日本海学研究機関等連携事業

利賀サマー・アーツ・プログラム 2002


2002年8月23日(金)
利賀村 瞑想の郷

講師 神奈川大学教授
佐野 賢治

あの世への架け橋-アジア諸民族の他界観-


(司会)私の後ろにある日本地図を見ていただきますと、通常我々が小学校のころから習ってきている世界の地図は、日本列島が右肩上がりになっていて、それを見て日本は島国だなというのが第一の印象で、かなり固定観念的に私も含めて残っているわけですが、この地図を見ていただくと、逆さまにして地図をかいております。環日本海諸国図となっていますが、我々は通称では逆さ地図とよんで、富山県から全国、あるいは世界に、今発信をしているところです。これを見ていただくと、真ん中に日本海があって、日本は確かに島国なのですが、この日本と韓国、中国、ロシア、あるいはモンゴルといった国々が、この日本海を取り巻くようなかたちになっていて、日本海があたかも1つの湖のように見えます。
 その日本海学は、学問としては、まさに今、東京大学を含め、さまざまな方々に研究をしていただいているところです。今日の佐野先生のお話にも密接に関連する部分として、この日本海を中心にした関係した諸国にはそれぞれの歴史や文化が各地域にあって、その中には先生のご専門である民俗というものもあろうかと思いますが、その中で、さまざまな人と人との交流が行われてきたり、あるいはそれぞれの地域での文化が蓄積してきているということです。この日本海学というのも、この地図を頭にしながら、いろいろな交流をしていこうということで考えているものでございます。
 話が長くなりますので、先生のご講演に移りたいと思いますが、今日は、本当に筑波の方からお忙しい中来ていただいた佐野先生、あるいは演劇人会議の斉藤さんをはじめ、今日の講演を設けられましたことを感謝したいと思います。
 それでは、先生の講演に移らせていただきたいと思います。

1 「お前は橋の下から拾われてきた」

 今日は、あの世への架け橋ということで、橋のことについて話をしようと思います。皆さん、子どもの頃に「お前は橋の下から拾ってきたんだよ」と言われたことがありますか。すみませんが、自身がそう言われたり、兄弟が言われたりしたことがある人、手を挙げてみてください。
 ざっと見わたして、大体4分の3ぐらいの人が、言われたことがある。「お前は橋の下から拾ってきたんだよ」ということには、民俗学的にみて2つの意味があります。子どもがどこから生まれたきたのかと説明を求められたとき、日本の親たちがこう答えようと打ち合わせをしたたわけではないのですから、これは民俗的な問題なのです。そうではなく精神分析学的に、人間が生まれてくるとき、つまり、お産というのは破水から始まり、お母さんの産道を通って出てくる。羊水とともに流れ出る。それが深層意識として、頭に底にこびりついていると考える人もいます。
 その1つは、民俗学でいう水神少童ということ、水の神と子どもの関係です。川と子どもというのは深い関係があります。一番よい例が河童です。河童は水の精霊を子どもの姿でイメージしたものです。日本の昔話に登場する水神少童、桃太郎、瓜子姫、一寸法師などは流れに乗って現れる。そして、大人になって神通力、大きな呪力を発揮する。柳田国男も石田英一郎も、それぞれ『桃太郎の誕生』、『桃太郎の母』を書いているように、この問題は、ユーラシア大陸全体に分布する母子神信仰に通じる広い奥行きがあります。
 第二の意味は、「お前は俺の子どもではないのだ」という子育ての問題に関連してきます。大体10歳ぐらいの自我が形成され始めるころに「お前は俺の子どもではない」と親に突き放されたいい方をされるのですから、すごいショックを受けるわけです。
 実は私も言われたことがありました。私は兄弟3人ですが、私だけ髪がひどい天然パーマです。そして、どうもアルバムの写真も少ないように思えた。両親は、本当は実の親ではないのではないかとの疑念がわいたものです。人の成長の過程には、親と子が離れる、親離れ子離れの時期が必ずあります。「お前は橋の下から拾ってきた」という言い方は、その民俗的表現と考えられます。ですから大人になってもその強烈な記憶はずっと残るわけです。そのようなことで、「お前は橋の下から拾われてきたんだ」という伝承には、大きくみて二つの意味が込められているわけです。
 それから皆さん演劇人にも橋は大いに関係します。日本の川の風景は、川と橋と河原から成り立っています。豊かな河原の発達は大陸の川とは違った風景をはぐくんでいます。川・橋・河原は少し難しく言うと境界性・両義性を示します。つまり、2つのものを分けると同時に、2つのものを兼ねそなえる、あるいはどっちでもないという性格です。芸能民は河原者とも呼ばれました。荘園から逃げ出した人たちが、領主の手が及ばない河原に住む。芸能の一つの起源としても、川・橋・河原は大事な要素です。時間がありましたらそのことについてもお話しします。

