日本海学シンポジウム

パネルディスカッション 「文明と海-地中海と日本海の比較から」


2001年度 日本海学シンポジウム
2001年12月22日
毎日新聞ビル オーバルホール
 

コーディネーター
パネリスト
青柳 正規
伊東 俊太郎
小泉 格
武田 佐知子
ロナルド・トビ
(東京大学大学院教授)
(麗澤大学教授)
(北海道大学名誉教授)
(大阪外国語大学教授)
(東京大学大学院教授)

このパネルディスカッションは、
『日本海学の新世紀第2集 環流する文化と美』に掲載されています。
→『日本海学の新世紀第2集 環流する文化と美』角川書店(p262~299)
 

青柳

 私は基調講演で少ししゃべりすぎたので、完全な進行役に徹したいと思います。ここにパネリストとして四人の先生方に参加していただいておりますが、今日いろいろ討議したいと思うのは主に三つの点です。地中海および日本海という海の自然環境あるいは文化環境をそれぞれの立場から概観していただくことが第一のポイントです。第二のポイントとしては、文明と海の関係の視点かち地中海域や日本海域についての比較をお願いして、文明と海の関係をもう少し具体的なイメージとして浮かび上がらせていただきたいということです。第三点が、これからの新世紀の環日本海域の文明あるいは文化の可能性がどういうところにあるのかということをそれぞれの先生方にお話しいただいて、質問やご意見を闘わせていくというかたちにしていきたいと思います。
 それではまず、それぞれの専門分野から地中海、日本海という海の自然環境および文明環境についてお話をしていただこうと思います。まず最初に小泉先生、よろしくお願いいたします。

地中海と日本海の自然環境・文明環境

小泉

 地中海と日本海とを比べた場合、今スクリーンに出ているように、両方の海域が閉鎖性海域であること、北緯三五~四〇度付近に位置していること、モンスーン(季節風)の影響を受けているといった類似点よりは相違点の方が多いのです。違いの点を五つぐらい述べます。
 違いの一番目は大きさです。地中海は黒海を入れると日本海の大体三倍ぐらい、黒海を外すと大体二倍ぐらいの大きさです。
 二つ目は、地中海は平均水深三四五メートル、深いところは九四二メートルのジブラルタル海峡で大西洋と連結しており、大西洋から温暖な表層水が入ってきて、温暖で高塩分の底層水が出ていきます。これは、地中海の南の方には乾燥したアフリカ大陸があり、北の方には冷涼で乾燥したヨーロッパ大陸があることに原因します。すなわちジブラルタル海峡から入ってきた大西洋の表層水は東に行くにつれてどんどん水が蒸発し、塩分濃度が上昇していくことになり、沈降していきます。
 それに加えて、アルプスなどから流出してきた淡水がイタリアのアドリア海に入ってきます。黒海からは少ししょっぱい水がエーゲ海へ入ってきます。この二つの水は東側の乾燥地帯が冬場に気温が非常に下がるために冬季に冷却します。水は塩分濃度が高くなることと水温が低くなることによって密度が大きくなって沈んでいきます。それが東地中海深層水になるのです。その深層水の上に先程の表層水が沈んでいったものが中層水となって乗っております。この深層水の一部と中層水の一部が大西洋へ出てくるのです。束地中海で水の沈降が起こり、東地中海から西地中海へ流出し大西洋へ戻る。大西洋へ出ていった中層水は非常に大事な役割をします。これはノルウェー海まで北上し、一五〇〇年から二〇〇〇年ぐらいかけて世界中を回るベルトコンベア、水温と塩分濃度のバランス調整によって世界中を回る海水大循環のシステムの中に組み入れられていて、海水を駆動する原因になっています。
 一方の日本海では、対馬海峡は水深がたかだか一三〇メートルぐらいしかありません。対馬海峡から黒潮の分流である対馬海流(暖流)が入ってきます。津軽海峡も水深一三〇メートルぐらい、宗谷海峡が五五メートルです。その二つの海峡から対馬海流は太平洋とオホーツク海へ出ていきます。日本海の場合は地中海と違って乾燥地帯ではなく、どちらかというと湿潤ですから、蒸発によって塩分濃度が濃くなることはなく、主として冷やされて水が重くなって日本海の北の方で沈降します。表層水が南から北へ上がってきますから、逆の方向に北から南へ深層水が流れてきます。流れてきますが、対馬海峡は浅いので、外へ出ることはなく、日本海の中に停滞します。それを日本海固有水といいます。これは地中海とずいぶん違うことです。大きさだけではなくて、水深がずいぶん違うために水の挙動もずいぶん違うのです。
 三つ目は、地中海はアフリカモンスーン地帯にあり、夏に乾燥し冬場に雨が降ります。地中海式気候といい、どちらかというと乾燥地帯なのです。それに対して日本はアジアモンスーンですから、夏のはじめに梅雨かおり、梅雨の挙動が夏の気候を決めています。太平洋側の冬場は乾燥していますが、日本海側では冬に雪が降っています。したがって日本海は年中通して地中海に比べると湿潤ということができます。
 四つ目は、海水を蒸発していきますと、炭酸カルシウムと石膏が析出してきます。乾燥地帯である地中海ではこういった現象が特に著しいので、水の中に住んでいる生物は炭酸カルシウムの殼を特った有孔虫や円石藻が発生し、その死骸が海底にたまります。それは石灰質の堆積物です。一方日本海は、ケイ質の殼を特った藻類が発達し、ケイ質物が堆積しています。これは非常に大きい違いなのです。
 五つ目は、形成の歴史が全く達います。地中海は二億年ぐらい前にできた南半球のゴンドワナ大陸と北の方のローラシア大陸との真ん中にあったテチス海の名残りです。ゴンドワナ大陸はアフリカ、南米、インド、オーストラリア、南極大陸というように南北方向に分裂します。引き続いて、割れた大陸片が赤道を越えて北上していく現象が起こります。そして二五〇〇万年ぐらい前からアフリカやインド大陸がアジア太陸につぎつぎと衝突していきます。衝突するということは、テチス海が閉鎖していくことです。衝突したときの反動で、東南アジアの地域が南の方に垂れ下がってくる現象が起こって、東の端のインドネシア海路から順に閉鎖していくわけです。地中海が今のようになったのは一七〇万年ぐらい前です。これが地中海のでき方です。したがって地中海では地震が非常に多く、火山も非常に多いわけです。それは今お話しした構造発達の歴史を背負っているからです。
 一方、日本海はどうかというと、大昔は中国大陸の東端に付いておりました。太平洋の海の底が中国大陸のへりのところに沈み込んでいく、今ある日本海溝で起こっているような現象があったわけです。沈み込んでいった海底の岩石層が一〇〇キロメートルくらいの深さになると、地熱がだんだん高くなり溶けていきます。海水が混じっていますから、低い温度でも溶けるようになります。溶けたマグマが上昇し大陸のはじが割れて日本海ができるようになるのです。日本列島が中国大陸から離れて今のような状態になったのは二〇〇〇万年ぐらい前のことです。地中海と日本海のでき方は全然違うのです。
 そういった自然環境の歴史が、その後にそこへ往むようになった人たちの文明更に直接、間接に影響してくるのだと思います。それはこのあとの各先生、あるいは二回目、三回目のときにお話しします。

