日本海学研究機関等連携事業

万葉の時代と国際環境 「7世紀の北方地域の情勢」


北海道大学大学院教授
菊池 俊彦
 

1943年生まれ。北海道大学文学部卒業。北海道大学助手、助教授、教授を経て、2000年より現職。文学博士。1997年、第10回濱田青陵賞受賞(岸和田市・朝日新聞社)。(財)北海道埋蔵文化財センター理事、(財)古代学協会評議員。専攻は北東アジア古代史。
主な著書に『北東アジア古代文化の研究』(北海道大学図書刊行会、1995)、『環オホーツク海古代文化の研究』(同上、2004)などがある。


《7世紀の北方地域の情勢》

<資料1> 擦文文化の範囲と主な遺跡
田才雅彦「擦文文化」榎森進編『アイヌの歴史と文化Ⅰ』
創童舎、2003
<北海道の擦文文化とオホーツク文化>

 今日は、阿倍比羅夫の遠征と白村江の戦いについて、北方の視点からお話しします。私は中国東北地方とシベリアの古代史・考古学を研究していますので、日本海の対岸の大陸側から見ると、これをどのように見ることができるのか、お話し致します。

 最初に7世紀の北方の情勢について、触れておきましょう。7世紀中頃、北海道には続縄文文化(前3~後7世紀)がありました。本州では稲作農耕が入ってきて弥生文化が始まったのですが、北海道に稲作農耕は入ってきませんでした。縄文時代の生活様式がそのまま続いたので、続縄文文化といっています。

 7世紀後半になると、続縄文土器は使われなくなり、本州の文化の影響が及んで、新たに擦文土器を使う擦文文化(7~13世紀)が始まります。資料1の地図にあるように、擦文文化の遺跡は北海道のほぼ全域に広がっています。一部サハリン、青森県にも発見されています。しかし、擦文文化の始まりの7世紀後半ころの遺跡は、今のところ札幌に近い北海道中央部までしか発見されていません。この擦文文化の遺跡では農耕が若干行われていた跡(キビ、アワなどの種子が出土)が最近発見されていますが、河川の流域や河口域での狩猟漁撈が中心でした。

 そのころ、オホーツク海の沿岸には、擦文文化と全く異なるオホーツク文化(3・4~12・13世紀)がありました。資料2・3の地図に載せてあります。オホーツク文化の遺跡は北海道のオホーツク海沿岸、サハリン、千島列島で発見されています。オホーツク文化の人たちは海岸にしか住んでいません。沿海での漁撈とアザラシ・トド・オットセイなどの海獣狩猟を生業としていた人たちです。

 擦文文化の人たちは、本州の人たちと密接な関係をもって、交易を行っていましたが、オホーツク文化の人たちは、大陸のアムール河流域、松花江流域の靺鞨文化(4~9世紀)や同仁文化(5~10世紀)の人たちと交流をもっていたことが明らかになっています。資料2のとおり、大陸に類似の遺跡が数多くあります。

 また一方、オホーツク文化の人たちは、はるか北方のオホーツク海北岸の古コリャーク文化(5~17世紀)の人たちとも交流、交易があったことが明らかになっています。当時の北海道では、擦文文化の人たちが本州とつながっている一方、オホーツク海沿岸に住んでいたオホーツク文化の人たちは大陸やオホーツク海の北岸とつながっていたことになります。

<資料2> オホーツク文化と靺鞨文化・同仁文化
     の遺跡の分布

菊池俊彦『北東アジア古代文化の研究』
北海道大学図書刊行会、1995
<資料3> オホーツク海沿岸の古代文化
菊池俊彦『環オホーツク海古代文化の研究』
北海道大学図書刊行会、2004

 

<資料4> 7世紀~8世紀における大和の
      律令国家の東北地方への進出

菊池勇夫編『蝦夷島と北方世界』
(『日本の時代史』19)吉川弘文館、2003
<阿倍比羅夫の北征の意義>

 そのような中で、阿倍比羅夫が北海道にやって来たかもしれないということが、『日本書紀』斉明紀に出てくるわけです。7世紀中頃になると、大和の律令国家は日本海沿岸の越国の北辺(現在の新潟県北部)を防備するため、大化3年(647)に渟足柵(ぬたりのさく)、4年(648)に磐舟(いわふね)柵を設置します。資料4の地図に載せてあります。

 つまり、647~648年頃には、律令国家の北の「国境」は渟足柵や磐舟柵辺りであったわけです。その10年後の斉明4年(658)から6年(660)にかけて、阿倍比羅夫の遠征が行われるのです。

 しかし、よく考えてみると、渟足柵が647年、磐舟柵が648年に設置されていますが、さらに「国境」が北に延びていくのは、出羽柵が和銅2年(709)、秋田城が天平5年(733)で、かなり後のことです。太平洋側に多賀城が置かれるのは神亀元年(724)です。つまり、阿倍比羅夫が遠征したにもかかわらず、その後、全く「国境」線は北に延びていません。しかも、阿倍比羅夫の遠征はこのときに行われただけで、その後、遠征らしいものは全く行われていません。