2 苗族と橋-橋を渡ってくる子ども-

 「お前は橋の下から拾われてきたのだ」という民俗が実際に生きている場所があるのです。それは中国の貴州省黔東南地方の苗族です。
 苗族の文化は、日本の縄文文化から弥生文化への展開を考えるときに、照葉樹林文化の一例として注目されました。歌垣を思わせる男女の対歌が行われたり、なれずしを作ったり、食べたりするので親近感がわくわけです。話がそれますが、以前は苗族は「猫」という字で表記されました。その言葉が漢民族にはミャオミャオ、猫の鳴き声のように聞こえたからです。それが人偏「」人並みになって、今は「苗」と書きます。瑶(ヤオ)族も以前は、それからになって、今は王偏です。中華思想です。ギリシアなどと同じです。自分たち漢民族だけは人語を解し、周辺に住む人たちは獣だとの考えです。
 日本を表す「倭」は、かなり古いころから人偏がついています。人扱いです。これは中国の地方志の書き方からすると、ある意味では特別扱いです。漢書では「委」だけです。小人を表す、矮小の「矮」です。中華思想では、周りの自分たちの文化と同じではない文化には、最もひどい、最も汚い漢字をあてるのです。「蒙古」は、啓蒙する、暗くて頑迷を意味する「蒙」ですね。福建地方に住む人々は蛇を表す越と記されました。
 苗族は集住・集居しています。漢民族に追われて、山地に住むようになり、防御のために集まって砦のように集住したといわれます。私たちの訪ねた黔東南地方の苗族の村の入り口は、必ず楓香樹と橋と土地神の祠が3点セットになっていました。橋は村の入り口でもあるし、村の談合の場所、話し合いの場所でもある。橋には屋根がかかっています。日本でも神橋の中には、屋根がかかっている橋があります。屋根がかかっているということは、通り過ぎる場所ではなくて、そこで客迎えをしたり、話し合いをしたりするためなのです。通過点ではないということです。これは橋の大事な機能です。
 また、この地方の苗族の村では、各テラスごとに家が建っていますが、同じテラスは共通の先祖を持つ氏族の家です。先祖を共通する人たちは同じテラスに住み同じ井戸を使うことになっているのです。民俗学者の福田アジオさんと一緒に登魯村という山村を訪れました。この村を初めて訪れる外人ということで、村人がみな期待して待っていたそうです。私は前の日にものすごくお酒を飲み酔ぱらった勢いで行ったので、いつ着いたのかもわからなかったくらいです。子どもたちは、木や屋根に登って、どんな人が来るのかと待ちかねていたのです。それが自分たちと顔も変わらないし、外人といっても興ざめしたでしょう。恐縮しました。ともかく、客人が来たときには村の入り口の橋に迎えに出るわけです。お酒をついで、そして歓迎の歌のやり取りをして、酒杯を干してから村に入ります。 この橋はさらに特別の意味があります。この橋の上で神人合議するのです。村の重要な決め事は、この橋上で村の長老だけではなく、近くの先祖の森からご先祖様もやって来て会議に参加するのです。文字通り神人合議して、神さまと人が一緒に決めた決まりを、「郷規民約」として橋上に掲げ、神に誓って守るわけです。


図1 苗族の村内に見られる先祖の橋

図2 苗族 堂屋の入り口に埋め込まれた木橋

 この地方では、「子どもはあの世から7つの橋を渡って来る」と言い、橋を架けるから子どもを授かるのだと、伝承ではなく今でも強く信じています。それぞれの家に「先祖がかけてくれた橋」と呼ばれる橋があります。村中、人通りの多いところに木や石を組んで橋を架けます【図1】。石や木の数が奇数であるのは、まだ願いがかなっていません。願いがかなうと、これを4本など偶数にするのです。下に水流がなくても、道だとか畔などどこにでも架けます。ですから、村中、橋だらけなのです。また、父親の名を男子につける、父子連名制に見られるように、父系の意識が非常に強いですから、男の子が生まれないと困る。男の子が生まれないと家が絶えてしまうので、男の子のいない家では、特に鬼師というシャーマンを頼んで求子儀礼を行います。人通りが多い玄関に杉の木を3本束ねて、橋にみたて埋めます【図2】。中国は一人っ子政策をとっていますが、少数民族には優遇政策があるとはいえ、私の行った村では、男の子が生まれるまで、求子儀礼が行われていました。7人目にしてようやく男の子が生まれたといって大変喜んでいる母親がいました。本当は違反です。
 今、経済成長下にある中国では、貧富の差が大きく問題になっています。私の調査した苗族の村の例では、ねたみで成金の家の橋を外してしまう事件が起きていました。そうすると、子どもが生まれず、その家は絶えてしまうわけです。農暦2月2日の敬橋節という祭も含めて、橋が、他界観・祖先観などに関係して象徴的に登場しているのです。あの世から子どもがこの世に橋を渡ってやってくる。日本ではその伝承だけは残っているわけですが、実際に行われているのが苗族の村なのです。
 この世とあの世、あるいは男と女、夜と昼、このように2つに世界が分けられ、その境界が意識されるときに、よく川がその象徴として使われます。そして、その川に架けられた橋に込められた意味を見ていくと、それぞれの民族の他界観・霊魂観・世界観が集約的に表出していることに気がつきます。

