たら、私も土器はあまり詳しくないですが、縄文時代の土器と同じです。これは青森県の三内丸山遺跡の円筒土器、それと形が非常によく似ています。あの縄文時代中期の三内丸山遺跡は、円筒土器という土器を使うのです。その円筒形の土器と形もよく似ています。そして材質もそっくりなのです。私たち知らない人間が見たら、これは縄文土器と言いたくなるようなものが、この遼寧省から内モンゴル自治区にかけて、紅山文化の時代に作られています。

○ この遺跡から、こういう玉(ぎょく)で作った耳飾り。けつ状耳飾りといいますが、玉で作ってあります。

○ こういう玉斧というものがあります。これはおそらく今まで中国で見つかった玉製品の最古だといわれています。

○ この玉製品と同じものが実はこれです。これは福井県から見つかっています。これは玉塊(かい)といっていますが、縄文時代前期の福井県の遺跡から、こういうものが見つかっています。これは中国のもののように質は良くないのです。これはちょっと反対になって申し訳ないのですが、玉です。土でも何でもないです。玉でできています。メノウです。それで出きているわけです。
 ですから、形も材質も先程の査海遺跡のものと同じです。査海遺跡のものは7800年前、これは6000年前です。ということは、向こうの方が古いわけですから、日本海を渡って、当時すでに文化の交流があったということを考えざるをえないわけです。

○ 実は、おもしろいのは、査海という遺跡から中国最古の、これは何だと思いますか。これは遠くから見えますか。これは実際は1本なのですが、鱗があるのです。これが何かということが大変重要な問題なのです。これは新聞報道したものがありますので、ちょっと見ていただきます。これです。これが当時の新聞報道です。こういうものなのです。左手前に見えますね。先程スライドで見た、こういうものなのです。これは何かといいますと、竜なのです。これは竜の、ここのとぐろを巻いているところは頭なのです。こういうふうになって、尻尾なのです。これは中国人が言うのですが、これは竜だというのです。竜の鱗があるから、ヘビではないというわけです。

○ 石の長さは19.3m、幅3.8mあります。ここが頭です。胴体です。尻尾です。こういうふうに、足が付いているのです。ここに頭がこうあるのです。ここに足があって、胴体があって、尻尾があるのです。これは7800年前の石組みの、石を置いて作った竜なのです。この査海遺跡という遺跡では、もうすでに7800年前に、竜の信仰というものがどうも誕生していたのではないかということです。そしてそこでは、縄文時代の土器と同じような土器が作られているわけです。

○ その査海遺跡のあと、先程申し上げました6000年ぐらい前に、紅山遺跡という。紅い山ということですが、鳥居龍蔵という人が名付けたのです。鳥居龍蔵が紅い山と。日本の研究者です。当時は第2次世界大戦のころで、日本人が行って盛んに研究して、日本人が発掘して、そしてそれを紅山文化、紅い山の文化と名付けたのです。その名前の発祥地がここなのです。

○ その紅山文化ではすでに、例えばこういう。これはピラミッドではないかといわれているのですが、このようなものが見つかっています。これは6000年ほど前なのです。ここに「ピラミッド」と書いてあるのです。ここに敷石があるのです。石でずっと周りが敷かれていて、高さ20mぐらいです。これはピラミッドだといわれている。ここに人がいますから、大体どれくらいかわかります。14mぐらいです。14mぐらいのピラミッドといわれるものがあります。
 それから、女神の神殿というものがあります。これはちょっとスライドのいいものがなかったので持ってこなかったのですが、大地母神です。縄文時代の土偶と同じで、女神の神殿がここにあるのです。これはもちろん竜の信仰もあるのです。