<資料5> 多賀城修築記念碑
宮城県多賀城跡調査研究所
『研究紀要Ⅰ-多賀城碑特集-』、
1974
<資料6>
阿倍比羅夫の北方遠征

熊谷公男『大王から天皇へ』
(『日本の歴史』3)講談社、2001

 資料5の多賀城が修復された天平宝字6年(762)建立の碑文には「多賀城は蝦夷の国の境界を去ること百二十里」とあり、多賀城の北78kmに「国境」 があると記されています。つまり、8世紀後半になっても、まだ、律令国家の北の「国境」はせいぜい現在の岩手県くらいまでしかいっていません。したがって、阿倍比羅夫は何のために遠征したのか、遠征して何の成果があったのだろうか、ということが問題になります。資料6の地図のように、阿倍比羅夫が石狩川の河口辺りまで遠征したと推測している研究者もいます。しかし、7世紀半ばにそこまで行ったのだろうかという疑問がわきます。


<資料7> 百済救済軍の白村江の戦い
遠山美都男『白村江』講談社現代新書、1997

 阿倍比羅夫が遠征した3年後の天智2年(663)に白村江の戦い(資料7)が起こっています。阿倍比羅夫を含む水軍が唐・新羅(しらぎ)の連合軍に挑み、唐の水軍に白村江で敗退した戦いです。阿倍比羅夫はこの戦いのための予行演習として北方遠征に行ったのではないかという説もあります。しかし、予行演習までしながら、あっという間に敗れてしまうのは、国費の無駄遣いです。


<資料8> 6世紀後半の朝鮮半島三国から
日本列島への 渡航路推定図

小嶋芳孝「高句麗・渤海との交流」『日本海と北国文化』
(『海の列島文化』1)小学館、1990
<資料9> 渤海国(698~926年)
成立前の北東アジアの情勢

菊池俊彦『環オホーツク海古代文化の研究』
北海道大学図書刊行会、2004

 そこで、最後に私の考えを述べて終わらせていただきます。資料8の地図のように、7世紀中ころに新羅の北には高句麗があります。高句麗は日本へ使節を18回も送り込んでいます。高句麗は日本と非常に密接な関係にありました。7世紀前半になると日本と新羅の関係が悪化してきますが、その中で日本は高句麗と外交関係を強化し、同盟を結んで新羅を牽制しようとしたのではないかと思います。新羅の沿岸を航海して高句麗に接近するわけにはいかなかったので、北回りで行って、高句麗への航海ルートを探すための偵察が、阿倍比羅夫の航海の目的だったのではないだろうかと思います。高句麗の東に粛慎(しゅくしん)国がありますが、日本ではこれを「みしはせ」と呼んでいます。阿倍比羅夫の遠征記録に粛慎(みしはせ)が出てくるのも、粛慎、高句麗への接近を図ろうとした航海だったからではないかと思います。そして結果的に、偶然、今日の青森県や北海道に相当する地域を知ったのではないか。そうしたことからいうと、遠征記録の粛慎は、実際には当時の北海道の擦文文化の人々だったのではないかと考えられます。

 また、資料9の地図のように、そのころサハリンには流鬼(りゅうき)がいました。この人たちも唐の貞観14年(舒明12年、640)に長安に朝貢使節を派遣していますが、19年後の斉明5年(659)に、蝦夷国(かいのくに)の使節が倭国の遣唐使に随行して長安を訪れています。

 このように7世紀は、唐を中心として東アジア世界が動いている時代です。その中で、日本は対新羅、対高句麗、対唐の外交政策をどのようにやっていくべきか、分からなくなった時代ではないでしょうか。それまで日本は任那と結ぶだけでよかったのですが、そこには、もはや対岸諸国との外交関係を軸におかないと、新羅や高句麗に置いてきぼりを食ってしまうと焦っている日本の状況が読み取れます。これで終わります。(拍手)

 

(山 口) いい話になりました。今日のテーマ「万葉の時代と国際環境」を政治的に解説していただきました。一つお答え願いたいのですが、阿倍比羅夫は北海道までは行っていないということですか、どこまで行ったとお考えですか。

(菊 池) 北海道まで行ったか否かについては、『日本書紀』の記事からは読み取れません。近年、奥尻島の青苗砂丘遺跡からオホーツク文化の住居址が発掘されて、これこそ阿倍比羅夫の遠征記録に記された蝦夷とは異なる粛慎の遺跡ではないかと、今、北海道では侃侃諤諤の議論が起きています。しかしながら、この遺跡の資料から、阿倍比羅夫が北海道まで行ったという証明はできない、と私は考えています。

(山 口) 研究者の立場というのは難しいものです。
 次は小嶋先生です。小嶋先生は渤海研究の第一人者でいらっしゃいます。今日は新しい史料をお示しくださるそうで、楽しみにしています。それではお願いいたします。

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