3 山中他界観-死んだら山に行く-

 皆さん、眠たそうですから、ここで眠気覚ましに「死んだらどこに行きますか」と質問します。(返答省略)死んだらどこに行くのかあまり明確に意識されていないというのが皆さんの答えで、全く考えたことがないという人もいます。死んだらどこに行って、どういう生活をするのかということを、ふだん我々現代人は考えていない。しかし、かつてのムラ人、民俗社会ではそうではなかったのです。死んだらどこに行くのか、どういう生活をするのかイメージできたわけです。
 例えば、下北半島の恐山です。7月20日から24日まで恐山大祭が行われ、イタコという巫女、つまりあの世とこの世を取り結ぶことができるシャーマンが仏降ろし、死者の霊を呼び、対話をします。その背景に、下北半島の人たちは、死んだら霊魂はタナブ(恐山)に行くという信仰があるわけです。今でも80歳以上のおじいちゃん、おばあちゃんは、「昨日恐山まで松明行列が出ていた」、「昨日そういえば、どこそこのおじいさんが亡くなった。あの松明はじいさんが山に登っていった行列だったのだな」という言い方をします。日本人の他界観は、海上他界観(ニライカナイ)といわれる水平的な考え方が沖縄地方にはありますが、山中他界観といえます。霊魂は死んだら山に行くわけです。
 いくつか有名な霊山を紹介しましょう。芭蕉の句で有名な山寺、立石寺があります。由緒ある寺院です。山形県の村山地方の人たちは死んだら霊は山寺に行くといいます。それで歯骨、頭髪、爪などを、親族が山寺に持って行き納めます。特徴的なのは、ムカサリ絵馬です。ムカサリというのは結婚式、嫁入り、嫁迎えのことです。つまり結婚しないで死んでいった若者、中でも先の大戦での戦死者が多いのですが、その結婚式の場面を描いた絵馬です。結婚できる資格があるのに結婚しないで死ぬということはこの世に未練を残すことです。なぜそれがいけないのかというと、死後祟るのです。この世で恨みつらみを残して死んだ霊魂は必ず悪さをする。ですから、きちんと結婚させてあげる。戦死者にふさわしい花嫁さんをこの地方のシャーマンであるオナカマサマを頼んで探し、自分の息子の結婚式姿を絵馬に書いてもらって、奉納します。あるいは花嫁人形です。それがたくさん奉納されているわけです。
 木曽の御嶽山に行くと、霊神碑がたくさん立ち並んでいます。木曽御嶽講が江戸中期以降にはやりました。その信者の人が亡くなると、在所の村にお墓を作りましたが、霊魂は御嶽山に行くわけですから、御嶽山に霊神碑を建てました。御嶽講は近代になると、木曽御嶽教という教派神道に再編成されます。一番よく知られている霊山・霊場は、高野山、日本第一の霊所です。分骨された近世大名の墓から、最近では会社で事故死した人の供養塔までお墓がたくさん並んでいます。この高野山が日本第一の霊所になったのは、高野聖が中世期に活躍したからです。日本の中世は戦国の時代です。高野聖は戦死者のしゃれこうべを集めて高野山に葬った。彼らの活躍もあって、高野山は日本第一の霊所となったのです。
 時代とか地域によって霊山信仰の性格はそれぞれ違いますが、死んだら山に行く、あの世が山として意識される事例には事欠きません。 霊山の典型例として、山形県の月山をあげてみます。月山は出羽三山という修験道の山の一山ですが、庄内地方の人たちには死ぬと月山に行くという信仰がありました。月山は、なだらかな山で、森敦の小説『月山』でも知られています。この小説は作者が、麓の注連寺というミイラの寺で一冬死と向き合った体験を主題としています。
 月山は、仏山とも呼ばれるように、死んだら行くあの世とイメージされていました。鶴岡市周辺では、死者の霊は死後、四十九日までは屋根の上にいると信じられていました。日本人の霊魂観は、肉体は滅びるけれども魂は不滅であるという霊肉二元論です。つまり、死は肉体から霊魂が離れることです。ですから、「魂呼ばい」といって、人が死ぬとすぐに魂を呼び返せばもう一度生き返ると考えられていたのです。魂の行き場と考えられた屋根の上に上って枡の底を叩くとか、あるいは井戸に向かって叫ぶということをしたのです。
 百か日ぐらいになると、森の山というこんもりした田のそばの小高い山、それから回忌を重ねるごとにもう少し高い山、虚空蔵山とか金峰山、そして三十三回忌、死んでから33年たつと霊は月山に登った。現在では、お寺さんの方から五十回忌だとか百回忌ということで案内が来ますが、かつては三十三回忌で「弔い上げ」が一般的でした。「弔い上げ」というのは、ホトケからカミサマになることです。つまり死霊から祖霊になる。それまでは、霊魂は個別的で、位牌には戒名がありました。それが集団的になって、ご先祖様の仲間に加わるわけです。三十三回忌「弔い上げ」を期に、死霊は個性を失って神霊、ご先祖様になるのです。四十九日、百か日、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌と子孫による追善供養を受けて、死霊は浄化され、ご先祖さんになります。また、以前、修験道の山である月山では、お盆には柴灯護摩を焚きました。その火を見て逆の順で、ご先祖様はそれぞれの家の精霊棚に帰る。今はこのような観念はうすらぎましたが、戦前までの様子は聞き書きすることができました。