○ これが積み石塚。お墓があるのです。この積み石塚というものは、すでに階級社会に入っています。6000年前の紅山文化のお墓なのです。お墓の中に遺体が埋葬されていて、そこからやはり竜が出ているのです。
 どういう竜かといいますと、こういうような猪の顔をした、ちょっとこれは絵が下手なのですが、こういう竜です。こういう猪の顔をした竜なのです。猪竜というのですが、私は現物も持っているのですが、今日ちょっと忘れてきてしまったのです。猪竜といいまして、直径は大体このようなものですが、それが胸の脇に何個も置いてありました。猪竜。
 だから、今まで竜というのは、ヘビから出発したと思ったのです。私もそう思っていました。ヘビが進化して、竜になったと思ったのです。ところが、この遼寧省から内モンゴル自治区にかけては、実は竜の原形はヘビではないのです。これは森の中に住んでいる動物です。猪や豚です。あるいは鹿、それから森の中にいる鱗というのは、魚です。魚鱗、こういうものが合体したものとして、一番最初に中国の人々は竜を作ったらしいのです。
 私は、今まで『蛇と十字架』という本なども書いたのですが、その『蛇と十字架』の中では、「竜というものはヘビが進化して竜になったのだ」ということを書いたのです。人文書院という本屋から出ていますが、この説はちょっと考え直さなければいけない。
 今は河北省一帯というのは、もう森は全然ないです。先程申し上げたように、だっと黄土平原が広がっていて、1つの森もない。ところがかつては、そこに深い森があったのです。6000~7000年前にはあったのです。縄文時代の東北地方と同じような、落葉のナラやクリ、クルミ、そういうものが生えている森がずっとあったのです。その森の中では、縄文時代と同じような土器を作って、粟を栽培するような農耕をやっていたのです。そういう森の中に住んでいた人が、どうも最初に竜というものを作り出した。その竜の原形というものは、猪、鹿、あるいは魚。こういうものを合体したものとして、竜を発想したらしいということです。
 この文化が、実は5000年前に突然崩壊するのです。先程申し上げましたように、三内丸山遺跡が発展した時代は5000年前ですが、その5000年前にこの地域が・・・。5000年前というのは気候が寒冷化する時代だと申し上げました。6000年前というのは、今より年平均気温が2~3度高くて、そして暖かいから、南の方から湿った空気が入っていって、森の生育に適した環境がこういうところにできたわけです。ところが5000年前に気候が寒冷化します。寒冷化しますと、例えばこの内モンゴルですと、冬はマイナス11度とか、マイナス20度に下がるわけです。そういうちょっとした気候の寒冷化が、この紅山文化に大変大きな影響を与えています。そしておそらくこの紅山文化を担っていた人々が、寒さを避けて、おそらく南へ、あるいは南東部海岸地帯へ逃れた。その一派が三内丸山遺跡へ来たのではないかというのが、私の仮説なのです。
 ちょうど紅山文化が崩壊する時代、5000年前という時代は、縄文時代の中期の文化が発展する時代です。縄文時代の中期の文化というのはどういう特色があるかというと、例えば長野県の八ヶ岳山麓には、こういう火焔式土器。新潟県などもそうです。新潟県なども火焔式土器といっているのですが、炎のように盛り上がる土器があるでしょう。あれはほとんどヘビです。縄文の中期の土器、この三内丸山でもそうですが、こういったところで、まず一番信仰が大規模になるのがヘビ信仰です。特に八ヶ岳山麓というものは、ヘビ信仰の中心地なのですが、ヘビ信仰がものすごく盛んになっている。それからもう1つは土偶です。三内丸山遺跡から大量の土偶が出ています。土偶が大量に作られているのです。それはどういうことかというと、この大地母神を信仰するような信仰が、この縄文中期から盛んになるのです。
 ということは、突然5000年前に大地母神の信仰やヘビ信仰が盛んになる。それはなぜかというと、日本人が自分で考えたというよりは、もともとこの中国の東北部に非常に優れた新石器文化がある。紅山文化という文化があったのです。そこでは、先程申し上げましたように、大地母神の信仰があったり、あるいは竜の信仰があったのです。そういう世界観があったのです。それが崩壊したために、人々が大量にやってきて、そして三内丸山や新潟県の中期の火焔式の土器に影響を与えたのではないかということです。そういう考えを今、私は持っています。
 しかし、だれも信用していません。私一人で言っているだけですから。というのは、日本の考古学者はまだここまで視野が広くない。中国は最近ようやくこの査海の遺跡などの遺跡の研究に目覚め始めた。そしてどういうことがわかったかというと、この三内丸山遺跡から積み石塚、先程スライドがありましたが、この紅山文化で出ていたものと全く同じ積み石塚ではないかというものが見つかっているのです。それまではわからなかったのです。墓だと思った。しかし、これと同じパターンの積み石塚が見つかり始めたのです。そういう目で今まで見ていないから、日本海を大量の人々が、5000年前の気候の悪化によって渡ってきたという発想が、今まではないのです。
 この紅山文化の崩壊というものは、実はもう1つ。今、私は何をやっているかといいますと、中国には揚子江流域にもう1つ。中国の文明というのは、黄河文明という文明があって、これが中国の文明だと思っていたと思います。最近はそうではなくて、中国文明の源流は揚子江流域にある長江文明だというようにいわれています。その長江文明というものは、やはり5000年前から突然大きく発展するのです。そしてそれまでは、竜は実はないのです。長江文明から出てくる竜をちょっと見てください。

○次のスライドが長江文明から出てきた竜です。この竜は、先程申し上げた紅山文化から出ている猪竜なのです。これが竜なのです。玉で作った竜なのですが、これが5000年前に突然出現してくるのです。これを今までの考古学者は、揚子江ワニから来たのではないかといっていた。揚子江ワニというふうに、私も実はこの本の中で書いたのです。それは従来の考古学者の意見を採って書いたのだけれども、どう見てもこれはワニには見えない。これはやはり猪や豚、そういうものを連想して、竜を作り始めているのです。

○こういう感じです。ここに耳があるわけですから。ワニには耳がありません。だから、これはやはり猪竜という、猪や鹿、こういう北方の竜をモデルにして、長江流域でも竜を作り始めた。そうするとどういうことが考えられるかというと、5000年前にその紅山文化が崩壊した。その結果、一派は日本に来ました。そして三内丸山遺跡のような高い文化を発展させるきっかけを作った。同時にそれが南の方に行って、今の竜が出ているのは良渚というところですが、この良渚という遺跡に大きな影響を与えて、そして竜を生み出したというふうに考えることができるのではないかと思います。
(スライド終了)

