大学等連携事業

日本海学夏季セミナー 「日本海学とグローカルヒストリー」


本講演録は、日本海学推進機構事務局の責任で取りまとめたものです

2003年度 新日本海学夏季セミナー
2003年8月9日
富山市安田生命富山駅前ビル
地下1階ホール

講師 川勝平太 氏
国際日本文化研究センター教授

 


 これからの学問は、グローバル(地球的)な視野をもちつつ、ローカル(地域的)な拠点に根ざしたグローカロジー(地球地域学)が理想です。日本海学はグローカロジーの一つです。学問には「無用の用」という面があり、必ずしも有用でなければならない筋のものではありませんが、日本海学の場合は、有用であり実践的であることが望ましい。その実践的目標は環日本海地域の地域おこしです。それが重要なのは、東京に一極集中し、太平洋側の都市部に産業集積がみられる現在の日本では、日本海側の地域がかつてのように元気になって、均衡ある国土の姿をとりもどすことが求められているからです。以下では、文明の海洋史観の立場から「環日本海地域」の来し方と行く末について論じます。

1.洋学の受入れ

 「日本海学」は新しい学問であり、まだ体系的ではありません。どのような意味で新しいかというと、「新しい実学」だという意味においてです。「実学」というのは、明治維新の頃から使われはじめました。日本政府は明治5年に学制を定めて、洋学の受容と普及にのりだしました。洋学は「実学」ともいわれました。日本において西洋のような近代文明を形成するのに有用な学問という意味です。以来、130年が経過しました。それは洋学の受容・発展・土着化の歴史だったといえます。今日では、4年制の大学の数は700、短大をふくめると大学の数は1200を超え、大学で研究・教育に従事している教員の数は17万人にのぼります。そのほぼすべてが日本人です。日本人の研究者が日本の青年に日本語で「洋学」を教えるまでになっています。お雇い外国人教師の手ほどきを受けて始まった洋学は、今日ではノーベル学賞受賞者を出すまでになり、いまや洋学を日本社会に入れきったと言えるでしょう。別言すれば、洋学が土着化したということです。洋学が土着化する過程は日本に西洋諸国を凌駕する近代文明が形成される過程でもありました。そして、洋学の受容も、近代文明の形成も達成されたといってよいでしょう。日本は押しも押されもしない先進国になって21世紀を迎えています。
 近代西洋文明は日本において花開き、それを支えた知的体系としての洋学は土着化しました。それは近代文明のはらむ固有の問題をもかかえこむことでもありました。たとえば、大量生産、大量消費、大量廃棄に伴う自然破壊であり、深刻な環境問題であり、過疎問題であり、コミュニティの喪失の問題などです。それらの問題を念頭において、新しい地域社会を形成しようという動きがでてきました。地域社会を再生するためには、地域のことを知らねばなりません。近代の学問の基礎の上に、地元に立脚した新しい学問をもつことが大切です。明治維新では、江戸時代の分権体制を廃し、新たに一極集中して日本を西洋化することが目的でしたが、21世紀の日本は、一極集中を脱して、地域分権化し、各地域が国際競争力をつけることが課題になっています。地域力をつけるためには地域を知らねばならない。それは地域が自立するためです。そうした実践的課題を背負って出てきた学問の一つが日本海学だと考えます。
 日本海学の位置づけをするために、日本における学問の流れを、ごく大まかにですが、振り返ってみましょう。 
 先ほど述べましたように「洋学」は明治初期から本格的に導入されたのですが、江戸時代にオランダから蘭学として医学、物理学、軍事学などの西洋の学問の一端は紹介されていました。しかし、あくまで部分的で、江戸時代の学問の主流は儒学でした。それが転換するのが明治維新です。より正確にいうと、明治4年に江藤新平がごく短期間ですが文部行政の責任者になったのが流れを決めました。王政復古がなって、これから育ってくる日本の若者にどのような学問を教えていくのかについて、侃々諤々の論争があったのです。江藤が文部行政の長に就任したのは、その論争に決着をつけるためでした。当時の教育論争には三つの意見がありました。一つは国学派の意見で、王政復古なのだから国学を教えるべきだというものです。『古事記』や『万葉集』を勉強させるべしという主張です。