図3 モリ山供養と祖霊化過程

 死霊が祖霊、ご先祖様になるためには、1つには高さ、高度が必要なこと、それからもう1つは時間の経過が必要なことを示しています。生仏(なまぼとけ)と言われるように、死者の霊はヒューマンティックなのです。それが子孫に供養を受けることによって、じょじょに浄化されて、やがてご先祖様になる。庄内地方の「モリ山」信仰は死霊の祖霊化過程をよく示しています【図3】。
 さらに細かく言うと、月山は、本尊は阿弥陀如来なのですが、神仏分離前までは頂上には「十三仏」が祀られていました。神仏分離後、善宝寺に移管され下ろされましたが、これは日本の葬送習俗を考えるとき、大事なことを示しています。つまり土着的な民間のあの世観に仏教の影響が加わって、仏教的にアレンジされたことを示しているのです。だれがアレンジしたのかというと、当然、山の宗教者である山伏、修験者です。

4 十三仏-葬送儀礼の仏教化と葬式の成立―

 日本の葬式では、この「十三仏」というのは大きな意味を持ちます。民俗学者、柳田国男は、日本の葬式は2重構造で成り立っていると考えました。近世以降、それぞれの家がお寺さんと寺檀関係を結び、その住職さんがお葬式をとり行ってくれる。もう一方、村の近隣組織、いわゆる葬式組という人たちが行ってくれる念仏講の関与です。僧侶と念仏団体の2つのレベルで葬儀が行われます。その両者に共通するのが「十三仏」です。このあと立山の布橋儀礼を考えるときも大事な問題ですので、頭の隅に入れておいてください。
 「十三仏」の前は、「十仏」です。「十仏」の前が阿弥陀如来ということになります。あの世というのは仏教的な言い方では浄土となります。日本の浄土信仰の概略を述べると、平安時代ぐらいまでは阿弥陀信仰でした。阿弥陀如来を一心に想えば、死後は極楽に行ける。しかし、実際の死にぶりを見ると、のたうち回ったりして、ろくな死に方をしていない、それでみな不安に思うのです。平安末期から鎌倉期にかけて、地蔵信仰、十仏信仰が登場してきます。十仏信仰は仏教的な言い方で、その中心は地蔵信仰です。道教的な言い方をすると十王信仰です。極楽に行けず地獄に落ちたとき、地獄から救ってもらおうと少し消極的になるのです。日本では仏教の地蔵菩薩がクローズアップされますが、中国では、十王の方の中心、閻魔大王の方が強調されます。民族による信仰対象の差が出ますので、興味を引かれます。
 「十三仏」は、十仏プラス三仏です。その三仏はもともと胎蔵界と金剛界と両部の大日如来でした。つまり密教的です。それが最終的には、この三仏は、阿如来・大日如来・虚空蔵菩薩と定位していきます。最終仏に虚空蔵菩薩がきます。虚空蔵菩薩は皆さんあまりご存じないかもしれませんが、この菩薩が最終仏になるのは天(空)との関係です。地蔵の地に対して天、虚空蔵でなければならないわけです。地⇔天、垂直的な山中他界観を密教者が取り入れて、こういうアレンジをしたからです。「十三仏」は民間の山中他界観を踏まえて密教者によって創唱された山中浄土観を反映した組合せといえます。十三仏の各仏はそれぞれインド起源の仏・菩薩ですが、その組合せはまさに日本で創説されたものです。そして、僧侶側の追善供養の本軌、念仏講の送り念仏として両者とも十三仏は葬式に必須の要素となっているのです。少し端折って説明しましたが、土着的な、民俗的なものに仏教者が解説を加えた仏教民俗として「十三仏」があり、それが今でもお葬式の主調となっているのです。

