その他

座談会 「日本海学の新世紀」


2000年11月25日
富山県赤坂会館

伊東俊太郎
大塚 和義
安田 喜憲
小泉 格(司会)

本座談は、『日本海学の新世紀』創刊号の特別企画として、
2000年11月25日、富山県赤坂会館で開催されました。
→『日本海学の新世紀』角川書店(p20~54)

1 「逆さ地図」からの発想

小泉(司会)

 きょうは三つの柱をあらかじめ立ててあります。一つは、「逆さ地図」を中心にしてみなさんに意見を述べていただく。二つ目は、日本海、環日本海地域の特色について、もう一度みなさんのご意見をいただく。三つ目は、新世紀に期待される「日本海学」ということで、学際的な、あるいは相互性のメリットを生かして何をどこまで解明、あるいは提示できるか。この三つのテーマを考えておりますので、よろしくお願いいたします。
 まず、私からは自然環境にかかわる意見を述べます。安田さんには自然と人類、あるいは自然と生物圈のお話を、大塚さんには主として民族と文化のお話、伊東さんには三人の話をふまえて文明論的な、あるいは全体のまとめ的なことをお願いいたします。三つの柱それぞれについて、小泉・安田・大塚・伊東という順番でまず基調的な発言をいただきまして、そのあとで追加することがあれば追加していただくということで進めてまいります。
 それでは、最初に「逆さ地図」をながめながら日本海、環日本海地域の魅力、また逆さ地図というのは日ごろ私たちが見なれていないものですので、そこから従来と違ったどういうイマジネーションが出てくるかということについて、ご意見をいただきたいと思います。
 口火を切るかたちで、私が地質学的な、あるいは自然環境の立場からすこし申し上げます。私はもともと地質学を勉強していましたので、陸域がフィールドでありました。いまから40年ぐらい前に、陸から海のほうに調査する場所を移しました。そういう人たちを世界では「sea-going geologist(海に向かう地質学者)」というふうに呼んでいます(笑い)。陸上の地質屋の目で海を見ようということです。
 私はこれまで二つのことを勉強してきました。一つ目は、海洋地質学という分野です。ペーリング海、オホーツク海、日本海といった縁海(えんかい、marginal sea)がありますが、この縁海はじつは北西太平洋の部分にしか発達していません。環太平洋地域以外では発達しておりません。縁海は、背弧海盆(はいこかいぼん、backarc basin=島弧の後ろに海ができるという意味)、島弧(islandarc)、海溝の三つが一つのセットとなって構成されています。このセットを説明するのがプレートテクトニクス(→注1)という考え方です。これはいまでは実証されています。プレートテクトニクスを考える場合には、太平洋のほうから日本列島、あるいは日本海を見ていくわけですから、逆さ地図とはまるっきり見方が違います。これが海洋地質学です。
 逆さ地図が出てきた段階で、先ほど申しました二点と趣が違うわけです。すなわち大陸から海を見る見方、あるいは視野を実感させました。私の場合は原点に戻ったのです。陸地から海へ行ったということは、行動の範囲や活動の範囲がだんだん広がっていっている。それは個人的にもそうだし、日本の歴史を考えた場合も、背景にある中国の大陸から始まり、日本海、日本列島、太平洋というように日本の歴史がだんだん拡大していった。そして、まずいことに太平洋の場合には太平洋戦争ということで悪い終着になっている。
 それがいまはまた逆方向に戻りつつあって、日本列島における生活域というか、内海としての日本海と一体になった意識革命をしようとしているのではないか。そういう意味で、認識、あるいはわれわれの意識にかかわってきている。これは人々がもつ思いみたいなものがひとつあります。もうひとつは行政には、人々の認識とか意識を実現させるという仕事があるのだと思います。これは三つ目の柱のときにもう一度、話したいと考えています。
 以上、逆さ地図を見て感じたことを、自分史も含めて最初に問題提起のかたちで述べました。
 次は安田さんにお願いします。もう少し陸域のほう、日本列島、中国大陸を含めてお願いします。

安田

 逆さ地図を見せていただいて感じることは、日本民族にとっては日本海があったということは、たいへん幸せだったのではないかということです。日本海というのは平和の海であったということです。
 なぜかというと大陸部にいる人々は牧畜民です。基本的に農耕と牧畜をやる人なのですが、そういう牧畜民が幸いにして海に出かけることが非常に下手だったということがあります。同じ海を考えても、地中海のギリシャ文明はドーリア人(→注2)の文明ですが、彼らはもともと牧畜民でした。しかし、彼らが地中海のギリシャにあった森の中に定住することで森林資源を利用することを学び、船を造ることを学び、海に出かけて巨大な海洋国家の仕組みをつくっていった。これがギリシャ文明ではないかと思うのです。それに対して、ペルシャという国があります。同じ牧畜民なのですが、ペルシャの牧畜民は海に出かけることができなくて、海洋民になれなかった。
 同じようなことがモンゴルにも言えると思うのです。大陸にいたモンゴルの人は牧畜民なのですが、彼らはやはり船を使ってバイキングのように海上に出ることができなかった。そのことによって日本海というのは、大陸の牧畜民の嵐から長らく隔離されることができたなあという感じがするのです。
 だから、日本に大陸からの文化の影響がより強くやってくるのは、むしろ日本海ではなくて東シナ海なのです。東シナ海を通して大量の難民(ボートピープル)がやってくる。それはどうしてかというと、東シナ海、つまり中国大陸の南部には、船を操ることにたけた人々がいる。これが稲作漁撈(ぎょろう)民です。この稲作漁撈民は船を操ることが巧みですから、彼らは東シナ海を対馬(つしま)暖流に乗って一気に日本にやってくることができたわけです。
 日本海の対岸の少数民族、ニヴフ(ギリヤーク)などがどういう生活をしていたかわかりませんが、モンゴルという巨大な帝国があって、元寇(げんこう、→注3))のときに日本に攻めてきました。彼らは少なくとも海洋民族になれるほど船の技術にたけていなかった。船に乗っていた大半の人々は、長江(ちょうこう)以南から駆り出された人々でした。それが日本を幸福に導いた要因であったと思うのです。
 富山県は越国(こしのくに)といいます。越前が福井県、越中が富山、越後が新潟です。そのように、越国というのが日本海側にあるのですが、対岸の沿海州にはその名前の起源はないのです。では、その起源はどこにあるか。じつは長江の下流域の百越(ひゃくえつ)と呼ばれる越人(えつじん)からきています。ですから、日本海といっても、われわれは対岸から強い文化的な影響を受けたと考えるし、実際にそういうこともあるのですが、同時に、日本海は東シナ海を通って長江の下流域にまでつながっており、それをつなげているのは対馬暖流という大きな海流であって、そういう南の東シナ海からさかのぼってくる文明の影響が日本にはたいへん大きい。それは船を持ち、技術を持った人々が大陸にいたかいないかということに大きくかかわるのではないかと思われます。

小泉

 いま、東シナ海と日本海の関係を稲作漁撈民を例にあげて話されました。東シナ海と日本海とをつなぐ対馬暖流の話は、二番目の柱のところでもういちどおさらいします。安田さんのほうから自然環境と人間とのかかわりのお話が出ましたので、引き続きまして、人間のほうにウエ-トをおいて大塚さんからご発言いただきたいと思います。