もう一つは、当時の識者の教養は四書(『論語』『孟子』『大学』『中庸』)と五経(『易経』『詩経』『書経』『礼記』『春秋』)でした。これらを青少年に教えなければならないという主張です。そして、三番目は、日本が直面している課題は西洋列強に対峙することなので、西洋で学ばれている知的体系を日本の青少年もしっかり学ばなければならないという意見です。江藤は国学も漢学の素養のある人物でしたが、国家的課題について明確な自覚をもっていたので、これからの時代の学問は洋学だという考えで「洋学のまる写しをもって施行するべきものなり」という決定をくだしました。それ以後、今日に至るまでの日本の学問の大方針になりました。
 しかし、当時の日本には洋学者はいません。それで、西洋から学者に来てもらうか、西洋諸国へ留学して学ぶしかない。大勢のお雇い外国人が高額で招かれました。官庁のお雇い外国人の数は明治5年で214人、明治8年には527人もいました。今日の発展途上国は海外援助をあおいでいます。日本もODA(政府開発援助)で海外の発展途上国に資金や教師を日本の負担で派遣していますが、明治の日本人は、すべて自国でまかないました。お雇い外国人の給料はきわめて高額でしたが、人材を育てる投資として、だれも文句を言いませんでした。ドイツ人のベルツであれば講義はドイツ語で医学を講義し、フランス人のボアソナードは民法をフランス語で、モースは動物学を英語で講義し、学生は辞書を片手にあらゆる分野を学習したのです。
 「洋学」を促進するために論陣を張ったのは福沢諭吉です。福沢は、明治5年に『学問のすすめ』を著し、そこで、一国の独立の基礎は一身の独立にあり、一身の独立は学問にある、と説きました。では、どういう学問をするのか。国学や漢学ではなく、洋学です。彼はこれを「実学」と言いました。実学の目的は、列強に伍して万国に対峙できる独立国をつくりあげることです。その後、福沢は明治8年に『文明論之概略』を著し、日本の目標は「西洋の文明を目的とすること」と明確に述べています。西洋文明に匹敵する文明を構築するために西洋の知的体系を学習するのだという明確な認識を福沢はもっていたのです。以来、「実学としての洋学」が近代日本の学問になりました。
 それは日本人の目の置きどころを、それまでの日本海から、太平洋へと転じる契機でもありました。
 今年(2003年)はペリーが浦賀沖に来航してちょうど一五〇年目ですが、ペリー来航を契機に西洋列強と和親条約、通商条約が結ばれ、1859年に横浜が開港しました。横浜はそれまでは寒村であったのですが、新しく建設してできた港町です。横浜は日本の窓口が太平洋に向けて新しく開いたことを象徴しています。それは「太平洋の時代」の到来を告げました。太平洋をはさんで日本の対岸にアメリカが位置し、アメリカは大西洋をはさんでヨーロッパと大西洋経済圏を形成していました。アメリカ人やヨーロッパ人が学んでいる学問を日本人は主体的に学んできました。西洋列強と同じ富国強兵の国づくりをしてきたのです。
 学問の西洋化は、生活・制度・文化・社会の全般にわたる日本の国の形を西洋化する一環でした。本日、この会場には一人として和装している人はいません。今や洋装は日常化しています。また、この会場は安田生命ホールですが、「ホール」という英語をカタカナで日本語として使い切っています。学校や社会で用いる日常生活に必要な日本語の言葉の数は7万語ほどです。それに加えて、コーヒー、ラジオ、シンポジウム、カルチャー・センター、IT(情報通信技術)、BS(衛星放送),NHKなどのカタカナ語やアルファベット略語が使われています。これらは西洋からの外来語です。今では「カタカナ辞書」も出ています。たとえば、小学館の『ポケット・カタカナ語辞典』には2万をこえるカタカナ語と2千のアルファベット略語を載せています。「カタカナ辞書」に載っていませんが、TOYOTAやSONYなどの社名は世界中で有名です。漢字は表意文字、ローマ字は表音文字の代表です。日本にとっては、漢字もローマ字も舶来文字ですが、漢字を土着化させたように、ローマ字も土着化させたといってよいでしょう。これらのことに見られるように、今日では西洋の文物で日本にないものはないほどです。学問も同様です。私は、日本人は洋学を受容し切ったとみなしております。洋学に応じて作られてきた西洋の国の形をそれなりにつくりあげているのです。