5 漢民族・朝鮮民族の他界観-紙銭と

 少し橋に引きつけて考えましょう。この世とあの世の境を、地蔵信仰では三途の川に見立てます。三途の川のあり方は民族によりとても違います。例えば漢民族は、泰山が源流と考えられている三途の川に架かる橋を「奈何橋」といいます。いかんともしがたい意味です。渡りたくないけれども渡らなければならないということになります。漢民族は、他界観として、死んだらこの世と同じような生活をあの世でも送ると考えているのです。いわば道教的な考え方なのです。
 福建とか広州、台湾に行かれて葬式に出会ったら見てください。本当はあの世に行きたくないのだけども、あの世で同じ生活をするために、漢民族では紙銭、あるいはというものを燃やします。学生の仕送りと同じです。葬式や清明節の折に子孫が紙を燃やすのは、あの世に住む先祖への仕送りです。たくさんの紙銭を燃やして、あの世での生活費にあててもらう。作るのは自由ですから、今日では冥府銀行発行1億元だとか、すごい額のニセ札束を勝手に作っています。それを燃やします。
 葬式でも見てください。これは現物を模した紙の模型を作るのです。紙で大きな模型の家を作り、冷蔵庫や電話などもきちんとそろえます。車などはベンツのマーク入りです。生活が豊かになった現在、ますますが大げさになっています。この世でできなかったことをあの世で実現させてやるわけです。子孫がこれを燃やし、あの世に届け、あの世でこの世と同じような生活を死者にしてもらうわけです。漢民族にとっては、生者と死者の世界には越えがたい一線、三途の川に架かっている「奈何橋」があるというわけです。南方では、お葬式のときに今でも作りますし、北方では奈何橋に相当するものを描いた札を貼ったりしています。


図4  巫堂によるチョスン・タリ(あの世橋)の断橋

 朝鮮民族では、この世とあの世の間には三途の川が流れ、そこに「あの世橋」(チョスンタリ)が架かっていると考えています。巫堂や万神と呼ばれるあの世とこの世との交流ができるシャーマンによって行われる死者供養ではこの橋を白い布で表しています。麻布や木綿布が用いられますから布橋です【図4】。あの世に行きたくない死者の霊はぐずぐずしています。そこでこの布橋をムーダン(巫堂)が裁断して、この世とあの世に分けてしまう。最近のムーダンはみな恰幅のいい人が多いのですが、お腹でぐっと押していくと布が2つに裁たれていきます。死者にもう未練を残すなと、この世とあの世を断ち切ってしまうわけです。布橋の上にはたくさんのお札や供物が載っています。ムーダンもお札がたくさん載るようにゆっくり布橋を割り進みます。早く切りすぎてしまったら、死者の霊にも悪いし、実入りも少なくなります。功徳になると参会者からのお札が布の上に載るのです。

6 立山の布橋―擬死再生儀礼―

 日本ではどちらかというと三途の川を渡る手段は橋ではありませんでした。渡し舟です。ですから、頭陀袋の中の六文銭が渡し舟の渡し賃、渡船料だという言い方が広くいわれました。朝鮮民族はこの世とあの世をシャーマンの力を借りて分けます、漢民族はこの世とあの世は断絶しているのに対し、日本民族は渡し舟のイメージですから三途の川は自由に往復できます。同じ地蔵信仰に基づく三途の川のとらえ方も、それぞれの民族の他界観を反映しているということになるわけです。そこで、橋に対してどのような意味づけをしているのかが問題となってきます。


図5 立山芦峅寺の布橋

 立山の芦峅寺に行くと、天の浮橋と呼ばれる橋があります【図5】。橋のこちら側に閻魔堂があって、向こう側に姥堂があります。三途の川に天の浮橋が架けられていて、橋を渡るとあの世になるわけです。この橋は、江戸時代、19世紀になると布橋と呼ばれ、非常に象徴的な意味を持つようになりました。秋の彼岸に布橋儀礼が行われたからです。閻魔大王のところから3本の木綿の布がこの橋の上を通って姥堂のところへ敷かれます。この布の橋を踏み渡るのは女の人でした。姥堂の正面には立山が立ちはだかります。山中に弥陀ヶ原だとか地獄池の地名が残り、また弥陀ヶ原では人骨が出土するなど、立山はかつて霊山信仰の山でした。男の人は、お山の山頂まで登り、ご来光を拝んで、極楽体験をしました。しかし、女人禁制の女性にはそれができません。女の人が女人往生、極楽往生、擬死再生を体験するための舞台装置として、芦峅寺の住職が布橋儀礼を考えたといわれています。
 見てきたように再現してみると、まず女の人が閻魔堂に入り、導師からいろいろ話を聞き、その後しずしずと三途の川を表す3筋の木綿の布を踏みながら進みます。この世からあの世へ渡る橋です。実はこの布橋というのは非常に象徴的で、実際の橋板も全部で108枚、つまり人間の煩悩を表し、その裏には梵字が記されていました。また、橋の下から橋上までの高さは13間、これは「十三仏」を表しています。この橋を渡り終えてから姥堂の中に入ります。戸が全部閉じられている暗闇の中で南無阿弥陀仏、般若心経を唱えます。
 真っ暗ですし、目をギョロとむいた69体の姥様がいるのです。69体というのは、日本の旧国66カ国の代表66体にプラス、立山の姥さんが3体です。だんだんと不安になり、気持ちが動揺してきます。それが極まったときに、戸が一斉に開けられ、その正面に立山が見える。秋の彼岸に行われましたから、いつも見られるとは限らない。光の中に包まれまさに極楽です。立山曼荼羅の絵解きをしたかつての導師のお一人に、このようなお話を聞きました。一回死んであの世を見て、もう一度この世に戻るわけです。そのときには、もう日ごろのいろいろな悩みだとかも解消され、生まれ変わる。つまり擬死再生ということが行われたわけです。
 立山の布橋儀礼も1つの例ですが、あの世に行ったら帰れないのではなくて、擬死再生というかたちで、行ったり来たりできる。立山の布橋儀礼では特に強調されました。付け加えて言うと、立山曼陀羅などの比較から、これは芦峅寺の一つの専売特許といえます。岩峅寺の立山曼荼羅には布橋は描かれていません。芦峅寺では、加えて女人に「血脈」、「血盆経」を授けました。女の人の場合は血の汚れのために山に登れない、女人禁制のタブーがあるのですが「血脈」を授かると女の人も往生でき、極楽に行けるということになったのです。これは女の人に大変人気を博し、多いときには全国から三千人ぐらいの女人が参詣したといいます。