大塚

 小泉さんが自分史を語られたように、私も自分史というか、なぜ日本海地域に関心をもっているのかお話します。私はとくに人間そのものに対して強い関心をもっているわけですが、日本海沿岸の諸民族に対して強い関心をもつにいたったのは、最初、旧石器研究を始めまして、北海道に行き、そこでアイヌと出会ったことによります。日本にもいわゆる日本語を語るだけではない人たちもいる、しかも、およそ100年前までは採集狩猟の文化を維持していたということを知り、そこからさらに北方世界に関心をもった。しかし残念ながら、1960年代というのは、ソ連でのフィールドワークなどは全然できなかった、日本人による北方民族はもとより学術的フィールドワークの空白の時代です。
 考古学というのは、ご存知のように大部分が文字のない社会を扱い、現実に生きた人間との対話がまったく不可能なわけです。そこで、狩りなどの自然物と向き合ってきた人間的魅力にとんだアイヌの人たちと語り、北方世界にも行ける時代状況になって、自分の民族学的(人類学的)な関心が非常に強まりました。
 私は、日本民族学の開拓者である鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう、→注4)が歩んだ道といいましょうか、彼には『黒熊江(こくりゅうこう)と北樺太(きたからふと)』という名著がありますが、アムール川(黒龍江)を下ってサハリンヘ到るというルートをたどり、さらに別に朝鮮半島まで行っている。くしくも、私も鳥居のたどったルートを歩いたことになりました。この鳥居の歩いた沿岸諸地域をずっと歩いてみたとき、生業の形態で分類すれば大きく二つに分けることができると思いました。一つは、農業地帯で農耕民文化が根を下ろし稲作や雑穀栽培が支配的に行なわれている地域。もう一つは、非農耕地域や採集民社会というか、依然として農耕がほとんどできない地域。そういうふうに二つに区分されるのではないか。
 そして、先ほど安田さんが言われたように、日本には牧畜民が渡って来なかったのですが、樺太(サハリン)にはウイルタ(オロッコ)というトナカイ飼養民が入ってきていました。アムール川流域にも、中国の大典安嶺(だいこうあんれい、大シンアンリン山脈)にもシベリアからトナカイ飼養民は進出しているのです。ただ、この牧畜の一形態であるトナカイ飼養民は、安田さん的にいえばほとんど「脅威」にはならないというか、彼らは大きな軍事的脅威にはなりえなかったのです。
 民族学の面からこの逆さ地図を見ていておもしろいなと思ったのは、間宮(タタール)海峡、宗谷(そうや)海峡、津軽海峡を見ますと、それぞれが近代になるまで、あるいは現代もなお、たとえば間宮海峡でいえば、その北部のサハリンとアムール川流域には、ニヴフという、かつてギリヤークといわれた人たちが両岸で伝統的な漁撈生活を基本にしている。要するに、あくまでも先住民地域なのです。宗谷海峡をはさむ二つの島も、樺太アイヌと北海道アイヌというように古くから先住民が居住する地域でして、一つの先住民が海峡をリンクしている。つまりつながっている。あるいはまた津軽海峡にしても、菅江真澄(すがえますみ、→注5)の『蝦夷廼天布利(えぞのてぶり)』をはじめ宇鉄アイヌ、あるいは外浜アイヌとか、彼らのいろいろな記述に見られるように、アイヌの人たちが海峡を往来して津軽や下北でかなりの人数が生活していた事実もあるわけです。
 対馬や朝鮮海峡はもっと歴史的にみて大きな波動を受けているわけで、諸国家の囲い込みで先住民の存在というものが不明確になってしまう地域なものですから、ここのところは別の切り口で言わないとならないと思うのですが、沿岸各地で先住民というものがいまなお大きなインパクトをもっているのではないか。この逆さ地図で見ると、ハバロフスクからアムールの河口までは森林地帯であり、しかも現在、先住民が散発的ではありますが居住しており、伝統的な社会をある程度維持している。
 生業の面でいうと、ここで私のとりあげている地域のいわゆる先住民社会というのは「サケ・マス文化」というものをもっている。漁撈といってもいいのですが、象徴的にはサケ・マスです。ですから、日本海の北部域、この逆さ地図でいうと左手は漁撈民のサケ・マス文化であり、採集民文化である。一方、右手のほうは、農耕民文化であり、そこには都市文化がある。都市民かおり、農耕民かおりという状況だと思うのです。ですから、都市化され農地化された地域とまだ原生林の残る自然環境の豊かなところというふうに大きく二分されているということが言えるのではないか。
 そして注目したいことに、この地域の先住民文化の俯瞰図(ふかんず)が大きく変わるのは、中国の元(1271~1368年)から明(1368~1644年)の時代にかけて、東アジアの商業交易活動が活発化する時期です。その時期にアムール川の先住民社会も大きく商品経済に組み込まれていく。それによって彼らの生業形態が、商品としての毛皮生産や海産物の捕獲といった、自家消費から商品生産に大きくドラスティック(徹底的)に社会が変わる。そして、互いの接触や交易が不可欠となり文化的な類似性が出てくるわけです。しかし、それでも強固にそれぞれの集団が特色ある文化的伝統を維持しているということが、先住民社会の大きな特徴としていえるのではないか。
 私はこの地図を見ながら考えてみました。陸と海峡をつなぐルートが一つある。それから、日本海という全方位のルートもあるわけです。日本海にも、意図的に日本海を横断するものと、日本海沿岸沿いに航行しているのだけれども漂着し、それによって文化的な刺激が沿岸諸地域に与えられたということもある。
 これに関した注目すべき研究成果一つが、池内敏さんの「朝鮮漂流民」に関するものです。池内さんによると、1599年から1872年、だいたい江戸時代ですが、その274年間に967件、朝鮮から日本海沿岸への「漂着」があったということであります。約1万人の人が日本海沿岸に漂着していたという事実にまず驚かされます。漂着民は当時の鎖国体制のなかにありながら釜山にあった倭館(わかん、→注6)を通して朝鮮のほうに引き渡すという日朝両国のルールがあった。漂着民といっても実質は交易民だったようです。漂着民の積荷はその場所の藩で売却していいという幕府の方針でした。日本の鎖国時代の「四つの口」(→注7)は有名ですね。しかし、それ以外にも日本海というのは、対岸貿易の役割もはたしていた。おしなべて平和的なんですけれども、かなり精力的に商業活動が行われていた。それによる文化的な刺激や経済的意味が大きかったといえるでしょうか。

安田

 なぜ平和的だったかというと、交易活動は盛んだったけれども、富山県の真北の沿海州に支配・被支配の関係が成立しにくかったからです。つまり、巨大な帝国が日本海の対岸には出現しなかった。だから、交易は非常に活発だったけれども、基本的に対岸の人々が狩猟・採集・漁撈を生業活動の中心としていたために、日本海が長いあいだ平和の海であったんだろうと、ぼくは思うのです。

小泉

 ありがとうございます。大塚さんのところでは、生業活動を中心とした商業活動にかかわって先住民の問題を提起されたかと思います。
 次に伊東さんにお話いただくわけですが、大塚さんは、北のほうに上がるにつれて、地形的、あるいは地理的に二またに分かれていって、あるいは表現が適切でないかもしれないけれど、日本海地域における一種の南北問題のようなものがあるのではないか。南のほうが豊かで、北に行くにしたがって自然環境がきびしくなる分だけじゅうぶんに文化の発達していないところがあるのではないかということ。それと先住民のことを多少ひっかけて、お話しになったと思います。そのへんのことも含めまして伊東さんのほうから文明論的なことをお願いします。あるいは伊東さんが以前、お話しになった文明交流圏という視点でお願いします。