 こういうように日本海を取り巻く北方の文化と日本の関係をお話ししましたが、もう1つ、実はこの南の関係です。この南と日本列島の関係というものも非常に大きな関係があったということが、最近わかってきたのです。その1つは、これはもう前からずっと指摘していることなのですが、福井県の若狭湾沿岸に鳥浜貝塚というものがあります。縄文時代前期の貝塚です。もうまもなく、来年の4月に、縄文博物館という博物館がオープンします。おそらくこれは世界で唯一の縄文博物館で、日本でも一番優れた博物館だと思います。三方町という町が作るのです。お金がないところです。ところが内容はものすごく濃い博物館なのです。それは私が作ったからそうなのですが、皆さんもぜひ見に行ってほしいのです。
 その縄文時代の6000年前の層から、こういうものが出たのです。鹿角斧(ろっかくふ)というものです。これはどういうものかといいますと、鹿の角の股の部分を残して、こうやってこの部分を切っているのです。そしてこういうようなものを作っているのです。これは何かわからなかったのです。大きさはこれくらいです。その写真をたぶん持っていると思いますが、この鹿角斧というものが、100本出たのです。100本も出ていますから、いったい何だろうと。考古学者は、たぶんこういうところに衣紋かけみたいに掛けて使ったのではないかと、適当なことを言っていたのです。それが鹿角斧というのです。それが実は、この三内丸山遺跡でも5~6本見つかっています。数は少ないですが、見つかっています。いったい何だろうと、わからなかったのです。
 中国の浙江省の河姆渡という遺跡があります。河姆渡というのはすでに7000年前から稲作が行われているところなのですが、私が河姆渡という遺跡に行きましたら、これとそっくり同じものがあるわけです。全く同じものです。これは何だろうと思って見たら、これは畑を耕す農耕具だと書いて展示してあるわけです。だからこれはこういうふうにして、鍬です。鍬だったわけです。それで鳥浜貝塚からは、例えばエゴマ、ヒョウタン、麻、リョクトウ、こういう栽培作物が見つかっているわけです。そうするとヒョウタンというものは、南のものです。すでに浙江省の河姆渡という遺跡と鳥浜貝塚の間には、縄文時代前期の6000年前にも交流があったということです。あとで時間があったらスライドをお見せいたしますが、たぶん持ってきていると思います。その鹿角斧というものがあるのです。
 最近、実はもっとおもしろいことがわかってきたのです。それが今皆さんのプリントでお渡ししてある、これです。いかに古代の人々が、この日本海、東シナ海を縦横無尽に航海していたかということがわかってきたのです。今までの話はいろいろなところでやっていますが、今日のプリントは、私が今、初めて日本で話をすることですから、皆さんが初めて聞くことです。いろいろ変更しましたから、罪滅ぼしのために、最新のネタを皆さんの前でご披露するということです。
 実は私たちは、長いこと長江文明の研究で中国にはよく行っているのですが、右の地図を見てください。これは長江の地図が書いてあると思いますが、その揚子江の長江の上流域に雲南省というところがあります。この雲南省の昆明というのが、花博がこの前行われたところで、大変きれいなところですが、その昆明という町のそばに、テン池(てんち)という美しい湖があるのです。このテン池という湖のそばに、今から約3500年ほど前からAD3世紀くらいにかけて、テン王国という青銅器文化のすばらしい王国が見つかったのです。?王国という王国なのです。その調査も私たちはずっと去年、一昨年と、今年も調査を行っているのですが、この?王国の青銅器の中に、「貯貝器」というものがあるのです。
 貯貝器とは何かといいますと、当時は貝はお金だったのです。これはアラビアやインド洋という南の海で取れる貝をわざわざこの雲南省まで運んできて、それをお金にしたわけです。そのお金を蓄える青銅器の器を貯貝器というのですが、こういう円筒形の器なのです。その上にいろいろな模様や人間などが造形されているのですが、その貯貝器の横にも、いろいろな彫像が彫ってあるのです。その彫像が何かといいますと、お手元のプリントの右下に船に乗った人間が船を漕いでいます。これは石寨山という遺跡から出た貯貝器の横に書いてある模様です。何人かの人間が櫂で船を漕いでいます。その船を漕いでいる人の頭を見ますと、何かを乗せています。これは羽根なのです。「羽人」といいます。羽根の冠をかぶっているわけです。魚が泳いでいますから、これは船を漕いでいる。船頭さんがいて、前の方で号令をかけて、太鼓を鳴らしているのです。「銅鼓」といいます。銅で作った太鼓があるのですが、その銅鼓という太鼓を船の前で打ち鳴らしながら、みんなで漕いでいるのです。そういうものが描かれています。
 雲南省ですから、これは山の中です。山の中でこのような船を漕ぐような大きな川は唯一、揚子江ぐらいです。あるいは揚子江の上流に金沙江というものがありますが、これらの川はものすごい峡谷です。このようにゆったり船を漕いでいるのではなくて、ごうごうと流れているのです。金沙江や怒江はメコン川の源流というようなところですから、そこはもうものすごい峡谷の中を川がすごい勢いで流れていますから、ゆったり船を漕いでいるどころではないわけです。これは明らかに、おそらくゆったりした大河か、あるいは海です。海で船を漕いでいるのです。
 なぜこのような山の中に船を漕ぐ絵がたくさんあるのでしょう。ものすごくたくさんあるのです。そして実はこれと同じ絵が、今回ちょっと見せられなかったのですが、この揚子江の下流域の浙江省というところにもあります。この地図に黒丸がふってあります。南京の右下に黒い丸がふってあります。ここが浙江省なのですが、そこにもこの羽人という、羽根の頭を描いた船を漕ぐ人々がいるわけです。
 そして驚くなかれ、それが実は日本でも見つかっているのです。この浙江省の羽人と同じものが、実はこの鳥取県の淀江という弥生時代の遺跡から見つかっています。それが左に書いてあります。この図の左側の一番上は、それを復元したものです。真ん中がその土器のかけらです。これをちょっと見ていただきますと、部分的にしか残っていないのです。でも上の方に、頭にひゅっとしたものを飾ったような人間の顔と船と貝が書いてあります。それを復元したものが上です。上に太陽と思われるものと、この船を漕いでいる人。頭に羽根飾りを付けているわけです。
 つまり、この揚子江流域の雲南省から下流域の浙江省、そしてこの日本の日本海側周辺にかけて、こういう羽根飾りを持った人々が船を操って行き来していたのではないかということです。さらにその左下、一番左下には、佐賀県の川寄吉原というところから見つかった、やはりこれは銅鐸のかたちをした鋳型に書かれたもの。これは土で作った銅鐸です。銅ではないのです。銅鐸の形に似せて作った土製品に、やはり人間が武器を持っているのですが、武器を持っている人の頭にぴゅっと羽根飾りが付いているのです。