7 神路図-納西族の他界観-

 地蔵信仰を例に、民間の土着的な他界観を仏教者がアレンジし、再構成していくことを話してみました。その再構成され方は同じように見えるかもしれませんが、そこに、それぞれの民族の持つ他界観が反映されているということを指摘したわけです。
 次に、納西族という中国の少数民族の例を紹介します。納西族はいろいろな意味で日本人に似ています。人口約27万人の少数民族ですが、もともとチベット系で、ボン教を信じていました。ボン教というある意味ではチベットの土着宗教に、仏教、それから道教の影響を受けます。その結果、自然崇拝・祖先崇拝・シャーマニズムという在来の民俗信仰にボン教、仏教、道教、儒教が習合して東巴教ともいうべき民族宗教が形成されました。今も生きている象形文字といわれる東巴文字で書かれている東巴経は、東巴(トンバ)という宗教者しか正確には読めません。宗教者は東巴含め長い間、弾圧されてきましたから、、東巴経の解説までできるのは、何人かの老東巴だけです。


図6_1 納西族の神路図と神牌

図6_2 神路図を解説する
   老東巴・和関祥氏
(麗江・東巴文化研究所)

 私が納西族の民俗調査に行ったとき、老東巴は、自分が死んだら、だれが自分の葬式をやってくれるのかということを大変気にしていました。その老東巴に開口一番言われたのは、自分たちの先祖は今どうしているのかということです。びっくりしました。雲南省という、遥か日本から離れたところで、日本にいるご先祖さまはどうしているのかと聞かれたのです。昔、秦の始皇帝が、徐福を派遣した時、その団員を当時の各民族から選んだというのです。納西族の先祖もその一員に加わった、その先祖が今どうしているのかと聞くのです。何か昨日あったような話ぶりで、びっくりしました。元気ですとも言えません。(笑)。また、日本という国は、神さまは八百万といって800万いますと言うと、即座に「いや、納西族の神は3000万いる」というのです。負けました。八百万の神国は日本だけだと思っていても、そうではないのです。納西族の人々は、神はいろいろなものに宿るということを言うわけです。我々は島国根性で、すぐに日本独特とか言いますが、独特というためには、ほかと全部比べてみなければわからない、そんなに簡単に言えないことだと痛感しました。
 納西族は、人が死んだとき、神路図を棺から玄関までかけ渡します。ボン教時代の言い方ではゾパ(白い橋)という意味で、この世からあの世にかけられた橋です【図6_1,2】。神路図には、地獄絵図とともに納西族の神々から、仏教の仏さま、道教の神さまが描かれています。葬式の時には、神路図のそれぞれの部分を担当する東巴がいます。その部分のお経を読んでもらうことで、徐々に段階をのぼり、死者の魂は迷わずに玉龍雪山の山中にあるというあの世に行くことができるわけです。
 それぞれの民族の土着的な他界観・祖先観にもとづく死者、葬送儀礼に、仏教や道教など成立宗教の宗教者が介在して、形を整え、儀式化し、葬式として定型化していく。そして儀式を担当するプリースト(司祭)、日本でいえば僧侶の手に葬式が委ねられるようになります。逆に言えば、死者儀礼が儀式化され、それを司る宗教者に葬式が任されるようになる以前は、それぞれの土地の土着的な他界観にもとづいて死者をあの世に送るやり方があったということになります。