伊東

 お三方からいろいろ興味深いお話をうかがいました。私は科学史が専門ということになっていますが、このごろは比較文明学という領域に深入りしているわけです。その立場からこの逆さ地図を見てどう考えるかというところから始めると、日本海は地中海に似ているなあ、とあらためて思います。逆さまにして見るとそれがいっそうはっきりします。もっとも地中海にくらべると緯度がすこし北になるかもしれません。しかし、そんなに離れていない。経度の幅の広さでいうと、地中海の半分ぐらいでしょう。そのくらいの違いはあるけれども、基本的に似ているじやないかという感をもたざるをえない。
 いま、私は日本海のことに引っ張りだされているけれど、じつは長いあいだ、地中海文明とはどういうものなのかということをやっていたのです。地中海の文明というものを腑分けして分析していくと、実はあれは単一な文明圈ではないんです。ラルフ・リントン(→注8)は「地中海文明圈」という言葉を使うのだけれど、あれは、いま小泉さんもおっしゃったけれども「文明交流圈」です。地中海の北のほうにはヨーロッパ系の人たちがいて、その文明を、ギリシャ以来、近代ヨーロッパにいたるまで続けて発展させてきましたが、それだけが孤立して発展したわけではないのです。地中海の東側を見ると、フェニキアその他ですが、シリアその他のセム系の文化というものが断固としてあって、これはある意味ではギリシャ文明の先駆者です。アルファベットはそこから出たともいわれています。それがカルタゴに移りますが、それにさらにイスラムの世界が南のほうにずっと広がって、地中海はイスラムの海であったこともある。
 そうなると、セム・ハム系(→注9)の文化が東から南一面、あるときはスペインまで含んでずっと広がっていたわけです。そして、地中海のダイナミズム(活力)とは何かということを考えると、その二つの系統、インド・ヨーロッパ圈とセム・ハム圈のものが、地中海という一つの媒介の海を通して相互に渉り合って発展させたものである。もちろんあるときは戦争もあったが、基本的にいって、この間の緊密な連携と相互作用からあの地中海文明のダイナミズムが生まれたのだろう。
 そう考えると、地中海というのは、結局、一つの「文明交流圈」(cross-civilizational sphere)といえるのではないか。こうした文明交流圈というのは、ここだけではなくていろいろなところに複数あるのです。そういうふうに私は考えています。それまでは、地中海文明というのはギリシャ・ローマの文明だとか何とか言っていて、ヨーロッバ中心の考えがあったのですが、そんなものではないぞということをはじめて言ったのですが、そして、いまではそれがむしろ常識になりました。
 しかし私が、比較文明学を始めたころなどは、まだ「地中海と言ったらギリシャ・ローマですよ」と言っていたわけです。でも、そうではないということがわかってきた。むしろヨーロッパ系のものがすごく発展していくのも、セム・ハム系のものとの交流があったからだし、セム・ハム系のものが発展していくうえでもヨーロッパ系の影響があるという相互作用を見てとらなければいけない。そういうことで、「文明圈」というものも考えなければいけないが、それよりも文明の発展には「文明交流圈」というものに注目しなければならないということを『比較文明』という雑誌に書きました。
 そして、とくに海の文明交流圈が非常に重要だということを力説しました。いままでは陸ばかりやっていた。陸の文明交流圈で思い出すのはシルクロードです。これももちろん重要です。その他にもいろいろあるけれど。海の文明交流圈は、たとえば地中海文明交流圈、インド洋文明交流圈などいろいろあるのだけれど、こういうものをよく見なければ文明のダイナミズムの本当のところはわからない。これこそ非常に大きな文明のダイナミズムを生んでいくのではないか、ということを考えてあらためて「日本海」を見ました。
 そうしたら、なんと日本海は孤独で孤立してあつかわれているのでしょう。つまり、日本史の人たちは日本列島の内部のことだけを考えているじやないですか。その先の向こうにあるものを全然考えないで、出てきたものはなんとか日本のなかでちんまりまとめてしまうことばかりを考えている。でも、いま、海洋学、考古学、民族学、生態学など、さまざまの分野を考えても、相互交流の現実を理解すべきことが明らかになってきました。だから今、まさに日本海文明交流圈を考えなければいけない。
 もちろん日本列島を考える場合も、日本海文明交流圈、東シナ海文明交流圈、大平洋文明交流圈の三つで考えなければいけないということを私は言いましたが、東シナ海はじつは南シナ海と結びつけて考えなければ意味がないのです。だから、それをみんないっしょにして、「東アジア海文明交流圈」としたらどうかと思っています。そうしたら、もっとずっと実体がはっきりすると思うのです。日本海もそういう文明交流圈だということで考えていかなければいけないと思います。
 ところが、いままで、「日本の鎖国」ではなく「日本史の鎖国」が長いこと行われていました。要するに、風通しの悪い日本列島史がずいぶん幅をきかせていた。これをひとつ、ここで大きく打ち破らなければ、21世紀における東北アジアにおける日本の位置、東アジアにおける日本の位置、あるいはもうちょっと広げたら世界における日本の位置というものがわかってこないですよ。こういうセクショナリズム(縄張り主義)、ナショナリズム(民族主義)、アイソレーショニズム(孤立主義)といったものを一回とりのぞいて、もういちど見直したらいいのではないかと思うのです。
 地中海では、見ればみるほど、いくつもの文明が渉り合っているということが、ブローデル(→注10)が明らかにしたように非常にはっきりしていますね。しかし、日本海についてはそれほどでもない。それはなぜかというと、そういう事実がなかったのではなくて、そのようにして広い視野で見ようとする意識がなかった。そういう意識がなかったら、事実はあっても無視され、あるいは曲解されますよ。非常に挟いところに閉じ込めていつも解釈してしまう。もっと広い日本海全体の連関のなかから日本の文明の形成を考えたらよいと思うのです。
 歴史は「事実の学」だといわれています。しかし同時に、その「事実を見る目の学問」だともいえると思う。ですから、ここでそういう新しい目で発見される事実に目を向けましょうよ。それで、いままで積み重ねてきた海洋学、気象学、考古学、民族学、生態学など、統合的、相互関連的な新しい目で見直したらずいぶん変わってくる。そういう突破口になればいいんじやないでしょうか。

小泉

 ありがとうございました。伊東さんからは、地中海と日本海が非常に類似してるが、研究のしかたにおいて非常に異なっているというふうな、たいへん大事な発言がありました。ブローデルの地中海学は有名ですし、地中海と日本海の自然環境につきましては、私自身話したいことが多々あります。ほかの方もそうでしょうが、地中海と日本海の関係については、これでひとまずおいておきます。
 二つ目には、これまでの日本文化、あるいは日本の歴史は、日本海とか太平洋を通して海の交流の歴史にいろどられていたにもかかわらず、歴史観とか文明観は、陸地に視点をおいて政治、経済、社会などの事件を記述するのが主体であった。歴史の背景、根底に存在しているものについて考慮をしなかったということを言われていまして、伊東さんはじめ網野善彦さん、川勝平太さん、入江隆則さん、上田正昭さんたちが、「海からの視点」というものを大事にされております。そのことは、今般、私どもが日本海学を富山県庁の熱意のもとで動かしている原点にもなっているのだと思います。
 一つ目の柱につきまして補足するようなことがございますか。

大塚

 確かに伊東さんがおっしゃられたような近年まで「ちんまりとした」日本史だった。日本国家史という非常に狭い領域のなかで論述を自己完結させるというようなきらいがあったと思います。列島史からさらに巨視的にみていく必要がある。日本海沿岸の諸国を見ますと、先住民社会というのは無文字社会なのです。支配を受けたアムールとかサハリンなどにも元が攻め入ったりしていますが、記録は少なくて断片的である。古くからそこに居住してきた先住民の人たちが書いた文字記録がない。伝承があるのみです。ですから、先住民にはアイヌのユカラ(→注11)と同じく口承による叙事詩などもありますが、そういうものの比較分析もまだじゅうぶんに行われていないわけです。
 そういう意味で、日本海は地中海ほど、諸地域間の交流が国家というレベルまでいっていないところが多い。いわゆる周辺民族的というか……。