2.「海洋東アジア」の時代

 洋学を受容する以前の日本人には太平洋への関心はありません。江戸時代にはまだ「太平洋」という名称さえなく「東海」と言われていました。肥前や紀州や土佐辺りの東海で捕鯨をしていましたが、あくまで沿岸漁業の延長で、太平洋の対岸は未知の世界であり、日本とは無縁でした。
 とはいっても、日本人が太平洋の対岸をまったく知らなかったかというと、そうではありません。江戸時代初期、1612年に現在の宮城県の石巻から、伊達藩が、スペイン人の知識を借りてですが、帆船を自前で建造し、その船「サン・ファン・バウティスタ号」は2回太平洋を往復しています。歴史に「もし」は禁句ですが、もし、幕府が鎖国政策をとっていなければ、伊達藩あたりが主導権をにぎって、ロッキー山脈の西側(現在のカリフォルニア)に日本人が移住した可能性があります。当時の日本には山師という、金山、銀山、銅山の鉱脈を見つける専門家がいましたので、アメリカ人の19世紀におけるカリフォルニアの金鉱を、日本人が先に発見して、豊かなもう一つの「日本」ができていた可能性があります。日本は鎖国政策をとったために、太平洋の対岸との関係を絶って270年間を過ごすことになりました。
 江戸時代以前にあっては、日本人と付き合いのあったのは日本海の対岸地域です。韓国、中国から学問をとり入れていました。日本にとって重要な海は日本海、東シナ海、南シナ海でした。これらの海を取り囲む地域を全体として「海洋東アジア」と言っておきます。
 「海洋東アジア」は複数の「海」からなります。北から、オホーツク海、日本海、黄海、東シナ海、南シナ海、それにスル海、セレベス海、ジャワ海など東南アジアの多島海です。そのなかで、日本にとって特に重要であったのは日本海、東シナ海、南シナ海の三つの海です。
 「海洋東アジア」と比較できるのは、西洋では「北海・バルト海」「地中海」ですが、とりわけ「地中海」です。海洋東アジアと日本との関係は、地中海とヨーロッパとの関係に匹敵するでしょう。地中海を媒介にして、東方のアジアの文物が西のヨーロッパに舶来したように、海洋東アジアを媒介にして、西方のアジアの文物が東の日本に舶来してきました。
 日本は「海洋東アジア」から舶来品を受容しましたが、それはに波があり、波が変わると、日本の時代が変わりました。その点について説明してみましょう。その前に、日本の時代区分について、簡単に、説明しておきます。
 日本の時代区分を思い出してください。「古代奴隷制―中世封建制―近代資本主義」などと時代を区分する学者がいます。これは「古代―中世-近代」というヨーロッパ特有の時代区分と、「奴隷制―封建制―資本制―社会主義・共産主義」というマルクス主義の時代区分の組み合わせです。西洋起源の時代区分を日本史の奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、江戸時代などに当てはめてきたのですが、私の注目するのは、奈良、平安、鎌倉、室町、江戸などという地名による時代区分のしかたです。
 すぐに気づかれるように、日本人は、首都機能があった地名を、そのまま使って時代を区分しているのです。世界にはたくさんの国がありますが、首都機能のおかれた地名で時代を区分する国は、タイを例外として、ほかにありません。日本独自の時代区分です。ちなみに、首都とは元首の所在地として定義されますが、元首は通常は政治的な権威と政治的な権力とを合わせ持っています。ところが日本の場合、政治的権威は天皇が持ち、政治的権力は摂政、関白、将軍といった貴族や武士が持っており、権威と権力とが分離しているのが特長です。平安時代の初めまでは天皇が権威と権力を併せ持っていたのですが、平安の中期以後、権威と権力が分かれます。国民生活に直接関わるのは権力です。現在の日本でも首都機能すなわち立法・行政・司法の移転についての論議がありますが、そこでは権威の所在する皇居のことは論じられていません。行政・立法・司法の移転を首都機能の移転として論じているのです。つまり国家権力を東京からどこか別の地へ遷すという話です。権力の所在地としての首都が遷った場所で時代区分をしているのが日本の特徴です。首都機能のおかれた土地を見れば、日本の歴史の流れが非常によく分かるということです。