 それからその上、真ん中ですが、これは福岡県の珍敷塚古墳という古墳の壁画に描かれた、これはやはり船の舳先の左の方に鳥が止まっている絵があります。実はおもしろいのは、この雲南省の図85の石寨山から出たものにはあまりはっきりしていませんが、ほかのものは鳥が舳先に止まっているものが多いのです。こういうふうに船がありますと、船の舳先に鳥が止まっているのです。中には熱帯の鳥のペリカンでないかと思うようなものが止まっているのです。これは水先案内人として、鳥が止まっているのです。それと同じものが、この珍敷塚古墳の壁画にある。これは古墳の壁画の中で一番左端の方で人間が船を漕いでいるでしょう。その先に鳥が止まっています。そしてその右側に何か盾のようなものがあります。これは考古学者は蕨か何とかと言っているのですが、私は羽人の羽根だと思います。羽根がやはりここに描かれているのではないかと。そしてこれは全体が船なのです。さらにずっと右の方を見ていただくと、やはりこの右側の黒い部分の舳先の上に、鳥らしきものがまだ止まっています。鳥なのです。
 この越人において重要なものは何かといいますと、この羽根。羽根は何かというと鳥です。それからもう1つ重要なものは、淀江遺跡の上の方、あるいは珍敷塚古墳でも左上の船の上に、こういうものが書いてあるでしょう。これは何かというと太陽です。船に乗って、そして鳥を舳先に置いて、羽根飾りの帽子を着けて、そして太陽を神様として崇める。こういう人々が、実はこの揚子江の南の方、揚子江の流域にかつていたのです。それで、そういう人々のことを、今まで何と言ったらいいのかわからなかった。
 ところが、これは革命的な発見なのですが、これはここで言うのが初めてです。私はまだペーパーにもしていません。これを全部ひっくるめて「越人」と呼ぼうということが、中国の考古学で決まったのです。昔は越人というのは、この辺に住んでいる人だけのことを言ったのです。「呉越同舟」の呉越の越です。ところが雲南省にいる越人のことを何というかというと、雲南省にいる越人というのは、テン王国ですから、テン越ということも決まったのです。つまり、かつて揚子江流域には、羽根飾りの帽子を持って、鳥を舳先に置いて、太陽を神様として崇めるような人々がいた。そういう人々が越人なのです。その越人は、浙江省から実は鳥取県の淀江だけではなくて、越前、越後の国・・・。この越前、越後の国の越は、まさにこれです。越です。越の越です。つまり越人の越が越前、越後です。それはまさに日本海です。それはどこから来たかというと、おそらくこういう揚子江流域の人々が、羽根飾りを付けて船に乗って、そして新しい文化を持ってやってきた。
 それは3500年前に突然来たわけではないのです。この揚子江の下流域と日本海側との交流は、先程申し上げたように、6000年前の鳥浜貝塚の時代にもあるわけです。6000年前の鳥浜貝塚と河姆渡遺跡の間には、深い交流があったのです。だからその海のルートというものは、6000年前にもう確立しているのです。だから、それを当然受け継いで。その海のルートというものは、代々伝承されますから、3500年前にはもっと航海の技術も発展していますから、このルートを通って、この若狭や北陸地方と中国の揚子江の下流域には、深い文化的な交流があったのです。
 実は今までいくつかの謎がありました。私たちの先生である中尾佐助先生や佐々木高明という先生が、照葉樹林文化論というのを出されたことがあります。これはどういう文化論かといいますと、この雲南省から揚子江流域にかけては、かつてカシやシイの深い森があった。その森の中では非常によく似た文化的な共通性が認められる。例えばどういうことを行うかというと、まずはお米を食べるということです。稲作ですから、お米を食べるということです。それからお餅が大好きです。ねばねばしたものが好きです。例えば福井県の羽二重餅というものがあります。餅が大好きなのは、だれでも餅が好きだと思うでしょう。ところが餅を食べられるということは、ものすごく技術がいるということです。
 例えば私はこの間、福井県にドイツ人を案内したのです。北川君という中川の先輩の助手なのですが、彼がドイツ人を案内して、福井県に連れていったのです。福井県で特産品は何かというと、それは羽二重餅だといって、彼は買っていったわけです。私が20日後にドイツに行ったとき、彼がそれを見せて、「これはクッキーか、それともケーキか、何なのか、どうやって食べるのか」というわけです。食べられないというわけです。つまり、パンを食べている人にとっては、口の中でねばねばするものを食べるというのは、ものすごく難しいのです。ところがこの揚子江流域に住んでいる照葉樹林文化の人々というのは、餅が大好きです。ねばねばしたものが好きなのです。それから納豆です。これも大好きです。それから糀、発酵食品。それからあと、腐ったような「なれ鮨」というものがあるではないですか。お寿司。あのようなものは日本人でも食べないでしょう。あのようなものは、外国人にとっては耐えられなく難しいものです。マス寿司などもそうです。これはみんな発酵させて保存食を作る。これはまさにこの照葉樹林、長江流域で発展したものです。
 そこではどういう生活を行っているかというと、例えば高床式の家に住んでいるのです。じめじめして暑いからです。それから鵜飼いをする。あるいはお茶を飲む。こういった我々の日本文化のルーツに関係することは、すべてこの照葉樹林文化にあるという文化論を提出されたのです。そして、その文化がもっともよく残っているところが、雲南省だと言われています。
 なぜ日本とはるか離れた雲南省に日本の文化とよく似た文化が残っているのか。これははっきり言ってわからなかったのです。だから、照葉樹林文化論を否定する人もいたのです。そのような遠いところに、日本の文化に最も近い文化が残っているのだったら、朝鮮半島や揚子江の中流域、黄河流域の方がいいのではないかと。あのようなはるか離れた中国内陸の雲南省の文化と日本の文化が似ているということはおかしいではないかと。
 私も雲南省に行くまでは半信半疑だったのです。ところが雲南省に行ってみてわかりました。日本人が一番ほっとできるところはどこかといいますと、これは雲南省です。雲南省に行かれて、それ以外の中国も行かれた方はわかると思いますが、それ以外の中国は、漢民族が大半住んでいるのです。はっきりいって、漢民族にはとても日本人はかなわないのです。漢民族の国、これは百戦錬磨の国です。それに比べたら日本人などはちょろいものです。お人好しで、本当にばかです。中国人は本当に日本人のことをばかにしているのです。江沢民は日本から何兆円という援助を受けていながら、一国の総理として堂々と日本人の歴史観を批判できるわけです。はっきりいうと、それは日本人をばかにしているからできるのです。それでも日本人はお人好しだから、第2次世界大戦に悪いことをしたしということで、一生懸命やっているわけでしょう。もう1つは中国の市場をねらっているのです。市場が金儲けになるかもしれない、それを開拓すればというあまい希望を抱いて、皆さんが中国に行っているわけですが、とても日本人は、中国の漢民族には太刀打ちできません。
 ところが日本人と同じような感覚を持っている人というのは、雲南省の、特に少数民族です。その少数民族は、今でも太陽や鳥を神様として崇めているのです。それでスライドをちょっと見てみたいと思います。先程申し上げました、この雲南省のテン王国という王国の出土品を見てみたいと思います。では、スライドを見てみましょう。
(以下スライド併用)