伊東

 今、小泉先生が地理的あるいは地質学的な自然科学的側面から地中海と日本海を比較なさいました。私は文明史の観点から地中海文明を考えてみようと思います。地中海文明(Mediterranean Civilization)ということがよく言われます。これはいったい何でしょうか。今までの教科書などでは、地中海文明はヨーロッパ文明の生みの親だというのです。つまりギリシア、ローマの文明があって、その地中海文明からヨーロッパ文明が出てくるという系譜がたどられるのが普通です。しかしこうした文明史観は、私の見るところはなはだ一面的です。ギリシア→ローマ→西欧というかたちでのみ地中海の文明を見るということは単線的、一元的な見方のヨーロッパ中心主義で、今までの歴史を記述してきたユーロセントリズムです。もう少し地中海文明にとらわれずに広い立場から見ますと、その北側には確かにギリシア→ローマ→ビザンツ→ヨーロッパというヨーロッパ系の文明系列があります。しかし、南側や東側にはエジプト→フェニキア→シリア→アラビアというヨーロッパと全然言語も違うし民族も違うセム系(→注1)という系列があります。地中海文明は、この二つの文明系列が地中海という共通の場で、あるときは対抗し戦争もして、またあるときは渉り合い影響し合いながら発展してきた文明交流圏(Cross‐Civilizational Sphere)であり、決して単一文明(Single Civilization)ではない。ラルフ・リントン(→注2)などは単一文明圏ととらえますが、そうではなく、実は文明交流圏なのだということをまず申し上げたいのです。
 地中海文明を文明史的に区切ってみると六つぐらいに分けられます。第一期がエジプト・エーゲ期で、これは紀元前三〇〇〇年ぐらいに始まります。エーゲ文明はヨーロッパ系、エジプト文明はハム系(→注3)です。その次の第二期は紀元前九〇〇年ぐらいから始まるのですが、ギリシア・フェニキア期です。フェニキア(→注4)文明はセム系(→注3)、ギリシア文明はヨーロッパ系です。いつも二つの文明が対抗し合って結び付いています。第三期はローマ期です。ローマ期は二見的であるように見えますが、実はこれも中身をよく見ると二元的なのです。その次は紀元後六六一年ごろに始まる、アラビア・ビザンツ期。アラビア文明はセム系、ビザンツ(→注5)文明はヨーロッパ系です。次のトルコ・ヨーロッパ期は十二七〇年ぐらいに始まりますが、トルコ文明はイスラムですね。それでヨーロッパと対抗している。今は欧米・アラブ期でやはり二つの系統のものが競り合っているし、また協力してもいるわけです。
 そういう二元的な文明交流圏として見た方が、地中海文明のダイナミズムがよくわかるのです。これを単一文明圏と考えると十分とらえられません。したがってこのハム-セム系の系譜が一方にあり、もう一方にヨーロッパ系の系譜があり、これらが拮抗し、かつ交渉し、発展してきたものが地中海文明、正確には文明交流圏なのです。ローマだけが一元的なように見えると言いましたが、ローマ文明が周辺に影響を及ぼしていくだけの見方ではなく、逆に周辺のシリア、エジプトあるいはヌミディア(→注6)から反対にローマがどのように影響を受けたかをつかまえないとローマ世界はわかりません。むしろそういう研究が新しく始まっています。これはやはり二元的なのです。その証拠に、最後にはセム系の宗教であるキリスト教がローマ帝国を本当に精神的にとらえてしまったではありませんか。そのように考えると、これは決して一元的にはとらえられない現象で、二元的な交流圏としてとらえた方がずっとわかりやすいし、公平です。
 地中海と日本海という問題ですが、地中海は北緯四五~三〇度ぐらいのところに入っていて、日本海は少し北の方ですが、ほとんど同じです。経度では地中海の方が二倍から三倍横に長く、いろいろな地質学なでき方の違いはあるけれど、陸によって囲まれた閉海域であるということでは、私は非常に似たところがあると思います。地中海文明が文明交流圏として非常におもしろくとらえ直されるならば、日本海も文明交流圏としてなぜとらえないのだろうということが出てきます。今までは日本列島をそれだけ孤立してとらえていました。日本海文明交流圏を朝鮮半島や沿海州、中国東北部などとの広い交流の中でとらえた方が日本の歴史もずっとおもしろく、もっとニュアンスに富んだものができるのではないでしょうか。したがって日本海もそういう文明交流圏という新しい視点によって、新しい発見、発展がありうるのではないかというのが私の期待です。

トビ

 今、伊東先生がおっしゃったように、文化交流圏あるいは文明交流圏としてとらえたらどうかという試みが、実は日本史の中で十数年前から試みられていると言っていいと思います。環日本海交易圏や航梅圏についての研究がだいぶ進んできたわけです。日本の前史時代の一例で最近盛んに話題に上がっている三内丸山遺跡という縄文文化の遺跡があります。私は検定済みの教科書を使用した日本の小中高等教育を受けておりませんが、今までの文部省(今の文部科学省)が主張してきた日本史ですと、縄文文化は採集文化であって、農業や機織りなどの技術、金属を使う文化になるのが弥生時代であるといわれて、縄文の集落は非常に規模も小さく、ものも少なく、階級構造を持たない非常に均等な社会であり、しかも住んでいる領域でものを採集して、それが尽きれば次のところに行って、また採集文化の拠点を作ると言われていました。
 しかし、三内丸山遺跡を見ると、栗を栽培して巨大な栗の森を作り、それを経済基盤にしていました。毎日朝昼晩栗ばかりを食っていたというわけではなくて、日本海沿岸のかなり広い地域にわたって栗という交易商品とほかの必需品と交易をする日本海が育んだ交易圈が縄文時代にすでに成立しているということが、三内丸山遺跡から発掘された、そこでは採れないものの分析から明らかなようです。だから数キロどころか、数十キロ、数百キロ離れたところからしか採れない、場合によってはかなり離れた地域からのものが日本海があるからこそ港伝いで小さな船で運ばれていったのではないか。日本海があるから交易ができる、交易ができるから人類が生息できるようになっている、つまり日本海こそが日本海沿岸の人類社会を可能にする一つの必然的な条件であるということが前史の時代から確認されているわけです。
 伊東先生のお話から少し転じてまいりますと、地中海と日本海との比較をもう少し延ばしていきたいと思います。たとえばユーラシア・アフリカ大陸と、オーストラリアが入っている世界図を考えると、真ん中に大きな太平洋かありますね。それを頭に描いてください。
 地中海ではイタリア半島の南端から北アフリカヘ行こうと思うと、目の先に見えるわけです。私は船で対馬海峡を渡ったことがありますが、釜山を出ると対馬が見え、対馬を過ぎると対馬が見えなくなる前に壱岐にたどり着いている。つまりラインオブサイトの航海ができるわけです。地中海の場合は、そのラインオブサイト(Line of Sight 目視)の彼岸にもう一つの巨大な大陸があって、その巨大な大陸にいくつかの巨大な文明圈があるわけです。だからこの巨大な大陸の経済的な可能性と、自分の文明とほぼ同等の規模を持ったり、例えばローマにエジプト、ギリシアにフェニキアというように彼岸の引力が非常に強いのです。そこへ行けばいろいろ得るものがあるわけです。
 逆に東アジアと環日本海を見ますと、巨大な中国と、そして朝鮮半島に自立的にたち上がる高句麗、百済、新羅などは規模的には中国よりはるかに小さく、それより以北になると、基本は遊牧民族と海の漁をする民族であって、定住する大きな文明圏はそこでは生まれません。その彼岸にこの細い日本列島しかなくて、その彼方に限りを知らない巨大な海があるということです。東シナ海や日本海を地中海のように活発にする要素がいくつか欠けているわけです。例えば九世紀から一〇世紀にかけて、潮海から今の福井県の小浜や敦賀に渡ったりする交易はありましたが、この日本海の交易の基本はやはり沿岸交易です。それから中国などが陸続きの交易で潮海まで来て、そして蝦夷地、サハリンから海上貿易で渡って、日本列島を十三湊(とさみなと)から新潟、小浜という港伝いで来る。つまり沿岸貿易であり、大洋交易ではない、それが一つの違いです。
 そしてもう一つは、その状況の中で生まれる中華思想、中国の周りにほかの文明を認める要素がないのです。むしろ中国文明が中国文明たるゆえんの一つは、文明は一つであり、その周りにそれより劣った半開、未開、野蛮の存在しか認めないので、中国から進んで倭(日本)に何かすばらしいものがあるから、大きな貿易船団を出して交易しようという条件が整っていないのです。日本海あるいは東シナ海をめぐる交易や文明交流のあり方は、その所要条件のいかんによってだいぶ違うことを忘れてはならないと思います。