3.平城京から平安京へ

 どう分かるのかといいますと、奈良時代は奈良の都を唐の長安を模倣して建設しました。それ以前は天皇の住まいは「宮」と言ったのですが、「死は穢(ケガ)れ」という考えがありましたから、別の所に遷ります。それが奈良時代以後、皇居の位置が安定します。どうしてそうなったのかというと、唐の長安の模倣をしたからです。長安の模倣をする原因になったのは、奈良に都を建設する前に唐との戦争(白村江の戦い)で日本が大敗北したことです。敗北した日本は唐の力を認めて、唐の文物を受容する決意をしました。日本は、藤原京(694-710)を手始めに、奈良の平城京で唐の長安を模倣して中国の制度をとり入れました。奈良時代とは唐の長安の模倣の時代だといえば明快です。
 しかし、奈良では仏教勢力の力が強くなりすぎて、難波京、恭仁(くに)京などへ遷しましたが、最終的に長岡京を経て平安京に遷ります。平安京も同じく唐の長安の模倣の時代です。この時代には渤海使節が来たり、遣唐使が行ったり、唐の文物が舶来しました。平安後期になると文物の受容を一段落して、国風化に向かいます。ともあれ平安京が唐の長安の模倣であったという事実は変わりません。長安は今日では西安といいますが、黄河の上流の中国大陸の西北の奥地にあります。長安の文化とは中国の北の大陸文化です。そのエッセンスを首都の京都に受容したのが平安時代です。奈良・平安時代の日本は中国大陸の奥地にある長安を模倣した時代です。

4.鎌倉から室町へ

 鎌倉時代も中国の模倣です。ただし、唐ではなく、宋(960-1279)です。正確には南宋(1127-1279)の文化の模倣です。宋は北方の遊牧民のモンゴルや金などの侵攻によって追われて南に逃げます。そして南宋が建国されました。南宋も最後は元に滅ぼされますが、その前後に日本に元寇がありました。鎌倉時代は元に滅ぼされた南宋の影響を受けた時代です。
 南宋という国号から知られるように、それは南の海洋文化が栄えた時代です。南宋の首都臨安(現在の杭州)は揚子江の河口にあり、東シナ海に面しています。中国の風土は「南船北馬」といわれます。南は船を、北は馬を運搬手段とするというように、南北では文化風土が際立って違います。平安時代は、中国の長安という北の大陸文化の影響を受けたのですが、鎌倉時代は南の海洋文化の影響を受けたのです。その中で重要なのは禅です。武士の宗教は禅ですが、それは南宋の影響です。南宋の禅僧がモンゴルの圧迫で日本に亡命したからです。南宋から亡命した禅僧は、京都では天台宗や真言宗など南都北嶺といわれた既存の仏教集団が勢力を張っているために受け入れられず、京都ではなく、鎌倉に入ったのです。鎌倉の北条氏は南宋から亡命した学僧を保護しました。こうして、鎌倉は南の中国の文化を影響を受けました。一例をあげますと、鎌倉幕府は、南宋の五山(官寺制度)を模倣して、建長寺、円覚寺などの鎌倉五山を定めました。
 鎌倉文化の3点セットは禅、庭、茶ですが、後醍醐天皇がそれを模倣して、京都に臨済宗の禅寺の五山を定めました。後醍醐天皇の「建武の新政」は挫折しましたが、足利氏が京都室町に幕府を開き、室町時代になりました。足利幕府は、やはり鎌倉五山を真似て、京都五山を定めました。こうして、中国の南の文化が本格的に京都に入ることになったのです。室町時代とは、北の中国の文化を既に受容していた基盤の上に、南の中国の文化を融合させた時代です。室町時代の首都・京都には中国の南北両方の文化が全部入りました。
 いかに、中国の影響が深かったかは、室町時代の日本の貨幣が中国銭になったことでも知られます。足利義満が明の永楽帝に朝貢して銅銭を獲得し、永楽銭という中国銅銭を日本の貨幣としました。中国で公鋳された銅銭が、日本の公式の通貨になったのです。銅銭さえあれば、中国の文物は何でも買えます。その結果、中国にあって日本にないものが無いくらい、中国の文物が流通しました。実は、中国の銅銭の原料は日本の銅でした。貨幣の材料を日本が提供し、それを中国が銅銭にして、日本にそれが流通したのです。ある意味で、日本はほしいだけのものを中国から買える立場にいたのです。日本は中国経済圏の一部になったともいえます。中国からの最大の一番大きな舶来品は銅銭で、いつぞや朝鮮半島の新安沖合いで難破した船が引き上げられましたが、その積荷の大半は銅銭でした。室町時代は応仁の乱以後、戦乱の世になり、京都の貴族が各地に逃げて、各地に小京都が生まれました。いいかえると、室町時代の日本はもっとも中国化した時代です。