○ これは日本の神社と同じです。古代の製造技術で造った神社ですが、こういう神社の屋根と高床式の住居。ここに囲いがあって、神社です。前に、何かわからないけれども、これはヘビなのです。ヘビがこういうふうに飾ってあるのです。これは階段です。階段を登っていって、そして神様のいるところに行くと巫女がいるのです。階段を登っていく高床式の住居、日本のその辺にある神社と全く同じなのです。

○ ここ雲南省は、竜は信仰されないのです。このテン王国で最も大きな力を持っていたのは、実はヘビなのです。これはヘビの塚です。

○ こういうヘビの造形品がたくさんあるのです。

○ これはヘビと牛です。牛は北方のものなのですが、当時の大きな強い動物。その牛の下に雄と雌のヘビがやはり2匹、しめ縄のように絡まっているのです。これはやはり豊穣のシンボルです。これは前回私が申し上げたと思いますが、こういうヘビというものは、しめ縄のように絡まって交尾をするわけです。その交尾をする姿というのは豊穣のシンボルなのです。大地を支えていますから、ヘビというのは大地の神でもあるわけです。雄と雌のヘビが絡まっているところ、これが生なのです。交尾の時間が非常に長いわけです。非常に長いですから、たくさん子どもを産む、激しい性のエネルギーというものが、これが豊穣のシンボルです。たくさん子どもを産むということは、当時重要ですから、だからこのしめ縄というものは、まさに大地のシンボルなのです。それを今、我々は神棚に備えているわけですが、これを先程の神社のところに備えたり。先程の聖堂の建物がありましたよね。それとこれをセットにしたら日本の神社そのものです。

○ それから、こういうヘビの造形。本当にリアルに上手に描いていると思います。雄牛と雌牛が交尾をしているところですが、いかにも臨場感があって、すばらしい傑作だと思います。

○ それからもう1つは、これは上にあるのは鹿なのです。鹿と、ここにヘビが描いてあるのです。鹿も聖なるものです。

○ なぜ聖なるものかといいますと、それは角です。鹿の角というのは生え替わるでしょう。ヘビは、先程言ったみたいに雄と雌の交尾をしているだけではなくて、ヘビというのは脱皮をします。脱皮をするということはどういうことかといいますと、実は生まれ変わるということです。だから命が生まれ変わる。同じように鹿の角も生え替わりますから、これは生まれ変わるのです。だから命の再生と循環と私はよく言いますが、命が生まれ変わるということ、これが重要なのです。それがその長江流域の人々の重要な世界観なのです。

○ これは青銅で作ったセミです。セミもやはり神聖な動物として崇められています。なぜか。これはやはり生まれ変わるのです。セミは最初、地中には幼虫でいます。それから地上に上がって来るときには、サナギになります。それから成虫になります。つまり2回脱皮するわけです。2回脱皮して成虫になるのです。チョウチョも同じです。幼虫からサナギ、サナギから成虫になる。そういうふうに形を変えたり脱皮するものが、古代の人々にとっては大変重要です。

○ これはおそらく蚕だと思います。蚕の繭です。この長江流域では、稲作と同時に蚕を飼う。絹です。これも非常に重要な生業の中心です。その蚕もやはり幼虫からサナギ、サナギから成虫というように脱皮を繰り返しますから、やはり命が生まれ変わるということで、長江流域の人々にとっては大変重要な世界です。

○ これは鳥です。鶏や鳥が大変重要です。実は鳥がなぜ重要かといいますと、この長江流域の人々は、鳥は太陽を抱えて東の空から西の空へ毎日運行していると考えたのです。太陽は朝、東の空から生まれますが、それは鳥によって運ばれてくる。鳥が太陽を運んでいる。それで夕方死ぬのですが、また新しい太陽が東の空から生まれてくるのです。それはどこを通って生まれてくるかといいますと、桑の木です。先程言った蚕を飼う桑の木を伝って太陽が生まれてくるのです。その桑の木には、10羽の鳥が止まっているのです。その鳥は何の鳥かといいますと、3本足の鳥なのです。その鳥が太陽を運んでいくのです。桑の木には9羽しか止まっていないのです。なぜ9羽しか止まっていないかというと、1羽は太陽を運んでいるからです。そしてその鳥が、交代に太陽を運んでいるわけです。その鳥は、まさにこれは日本でいうと、ヤタガラスです。ヤタガラスというのは、熊野神社にいるでしょう。これは足は3本なのです。ヤタガラスという鳥なのです。これは重要です。もう少しで終わりますから。

○ これが石寨山遺跡で見つかった遺物の中で、竜が描かれている唯一のものです。ほかはみんなヘビなのです。ところがこれがちょっと見にくいですが、これが頭です。ここに足があります。胴体です。これはやはり頭があって、ここに足があるのです。2匹の竜が描かれています。こちらにも1匹の竜が描かれています。これは胴体です。ここに頭があります。足と手があります。これは明らかに竜です。ところがこの雲南省では、竜はほとんどないのです。ヘビと鳥とタイです。あるいはシカ、こういうものが重要な世界になってくるのです。

○ 先程申しました、これが貯貝器というものです。貝のお金を蓄えた貯貝器というものなのですが、祭りをしている風景が上に造形されています。これが銅鼓という太鼓なのですが、ここには必ず星形の太陽が造形されています。銅鼓があるということは、太陽をシンボライズしています。先程言った船はこういうところに。これはその船を描いたものではありませんが、こういうところに船が描かれています。羽人といって、羽根飾りを付けた人々がこの銅鼓の側面に描かれている。これは蓋ですから、蓋を取ると、この中に貝の白いお金がいっぱい蓄えられています。

○ その土器は雲南省の土器ですが、日本の弥生の土器とほとんど同じです。土器もそっくりなのです。
(スライド終了)