伊東

 たしかにそうですね。

大塚

 ええ。小泉さんがすでにおっしゃられましたように、ここは南北問題というか東西問題というのか、地図でいうと左右問題ですが、そこにはかなりの落差があるわけです。

伊東

 だけど、歴史というのは文字だけじゃないですからね。

小泉

 そう。イマジネーションと同時多発的なことですね。

伊東

 民族資料とか考古資料とかいろいろなものがあるから、それを総合化していけば、かなりの構造が明らかになると思うんです。ですから、文字の歴史は歴史の半分だと思ってください。そのほうがずっと実体に迫られる。いままであまりにも文字にかかわりすぎたために、ほかのものを軽視しすぎた。そしてまた、イマジネーションというものがない。文字が出てくると初めてなんだか言えるけれど、あとのことははっきりしないとか言って、じつは、こじつけをやっているところがある。だから、そこのところはもうすこし新しい目で見て、考古・民族・生態・文字資料などを含めた総合的な歴史をつくっていくということも、この日本海学の重要な部分ではないかと思うんです。

2 日本海、環日本海地域の特色

小泉

 次に二つ目の柱です。いま伊東さんから「海のシルクロード」「狭い内海としての日本海」、これは安田さんも指摘されましたように、東シナ海、南シナ海を通して、日本海でいうと対馬暖流で世界と一体になっていた。つまり、日本海が孤立していたのではないという思いを私は持っていますので、二つ目の柱として、日本海、環日本海地域の特色について、あらためて見てみようというわけです。非常に豊かな循環共生体系のなかに、日本海・環日本海地域があるのではないか。そのなかで生命、自然、文化を生み、育んできた海の環境のカをもう一度、復習してみようということであります。
 最初に日本海・環日本海地域が置かれている自然環境設定の様子について簡単に述べてみたいと思います。
 一つは、東シナ海を通り、対馬海峡を通って、いわゆる対馬暖流が日本海に入ってきます。そして、これまでの観測によりますと、約2か月後に津軽海峡から太平洋に出ていきます。一部が宗谷海峡から出て、残りは、間宮海峡は水深が非常に浅いものですからUターンして、いわゆるリマン海流となります。北緯40度より北のところは水深が3000メートルぐらいの深海盆(日本海盆)になっております。この海域は冷水海のエリアになっています。地図で見ると白くなっているところ、薄い青で描かれているところはその境界で、だいたい北緯40度ぐらいのところに、いま話しています日本海の南と北の境界線があります。そんなことから、対馬暖流は世界の情報を日本海に伝えてくるメッセンジャーであるという見方ができます。
 流入してきた対馬暖流は日本海のなかで枝分かれします。朝鮮半島沿いに上がっていくものと、偏西風が吹いていることで日本海側に支流がありますが、それと、日本海のまん中のところを上がっていくものと、だいたい大きく三つの分流に分かれています。そして、その分流のあいだに冷水域が形成されます。この冷水域は主として深いところにあります。冷水域と対馬暖流との境のところで海水が混合することによって非常に豊かな漁場を形成します。日本海がその意味でたいへん豊かな海であることがわかります。もう一つは、先ほど指摘されました日本海の流れが「海のシルクロード」となっていて、太古の昔から隣国どうしをつないでいく交通路であったという話が、伊東さんが主宰されました比較文明学会でのシンポジウムのなかでありました。これを引用させていただきます。
 一つは、江戸時代以前における日本海沿岸交通。二つは、江戸時代の日本海海運。これは北前船(→注12)の全盛期です。三つは、明治時代の交通近代化政策(→注13)と日本海交通の衰退。この三つのことで、歴史の活動空間が日本海から太平洋に移っていったということを、全体のなかの一つとして提示されております。
 最後に、対馬暖流の大きい力は熱を運んでいるということです。南にある低緯度の熱を1日に4千万キロワット分も運んできまして、環日本海地域、とくに日本列島に温和な海洋性気候をもたらしております。その結果として、冬場には降雪がありまして、北海道・東北ではいままさに雪のシーズンですが、これは邪魔者ではなくて、農作に水の恵みをもたらしてくれています。いま、都市部では水問題は深刻になりつつありますが、日本海側では、雪が降るかぎり水の問題はないのです。
 以上、簡単に日本海、環日本海地域の特色をふまえた自然環境の様子についてお話しました。

安田

 先ほど私は、日本海は「平和の海」と申し上げましたが、もうひとつ言えることは、日本海は「森の海」であるということです。日本海の局辺は深い森で、沿海州も日本列島も国土の67パーセントは森である。そこは地中海とは根本的に違うところですね。深い森が日本海の周辺に存在している。先ほど小泉さんがおっしゃったように、日本海にはたくさんの魚がいるという背景には、その豊かな森の栄養分が海に流れ込むということがある。これが、日本海の豊饒(ほうじょう)性をもたらしているもう一つの大きな要因です。その日本海の豊饒性をもたらす原因の基本は、小泉さんがおっしゃった対馬暖流にあると思います。
 日本海の大きな特色は、最終氷期が終わって対馬暖流が日本海に流れ込むようになった途端に積雪量が急激に多くなって、大陸的な気候とは根本的に異なる海洋的な風土が形成されたということです。これが日本列島に大きな影響をおよぽしています。
 小泉さんは具体的におっしゃいませんでしたが、いまから2万年ぐらい前は海面が100メートル以上低いわけですから、対馬暖流は日本海に入っていないわけです。その後、急激に海面が上昇してきて、対馬暖流が日本海に入りはじめるのはいつごろでしょうか。

小泉

 最終氷期が終わって、いちばん最初の徴候は1万数百年、本格的に入ってくるのは8千年ぐらい前ですね。

伊東

 B.P.(before the present=現在から…年前)ですね。つまり、いまから8千年ぐらい前ということですね。

小泉

 そうです。

安田

 それよりも前に、すでに南九州ぐらいまでは対馬海流の影響が来ているのでしょうか。

小泉

 そうです。

安田

 私は何を言いたいかというと、対馬暖流が入ることによって、冬の積雪量あるいは降水量が増大するということは、温帯の落葉広葉樹の森の生育に非常に適した環境が世界に先駆けてできるということなんです。対馬暖流の海面が急激に上昇して、日本海にちょっとでも影響を及ぽすと、日本列島の気候が変化して、ブナやナラの温帯の落葉広葉樹の森が生育する環境が世界に先駆けていち早くできるわけです。そのことが日本列島の文明の発展に根本的な大きな影響を及ぼしている。たとえば対岸の朝鮮半島や沿海州にはかならずしもそういう影響は及ばないのですが、とりわけ日本列島には対馬暖流が強く影響している。
 いまわかっていることは、暦年代で1万4千5百年前にたいへん大きな環境の変動があったことです。それ以前は氷河時代の気候で、トウヒ、モミ、ツガのような高山帯から冷温帯の針葉樹の疎林の森が広がっていたわけですが、1万4千5百年前に突然ブナ、ナラなどの温帯の落葉広葉樹の森が拡大していくのです。その背景にあるのは、対馬暖流がすでに近くにやってきていて、日本列島が海洋的な気候になりはじめたからではないか、と考えているわけです。
 1万4千5百年前に温帯の落葉広葉樹の森が拡大するというところは、世界広しといえども、いまのところ日本列島と西アジアのレバント地方だけです。西アジアのレバント地方でも、1万4千5百年ぐらい前に、落葉のナラ、ピスタチア、アーモンドなどの森が拡大してきます。それ以前は、アカザやヨモギの草原が広がっているわけです。この西アジアのレバント地方が、やはり氷河時代から後氷期(→注14)の移行期にもっとも早く森が拡大するところなのです。
 そこでいったい何が行われたか。もっとも早く森が拡大したところで、人類がもっとも早く定住革命をやっているわけです。森が拡大することによって、いままでは草原で狩猟・採集をして移動していた人間が、森の資源を利用することによって定住生活を始める。そして、定住を始めることによって縄文土器というものを使った生活を始める。だから、対馬暖流の流入でちょっと海面が上昇すれば日本の気候が温帯の落葉広葉樹の生育に適した海洋的な気候になる。そういう特色によって、日本の縄文文化は世界最古の土器を持つようになったのだろうと思います。
 では、同じように森が急激に拡大したレバント地方ではどうかというと、レバント地方でもやはり1万4千5百年前に定住革命が起こるわけですが、そこでは土器はつくらないで、むしろ農耕が引き起こされるようです。ですから、森が氷期から後氷期に大きく気候が変わるなかで、温帯の落葉広葉樹の森がいち早く拡大したところ、それが旧石器時代から新石器時代へと大きく人類史を塗り替える役割を果たしたパイオニア的な場所であって、その一つが日本列島なのです。その理由は日本海にあるとみなしてよいでしょう。日本海に対馬暖流がちょっと入れば、急激に日本列島の気候が温帯海洋的な気候になるということではないかと思われます。