武田

 私は実は今回のシンポジウムのために、昨日の朝パリから帰ってまいりました。エールフランスで帰ってきたのですが、今日報告しなければいけないということで、時差ぼけになってはいけないと機内でシャンパンと赤ワインをたっぷりいただきぐっすり寝てきました。日本に近づいたときに起こされて、顔を上げましたら、飛行ルート図が目に入りました。もうすぐ日本というときにパッと目に入ったエールフランスのそれは、まさに逆さ地図だったのです。つまり北京が下の方にあって、朝鮮半島が下方から上方に延びていて、北京、釜山、そして日本海を越えて山陰地方に入り、ずっと回り込んで関西空港に至るという逆さ地図が示されまして、私はあまりの偶然というか、運命的なものを感じたほどです。たぶんエールフランスだったからで、JALではこうはいかないのではないかと、JALの方にお尋ねしたいところです。
 確かにヨーロッパヘの飛行ルートは、今は日本海を越え、中国の上空を通ってロシアの上空が通れるようになりましたので、このような最短コースで行けますが、私たちがふだんヨーロッパヘ行くルートを考えますと、メルカトール図法の世界地図で考えますので、果てしなく遠いヨーロッパという感じがするのですが、環日本海地図(逆さ地図)を媒介して初めてヨーロッパが非常に近い距離にあるということを実感して、あの地図の有効性を痛感したわけです。
 さて、私は日本古代史が専門で、特に服飾の方を研究していますので、おそらくこのシンポジウムで私に課された演題も、環日本海の美の交流、あるいは衣服の交流というテーマでと、当初お考えだったのではないかと思うのですが、私は日本海を通じた美の類似点、服飾の類似点などをいちいち挙げていくよりも、日本海交通、日本海貿易はどのようなかたちで行われたか、それがどのように日本海文化をかたち作っていったかという話をさせていただきたいと思います。
 『日本書紀』の斉明六年の条に阿倍比羅夫(あべのひらふ、→注7)が東北で蝦夷を討ったという伝承がありますが、その中に粛慎(みしはせ)との戦いの記録(→注8)があります。粛慎というのは、聖王(徳の高い王様)の出現によって、これまで着用していた動物の毛皮の衣服を植物繊維の衣服に着替えるという中国の古い伝承を持つ民族です。これが具体的にどのような民族に比定されているかと申しますと、北方ツングース系の民族ではないかという話もありますが、確かなところはわかりません。ともあれ、その粛慎との戦闘に先立って、阿倍比羅夫軍は海岸に彩色した絹や鉄などさまざまな日本側の文明の所産としての製品を置くわけです。その中に日本の衣服も置くのです。そうしますと船団を組んで停泊していた粛慎の軍団の中から一艘の船に二人の粛慎の老翁、首長クラスが乗って、こぎ寄せてまいります。そして岸に並べた品物をずっと見て回り、その中から布を一反と日本側の衣服をその場で着て船団に戻っていくという記録があるのです。ところがしばらくしてまたその船がこぎ寄せて、持っていったはずの布を返し、衣服を海岸へ脱いで船へ戻り、それから戦闘が開始されたという記録があります。この記事の解釈として、粛慎と阿倍比羅夫軍の間で行われたのは、言葉を理解できない民族たちの間で物々交換する時、軋轢(あつれき)を避けるために、無言で気に入った物を出し合って交換する沈黙貿易の事例ではないかと言われています。これは双方とも非常に見晴らしのよいところで行われるところがポイントです。この場合は阿倍比羅夫軍の戦闘直前の段階ですから、ある場面が設定されたのではなく海岸で行われたわけです。
 この沈黙貿易という視点で日本海側のさまざまな遺跡を見てまいりますと、縄文時代以来、日本海側にはたくさんの巨木遺跡、大きな木で建てた高い建物があります。その最終的な帰結が出雲大社だと思っているのですが、出雲大社は今の姿よりも昔はもっと高く、平安時代には天下無双の大厦(たいが)などと言われ、想像復元されるところでは四八メートルないし、九六メートルあったという説もあります。しかも出雲大社には四八メートルの高さに登るために非常に長い階段が付けられていたと推定されるのですが、それは海の方に向かって付けられているのです。今、出雲大社の正面は埋まっておりますけれども、昔はラグーンといって入り江がずっと入っていたわけです。ラグーンというのは港としては最高の良港で、日本海の荒波を避けて、港が築かれるのはおおむねラグーンの中です。この出雲大社が何ゆえにこのように高い建物を必要としたかというと、私はこれも沈黙貿易の拠点であったゆえではないかと思います。遠く双方から見下ろせる土地で物資の交換を行うときに、その土地の人々が斎(いつ)き祀る神に対して異民族が敬意を払うことを行動で示すことによって、そこに戦闘の意思がないことを確認するのではないか。そのようなかたちで平和の意思を表象して、そしておそらく高い塔の上で物資の交換を行う。かかる目的のためのランドマークタワー、世界貿易センタービルのような建物が山陰側にはいくつか点在しています。例えば鳥取県東伯(とうはく)郡羽合(はわい)町にある長瀬高浜遺跡も、非常に大形の建物はラグーンに向かって階段が付けられていたらしい形跡があります。このように、日本海側のいくつかの建物は世界貿易センタービルであった可能性があるのではないかと、貿易を考えてみたいと思います。

海の役割・文明との相互関係

青柳

 どうもありがとうございました。今それぞれのご専門の立場から自然環境あるいは文明環境の話をしていただきました。第二点は、海域世界の海環境、あるいは文明環境の固有性が今のお話で出てきましたが、文明をつないだり、育てたり、あるいは共有する海の役割、海と文明の相互の関係、そういうことについてそれぞれの専門の視点からいろいろお話をしていただきたいと思います。
 それでは、まず小泉先生には交流を支える海環境、自然環境としての海の役割等についてお話しいただきたいと思います。

小泉

 今日のシンポジウムのタイトルは地中海と日本海、あるいは環日本海地域との比較対照です。つい先ほどトビ先生がいろいろ示唆的なことをお話しなさいました。その中に目視航海がありました。目で見える範囲内だと目標ができますから、手こぎや風を利用した航海ができるわけです。世界の歴史はヨーロッパの歴史であり、ヨーロッパの歴史は地中海の歴史であると習いました。古代オリエント文明は地中海の東の方で発生しましたので、地中海文明は東地中海の文明であるわけです。東地中海の歴史を見ていきますと、紀元前三〇〇〇~十二〇〇年ぐらい前にエーゲ文明(→注9)が発達しました。エーゲ海には二つの大事な点があります。一つは、乾燥地帯で霧が出ないので夏はいつも晴れていて、視界が非常に良好です。二つ目は、いわゆる多島海です。その二つの条件によって目視航海ができます。ですから、紀元前三〇〇〇年ぐらいから航海が非常に発達したのです。東側に古代オリエントの国かおりますから、そこで発達した文化を吸収するということで、地中海の東側のレバノンやシリアなどとの行き来が紀元前三〇〇〇年ぐらいから始まっています。それがエーゲ文明だと思います。
 海の民という言葉がありますが、それはギリシアやエーゲ海の諸島にいた海の人たちで地中海へ出ていった民族を言っております。海を制した民族が地中海全体あるいはヨーロッパ、それから世界の歴史のひのき舞台にだんだん出ていっております。
 紀元前一〇〇〇年ぐらいにクレタ・ミケーネ文明が出てきます。活躍したのはフェニキア人です。フェニキア人はレバノンの杉を切ってそれで船を造りました。青銅器を作るためのスズがレバノンの地域ではとれないので、そのスズを求めて彼らはレバノン杉で造った船を使って遠くはイギリスやスペインヘ行っているのです。先ほどポルトガルの話が出ましたが、それ以前にフェニキア人たちは地中海を東西に横断して大西洋に出ているわけです。そしてフェニキア文明を作っていきます。
 クレタ・ミケーネの海上貿易が没落したあとでは、フェニキア人たちが地中海貿易を制御してしまい、カルタゴなどを植民地にして地中海の沿岸を全部抑えるということになります。その後、ローマ軍が紀元前後にイタリア半島から始まって地中海全部を抑えてしまうわけです。ローマ軍はもともと陸軍ですが、シチリア島の植民都市メッシナのいざこざに巻き込まれてそれまで同盟を結んでいたカルタゴと戦争をする破目になり、陸軍がにわかに海軍に転身するのです。ポエニ戦争という三回にわたる戦争で最終的にはカルタゴを破ります。こうして、ローマは地中海全部を制圧した後に、地中海を「我らの海」と呼ぶわけです。その後、地理上の発見、大航海時代、植民地時代へと歴史はつながっていきます。地理上の発見と犬航海時代の到来で、地中海の時代は終わったという歴史家かおりますが、それは終わったのではなくて、バトンタッチし、成長していったのだと思います。
 地理上の発見や大航海時代はポルトガルやスペインによって突然出てきたのではなく、実はローマ軍が地中海全部を抑えたときに、ギリシアの人たちが紅海を通ってアラビア海、インド洋へと出ていって、インド洋航路を紀元前後にローマの支援で行っています。それが地理上の発見へとつながっているのだと思います。歴史はあるとき突然イベント的に起こるのではなくて、継承されるものです。継承されていくときに、伝えたものと伝えられたものとの関係が同じである必要は何もありません。変質していくことが大いにありうる。それが地中海やヨーロッパで行われていたのではないでしょうか。その舞台が地球表層の七割を占める海で歴史の進展とともに起こったということは非常に説得力のある事実でしょう。