 これで終わりです。今までお話をしてきたことから、私が何を言おうとしているかが大体わかると思いますが、かつてこの辺一帯に紅山文化という文化が繁栄したのです。その紅山文化のルーツは8000年も前にさかのぼります。7800年前にはそこで竜が生まれています。竜です。それが5000年前の気候変動、5000年前に気候が寒冷化しました。寒冷化したことによって、一部は日本に来たのです。そして日本の縄文時代中期の文化の発展を刺激した。それで一部は、南の方に逃げていったのです。そしてそこで長江文明の発展を刺激したのです。この紅山文化の影響を受けて、長江文明が繁栄したのです。長江文明でも竜が、その時代から生まれ始めたのです。この紅山文化の担い手がだれだったかということがまだはっきりしないわけですが、おそらくこれが漢民族のルーツになる人々であっただろうということです。
 しかし、もともと長江流域には越人と呼ばれる人が住んでいました。その越人は鳥を神様にして、ヘビを神様にして、太陽を神様にする、こういう世界です。北方の紅山文化というのは、粟、畑作です。これに対して南の長江流域の人々は稲、お米です。それから魚も食べます。水上交易が得意ですが、この北方の内陸の紅山文化を担った人々は、畑作の粟と猪や豚などの家畜です。これを主たる生業にしていたのです。
 しかし、もう1つ大きな歴史的な転換が起きるのです。それが今から約3500年前です。3500年前にもう一度大きな気候の変動が実は起こるのです。気候が寒冷化するわけです。
 その前にこれを説明しておきます。先程申し上げましたように、紅山文化を担ったような人々が住んでいたところというのは、落葉の広葉樹林です。これを「ナラ林文化」と我々は言っています。これに対して、稲作を行って、魚を食べたり、ヘビを神様としたり、太陽を神様としているようなところ、これは照葉樹林です。カシやシイの森の中。これに対して北の方は落葉のナラ林文化の範囲に入るわけです。
 そういう2つの大きな文化圏が存在したわけですが、今から約3500年ぐらい前に大きな気候変動が、もう一度起きるのです。先程申し上げましたように、5000年前に一回起こりました。5000年前に北から南に来た文化の影響が三内や長江文明を刺激したと申し上げましたが、3500年前の気候変動はもっと大きかったのです。そして、北方から怒濤のように漢民族が大挙して長江文明が繁栄したところに南下してくるのです。そこでこの長江流域に住んでいた越人、羽根飾りを持って、船に乗って、魚を食べて、お米を栽培して、鳥やヘビや太陽を崇めていた、そういう人々が漢民族に追われるのです。追われてどこへ行ったかというと、一部が雲南省の山の中に逃れるのです。もう一部が船に乗って、ボートピープルとして日本に来たのです。もう1つが南の方の東南アジアの方へ逃げていくのです。
 だから、私たちとこの雲南省の人々の間には非常に共通性があると言いました。これはよくわかるのです。なぜ共通性があるかというと、もともと同じ越の文化を持っているのです。とりわけ北陸の人は越人です。皆さんは越人の子孫かもしれません。ということは、皆さんの祖先であるかつて長江流域に住んでいた越という人々のグループのとろこへ、漢民族が怒濤のようにやってきたのです。これはその気候の変動によって民族がどうやって移動したかということを示しているわけですが、3500年前に北方から漢民族が南下してきて、越人の一部が雲南省に逃げていって、一部は南へ逃げていく。そして、その一部の下流域の人々は日本へやってくる。そして日本では、弥生時代という新しい時代を作っていくわけです。
 こういうように見ていただきますと、今まで我々は、日本列島というのは海に囲まれていてほとんど交流がなかったと思っていたのですが、もう鳥浜貝塚の6000年前の時代から、浙江省の揚子江の下流域と日本の間には航海ルートが作られていたということです。そして5000年前、あるいは3500年前のそういう民族の大移動のときに、大規模な人々の移動、あるいは文化の移動、交流というものがあったというふうに考えることができるのではないかと思うのです。
 私はまだまだ夢のようなことを考えているのです。もう1つだけ、説明しなかった真ん中の図があります。最近私が書いた本の中に書いてあるのですが、「環太平洋文明圏」といいます。これはどういう発想かといいますと、これなのです。この下に書いてあるこれは何かいいますと、これはペルーなのです。ペルーのチャビンデワンタルという石像を正面から見た顔がこれなのですが、こういうふうに牙をむきだしている。そして、大きな像の上に、ヘビが絡まってしまうということで、ヘビがこういうふうに絡まって髪の毛を持って、牙をむいている。この彫像というのは、長江文明で発見された・・・。長江文明の中に玉というのがあって、その玉器の中から全く同じものが見つかっているのです。
 結論を言いますと、縄文文明の時代に長江文明の担い手であった人々は、太平洋も渡ったのではないかということを、我々は今、考えているのです。太平洋の沿岸に非常に大きな共通した文明がかつて存在したということではないかということを、今、仮説で持っています。それを立証するスライドをどこかに置いてきてしまいました。これと非常によく似た彫像が、5000年前の長江流域から見つかっているのです。ですから、我々が今まで考えていたように、日本海や東シナ海を古代の人々が横断したというだけではなくて、太平洋も古代の人々は横断したのではないかと。今、こういう仮説を持って、研究に取り組んでいるところです。最後うまく締められなくて申し訳なかったのですが、ちょうど時間が来ましたので、この辺で終わりたいと思います。どうもご清聴ありがとうございました。

(司会) 大変興深いお話をお聞きできました。越人という、呉越という。この前も「呉羽」の「呉」は「呉越」の「呉」ではないかということを言ったのですが、越、これもやはり中国から来ているのではないかということは前から言われていたことなのです。日本海というのは、そういう意味で非常に交流が盛んであったのだと。我々の日本海政策課というのも、そういう観点で今いろいろな事業を進めているのです。環日本海交流というものが、今、始まったのではなくて、先生がおっしゃったように、6000年前、あるいは7000年前からもう縦横無尽にあったのではないかということを、具体的な資料を挙げながらお話ししていただきました。本当に初めて発表される学会のようなお話も聞けたわけで、我々がその場に立ち会えたということは大変幸運だったと思いますが、この機会に質問なさりたいことがありましたら。

(安田) 今、先程言った良渚のこれとよく似ているものが見つかりました。

(司会) では、それを見てからに。

(安田) これですね。これはどういうものにあるかというと、玉があるのですが、その玉の横腹に細かい模様が彫ってあるのです。直径2cmの大きさです。それにこのような細かい模様が彫ってあるのですが、それを拡大しますと、こういうものです。実は、これは羽人です。5000年前の、これは何をしているかというと、これは人間ですが、羽根の帽子をかぶっているわけです。これは浙江省の良渚というところから見つかった玉です。羽人です。この羽人が、大きな目玉を持った怪獣を手で支配しているのです。こういう感じです。これは羽人の一番古い造形だというふうに言ってもいいのですが、こういう羽根飾りを持った人々が支配をするわけです。その造形と、先程言いましたこれです。この目玉がここにあって、ちょうど目玉を抱えているようです。髪の毛はヘビですが、こういう造形が非常によく似ていると私は思うのです。似ていないという人もいるかもしれませんが、私は似ていると思います。ですから、この造形の2つの共通点から考えると、やはり、ひょっとしたら航海技術が得意だった羽人が、太平洋も横断して、ペルーの方まで行ったのではないかと思います。
 この南米から出た遺物と長江流域の揚子江の良渚文化から出た遺物を比較すると、ものすごくよく似ているのです。これは知らない素人が見ると、これは南米のものではないですかと。南米の研究者に長江のものを見せますと、これは南米のものではないかというぐらいによく似ているのです。もしかしたら、これは5000年前の人々が太平洋を横断して、夢のような話ですが、行ったのかもしれません。なぜ似ているかということです。これをこれから考える必要があると思います。以上です。