小泉

 1万4千5百年前に非常に劇的な環境の変化があったのではないかというご指摘であります。残念ながら、日本海の海底堆積物のなかには、いま安田さんが言われたような1万4千5百年という非常に古い年代に対馬暖流が流入した証拠が見つかっておりません。安田さんも話されましたように、東シナ海あるいは太平洋でそういう徴候があって、それが大気のなかの湿潤さをもたらし、それが森林の形成に影響したという筋道のほうが、1万4千5百年を説明するには適していると思います。
 ご存知のように、海と大気とをくらべていった場合、運動性、伝播、熱容量等が千倍ぐらい違いますので、海流系の変動が出るまえに大気の変動があったのではないかということで、先ほどお話したように、海と陸との関係を調べるような段階に連しております。

安田

 ということは、いままで100メートル以上海面が低かったのが、50メートル、60メートルになって、対馬暖流が日本海に流入しなくても、海の環境が近づいてきたということによって日本列島が海洋的な環境になってきたということですか。

小泉

 ええ。どこかに熱がプールされていましてね。そういう意味で東シナ海あるいは南シナ海が日本海と連動していて非常に大事だということです。われわれの視点をもうすこし広げていかなければいけないということであります。

安田

 小泉さんがおっしゃったように、日本海に海底堆積物からはっきりと対馬暖流が流入したということがわかる8千年前というのは、まさにブナ林が日本列島の本州の北部まで一気に拡大する時期なんですね。対馬暖流が流入した時代が8千年前であって、しかもその時代、8千年から8千5百年前に世界的にたいへん大きな気候変動があったということもわかっているわけですね。だから、その時代が日本の海洋的な文明への第一歩がほぼ確立した時代であると言っていいだろうと思うのです。

小泉

 それでは大塚さん、日本海ないし環日本海地域での人類学的な特色についてご発言いただけますか。

大塚

 多少話がそれますが、時間軸で言いますと、日本海そのものの新たなる誕生ということで1万4千5百年という年代が出たわけです。その時期は奇しくも考古学でいうと細石器文化(→注15)と同時代なのです。これらの担い手はモンゴル高原などから押し出してきた人たちと思われるのです。それがアムール流域に達し、逆さ地図でいうと左手回り(時計の針の動く方向)でサハリン、北海道に入る。もう一方は西北九州を中心とした、たとえば福井洞穴遺跡(→注16)とか、そのあたりとほぼ年代的に平行し、日本列島全体が細石器文化圏に入るわけです。ですから、細石器文化の形成というのは、環日本海をつなぐ海を中心軸におきながら、陸と海峡を結ぶ円環状のルートの成立という点を問題にしておく必要があると思っているわけです。
 そういう流れのなかで、大ざっぱに言いますと、大きな激動期が日本海にやってくるのは「東アジア経済圏の成立」が一つの大きな時期であったろうと思います。さらに江戸時代のいわゆる北前交易の時期に蝦夷(えぞ)地・北蝦夷地、現在の北海道やサハリンでは大陸との山丹(さんたん)交易などが行われていた。
 山丹交易というのは、中国の浙江(せっこう)省周辺、要するに長江流域で出来た絹製品が北京や東北地方のほうにもたらされて、逆さ地図でいえば下がっていって、それがアムールのほうに流れていった。アムール下流域をアイヌはサンタンと呼んでいましたから、アイヌはそれを山丹地方からもたらされることからサンタチミプ山丹服と呼び、和人(わじん)社会はアイヌ(蝦夷人)から手に入れたから蝦夷錦(えぞにしき)と言うようになった。そういう錦の造、まさにシルクロードがあるわけです。
 同じような状況は、当時の琉球、沖縄のほうにも同時に起こっているわけです。12、3世紀、ちょうど、沖縄で王国ができるころですが、北海道のアイヌ世界(アイヌモシリ)でチャシ(砦)がつくられたり、沖縄でグスク(城)がつくられたりする。そういう同じような状況のもとに、ある意味で首長制社会といえるものが、両方に生まれてくる。
 しかし、それが「国家」という形成までにはいたらなかったというのがアイヌ側です。琉球王朝は明確に中世から近世において強力な国家的様相を持つわけですが、両者の権力構造の段階と発展のテンポというものが違います。アイヌ側はどちらかというと北方系であり、成熟した採集民ですが、寒冷地であり、冬を越すことで食糧の備蓄が必要であり、寒冷地におけるとか生産手段の面でやはり弱さというものがあろうかと思うのです。そういう両者の大きな違いがあったのです。
 私が言いたいことは、先はども述べましたが、元から明にかけての時期13~14世紀を中心に、いわゆる東アジア世界、中国を軸とした商品経済圏のなかで、それぞれの地域集団で存在した人たちが民族的なかたちでまとまりをもってきた。それぞれが交易によって経済力をもち、自らの利益を守るために武装化までもした。たとえば樺太アイヌは元の軍隊とアムール下流域で戦ってさえいます。これはアイヌが樺太全域を制覇した時期があったことを意味する。アムールのそれぞれの地域の先住・小数民族も占有の地域や小集団のまとまりを拡張したり縮小したり、少数民族といえども、かなりの力を待ったり弱体化したりということの繰り返しをしている。そういう伸び縮みのありようというものが、環日本海地域諸民族の興亡のありようが、歴史的な文化的色どりをおもしろくしているわけです。
 このへんは関連諸科学の力を借りて、もっと立体的に浮かび上がらせることができるのではないかと思っています。そういう意味で大いに期待しているわけです。

小泉

 ありがとうございました。環日本海地域、とくに中国における商業化に伴う日本海とのかかわりにおける海のシルクロードが南と北に首長制社会を同時に形成したが、それが国家形成にまで至ったか否かについてお話されました。それでは、伊東さんには日本海文明交流圏の歴史的展望というか、あるいは時間を通しての変質みたいなことをお話いただければ、日本海ないしは環日本海地域の特色、歴史的な変遷が見えてくるのではないか。あるいはわれわれにそれが見えていないとすれば、どういうやり方をして、それを見えるようにしていくか。伊東さんは、歴史学はこれまで陸域だけで、海からの視点を欠いていたということを問題として指摘されていましたが、それでは具体的にどうすればよろしいのかということもお話しいただければと思います。