伊東

 私は、海が「文明交流圈」の形成に果たす役割をお話ししたいと思います。世界を文明という立場で見ていくことを確立したのが比較文明論ないしは比較文明学ですが、その基礎を作ったのがイギリスのアーノルド・トインビー(→注10)という人です。トインビーは、地球上にヨーロッパ文明だけではなく二〇ぐらいの文明があり、エジプト、メソポタミア、中国、インド、その他があって、それが栄枯盛衰する。それを比較してとらえようというわけです。ところが、世界の文明はトインビーが考えたような大文明だけではなく、その周りに周辺文明がたくさんある。周辺文明(ペリフェラル文明)ということをトインビーを継ぐ人たちが言いだしました。例えばエジプト文明であればヌビアの文明が周辺だったり、メソポタミア文明であればエラムの文明(→注11)が周辺についているわけです。中核の中心文明と周辺文明(コア-ペリフェリイ)という関係で考えていくわけです。
 トビ先生がお話になった、中国が真ん中にあって、あとはだんだん未開になって野蛮になっていくという考え、これもコア-ペリフェリイの考え方です。こういう面も確かにあるけれども、私はむしろ文明論としてはそうしたとらえ方を破りたい。むしろそれらを文明交流圏で見ていくほうがいいのではないか。なぜかというと、この「中心-周辺」というのは決して永遠のものではないからです。中心になっていたと思っていた文明が周辺になってしまい、またその逆の現象もあるのです。例えばエジプトはすごい中心文明だったのですが、いつの間にかギリシア文明の周辺になってしまいました。ヨーロッパはかつてイスラム文明の周辺で、北の内陸部に押し込められていた小さな文明だったのですが、いつの間にか逆転して中心文明になってしまいました。日本も確かに中国の周辺文明でしたが、それが独立して一つの中心文明になっていくというように変わっていくのです。ですから「コア-ペリフェリイ」と固定して考えるのはスタティックな考えで、あまり生産的ではありません。「中心-周辺」というように固定しないでダイナミックに「文明交流圈」としてとらえていくのがよいように思うのです。あまり周辺、周辺というと聖徳太子もたぶん怒ったでしょう。「日出ずる処の天子、日没するところの皇帝に書をいたす」(→注12)と少なくとも意識の上では対等で、北条時宗も腹を立てるかもしれません。だから文明は基本的に平等であり、その間に文明のやりとりがある。その量や大きさや速度などいろいろな違いはあるけれども、そういう文明交流圈で考えていったほうがいいでしょう。
 そのとき海がどのように役に立つか。文明交流圏といったら、まず海だけではないのです。シルクロードで思い出してください。あれは文明交流圏のよい例です。ペルシアの文明と中国の文明がシルクロードを通して文明交流したではないですか。どちらが上、下という問題ではなく、お互いにやりとりしたのです。それぞれが創造的であり、その成果は日本まで来てしまいました。奈良の正倉院まで来たということです。陸もありますが、海も非常に積極的な役目を果たしました。海は文明を隔てるのではなく、かえってそれを結び付ける機能を持っているわけで、障壁ではなくて紐帯の役割をもつものです。
 海の文明交流圏として私は「地中海文明交流圏」を挙げましたが、そのほかにまだ「大西洋文明交流圈」があります。ヨーロッパとメソアメリカ・アンデスを結び、アメリカが独立したあとはヨーロッパとアメリカ、アメリカ文明とアフリカ文明、そういうものを結び付ける「大西洋文明交流圈」がありました。また「インド洋文明交流圈」は初めはローマとインドを結んだのですが、その後アラビアが出てきて、アラビア文明とインド文明がインド洋文明交流圈で結ばれて、そのインドと東南アジアがまたインド洋文明交流圈で結び付けられるのです。それからもう一つ、「東アジア海文明交流圏」。東シナ海と南シナ海とを一緒にして私は東アジア海と呼びたい。シナという言葉は中国の人は嫌だと言っているのです。だからやめたいのですが、東シナ海など海の名前だけに残ってしまっています。それでは東中国海にするかというと、これは中国だけの海ではないので、東シナ海と南シナ海を二つつなげて東アジア海とした方がずっと文明論的にわかりやすいと思います。それは日本、朝鮮、中国、それから日本と東南アジア、こういうものを結び付けたのです。
 日本と東南アジアを結び付けた「東アジア海交流圏」。これはトビ先生が日本人は海洋民族ではない,とおっしゃいました。それは海岸民族だという意味でしょうが、けれどそんなこともないと思う(→注13)のです。例えば山田長政の時代に南蛮船や天竜船に乗って東南アジアヘ行ったのはだれですか。往復しているのですから、大変な貿易をしているわけです。日本人は必ずしも海岸民族ではなく、海洋民族なのです。それから逆に中国から徐福(じょふく、→注14)がはるばると日本にやって来たではありませんか。だからコア-ペリフェリイがあやしくなるのです。日本へ行って薬を取ってこいと秦の始皇帝に命じられて来たのですが、あれは日本の文明にとっても大いにプラスのことだったし、またおもしろい文明交流になるのですが、私は半分これは実話だと思っています。
 もう一つは、「文明交流圏」(Cross‐Civilizational Sphere) の中に「文明内交流圈」(lntra‐Civilizational Sphere)があって、その一つが「北海・バルト海交流圏」です。同じヨーロッパ文明圏の中で交流している。それから「カリブ文明交流圈」がそうです。そのほかに「スンダ文明交流圈」、これは重要です。スンダ列島をずっとマラッカ海峡からジャワ海、フロレス海を通ってマカッサル(現、ウジュパンダン)、セレベス(スラウェシ)、あの辺のところは一つの大きな文明交流圈があったのです。東南アジアはすごく栄えていて、ヨーロッパ人が来る前に大文明圈であったのです。それはみんな海が結び付けていた。これは非常に注目すべきことで、そのうえに日本文明も日本列島の中に孤立させるのではなくて、海の文明交流圈、日本海文明交流圈、東アジア海文明交流圈、それから太平洋文明交流圏、この三つの交流圏でもっと日本列島の歴史を考えていったらおもしろいことになるでしょう。

トビ

 私は、逆さの地図に戻って、伊東先生の最後の一言で日本列島という言葉がございましたので、逆さの地図の上で日本列島をこのように書かせていただきました。もとの地図をお作りになった富山県の地図に赤を入れては大変恐縮ですが、私どもは海民、沿岸民、そういう言葉は使いますが、しょせん人類は空間に生息する動物で、だから我々は日本列島に頼り続けてきたわけです。ボートピープルになる可能性もありますが、陸に上がっていろいろしないといけないわけです。このように見てみますと、あちらこちらの海峡があって、それで島を隔てているのですが、一応このように見ると鎖のようにつながっているし、山田長政でもやはり島伝いで航海したか、あるいは島に沿って行ったかと思いますので、沿岸という言葉を私は使いました。やはり大航海時代の造船技術を考えますと、海洋航海が安全にできる船は日本にはなかったのではないかと思います。それは別問題として、我々は陸に上がって生息する動物であるわけです。
 しかし、伊東先生がおっしゃったようないくつかの文明圈があって、その文明が海を伝って関係を持つという文明交流圈があるのではないかということです。たとえば浜下武志先生がお作りになった中国がイメージする文明圈では中央に中国がありますし、その周辺に日本や琉球、シャムがあって、遠い外にイスラム圏、ヨーロッパ、インドがあるわけです。それはそれでいいと思います。しかし私もやはり伊東先生と全く同感で、海の役割をもう少し真剣に考えないといけないのではないかと思います。そこでもう少し巨視的な地図を作りました。これは北極圏から見下ろした地球で、ユーラシア大陸を中心にしますと、先生がおっしゃっていたいろいろな海が挙がってきますが、列島ではなくて列海がベーリング海からオホーツク海、日本海、北東アジア海、南東アジア海、スル海、そしてマレー海、ベンガル湾、アラビア湾とずっとつながっているわけです。今、スエズ運河がありますから、これもつながっているのですが、歴史的には非常に新しいことです。
 そこで大航海時代とポルトガルのことをもう一度考え直させていただきたいと思います。中世からルネッサンスのごく初期にかけてのヨーロッパを考えますと、地中海は北岸はキリスト教圏がかろうじて生きてはいたのですが、イベリア半島の南半分ぐらいはモーロ(→注15)が支配していて、この地中海はしょせん回教、ムスリムの海であったわけです。そしてアラブの商人たちが列海伝いでここまで来て、実は唐時代にすでに今の広東にアラブの貿易商人が居留地を作り、この列海伝いで行っているわけです。そこからまた北上して日本へ物資かたどり着きます。
 しかし、ポルトガルはその地中海貿易には参加できない、つまり地中海に出入りするにはスペイン、あるいはモーロが支配しているジブラルタル海峡を通らないといけないし、それは自由に通れないわけです。エンリケ航海王がこの列海を通らない航路を求めて研究所を作って、最初はアフリカに拠点を作ってずっと回ってきて、一四九八年、コロンブス(→注16)の新大陸発見の六年後にバスコ・ダ・ガマ(→注17)が希望峰を回ってインド洋に入るわけです。しかし一直線で渡ったのではなくて、アフリカ大陸、マダガスカルを北上してアラビア海を渡ってインド西海岸にたどり着くわけです。そこでポルトガルがゴアという拠点を作って、アフリカ沿岸を回って列海伝いでアラビア海を渡ってゴアに来て、そしてこの列海伝いにマラッカを抑えてマカオに来て、マカオから長崎に来る。列海がいかに重要な存在だったかということは、この環日本海学に触発されてこの間皆さんと話し合った中で考えついた概念です。
 実はその列海に黒海も入るべきだし、北欧もそれなりに小さな列海があるわけです。だから前近代の交易、交流は列海によって支えられてきたと私は思うわけです。その中で日本が日本海交易を軽視してきた理由としては、幸か不幸か、日本文化を支配してきた民族はこの難波あたりに拠点を作って、日本海沿岸を周辺化させてしまいました。日本海沿岸を抑えるのは畿内に拠点を置く政権にとって至難の業だから、できるだけ日本海を中心にした交易圏を抑える、積極的に求めないというのが、うちのかみさんも大阪出身でしかられるかもしれないけれど、この中心から見ると厄介なものだったのではないか。しかし、そこで日本海沿岸の小民族、新羅にしても、渤海にしても、出雲にしても、それからいわゆる律令制国家が出来上がっても、日本海に面して生活をする人たちは日本海を忘れてはいないということを私たちも再認識し、そのことから日本海の将来の可能性を考える必要があるのではないかと思います。