8 他界・復活・輪廻-人類文化における他界観-

 他界観を説明する時に一番基本というか、シンプルなので今でも使われるのはE・B・タイラーというイギリスの文化人類学者が1871年に書いた『原始文化』という古い教科書の3つの分け方です。
 1番目は、「他界」という考え方です。死んだら、この世と同じような生活をあの世でする。最近、私も驚いた事件がありました。ニューカレドニア島で、日本の女性旅行者が、ある島の地先の聖地で殺されていました。実はニューカレドニアもそうですが、自分たちの住む島の地先の島が死者の国、他界という信仰があるのです。ですから、ここは死者の住むところであって生者が決して行ってはならない。そのタブーを破ったために殺されたのだと当初の一報は伝えていましたが、結果はそうではありませんでした。日本でも青島というのは、そのような島ではなかったかと、民俗学者、谷川健一は推測しています。
 2番目は「復活」という考え方です。原本では、ボディリィ・リニューアルと記されています。キリスト教的な考え方です。3番目は「輪廻」です。これはアジア的、仏教的な考え方と言えます。肉体は滅びるけれども霊魂は不滅であるとする霊肉二元論です。この輪廻をタイラーはさらに再生と転生、2つに分けています。再生というのは、また人間として生まれ変わることであり、転生というのはローワー・アニマルズ、動物として生まれ変わることを言います。
 チベット仏教では特に、次に生まれ変わるまでのこの世とあの世とのどっちつかずの間、中陰・中有、つまり四十九日間のあり方を気にします。この世とあの世にかかる橋を渡っている間が四十九日なのです。霊魂の四十九日間の過ごし方を解説したのが、チベット仏教の『死者の書』です。利賀村の曼荼羅を収集した田中公明さんもからもお話を聞きましたが、私はこの語訳は川崎信定先生から教えてもらいました。この四十九日のあり方で、何に生まれ変わるかが決まる。ですから、チベット仏教圏はじめ大乗仏教圏では生まれ変わりを非常に気にします。『死者の書』は、10年ぐらい前、すごくはやりました。NHKの番組でも、それをビジュアル化していました。
 他界という言葉づかいで注意しなければならないことがあります。イギリスの社会学者、H.スペンサーは、他界というのは2つの意味、死者の住所、住むところ「アナザーワールド」とあの世での生活「アナザーライフ」とに分けて考えるべきだというのです。スペンサーは、ある民族にとっての他界、この場合アナザーワールドは民族移動の出発地、故地だというのです。この考えはヨーロッパの諸民族にあてはまるケースが多いのです。
 中国の少数民族の彝(イ)族の他界観は、まさにそのとおりです。自分たちの民族移動の出発点とされる地を他界と考え、死んだら霊魂がそこに帰るというのが民族のアイデンティティの根拠になっています。彝族というのは、鳥居龍蔵がロロと言っていた民族で、650万人ぐらいの人口ですが、大変広がって居住しています。彝族の人たちにとって、まさに死んだら雲南省昭通市近くに想定されている故地に帰る、先祖の国(ズーズープー)に帰るという観念が民族を一体化させています。彝族の葬式では、ビモと呼ばれる司祭が開路経を読み、死者に先祖の国までの道順を実際の地名も含めて示します。生者も葬式ごとに聞くのであの世への道をそらんじています。納西族の神路図も彝族の開路経もあの世への橋にたとえられます。また、チベット族の『死者の書』と同じ役割を果たしているといえます。

9 祖霊と御霊-霊魂観から見た日本人の一生-


   図7 霊魂観からみた日本人の一生

 あの世への架け橋について、かけ足で話をしてきました。ここで霊魂観から見た日本人の一生をまとめておきます【図7】。この世では、誕生から死へ向かいますが、この世でのピークはどこにあるかというと結婚です。あの世では「弔い上げ」、三十三回忌です。
 誕生から結婚するまで、一人前になると結婚できますからこの期間を成人化過程といいます。一人前になって結婚し、それから死までを成人期と呼びます。死んでから「弔い上げ」までは、祖霊化過程といいます。「弔い上げ」、三十三回忌から生まれ変って誕生までを祖霊期と考えます。霊魂観からみた日本人の一生です。
 まず1つ言えるのは、皆さんへの質問に戻って考えてみますと、私たち現代人には死後の世界がない、あの世をイメージできない。かつての民俗社会、ムラ人であったころの日本人のこの世での生きがいは、死んだらご先祖さまになることで、死後の世界が存在したのです。我々が今生きるというのは、誕生から死までです。かつてのムラ社会の人たちの半分しか生きていません。死後の世界がバッサリと抜け落ちています。現代人の精神の不安定は、ある意味では死後の世界がイメージできないということにも一因すると思います。
 この図はとても興味深いものです。これは、H.オームスというアメリカの人類学者が最初に書き、そのあと民俗学の坪井洋文さんが補って使った図です。
 誕生から成人、結婚まで、たくさんの行事がありますが、この世とあの世の儀礼が対偶しています。つまりお七夜と初七日、その後、七の倍数で行われる誕生儀礼と四十九日、百日の祝いと百カ日、初誕生と一周忌のように対応関係にあります。霊魂観から見ると、日本人の人生儀礼は、お七夜・お宮参り・食い初め・百日の祝い・七五三・十三参りそして結婚式など成人化過程と、初七日・四十九日・百か日・一周忌・三周忌・七回忌・十三回忌・十七回忌・二十三回忌・二十七回忌・三十三回忌と祖霊化過程に集中しています。
日本人は、この霊魂のサイクルから飛び出して、つまり御霊化すること、その性格から怨霊になることを非常に恐れました。輪廻している分には祖霊、先祖となりやがて生まれ変われるのですから問題ないわけです。しかし、祖霊化過程で子孫がなくなり供養してくれないと、無縁仏になってしまう。餓鬼仏になってしまう。つまり、御霊化してしまう。御霊は祟ります。かつての民俗社会の人たちは、病気だとか、稲がよく育たないとか、子どもができないとか、悪いことはみんな御霊のなせる業だと、とても恐れました。
 沖縄地方では、子どもが驚いたりすると、魂(まぶい)が外に出てしまう。そのくらい子どもは霊魂的に不安定だと考えられています。そのような時には、すぐにシャーマンであるユタのところに行って、もう一回まぶいを込めてもらう。反対に、成人期と祖霊期には霊魂は安定しています。日本人の一生を霊魂観から見ると、この世でなすべきことは結婚して家を確立し、子孫を残すということです。死んだらあの世でご先祖さまになり、子孫に祀られる。あの世で御先祖さまになる意味の方が重たかったのです。ですから、お墓を見てもわかるように、先祖代々が大事なのです。自分もやがてはご先祖さまになるのです。正月の鏡餅の上は、温州みかんや夏ミカンではなく「ダイダイ」という語呂合わせで、橙をのせます。「代々」の意味が大事なのです。お盆に墓参りに行くとご先祖さまに手を合わせます。ご先祖さまを拝んでいるのと同時に、自分もやがては先祖になるのだという確認なのです。そこが非常に大事で、死後の世界というものを実感することになるのです。
 私たちは、死後の世界が抜け落ちたために、生きる期間が誕生から死までになってしまいました。人工授精や脳死問題など生命観が機械論的になっているのもそこに1つの理由があります。死に対して、葬式が行われる。お葬式で「おめでとうございます」という言い方も、かつての日本の村にはありました。天寿を全うして死ぬということはご先祖さまになるための通過儀礼です。ですから、少しも悲しむことではない。つまり、死が習俗化されていたわけです。善し悪しという近代的な価値観ではなくて、かつてのムラ人の死生観だったということです。