伊東

 日本海文明交流圈ということは、もちろん何の根拠もなく言っているわけではないのです。それには交流の事実があるんです。だけど、それをいろいろな人が断片的に研究しているだけでした。私はそれをもうすこし統合して考えてみる必要があるのではないかということで、私自身が興味あるトピック(話題)をいくつかあげて、『比較文明』の11巻、「日本海文明交流圈」のなかで述べています。
 時間的な順序でいうと、まずおもしろいなと思ったのは、けつ状耳飾りというのがあるでしょう。これの分布を藤田富士夫さんが研究されて、『古代の日本海文化』のなかでも述べておられますが、それが富山あたりを中心として沢山発見されているんですね。たとえば極楽寺遺跡とか明石(あげし)A遺跡とか、富山県から石川県にかけてずっと分布している。それはだんだん広がっていくのですが、その起源をたどると、なんと、これはもとが中国江南の河姆渡(かぼと、→注17)なのです。B.P.6千年前に、そこでけつ状耳飾りが使われていたのです。
 それは中国のいろいろなところに伝播(でんぱ)するけれど、いちばん早く日本へやってきた。いまから5千年前後(縄文時代中期)のところで、ここ北陸までやってきたわけです。中国各地へはB.P.4千年以後です。だから、中国各地への伝播よりも早く日本の富山県のほうにけつ状耳飾りが伝播してしまったのはすごい。これはかなり精細な研究がなされて、地図の分布などは藤田さんのご本に出ています。非常におもしろいと思う。
 そして、これはけつ状耳飾りだけではないのです。中国の安志敏(アンシーミン、→注18)という人が言っているように、いろいろなものが東シナ海と日本海を通してやってきた。安田さんがご専門の鳥浜貝塚の漆や高床式の建築も同じルートではないかと言われている。そういうようなことが一つあります。
 次におもしろいなと思ったのは、四隅突出型方墳(よすみとっしゅつがたほうふん)というお墓がありますね。これも藤田さんたちが調査したら、富山県だけでなく出雲のほうで出たのですが、四十基ぐらい出てきたそうです。どうして日本海側だけにできているのかが不思議なのですが、全浩天(チョンファチョン、→注19)という朝鮮の研究室がこうした古墳を研究していますが、さかのぼっていくと、鴨緑江(おうりょくこう)の中流にその起源がありそうだということがわかってきたようです。
 これは森浩一さん(同志社大学名誉教授)なども興味をもってやっておられますが、もっともっと研究されなければいけない。こういう点では北朝鮮の学者、韓国の学者、中国の学者が共同研究をして、ディスカッションをしなければいけないですね。日本人だけで納得する日本史、これは絶対やめなければいけない。近隣諸国の人々も納得する歴史でなければいけない。日本人だけで抱き合ってバンザイしているようではいけない。それだから、考古学の捏造(ねつぞう)まで出るんです。もっとほかのところの人を入れた共同研究をやるべきなんです。日本だけでなく、日本の周辺の人も納得するような研究をする。そのほうが日本史もずっとおもしろいじゃないですか。
 もうひとつだけあげれば巨木大型建造物です。これも日本海沿岸で非常にユニークなものではないですか。ただこれも今のところバラバラですね。秋田県の杉沢台、富山県の不動堂、能登半島の真脇、金沢近くのチカモリ遺跡などから巨木大型建造物が出ている。そして、これは結局出雲大社にまで結びついていくのでしょう。出雲大社のは現在のものよりずっと大きかった。大きかったどころじゃなく、空中神殿じゃないかといわれているが、あれはすごい柱で支えなければいけない。これらは一連の日本海的現象として相互連関的に研究してみたらいい。時代はもちろん違うが、三内丸山から始まって点々とあるわけです。
 これは朝鮮の学者によると、朝鮮半島では見られない。では、どうして日本海沿岸にすごい大木を使った、巨大な建造物が造られたのか。そこにはどのような気候的、社会的、あるいは宗教的要因があったのか。これは相互に連関している現象だと思います。そういうような研究の機運も日本海学が始めていいんじやないですか。いままで別々にやっていたわけですが、私から見ると、なにかそこに共通性があるな。おもしろい日本海的連関性がある。
 これは何も富山県のことだけではないということになります。秋田県もあれば、石川県のほうにもあるわけです。それらを通して日本海沿岸のおもしろい現象が出てくるのではないかと思う。その他、神祇(じんぎ)信仰、朝鮮の神様との関係、嫁入り婚の習俗など、日本独特だと思われていたものが沿海州のほうにあったとか、そういう研究もあるわけです。
 そういう開かれた研究テーマというものを設定すれば、これからどんどん伸びていくと思います。しかも、それが今まではバラバラにやられていた。それはそれで進めていいし、それぞれの特色もあるでしょう。しかし、それをつなげて関連させて観察し、考察してみるということが、日本海学というのだったら、あってもいいのではないかと思うのです。
 日本海文明交流圈の具体相を相互連関的に考える。そうすると、これは中国・朝鮮との関係、あるいは沿海州との関係というものが、重要なものになってあぶりだされてくるに違いない。これはおもしろい未来があるのではないか。これは、日本海文明交流圈の研究というのが、国際的でなければいけないということにもなります。

小泉

 伊東さんには、時空的な、あるいは時空を超えたさまざまな事象、ないしは時点における相互連関の大切さをご指摘いただきました。これは富山県の県庁の人たちが強調されている日本海、あるいは日本海域における循環とか共生の体制につながってくることだと思います。

安田

 一つ、地図を見ながら思ったのですが、大陸の文明が繁栄したところと日本列島との関係を見たとき、もちろんいちばん近いのは朝鮮半島と北九州ですね。北緯40度よりも北はあまり文明が繁栄しないわけですが、北でもっとも近いのが東北地方の北部と沿海州。それから、もう一つは揚子江(ようすこう、長江)の下流と南九州ですね。意外に近いですね。いままでわれわれは太平洋側から見ていたから距離が遠いと思っていたけれども、こういうふうに日本海側から逆さにして見ると、ものすごく近いということがわかる。だから、先ほど伊東さんが、河姆渡遺跡と鳥浜貝塚に深い関係があるとおっしゃったが、古代の人々には船を使って移動できる範囲だったと思います。
 日本列島と大陸との3つの近接ルートは、第1が河姆渡から直接南九州へ来るルート、第2が朝鮮半島から北九州と日本海沿岸に来るルート、第3が沿海州から東北地方北部へ来るルートです。

伊東

 そう。沿海州を考えなければいけない。そこはまだ非常に不十分です。これはやはり考えなければいけないですね。

3 新世紀に期待される「日本海学」

小泉

 では、最後の3つ目の柱に移りたいと思います。「新世紀に期待される日本海学」ということで、これから先における日本海学のあり方について、みなさんのご希望をうかがいたいと思います。最初に私から簡単に述べさせていただきます。
 先ほど安田さんが、争いのないおだやかな内海として日本海をとらえる視点を述べられました。ということは、荒々しい外海、たとえば日本海に対して太平洋のようなものが対峙的にあると思います。いま、3番目の未来志向の大きいことを考えようとしていますが、私たち人間だけでなく、いま陸上にすんでいる生物はみんな海から上陸してきました。血液や、赤ん坊がお母さんのおなかの中にいたときの羊水は海水の成分と同じです。生理的食塩水というのは約0.9パーセントの食塩を含む水で、体液と同じ浸透圧をもちます。そういう背景があるものですから、私たちは海に対するあこがれみたいなものを無意識に待っている。その海というのは、けっして外海の荒々しい海ではなく、内海のおだやかな海が私たちの生命が陸上に上陸してきた場所であったはずです。そのことが私たちの脳裏に刻み込まれていて、たとえば夏休みに海水浴に行く。山に行く人もいますが、リゾートには海に行く人が圧倒的に多い。お正月、冬場になると禊(みそぎ)という行為があります。あれは海水を頭からかぶったりして汚れを流すわけですが、そういったことにも海に対する思いが込められているわけです。
 そこで私は、海と陸とをつなぐ渚(なぎさ)の部分を大事にして保存していかないといけないと思うのです。いままで、その部分をコンクリートで固めたり消波ブロックを置いたりしてきましたね。それはまずいことなので、そういうことをやらないようにしたい。昔は松林があったはずです。その松林を復活させたり、渚を復活させる必要があるのではないかと思います。
 そして、伊東さんが先ほどちょっとお話しになっていましたが、環境問題とのかかわりです。中央と地方との関係が環境問題を境にしてなくなったのではないかと思います。環境問題というのは、環境問題があるその場所が問題の場所なんですね。あらゆる環境問題はそこから始るので中央と地方との違いがないということです。いま、中央から地方に行政が移りつつあります。そして、21世紀はライフスタイルを豊かにしよう、生きがい、充実した生活のあり方というところにウエートが移ってきています。ガリガリ働いているばかりでなく、生活圏のアイデンティティ(主体性、独自性)みたいなものを充実させていこう。それには教育、スポーツ、文化が関与してきているんだと思います。
 大塚さんが研究されたり、関心を持たれていることで、これから日本海学にかかわっていくことで、こういうことをやっていかなければいけないのではないか、というようなメッセージを述べていただければと思います。