武田

 今、トビ先生から列海という新しい概念が示されましたけれども、島伝いの文化の中で特に日本古代史の立場から、南西諸島と日本列島の島伝いの文化を支えた海人(あま)たちのネットワークについてお話ししてみたいと思います。特に北九州、五島列島の海人に私は注目したいわけです。五島列島は中国からのボートピープルが一昼夜で着くそうで、今でも警備体制の厳しいところですが、この地は古代、遣唐使が最後に寄港して中国に行く土地でもありました。空海も最後に五島列島の福江島の三井楽(みいらく)を望みながら日本を最後にするのだという感慨を込めた漢詩を詠んでおります。この五島列島は古くは近島(ちかしま)と呼ばれておりました。これは『肥前国風土記』に出ておりまして、景行天皇が「この島は遠けれども、なほ近きがごとく見ゆる。よりて近島と言ふべし」といっております。『万葉集』の巻一六の三八六〇番から一〇首の歌(→注18)は、筑前国志賀(しか)の白水郎(=海人)の歌を伝えています。神亀年間(七二四~七二九年)に対馬へ食料を送る送糧船という船を政府の命令で出さなければいけないことになり、宗像(むなかた)の百姓がそれに任命されます。ところがその宗像の百姓は非常に年を取っていて体の調子が悪かったので、志賀の海人に代わりに行ってくれないかと頼みました。志賀の海人の荒雄(あらお)という人物は頼まれたときに、「郡を異にすといへども船を同じくすること日久し。志兄弟より篤く死に従ふことありといふともあにまたいなびめや」と答えます。どういうことかと申しますと、住んでいるところは違うのだけれども、板子一枚下の地獄を共有している仲間だから、血を分けた兄弟より親しい間柄なのだし、どうしてあなたの願いを拒むことができようかと、身代わりになって対馬への食料を送るこぎ手になることを了承するわけです。
 ここに北九州沿岸の海人たちの非常に強固なネットワークを見てとりたいわけですが、この時志賀の海人は直接壱岐を通って対馬に行く航路を取らないで、五島列島まで行ってそこから船出したという事実があります。何ゆえに五島へ下ったのかというと、おそらく五島の海人たちが玄界灘の荒波を渡っていく航海技術に非常にすぐれていたからではないかと考えられます。対馬への航路は非常に厳しく、平安時代の史料にも「往古より以来すべて至るものは少なく、年中五、六の三、四は漂ヘり」と、五~六艘船が出たら三~四艘は漂流してしまう、対馬航路は非常に厳しいということを言っているわけです。おそらく志賀島の海人が五島の海人たちを連れ立って、彼らの力を頼りにして対馬に旅立っていたと思われるのですが、非常に不幸なことに彼らは遭難してしまって、その荒雄を悼む歌が『万葉集』の巻一六に残っているわけです。
 この五島列島の海人たちは、『肥前国風土記』によりますと、普通の日本人と違う顔だちをしていて、隼人に容貌が似ているという記述があり、南九州に本拠地を置く隼人が、実は九州の西の島沿いに五島列島の方にも力を持っていたと考えられるのは、奈良時代の半ばに起きた藤原広嗣(ひろつぐ)の乱(→注19)によってです。広嗣の乱の経緯を見ることでわかります。藤原広嗣は大宰の帥になっていたときに中央政府に反旗を翻して乱を起こすのですが、その時に隼人たちを自分の強力な軍隊として立ち上がるわけです。ところが中央政府に敗れ、彼は国外逃亡を企てますが、まず五島列島へ行って、それから朝鮮半島の済州島に向かおうとします。結局風で吹き戻されてしまって広嗣は捕らえられることになるのですが、博多から船出して五島列島へ行って、それから済州島へ向かうコースもおそらく五島の海人集団、すなわち隼人に類似しているという人々の航海技術に頼っていたのではないかと思われるわけです。
 五島列島が航海技術ばかりでなく、造船技術も非常にすぐれていたということを裏付けるものとして、平安時代に唐の商人が日本から帰るときに大宰府を出発し、博多から船に乗って、五島列島の奈留浦で中国から乗ってきた船を破棄して、新たにそこで日本で三か月かけて船を造らせるという記事があります。その船は非常にすぐれたもので、六昼夜で中国へ帰ったと記録されています。このように見てみますと五島列島は、航海の技術と人的資源、それから航海に要する非常に優秀な構造船の造船技術をも持っていた、大航海のあらゆるニーズに対応する一大基地であったのではないかと考えられるわけです。こうした五島列島を中心とする海人のネットワークがおそらく中世の倭寇にもつながっていったのではないかと考えておりまして、倭寇は倭の名を冠せられながら、おそらく日本人だけではない、国際的な集団だと考えられるのです。
 さらにずっと古くさかのぼってみますと、奄美大島や琉球の特産品でゴホウラガイやイモガイという大変大きな貝がありますが、これを利用して二五〇〇年ぐらい前からすばらしい大形の腕輪が作られていましたが、この腕輪の流通については私の後輩でもある熊本大学の木下尚子さんという大変すぐれた考古学者が研究しておられます。二五〇〇年前から何ゆえにこうした貝輪が作られたかというと、これは中国大陸や朝鮮半島に特有の玉でできた腕輪、あるいは青銅でできた腕輪の代替品として似たような光を持つブレスレットを日本でどのようなかたちに作るかということで、この奄美大島あるいは琉球の特産のイモガイやゴホウラガイが選ばれたのではないかといわれています。これらの貝は黒潮に乗って、特に西日本で弥生時代から流行しますし、吉野ヶ里あたりでも大流行します。半製品の状態に加工した貝を黒潮に乗って、南西諸島から日本列島を北上させていったのが、この北九州の五島列島から響灘(ひびきなだ)沿岸までの大きなネットワークを持つ海人の集団であり、彼らが日本列島の服飾品の流通を支えていたのではなかったでしょうか。

環日本海域の文化・文明的可能性

青柳

 ありがとうございます。最初に申し上げました一つ目は、自然環境や文化環境について、それから今、海と文明の関係をお話しいただきました。今までのお話でおわかりのとおり、地中海と日本海はかなり似ているところ、あるいは似ていないところがある。けれども、ダイナミックに眺めてみよう。それからネットワークあるいは情報が非常に重要な役割をしているのだということが浮かび上がってきているかと思います。
 最後にもう一巡して少し意見を闘わせたいと思いますが、これからの環日本海域、日本海地域の文化、文明へどのような可能性が海を中心にして考えられるのかということを四人の先生方にお話しいただこうと思います。それでは、まず小泉先生からよろしくお願いいたします。

小泉

 基調講演で青柳先生はグローバリゼーションの話をされました。私はグローバルな世界が一体化されていくというのは二〇世紀にもう最高潮に達しだのではないかと思います。二〇世紀に二つの世界大戦がありました。そのことによってグローバルな一つの世界が作られ、この過程においていやおうなしに地域的な世界がそのシステムの中に組み込まれてしまったということがあります。組み込まれてしまった地域的な世界のまなざしが今復活しつつあり、復活させないといけないと思います。それが最近日本でも世界でも盛んになってきている地域研究だと思うのです。そういった地域的な世界は地中海世界あるいは、古代オリエント世界に見ることができるでしょう。そのための地中海と日本海の比較検証のシンポジウムであると私は理解しているし、そのための日本海学であると思います。
 このような視点で地中海世界を見ますと、地中海の周辺にあった諸国は、民族が同じであったり、価値観が同じであって地中海というグローバルな一つの世界として一体化していたわけではないのです。経済的な発達の段階が違っていたり、社会の経済構成体が違っていたにもかかわらず、例えばフェニキア人たちが行ったように、海岸の諸都市が海上交易を活発にするために都市同盟を結ぶことが紀元前になされているわけです。世界的な情勢が地中海時代とその地域とでは二一世紀の始まりの環日本地域とずいぶん違うけれども、歴史に学んで、私たちは環日本海地域において構造的な複合体を日本海を中心として構築していくことが日本海学の目的であると認識しております。
 出版された『日本海学の新世紀』を見てみますと、循環や共生、日本海という概念によって定義付けられた日本海学が提唱されております。これは理論的な構築です。これだけで終わったのでは絵に画(か)いた餅です。例えば、日本海学の具象的、具体的なシンボルとして日本海ミュージアムのようなものを設立したいと願っております。今日のシンポジウムの主催は、富山県、日本海学推進会議です。富山県庁の人たちによけいなお世話だと言われるかもしれませんが、これから少し具体的な提案をします。
 富山県には海王丸、海王丸パークがありますけれども、それだけでは物足りないので、これから五つほど富山県に注文をつけます。やれるかどうかは乞うご期待と私は個人的に思っています。
 二一世紀が始まってもう一年が過ぎようとしていますけれども、水資源が重要になることは非常に明らかであり、水資源を商売の材料にしようという国がすでに出てきていたりします。この水資源が非常に大事であることは第一回目のシンポジウムでも発言してありますので繰り返しませんが、水というのはまさに循環の具体的な表れです。富山県では立山から始まり、地下水あるいは河川水になって富山湾に入ってきます。富山県の水資源は非常にすばらしいので、富山県では水の博物館も企画しているようですけれども、いろいろなものを並べる出店方式はやめるべきです。重複を避け無駄を省き、管理運営の所在を明らかにする上でも統合して集中型にする必要があります。
 二つ目には、大阪をはじめ各地には自然史博物館があります。博物館といえば普通はいわゆる自然史博物館ですが、それだけでは不十分です。自然科学に限定せず社会科学や人文科学なども組み込んだ総合料学館を指向するとともに、地元の人とあらゆる面で連携する参画型の博物館にする必要があります。
 三つ目は、学校、研究所、役所、県庁の人たちが、通常は一年ですが一年は短すぎるので、三年ぐらいをめどに研修する場所にすることです。博物館で勉強したことを現場に持ち帰り、そこで普及活動や、それを生かす方策をする交流型制度を導入していくことが必要です。
 四つ目は、日本海博物館は、日本海学が中心になって理論的な構築がなされていますから、日本海学の知的サービスをする必要があります。日本海学をしっかりと踏まえた社会教育施設、文化施設、博物館あるいはミュージアムを拠点として地域住民の意識向上、文化振興を行っていかなければなりません。
 そのための中心になるのは県政ですから、県政をミュージアムのメッセージやテーマとして伝える手段に使っていきます。そのことによって館の活動が非常に継続的になるし、日常的な利用を促すことになります。通例の博物館施設が最近問題になっているのは、入場者がだんだん減ってきていることです。それは内容の展示や催しに問題があるからで、テーマやメッセージを県政を通じて伝えていく一つの場にするということで一体化することができましょう。
 五つ目としては、最初に話しましたように海王丸を係留していますが、海王丸自体は動きません。これは非常に困ったことです。今はテレビその他をはじめ動画、アニメーション、疑似体験の時代です。海王丸でいろいろなことを予め学んだ後に、それを県の練習船や調査船を使って、水産試験場などと博物館とが一緒になって実習航海のようなことを一週間くらいするのです。中学生や高校生、大学生だけでなく、今は週末二日が休みになり、生涯学習が緊急の課題になっています。社会人も含めて、ロープの結び方や食事の作り方、掃除の仕方などを学べる実技の場にしていこうという夢を実現化しませんかということを提案しておきます。