2.質疑応答

(司会) それでは質問をどうぞ。

(  ) ちょっと今日の主題から外れて申し訳ないのですが、この前ずっとシリーズで、「地中海の森と文明」というのをテレビでやっていました。あのとき、やはり今日と共通した話で、木の種類によって文明が違ってくるということでした。それで、私は木のことで全くわからなくて申し訳ないのですが、小アジアとかあちらの方ですと、木はどういう種類の木だったのでしょうか。

(安田) 向こうもやはりカシの木です。カシの木だけれども、こちらを照葉樹林文化と言いましたでしょう。こちらの葉っぱは「照る葉」と書きます。これもカシの仲間ですが、向こうもやはりカシなのです。ただ向こうのカシは、硬葉樹という硬い葉っぱなのです。硬葉樹林です。それを中尾先生は、硬葉樹林文化という名前で呼んでいらっしゃいますが、地中海沿岸の地中海文明を作った森はやはりカシの森なのですが、向こうは夏は乾燥しているでしょう。ですから、葉っぱが同じカシでも全然違うのです。こちらのカシというのは、葉っぱが広くてぺろっとして、てかてか光っているでしょう。例えばこの辺でしたら、アオキの葉っぱで表面が光るでしょう。だから「照る葉」と書くのです。ところが向こうも同じカシなのですが、乾燥地域ですから、夏は特に地中海式気候で雨が降らないのです。だから、その乾燥に耐えるために、蒸発しないように葉っぱがごわごわしているのです。よく見ると葉っぱに毛が生えているのです。私たちの感覚からいくと硬い葉という。日本のカシやシイは軟らかいでしょう。これが照葉樹林で、地中海のものは硬葉樹林です。

(  ) それで、いわゆる今の言ったねばねばとかが違ってくるのですか。照葉樹林だと米作とか行うので。ドイツ人はゲルマンですから少し北ですが、先程外国の人が餅類を食べにくいという話で、それで今ふっと、確か照葉樹と聞いたような気がしたなと思って、それで聞いてみたのです。

(安田) 照葉樹は稲です。硬葉樹は麦です。これは麦作農業です。だからパンです。

(  ) それで、そういうふうに分かれてきたというか、そのような違いになるわけですね。

(安田) そうです。今の人はパンを食べることは何も思わないですが、戦後我々のころは、近代化とか文明化というのはパンを食べることの方が何かモダンに思ったでしょう。しかしそれは、やはり硬葉樹林文化の影響が文明というものを作ったと。地中海文明とか、つまりパンを食べる人々だけが文明を作ったという発想をしているといえるのです。ところが今は、稲を食べる人もやはり古い時代から文明を持っていたと。

(  ) わかりました。ちょっと外れてどうもすみません。

(安田) いえ、いいです。

(司会) ほかにありませんか。

(  ) すみません。2つほどお尋ねしたいと思います。従来の黄河文明の仰韶文化などは、先生の説ではどう位置づけられるかということが1つと、もう1つ、昨年あちらこちらで展覧会が行われた「謎の仮面王国、三星堆」の遺跡ですが、蚕をたしか神として崇めていたという説明があったかと思いますが、先生のお考えによりますと、越の人たちが仮面王国を作ったということになるのでしょうかどうなのでしょうか。お尋ねしたいと思います。

(安田) これは難しい話ですが、黄河文明と長江文明の関係は、我々はこういうふうに考えているのです。3500~4000年に長江文明というのは崩壊するのです。それで文明の中心地が、南から北に上がったというように考えるのがいいのではないかと思います。そのときに問題は、先程言った三星堆をどういうふうに考えるかということです。これは非常に難しいのですが、おそらくこれを越と言っていいかどうかは、ちょっと疑問があります。というのは、その辺に先程申し上げた、こういう人がいるのです。三苗(さんびょう)という民族が現在の湖南省から四川省です。重慶とかあの辺一帯にかけて住んでいたというように書いてあるのです。越とこの三苗は違うというように書いてあるのです。おそらくこの三星堆とか四川省の青銅器を作った人々は、この流れを汲むかもしれないのです。まだわかりません。わからないです。謎の民族です。
 この雲南省、江西省、広東省、江蘇省、浙江省、こういったところは越人です。これはまちがいないです。ところが四川省、湖南省、これはわからないのです。今、私たちは調査しているのですが、今、少数民族にミャオ(苗)族というのがいて、そのミャオ族はこの三苗の流れを組むと思いますが、三苗の「さん」というものがおもしろいと思います。ヤタガラスの足が3本だということで、これは三苗の「さん」ではないかと。3つのミャオ族がもともといて、三苗というのでしょう。三が重要なのです。ヤタガラスの足も3本だし、そういうことから、たぶんこういう流れを組むのではないかというのですが、もうひとつよくわからないのです。三星堆というのは特異な文明です。しかし、稲作と蚕をやっている。これは長江流域に共通したものです。
 何でもいいですから、時間がありますから聞いてください。

(  ) そのような古い時代に、どうやって海を縦横無尽に行けたのか、それが知りたいです。

(安田) 知りたいですね。私も知りたいですが、それはわからないです。だから、おそらく陸を動くよりは、海の方が易しいのではないかと思います。最近明らかになっているのは、日本からたくさんビーズが見つかっています。ビーズとはわかりますか。ガラス玉です。古墳の遺跡とか弥生の遺跡から出てくるガラス玉、ネックレスのことです。そういうものの中には、これも今日初めて言いますが、たくさんインドのものがあるということがわかってきたのです。だから弥生時代とか古墳時代の人々の中に、インドと深い交流をやった。インドまで行ったかどうかわかりません。しかし、少なくても東南アジア経由で入ってきています。そういう海の道が非常に大きな役割を果たしていた。今までは日本の文化のルーツを考えるときは、朝鮮半島から南、北ということだけなのですが、そうではなくて、やはり海の方が移動しやすいのではないでしょうか。海がきちんと凪いでいて、天気さえ良ければ移動は早いと思います。