大塚

 一つは、日本海というものの持っている水域の利用です。それは海の道としての利用があるわけですが、もっとたいせつなことは、魚をはじめとする、マンガン鉱とか深層水とか何でもいいのですが、いわゆる海岸資源です。沿岸諸国がその資源をどうやって分かち合うかという問題です。とくに、日本海を再生産させ、豊かに常に豊富な海産物を持続的に保証しているのは、むしろ開発されていない陸地が、自然のままの森が陸地にある地域です。問題は、そこに現在でも先住民が生活しているわけです。国家と先住民とのこれからの関係ですが、現代において鋭く利害が対立してきており、強大な国家権力を横暴に行使すれば、先住民とその豊かな資源の大地はいっぺんに吹き飛んでしまうわけです。
 地球も終わりが来るかもしれませんので未来永劫(えいごう)とは言えないかもしれませんが、ある意味で永久にわれわれ人間と自然との関係を保っていくには、民族の問題と国家の関係、資源の共有化、経済戦略だけでなく文化戦略をどうするのかということを、沿岸諸国がこれから真剣に考えていかなくてはならない時代に来ているのではないかと思います。
 多様な先住民が現在でも居住している沿海州やサハリンは、いまでもサケ・マスが遡上する清らかな場所です。豊かな海と陸を持っている先住民の世界があります。珍しいからといって、そういう先住民文化を残すというのではなく、日本海沿岸に生きる人々が運命共同体として、国家と先住民の利害のバランスをどうはかっていくかが、これからいちばん問われるのではないかと思っています。

伊東

 私は日本海学の未来ということでいうと、まず言いたいのは「日本史の解放」(emancipation)であり開放です。日本史も日本というものだけに閉じ込めてやってきたが、これを国際的に開放しようということです。文明交流のダイナミズムを明らかにすることによって、「北東アジア共生の意識」がおのずと育つのではないかと思う。お互いに負うところが多いということがますます明らかになることによって、日本文明の本当の意味でのアジアにおける位置づけというものもはっきりしてくる。これの持つ意味は大きい。他のアジア諸国とこれからどういうような交流をしていくか。そして、その関係を健やかなものにしていくためには、こうした研究を推し進めることだと思います。
 これは日本海だけではないんだけれども、日本海に限っていえば、それによって北東アジアの共生の意識というものがおのずと育つだろう。歴史的に、民族学的に、考古学的に、過去・現在・未来を含んで、よりよい関係をつくっていくことができるだろうと思います。
 いま「国際的に開く」と言いましたが、中国やロシア、とくに朝鮮・韓国の人たちといっしょにやらなければいけない。こういうふうにして開放していく。
 この場合、「日本海」という名称も問題になるかもしれません。私はこのことをじゆうぶん意識していますが、それはちょっとおいておくことにして、仮に「日本海」ということで進めることにして、これは日本だけの海だという意味を持たないということを確認したうえで使います。日本史の開放の第2は、中央からの開放です。
 いままでの日本史は日本国家の歴史です。ヤマトの政権ができて、それがどんなふうにほかのところに支配したかということをいろいろ書いている。だけど、歴史的遺産とは何かということを考えたときに、すごく重要なものを落としていると思う。アイヌや沖縄のこともそうだ。いま地方史というものが盛んになっているが、それはそういうことだと思うんです。
 国家史としての歴史というのは19世紀の産物で、私の予想だと21世紀にはまずまずあまり重要ではなくなるのではないか。いつまでもこんなことばかりやっていたら自分の国も世界のなかで、もたなくなりますよ。国際的に開くと同時に、中央からでなくて地方そのもの、その土地その土地の特徴に注目していく。そして、そこの住民の立場に立って考えていくという歴史がなければならないですよ。今まではそれが中央に吸い込まれるかぎりにおいて、歴史を記述していたんじゃないですか。それでは事実の一片だけがわかるだけにとどまります。
 そうすると、これは小泉さんが言われた環境問題とも結びつくと思います。環境問題は地域住民の問題です。中央の連中はわかっちゃいないし、これからわからなければいけないんだけれど。これまでは日本列島改造論(→注20)みたいな、上からの強引な手法でやってきて、そのためにいろいろな弊害が起こっているわけでしょう。だから、地域住民の立場に立ったものでなければいけない。いま大塚さんが生活圏と言われたが、そこに基盤をおいてやっていかなければいけない。そういう中央からの「開放」がもう一つ必要だろう。そして、それは環境問題と結びついていく。
 それと同時に、もう一つは大塚さんが取り上げられた先住民の問題です。これも大きな問題で、アイヌ、沖縄だけではないと思う。日本海周辺には先住民的なものが残る可能性が大きかったと思う。そこは中央から離れていても、中央から支配される関係にあったところなので、そういうものが日本海周辺を通じてずっとあった。中央の立場ではなくて、地域の立場に立って見たら、日本海地域にはこれから据り起こしていくことがたくさんある。それが日本海学の未来ではないだろうか。そういう意味でこれはおもしろい問題を提起しています。
 では、安田さんにまとめてもらいましょう。

安田

 いま、伊東さんのお話をうかがっていて思いついたのですが、ぼくは日本海は「平和の海」であって「森の海」だと言いました。なぜ森の海であったかというと、それは日本海が平和の海であったからだと思うんです。地中海はかつては深い森に囲まれていた海だった。それなのに、なぜ森がなくなったか。ギリシャ、ローマが戦争をして、大量の木材を船に使っていったからです。つまり、かならずしも地中海というのは平和の海ではなかった。
 ところが、日本海は縄文時代以来、きわめて長いあいだ平和の海であった。だから、森が維持された。それは偶然のことだといままでわれわれは思っていたのですが、そうではない。日本海を取り巻く地域に住んでいる人々の生活のあり方、ものの考え方が、森、自然と共存するというディシプリン(規律、作法)をどこかに持っていた。だから森が残った。戦争を回避するという知恵を持っていたというように、もういちど見直す必要があるだろうと思うのです。
 いままでは、生活の貧しい先住民が住んでいたから日本海の周辺に森が残った、地中海は文明が発展しているから森がなくなったんだという見方だったのだけれど、そうではなくて、日本海が森の海であったということの背景には、日本海周辺に住んでいる人々が、森を破壊しつくさない哲学を持ち、森と共存するライフスタイルを長いあいだ維持してきたからではないでしょうか。そして、森や自然を破壊しつくすようなことに対する、ある種の欲望のコントロールのようなものを持っていた。だから、日本海が森の海でありつづけたということができるのではないかと思うのです。
 そういう視点で見ると、伊東さんがおっしゃるように日本海文明交流圈というものは、じつは新しい文明の発見なのです。いままでは日本海の周辺にいる先住民、あるいは縄文が文明を持っていたとは思わなかった。われわれが言っている文明というのは地中海文明で、これが文明の典型でした。しかし、それは地中海沿岸の森を徹底的に破壊しつくしてしまった。そして、荒野に変えた。ところが、日本海周辺には森を破壊しつくさない、地中海文明とはまったく違う文明があったのではないでしょうか。それが日本海文明ではなかったかと思うのです。
 だから、これから日本海の研究会をやっていくことで、いままでわれわれが文明だと思っていたものとは違う、新しい文明の発見というものが21世紀にあるかもしれない。