伊東

 私は環日本海文明の交流について具体的なことはあまり今まで言わなかったので、それをいくつか簡単に述べて、次に現在および未来のことについて申し上げたいと思います。
 まず過去については、非常に古いときから日本海には文明交流があったことがどんどんわかってきております。三つぐらいに限定しますが、まず縄文時代です。縄文時代に玦(けつ)状耳飾りがあります。これは玉で作られた耳飾りで、一部に切れ目が入ってC字形となったイヤリングです。これは富山県の埋蔵文化研究所の藤田富士夫さんが非常によく研究されているのですが、それがどういうところで一番早く発見されたかというと、紀元前七六〇〇年ぐらいに遼寧省の査海(さかい)遺跡で発見されて、それが一番古いのです。そして紀元前七〇〇〇年ぐらいに中国の河姆渡(かぼと、→注20)に伝わるのですが、それと同じころもうすでに富山県に玦状耳飾りが来ているわけです。一方は南中国の河姆渡へ行き、一方は日本海沿岸に行く。そして河姆渡から中国の他の地域へまた広がってゆき、日本でも九州から北海道まで広がりますが、広がり方は日本の方が早いのです。これはやはり日本海を通して当時としてはこのようにすごい速さでものが伝播普及していったことがわかります。これは縄文早期後半のことです。
 第二番目には、古墳時代早期に、四隅突出型方墳(→注21)があるのです。これは富山、出雲、北陸の日本海岸だけに見いだされるもので、非常に特殊な方墳で、四隅に袋のような足が張り出した古墳発生期の特異な方形墳墓ですが、これがどういうわけか日本海沿岸に点々と見いだされる。今では北朝鮮の高句麗の都であった集安にその原型らしきものが見いだされているのです。これは観念として伝播するのですが、日本海を突っ切って来て広がったと言わざるをえないのです。
 第三番目に、歴史時代に入ると渤海との交流があります。渤海から日本に三四回も使節が来て、日本からは一三回も行っているのです。これも日本は海岸民族ではない証拠と思います。やはり日本海を突っ切って行っているわけですし、向こうからも来ています。遣隋使、遣唐使を挙げるまでもありません。航海術は船がすごくよくできていた、束アジア海を突っ切るようなものができていたというお話もありました。渤海を通して最古の宣明暦もそこから入っています。ですから、その目になって見れば私はずいぶんこの交流はあったと思うのです。交流がなかったという前提で見るからいけない。あるとして考えればどんどんこれからも新しい発見が出てくるのではないかというのが私の感じです。大いに発展させるべきではないでしょうか。
 さて、現在および未来。まず現在の課題として、歴史認識の共有化を図る。互いの交流についてあまり知らなすぎます。それを探究し、知識を共通化していくことによってまさに相互依存のことがわかってきて、いろいろな行き違いが解消されるのです。歴史認識を共通化していくためには共同研究が必要でしょうけれど、こういうことを環日本海的に進めていくことが大事なことではないでしょうか。
 第二番は経済交流です。今や一国だけでは経済は成り立ちません。二一世紀はなおさらそうです。環日本海的な経済的交流、つまり物資と技術と情報が豊富に交換されて、例えばシベリアの天然ガスの開発、それから水の問題、そういうことが資本の侵略ではなくて、足らざるものを受け、余ったものは分かち与えるという互恵の交流が環日本海的な規模でもっとなされていくことが大切なのではないかと思います。アメリカとASEANだけを見るのではなくて、朝鮮半島、中国、ロシアと平和な明るい交流がなされないといけないと思います。
 さて、第三番目、環境問題はやはり重要です。環境問題は一国で解決できない問題ですから、環日本海の環境保全を共同で行う。日本の科学技術がずいぶん役に立つでしょう。共同認識と作業によって、日本海を改めて「豊かな森の文明圈」にします。その点は地中海と違うのです。それを大切にすべきだということです。これを一言で言うと、結局は環日本海の共生、一緒に生きる(コンヴィヴィアリティ)ということです。共生であり、また日本海の平和の維持なのです。これに向かっていかなければいけない。日本海を「平和の海」にする ――― これがやはり二一世紀の日本の一つの大きな課題だと考えます。

トビ

 将来に向かって何かメッセージ、何か考えがあるかと言いますと、私は歴史家としていつも過去を見ている人間です。と同時に、自分自身としては将来に向かっていろいろ希望を持っているわけです。先程、伊東先生は、シナという言葉は中国ではあまり好まれていないということと、東中国悔や中国海では中国の領海というきらいがあるからだめだというので、来アジア海とおっしゃったわけです。いっぽう「日本海」という名称は、西洋文明のすべてに代わって、それを代表しておわびを申し上げる資格は毛頭ありませんが、もともとは大航海時代の結果、西洋人が「マーレジャパネ-ゼ」「マーレジャパーネ」という名称を付けてしまい、幕末・明治期になって日本がそれに気づくと、うれしい、ありがたいということで、定着してしまったのです。それまでは北ツ海でした。韓国、朝鮮ではこれを自分の国ではなくて、自分の国の東にある海であるということで「東海」と言います。また日本人は今、「北海道」と言いますが、日本の歴史をずっと見てみますと、北海道が北になったのは最近なのです。昔は「蝦夷(えぞ)」と呼んでいた。そこになぜ「東」の字を付けるかというと、日本の東と意識されたからです。東夷の東です。北ではないのです。矛盾ではないですか。富山は北陸地方に属しているのに、北海道とは呼ばない。どちらが北なのですか。だからこれをもう一度日本語で北ツ悔というネーミングに戻す。そうすると初めて韓国や朝鮮と共有の対話ができるようになるわけです。それをしない限りネーミングのけんかにもなるわけですが、残念ながら国際会議があって、海のネーミングを変えるにあたって大変な官僚的な手続きを取らないといけないということもあります。
 そして環日本海あるいは環北ツ海の地域を考えるにあたってもう一つ考えないといけないのは、北ツ海が太平洋沿岸の日本と一番近くつながっている。これも古代国家にとって肝心なことです。私は一年間だけ京都大学の客員教授をして京都におりました。いわゆる鯖(さば)街道(→注22)、小浜から京都に抜ける道沿いに往んでいました。敦賀から大阪に抜ける、あるいは敦賀から伊勢湾に抜ける、この近くにあることを利点にして日本海沿岸、特に富山の"周辺化"を止めて、関東と太刀打ちできる新しい中心を作ることを考えないといけないと思います。これはもちろん政治的な問題であり、大変な問題であるということはわかります。
 この逆さ地図でもう一つ明らかなことは、茶色が山で、緑色が平坦地あるいは農業ができる地域です。また、人口が集中しているのもこの緑色のところなのです,古代朝鮮を初めて統一したのは新羅ですが、新羅の国都は慶州(キヨンジユ)にあり、日本海に向かっていたのです。しかしそれ以後の高麗時代は開城(ケソン)に一つの都城を造って、もう一つ平壌(ピョンヤン)にありました。そして朝鮮王朝時代は漢城(ハンソン、今のソウル)に拠点を移したわけです。それらはすべて、人口、文化、経済力が集中している黄海側に向かったところへ移ったわけです。朝鮮半島の日本海(東海)側は黄海沿岸あるいは太平洋沿岸の日本に比べると人ロが非常に少ない。だからまさしく小泉先生がおっしゃったとおり、そこの資源、循環性、再生力などを生かした環日本海域を復活させ、それを研究し、関西と一体化して世界へ発信すると大変な役割を演じることができるのではないかと思います。そうすることによって、一〇年前はお互いに口をきかない国々が日本海(北ツ海)の周りにあったわけですけれども、ソ逓が崩壊して、今、朝鮮半島で南北対話もできているし、新しい平和へのメッセージを生み出すこともできるのではないかと希望的に考えたいと思っております。