10 精神文化としての橋-橋は2つの世界をつなぐ-


図8_1 台湾
  七星橋をわたっての厄落とし

 今日配った資料に「山の郵便配達」があります。この映画を見た方はいますか。よい映画でした。私は繰り返し2回も見ました。岩波ホールにせっかく行ったのですが満員で断念し、筑波で上映されるまで待っていたのです。淡々とした映画ですが、最後の場面で村はずれの橋が映し出されます。ポスターもそうですが、お母さんが橋のたもとで待つのです。そこで時間が転換していきます。いろいろな時代を表している。橋の象徴的な意味を巧みに表していると思いました。また、結婚式の場面でも族の橋が出てきます。族は杉材を大変巧みに用い、鼓楼や風雨橋を建築した民族ですが、族の橋もまた象徴的な意味を多く持ちます。
 今日は、誕生と死の場面における橋を取り上げましたが、その間を省いています。例えば年祝い、「厄落とし」儀礼に橋がよく登場します。台湾などでは、厄落とし儀礼に北斗七星と結びついた「七星橋」がよく使われます【図8_1,2】。沖縄の久高島に「七つ橋」という、12年毎の午年に行われたイザイホー行事に登場する橋があります。皆さんは演劇人ですから、沖縄のいろいろな儀礼にご関心があると思うのですが、この行事はもう行われなくなりました。女の人が神になる儀礼ですが、その対象者がいなくなってしまったのです。神になるときに七つ橋が大事な役割を果たしました。その背景を話すために時間が必要ですので、今日は省きました。


図8_2 七星橋

 もともと橋はすべて2つのものをつなぐものです。ですからご飯と口を結ぶ食べる箸、天と地をつなぐ梯子も語源は同じです。要するにエッジとエッジをつなぐものが橋です。橋は、両端をつなぐのと同時に、両方のものを分ける、あるいは、その逆にどっちつかずの状態をさします。そこから、いろいろな象徴性を示すことになり儀礼の中で意味を持つことになるのです。ですから、物質文化としての橋を考える時、精神文化も合わせて見ることが大事です。能楽の橋掛かりというのも、場面の交代とかいろいろ意味があると思いますが、これは私の方が皆さんに教えてもらいたいところです。橋を通して、それぞれの民族の他界観などを見いだすことができるのではないかということを今日は話したつもりです。あまりまとまった話ではなかったのですが、眠気覚ましぐらいにはなったのではないかと思います。では、これで話の方はおわりにします。

(司会)
 一言だけ。日本では、死んだときに「生前はお世話になりました」と言うのです。つまり、生まれる前なのです。生まれたら、即あの世なのです。あの世のことをだれも知らなくなったから、怖くて、一生懸命生きながらえようとするのですが、今のような解説を聞いていると、あの世もいいんだなと思うのです。
 このような民俗学について、また勉強して、演劇に生かしてください。今日はどうもありがとうございました(拍手)。

 

参考