伊東

 なるほど。おもしろいなあ。私は日本海は地中海に似ていると言ったけれど、それは日本海を地中海ダッシュにしようということでは全然ない。日本海文明のユニークさというものを地中海文明をおいてみることによってあぶりだしていくということもあると思う。安田さんはそういう点で非常に貴重な発言をされています。私もそういうふうに考えていきたい。とくに森の問題、森と人類との将来の関係、こういうものも含めた新しい文明の形成ということも視野に入れていいのではないかと思います。

小泉

 おっしゃる通りですね。この次は、地中海と日本海との文明、あるいは環境という、まったく違う二つの地域での人間とのかかわりについてのシンポジウムを催したいと思います。
 本日はありがとうございました。

 

注1 地震や火山の噴火、造山運動などの原因・メカニズムをプレートの水平運動で説明する理論。プレートは地球の表層部をおおう厚く硬い板で、一枚の厚さは約100キロメートル、これが何枚もおおっている。各プレートは違う方向へ動いているために、プレートの境界で離れたり衝突したりずれたりして、その結果、海嶺(かいれい)や地溝帯、海溝、山脈などの地形ができる。

注2 紀元前1100年ごろ、もっとも遅くギリシャ半島に入ってきた古代ギリシャ人の一派のこと。ペロポネソス半島に侵入して定住、先に栄えていたミケーネ文明を滅ぼした。

注3 鎌倉時代中期の元(蒙古、もうこ)の日本襲来のこと。文永の役(ぶんえいのえき、1274年)と弘安の役(こうあんのえき、1281年)の二度にわたったが、襲来した船団が嵐で壊滅状態になるなどしていずれも失敗に終わった。

注4 鳥居龍蔵(1870~1953年)は徳島市生まれ。独学で考古・民族・人類・史学にわたる諸領域を開拓、生涯国内外の研究を続ける。明治・大正年間に、満州、台湾、千島列島、西南中国、東部蒙古、樺太、東部シベリア、朝鮮などへ何度も調査旅行をしている。

注5 菅江真澄(1754?~1829年)は三河(愛知県)生まれ。国文学者であり紀行家。1783年(天明3)、東北から蝦夷地(北海道)へ渡って3年間行脚(あんぎゃ)、その後、弘前(ひろさき)藩を経て秋田藩に身をおき、永住。江戸後期の東北の歴史や地理を克明に記録して浮き彫りにした。

注6 倭館は日本からの使客接待のために朝鮮に設けられた施設。室町時代には三浦(富山浦(ふざんぽ)、薺浦(せいほ)、塩浦(えんぽ))にあったが、江戸時代には富山浦(現在の釜山)のみになる。幕府から日朝貿易の独占権を認められた対馬藩からの代官が派遣されて貿易を行った。

注7 対外交易の窓口として幕府より公認された長崎のほか、対馬、琉球、そして北方に秘かに開かれた蝦夷の四つの交易ルートが存在した。

注8 ラルフ・リントン(1893~1953年)。アメリカの文化人類学者。北米大陸で先史考古学のフィールドワークを、太平洋の島やマダガスカルで民族学的なフィールドワークを行い、ヨーロッパ圏外の諸文化の研究で多くの重要な貢献をする。また、多岐に分かれがちな文化人類学を総合化する努力もした。

注9 セム語やハム語を使う民族のこと。前者はバビロニア人・アッシリア人・フェニキア人・ヘブライ人、後者はエジプト人・エチオピア人などが属し、エジプト・メソポタミア文化をはじめとする古代オリエント文化の担い手となった。

注10 フェルナルド・ブローデル(1902~1985年)。フランスに生まれ、第二次世界大戦中、ドイツの捕虜収容キャンプにいたとき、記憶をもとに『フェリペニ世下の地中海と地中海世界』を書きおろし、戦後出版してフランスの歴史学に大きな影響を与えた。人文地理学や社会諸科学の成果を取り入れた総合的な歴史の把握をめざした。

注11 アイヌの口承文学の一つで、ユーカラと記されてきたが正しくない。文字をもたなかったアイヌは口承によって叙事詩や物語を伝え残してきた。なかでも超人的な力をもつ少年の冒険を物語る英雄叙事詩がユカラを代表するものとして知られている。長いものでは語り終えるのに一昼夜もかかる。

注12 近世から明治の中ごろにかけて、大坂から瀬戸内海をぬけて日本海沿いに蝦夷地(北海道)を結ぶ海運で活躍した船。北を前にして進むから、北国松前(まつまえ)の略、北回りの略などの諸説がある。春の彼岸のころ大坂を出発、各港に寄港していろいろな物を買いながら北上。蝦夷地でそれらを売り、帰りは蝦夷地で買った産物を各地で売りさばき、11~12月ごろ大坂に戻った。

注13 江戸時代には、大量の荷物を運ぶのための河川や海上航路を利用した水上交通が盛んだったが、明治以降は鉄道を中心とする陸上交通に切り替えられた。

注14 地球の歴史では、人類が活躍する第四紀(いまから約160万年前から始まる)は氷河が存在する氷河時代にあたる。氷河の規模は時代によって違い、現在よりも寒冷で広く氷河が発達する時代を氷期、温暖で氷河が縮小する時代を間氷期という。現在は間氷期にあたり、先の氷期が終わった後の時代なので後氷期ともいう。一般には氷河時代という用語は氷期のこととして使われている。

注15 約1万2千年前から世界のほとんどの地域に分布。細石器は長さ3~5センチ以下の小さな各種の石器組成。木や骨製の柄の縁側に溝を込み、そこに複数の細かい石刃を装着して刃部として使用、欠けたりするとその部分の石器を取り替えて使った。シベリアから環北太平洋地域には、石刃を著しく小型にした細石刃が分布する。

注16 長崎県吉井町にあり、日本でもっとも古いタイプに属す土器が細石器とともに発見されている。また、ここでは、円盤状に整形された中央に孔のあいた土器片が出土している。

注17 河姆渡遺跡は中国の浙江省にあり、1973~78年に発掘調査が行われ、ここの最下層からけつが出土、またその上の層からは、大量の稲籾(いなもみ)や稲作農具が出土している。放射性炭素測定では、これらはいまから7干~6千年前のものと推定されている。

注18 安志敏は、東シナ海を通じた先史時代の中国と日本の関係を論じている。すなわち河姆渡やそれに続く長江下流の文化が日本の先史時代に影響を与え、縄文時代のけつ状耳飾りや漆器、また稲作、高床式建築などの文化は、長江下流域に起源があるとしている。

注19 全浩天は、山陰地方の四隅突出形方墳の源流を朝鮮民主主義人民共和国と中国の国境を流れる鴨緑江中流域にある高句麗の積石塚に求めている。要旨は『朝鮮から見た古代日本』未来社、(1989年)を参照。積石塚にあるを貼石(はりいし)が四隅突出形方墳のまわりにもあり、四角い外形も似ているという。

注20 高度成長時代の末期(1970年代初め)、自民党の田中角栄が打ち出した国家政策。当時、欧米諸国との経済摩擦と自由化で行き詰まった日本経済を活性化するために、国家資金で行う大規模な建設事業を地方に誘致する主張。