武田

 一言だけ申し上げたいと思います。日本列島津々浦々という言葉がございましたが、今はほとんど死語になっているのではないでしょうか。津々浦々という言葉は〈海でたどる日本〉という概念ですが、ほとんど今はどういう場面でも聞きません。これはなぜかというと、海からの視点が欠落したということを文字どおり表しているのだと思います。自動車道が整備され、自動車道の整備から一番取り残されたのは漁村です。例えば車で走っていて袋小路に入ってしまうのは漁村なのです。漁村は海からたどるということを考えていますから、陸よりも海に向かっているところなのだと思います。
 私は出雲から京都の丹後半島の峰山というところまで鉄道で行ったことがあります。地図上では大した距離ではないのですが、出雲から峰山町まで四回乗り換えをして六時間かかってしまったのです。これではいったん岡山まで出て京都まで新幹線に乗ってそこから行った方が早かったのではないかと思うぐらいなのです。山陰本線はいまだに単線のままですし、本当に日本の行政のひずみが凝縮されていることを実感いたしました。
 やはり徹底的に海からの視点が欠落した結果、このようなことになっているのだと思います。私が逆さ地図を富山県の方から見せていただく少し前に、志賀島(しかのしま)、さきほどお話しした『万葉集』の悲劇の主人公の志賀の海人がいたところですが、ここで見たのは、志賀島を中心とした環日本海地図でした。ここから奈良・東京への距離と朝鮮半島・中国へのそれを較べてみると、断然中国や朝鮮半島の方が近いのだということが目に見えるかたちで示された逆さ地図でした。このように考えていきますと、歴史認識を共有するためにも海からの視点が非常に重要であることがわかります。エールフランスに先取りされるのではなくて、やはり共通の認識として、共有の財産として逆さ地図を日本人全体が持たなければならないのではないかと思います。

青柳

 どうもありがとうございました。それぞれすばらしいご意見をいただいて、今日のシンポジウムの趣旨に到達できたと思います。最後に私からも一言お話し申し上げたいと思います。
 最近続けて日本でもノーベル賞が出ています。三〇人ぐらい日本からもノーベル賞受賞者を出したいと言っていますけれども、日本の社会状況等を考えると、ノーベル賞を取るためにあまり国の税金を使うというのは決して効率のいいことではない。日本の今までのいろいろな歴史的、文化的な、あるいは自然環境等から考えますと、ある意味で家電方式がいいのではないか。つまり松下、シャープ、三洋はみんな大阪ですね。それの研究のあり方、知恵の出し方を見ると、家電方式が日本人には向いているのではないかと。日本というのは競争社会ではなくて、ある意味では高原社会です。かなりフラットだけれどかなりの高さを持っています。ですから学問や技術もとんでもないオリジナリティのあるノーベル賞というよりも、もう少し下だけれども、全部がいいレベルまで行っているものを組み合わせてある研究をしていくと、なかなか世界でもできないことができます。
 例えばついこの間まで「made in Japan」「made in USA」と製品には「made in」でした。ところが最近は「made in 何々」よりも「assembled in 何々」、どこで組み立てたかなのです。品物はとこから来ているかわからない。そのように変わりつつあります。ですから、例えば日本海という場を課題にして、そしてある一定レベルに達しているそれぞれの領域の知識、情報、技術等を環日本海の韓国あるいはロシアや日本が集合していけば、かなりおもしろい、そして将来の我々の子孫にも貢献できるような研究ができるのではないか。そういうことを今日、皆さんのお話を聞いてつくづく思いました。

伊東

 大阪との関係で一言だけ言わせていただけますか。大阪という関西は日本海沿岸などは関係ない話だと思われるかもしれませんが、これはとんでもない話で、北前船というのがあったわけでしょう。出羽、庄内、新潟の穀倉から米を運んで延々とやって来て瀬戸内海へ入り、大阪が終着駅なのです。ここから全国にディストリビュート(分配)されるわけですから、非常に大阪は日本海と関係があります。ここ大阪はまた出発点でもあり、北前船は瀬戸内海を通って北海道の松前まで行ってしまうのです。そして松前から昆布などをもってくるわけです。大阪の食文化では昆布がないと困ります。そういう日本海のものはたくさん大阪に入っているのです。それから遂に大阪の言葉が日本海側に点々と伝わっていきました。年に一〇〇〇艘交流したということは、冬の日本海は荒海でだめですから、半年だけにして計算すると、毎日六艘ぐらいが行き来していたことになるのです。この交流はすごいじゃないですか。だから大阪から見ると日本海が遠いと思うのは、鉄道ができて大阪と東京とが直接結ばれてそちらの方ばかりに目が向いてしまった以後のことであって、それまではずっと非常に密接な関係があったのです。ですからもう少し海の視点も入れてください。

トビ

 さらに大阪の繁盛が北前船によってもたらされたのは、この辺の穀倉からの穀物だけではなくて、もっと基本的に日本海伝いで来たものがあって、しかもそれは富山の商人が非常に密接な関係を持っている商品です。それは何かというと、肥料です。江戸時代の蝦夷地でイワシ、ニシンなどを捕って、それを粉にして肥料にして商品として大阪までもって来て、それで初めて本格的な二毛作、三毛作ができるし、大阪の綿花作りが可能になった理由はそこにあるわけです。ニシンをまずゆでて、それを乾燥して粉にして俵にして、そしてここまで持ってきて、そこで畿内の綿花農業が成立するわけです。それを担ったのは越中(今の富山県)の商人たちでした。彼らはその船を持っているだけではなくて、資本を出して蝦夷地でニシンの請負場を持って、そこで蝦夷人(アイヌ)を雇って漁をさせて持ってきているわけですから、大阪の近世的繁盛は越中を抜きにしては考えられないから、感謝しないといけないこともあります。
 そして新幹線の話でもう一つ、例えば東海道新幹線ができたからみんな満足したわけですが、その一方で山陰本線がまだ単線であるということです。実はそれ以上に、東北新幹線はできたけれど、仙台から大阪へ行きたい場合(今はたぶん飛行機で行くでしょうが)、大阪へ新幹線で行くには東京で降りないといけません。皆さんには悪いけれど、関空も同じ思考で、米子がそのおかげで国際的に遠くなったのです。米子から伊丹へ行って、伊丹から国際線に乗り換えて海外へ行くことができなくなりました。だから伊丹に飛んで、それからバスなどに乗って関空へ行って初めて海外へ行けます。成田も同じような問題です。だから逆に今度は例えば大阪-京都-湖西線を新幹線にして、そして日本海が大阪と結ばれる、そして山陰本線も結ばれると、土木関係者たちはみんな喜びますからあまり主張はいたしませんが、夢としてそういう歴史があったらよかったなと思います。

 

注1 セム系民族  西アジア、北アフリカなどで使用される言語族であるセム語族のこと。セム系言語にはアラム語、ヘブライ語、アラビア語、エチオピア諸語など歴史的に重要な文化や宗教を担った言語が多い。

注2 ラルフ・リントン(一八九三~一九五三)  アメリカの文化人類学者。北米大陸で先史考古学のフィールドワークを、太平洋の島やマダガスカルで民族学的なフィールドワークを行い、ヨーロッパ圏外の諸文化の研究で多くの重要な貢献をする。また、多岐に分かれがちな文化人類学を総合化する努力もした。

注3 ハム系・セム系  セム語やハム語を使う民族のこと。前者はバビロニア人・アッシリア人・フェニキア人・ヘブライ人、後者はエジプト人・エチオピア人などが属す。『旧約聖書』のノアの三人の息子、セム、ハム、ヤペテに由来する。

注4 フェニキア(人)  地中海東岸で活躍したセム系民族。現在のレバノン南部に都市国家を築きギリシア人と覇を競った。紀元前九世紀後半、北アフリカに建設したカルタゴは、三次にわたるローマとのポエニ戦争を経て前一四六年に滅亡した。

注5 ビザンツ(帝国)  ローマ皇帝制度を継承し、ギリシア人を主体としたキリスト教国家で東ローマ帝国ともいう。三三〇年のコンスタンティノープル遷都が成立年とされ、イスラムのオスマン朝によるコンスタンティノープル征服(一四五三年)により滅亡した。

注6 ヌミディア   現在のアルジェリアのあたりをさす古代ローマ領の呼称。はじめカルタゴと接触したが、ポエニ戦争などを経てローマの属州となった。四二九年、ゲルマン民族の一つヴァンダル族に征服された。

注7 阿倍比羅夫   七世紀の武将。斉明四年(六五八)以降、数次の遠征で、秋田、能代、津軽などの蝦夷を従え、粛慎とも戦った。天智二年(六六三)の朝鮮半島での百済救援戦(白村江(はくすきのえ)の戦)にも将軍として出征した。