(  ) 7000~8000年代ではないのですが、太陽を大切にしたという太陽信仰みたいなものが、ずっと日本の歴史の中で引き継がれてきていると思うのです。民族学でも、太陽を追って、追いかける女の人がいたりとかいうのは、やはり今、先生が言われた、鳥は神様のよりしろだとか。富山でも石動の方の八幡宮では、白鳩が神のよりしろだとか。それからちょっと時代が下がって荘園時代になりますと、下村の神社に鳥の形をした遺物が出たとかというのは、すべてやはりそういうものの流れがずっと後世の6~7世紀のころまで引き継がれているということでしょうか。

(安田) 現代まで引き継がれているということでしょう。

(  ) 現代も太陽信仰というものがありますが、やはりその流れをずっと引き継いで、信仰の対象にしてきたということですね。

(安田) はい。だから、そういうことが中国で残っているのは、やはりこの雲南省の少数民族の人です。だから日本人というのは、我々は世界の中では大国のように思っているかもしれませんが、民族ということを考えたら、非常に小さい少数民族です。しかもそれは非常に古い伝統的な文化を頑なに守り続けている民族なのです。だから、中国をご旅行された方はご存じだと思いますが、中国の漢民族の住んでいるところは、森もないし、どこへ行っても同じような文化しかありません。これほど特異な民族はないです。
 だから、私はよく言うのですが、地球を破壊する2つの民族が世の中にいるのです。それは、1つは漢民族です。もう1つはインド・ヨーロッパ語族です。これは現在のアメリカ人だとかヨーロッパ人。あれはみんなインド・ヨーロッパ語族です。これも3500年前に爆発的に拡大するのです。だから、これは不思議なのです。インド・ヨーロッパ語族というのは、もともとカスピ海や黒海周辺にいたのです。それが3500年前から世界中を席巻していくのです。もともとアメリカというのは、インド・ヨーロッパ語族の国ではなかったのでしょう。そこはアメリカインディアンが住んでいた、我々と同じモンゴロイドの国です。そこへ新大陸の発見で、どんどんインド・ヨーロッパ語族が行って、そして徹底的に自然を破壊していく。そういう民族と漢民族というのは非常によく似ています。だから、畏れがないのです。自然への畏敬の念というものがないのです。だから、竜というのは自然への畏敬の念の表れでもあるけれど、人工的なものです。いろいろなものを融合して、竜を作り出すのです。これは漢民族の得意なことです。
 ところが、我々とか雲南省の人は、ヘビならヘビをやはり信仰するわけです。ヘビといろいろなものを合わせたものを作り出すというのは、苦手なのです。だから鳥は鳥、ヘビはヘビなのです。そういう自然のあるがままの姿を崇拝するのですが、漢民族はそれをいっぱい融合して、人工的な竜というものを作るのです。だから竜のルーツとヘビのルーツは全然違うというのが、私の最近の結論です。
 だから、このときには竜が進化してヘビになったと書いてあったのですが、それはまちがいです。だから竜のルーツとヘビのルーツは私は違うと思います。それは根本的に世界観が違います。だから我々はそういう雲南省の人々と同じ、世界の中では少数民族です。大変なことです。隣に巨大な漢民族が21世紀にできるのですから。だから我々と全く違う世界の人々と日本人がどうやって仲良く生きていくか、アメリカと中国の間に日本が挟まって、少数民族としてどうやって生きていくかと。
 私は最近「少数民族連合」と言っているのです。だからその雲南省の人とかこういう人々と仲良くして、こういう連合をやってと。たまたまいろいろと政治的に問題がありますが、東南アジアも少数民族です。だから雲南省、東南アジア、こういうフィリピンとか、環太平洋の。中国東北部にもいろいろいるでしょう。イリヤークとか少数民族が。
 こういう人のリーダーになるのは、日本人は得意です。でも漢民族と対決してやろうと思ったら、絶対に負けます。だから、日本は戦争に負けてよかったのです。日本が戦争に負けないで満州にいたら、日本民族はなくなっています。今ごろ漢民族にみんな吸収されています。清朝という国があるでしょう。あれは満州族だったのです。300年間中国で統治している間に、満州族はどこに行きましたか。今は跡形もなくなっているでしょう。清朝という国は、江戸時代と同じくらいに、300年も中国を統治したのです。それは言葉も習慣も風俗も何も全部違うのです。弁髪を強制して、漢民族を支配したかに思ったのです。今はどうですか。満州族などはどこにもいないでしょう。いるのは漢民族だけです。だから我々第2次世界大戦のとき、侵略してみんな満州に行ったでしょう。それで負けてよかったです。あのとき勝った勝ったといって満州を占領していたら、今ごろ日本人は漢民族になっています。それぐらいに漢民族というのはすごいです。
 だから我々のルーツというのは、先程言ったみたいに、やはりこの鳥やヘビや太陽を崇拝する、そういう民族の上に立っているということをきちんと理解しないといけないと思います。だから、ここにいる皆さんを見ていてもよくわかります。こういう雰囲気で、中国人がやってきて、とても対決はできないです。やらない方がいいです。私はよくわかりました。日本人は本当に心優しい民族です。だから、このような小さな国でも経済発展もできたし、みんな仲良くできるのです。小さいことであっても、もめ事はあります。しかし、そのような漢民族と対決などをしてはいけません。絶対しないことです。しかし決して同調しても同和してはいけません。同和したらその中に吸収されていきますから。一線を絶えず画しながら、しかし仲良くしていくということです。戦争したら我々は負けます。すごい話になりましたが。

(司会) 大変謙虚な先生で、5年前の1994年に「ヘビと竜」のお話があったのですが、学説壊し、常識壊しというのですか、そういうところに挑んでいらっしゃると思います。一度こうだと言ったことでも、それでいいのかなという道をずっと歩んでいらっしゃると思いますので、今度またお招きしたときは、また違って、ここまで進んだというお話が聞けると思いますので、次回をまた楽しみに、また我々の方でもお呼びしたいと思っています。あるいはまたいろいろな書物をとおして、県内の方々にいろいろな説を紹介していただきたいと思っています。本当に今日はどうもありがとうございました。

(安田) どうもご清聴ありがとうございました。