注8 『日本書紀』の粛慎記事  三月に、阿倍臣〈名を闘(もら)せり〉を遣して、船師二百艘を率て、粛慎国を伐たしむ。阿倍臣、陸奥の蝦夷を以て、己が船に乗せて、大河の側に到る。是に、渡嶋の蝦夷一干余、海の畔に屯聚(いは)みて、河に向ひて営す。営の中の二人、進みて急に叫びて曰はく、「粛慎の船師多に来りて、我等を殺さむとするが故に、願ふ、河を済(わた)りて仕官(つか)へまつらむと欲ふ」といふ。阿倍臣、船を遣して、両箇の蝦夷を喚し至らしめて、賊の隠所と其の船数とを問ふ。両箇の蝦夷、便ち隠所を指して曰はく、「船二十余艘なり」といふ。即ち使を遺して喚す。而るを来肯へず。阿倍臣、乃ち綵帛・兵・鉄等を海の畔に積みて、貪め嗜ましむ。粛慎、乃ち船師を陳ねて羽を木に繋けて、挙げて旗とせり。棹を斉めて近つき来て、浅き処に停りぬ。一船の裏より、二の老翁を出して、廻り行かしめて、熟積む所の綵帛等の物を視しむ。便ち単衫に換へ着て、各布一端を提げて、船に乗りて還去りぬ。俄ありて老翁更来て、換衫を脱き置き、并て提げたる布を置きて、船に乗りて退りぬ。阿倍臣、数船を遣して喚さしむ。来肯へずして、弊賂弁嶋(へろべのしま)に復りぬ。食頃ありて和はむと乞す。遂に聴し肯へず。〈弊賂弁は渡嶋の別なり〉己が柵に拠りて戦ふ。時に、能登臣馬身龍、敵の為に殺されぬ。猶戦ひて未だ倦まざる間に、賊破れて己が妻子を殺す。
(『日本書紀』日本古典文学大系、岩波書店による)

注9 エーゲ文明  紀元前三〇〇〇年頃から前一二〇〇年頃にかけてエーゲ海とその周辺で栄えた青銅器文化の総称。とくに、前二〇〇〇年頃に成立したクレタ島のクレタ文明と、前一七〇〇年頃にギリシア本土で成立し、やがてクレタ文明にとってかわったミケーネ文明をさす。

注10 アーノルド・トインビー(Arnold Joseph Toynbee 一八八九~一九七五)  イギリスの歴史家。国家単位の歴史観を批判し、文明を単位とした巨視的な世界観を提唱した。主著『歴史の研究』全一二巻(邦訳全二五巻、経済往来社)。

注11 エラムの文明  紀元前三〇〇〇年代の半ばから前七世紀半ばまで、イラン高原南西部を支配した民族による文明。

注12 「日出ずる処の天子、日没する処」  推古一五年(六〇七)、時の皇太子である聖徳太子が隋の煬帝(ようだい)に宛てたとされる書簡の中に見られる冒頭の文言。

注13 山田長政(一六三〇年、寛永七)  一六一二年(慶長一七)頃シャム(タイ)に渡航し、首都アユタヤの日本人町の長となった。国王の信任を得て最高の官位を得たが、王の死後、左遷され、毒殺された。

注14 徐福  司馬遷の『史記』の「秦始皇本紀」などに徐福(あるいは徐市(じょふつ))の記述が出てくる。神仙思想に強くひかれる始皇帝に対し、徐福は、「海中に蓬莱(ほうらい)、方丈、瀛洲(えいしゅう)の三つの神山があり、そこに陛下のために(不老不死の)神仙を求めたい」として、数千人の童男童女を伴い渡海すると申し出たが、約を果たさなかった。巨万の費用を使いながらいつまでも仙薬を得られない徐福に始皇帝は激怒したが、結局は許され、徐福は再び三神山を目指して渡海したという。渡海先は日本であったとされる。
 一九八二年、江蘇省連雲港市にかつて徐福村と称していた地が発見され、徐福を実在の人物として顕彰し、日本との間で文化交流も行われている。
 徐福の一行は、金・銀・銅・水銀をもたらしたほか、稲作・養蚕・機織などの技術をもった集団であったという説もある。

注15 モーロ(moro スペイン語)  ムーア(moor 英語)とも。北アフリカのマグリブ地方(モロッコ、アルジェリア、チュニジアなど)を中心に居住するアラブ・ベルベル系の民族。七世紀末からイスラム化、アラブ化かすすみ、七七一年にはスペインに侵入、征服した。スペイン支配は一四九二年一月、レコンキスタ(再征服)運動により、グラナダが陥落するまでつづいた。スペイン南端とモロッコの間に横たわる最狭部幅約一四キロメートルのジブラルタル海峡は、古代から今日に至るまで地中海の出入口を扼(やく)する要衝としてありつづけている。

注16 コロンブス(Colombo イタリア語、 Columbus英語 一四五一?~一五〇六)  イタリアのジェノヴァ生まれの航海者。レコンキスタによるグラナダ陥落の直後の一四九二年八月、スペインのイザベラ女王の援助を受けた第一回目の航海で、バルマ諸島のサンサルバドルに到達した。

注17 バスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama 一四六九?~一五二四)  ポルトガル人の航海者。国王マヌエル一世の命により一四九七年七月にリスボンを出航、喜望峰を回って、九八年五月にインドのカリカットに到達した。

注18 『万葉集』巻一六、筑前の国の志賀(しか)の白水郎(あま)の歌一〇首
 大君の遣はさなくにさかしらに行きし荒雄(あらを)ら沖に袖振る荒雄らを来(こ)むか来(こ)じかと飯盛りて門に出で立ち待てど来まさず
 志賀の山いたくな伐(き)りそ荒雄らがよすかの山と見つつ偲はむ
 荒雄らが行きにし日より志賀の海人の大浦田沼(おほうらたぬ)は寂(さぶ)しくもあるか
 官(つかさ)こそさしても遣(や)らめさかしらに行きし荒雄ら波に袖振る
 荒雄らは妻子(めこ)が業(なり)をば思はずろ年の八年(やとせ)を待てど来(き)まさず
 沖つ鳥鴨といふ船の帰り来(こ)ば也良(やら)の崎守(さきもり)早く告げこそ
 沖つ鳥鴨といふ船は也良の崎廻(た)みて漕ぎ来(く)と聞こえ来(こ)ぬかも
 沖行くや赤ら小舟につと遣らばけだし人見て開き見むかも
 大船に小舟引き添へ潜(かづ)くとも志賀の荒雄に潜き逢はめやも
 右は、神亀年中に、大宰府、筑前の国宗像(むなかた)の郡(こほり)の百姓、宗形部津麻呂(むなかたべのつまろ)を差して、対馬送粮(そうりやう)の船の柁師(かぢとり)に宛つ。時に、津麻呂、滓屋(かすや)の郡志賀の村の白水郎、荒雄がもとに詣(いた)りて、語りて日はく、「我れ小事有り。けだし許さじか」といふ。荒雄答へて日はく、「我れ郡を異にすといへども、船を同じくすること、日久し。志(こころ)は兄弟より篤く、殉死することありとも、あにまた辞(いな)びめや」といふ。津麻呂曰はく、「府の官、我れを差して、対馬送粮の船の柁師に宛てたれど、容歯(ようし)衰老(すいらう)し、海路(うみぢ)にあへず。ことさらに来りて祗候(しこう)す。願はくは、相替ることを垂れよ」といふ。ここに、荒雄許諾(ゆる)し、つひにその事に従ふ。肥前の国松浦の県の美禰良久(みねらく)の崎より船を発(い)だし、ただに対馬をさして海を渡る。すなはち、たちまちに天暗冥(くら)く、暴風は雨を交へ、つひに順風なく、海中に沈み没(い)りぬ。これによりて妻子ども犢慕(とくぼ)にあへずして、この歌を裁作(つく)る。或いは、筑前の国の守、山上憶良臣、妻子が傷みに悲感(かな)しび、志を述べてこの歌を作るといふ。
 (『万葉集』〈角川文庫〉による)

注19 藤原広嗣の乱  奈良時代の中期(七四〇年、天平一二)大和国守から大宰少弐に左遷された藤原広嗣が対立する天皇側近の玄昉(げんぼう)、吉備真備(きびのまきび)らを非難し挙兵したが鎮圧され、敗死した。時の聖武天皇は乱のため平城宮を離れ、恭仁(くに)、紫香楽(しがらき)、難波(なにわ)と宮都を転々とし、政局は混乱した。

注20 河姆渡遺跡  中国の浙江省にあり、一九七三~七八年に発掘調査が行われ、ここの最下層から玦が出土、またその上の層からは、大量の稲籾(いなもみ)や稲作農具が出土している。放射性炭素測定では、これらはいまから七干~六千年前のものと推定されている。

注21 四隅突出型方墳  「四隅突出型墳丘墓」とも呼び、現在後者のほうが一般的。藤田富士夫氏の『古代の日本海文化』では、この墳墓を四隅突出型方墳と呼び、古墳発生期の墳墓と考えている。それに対して、弥生時代終末期の墳墓であり、古墳時代の古墳と一線を画すると考える研究者は「四隅突出型墳丘墓」の用語を使っている。

注22 鯖街道  若狭湾(今の福井県小浜市周辺)から日本海の魚を京へ運んだ近世の街道をさす。いくつかの道筋があったが、夜半に、主として塩鯖を背負って若狭湾岸を出発し、夜通し歩いて午後には京に着いたという。