5.自立した江戸時代

 江戸に幕府が開かれて首都機能は江戸に移りました。江戸の都市づくりにモデルはありません。江戸時代になって初めて、日本は「海洋東アジア」からの影響から自立したのです。
 江戸時代は「鎖国」と言われる封鎖システムで特徴づけられます。鎖国の内部では、三百諸侯に分かれ、各藩は江戸幕府から「補助金」をもらうわけでもなく「納税」するわけでもなく、独立採算性で、独自の政策を構想して、他藩との交易関係を大阪や江戸で結びました。鎖国のなかでの国内取引は活発だったのです。各地で特産物が生まれたのも江戸時代です。越中富山の薬もその一つです。薩摩組という組織をもって薩摩にまで出向いて南方の薬種を入手しました。薩摩は琉球を服属させていましたから、中国商人から琉球経由で南方の薬種を獲得していました。そういうふうに各地が地域間関係をもっていました。抜け荷といわれる密貿易もありました。その主な舞台は日本海です。抜け荷の利益も大きく、新潟、富山、敦賀などの日本海側の諸藩は栄えました。国内交易の広がりは日本全体に及んでいました。たとえば、沖縄では昆布がとれませんが、日本で一番昆布消費量が多いのです。それは江戸時代に日本海をまたにかけて北海道から沖縄まで交易が広がっていたからです。北前船や東回り航路で日本の各地が津々浦々で結ばれた時代が江戸時代です。中国文明から日本が自立したことが重要です。それを象徴的に示したのが首都機能の置かれた江戸でした。全国の藩は一国一城で、江戸に似た城下町ができ、小江戸の集合体の景観を呈したのです。江戸に象徴される日本の姿は中国文明から自立した姿です。

6.ヨーロッパの海を介した発展

 以上の日本史の変遷を「海洋東アジア」の主な海との関連で見直しますと、日本史は、日本海の時代、東シナ海の時代、南シナ海の時代の三段階を経たことが知られます。日本人の関わる海が南にシフトしました。
 奈良時代・平安時代は、日本海の対岸が中心です。たとえば、渤海(698―926)という国がありました。渤海は中国の東北部、沿海州、朝鮮半島北部を支配した国ですが、渤海使節は日本海を越えて34回も来日しています。遣隋使はもとより、遣唐使の回数よりはるかに多いのです。朝鮮半島との交流もさかんで、渡来人も来日し、また亡命して帰化しました。特に、唐に滅ぼされた百済からは大勢の人々が日本海を渡って来ました。平安時代の初めに編纂された「新撰姓氏録」には帰化人が三割を占めています。帰化人は大きな影響を及ぼしました。4世紀末から9世紀初めにかけて渡来したこれら初期の帰化人は、ほぼすべて朝鮮半島から日本海を渡って来た人々です。しかし、唐が滅び、宋の都が南の臨安に移って南宋の時代になると、東シナ海に重点が移ります。そして、元寇以降は倭寇が生まれ、彼らは南シナ海まで出かけ、日本人町を形成するまでになります。この三段階を経て、日本は日本海の対岸、東シナ海の対岸、南シナ海の周辺地域の文物を入れ込んで、それぞれの時代の社会を形成し、江戸時代になって、それら「海洋東アジア」から自立して江戸時代をむかえたのです。
 それと西洋の史的発展を比べてみましょう。ヨーロッパも海を媒介に発展しました。 ヨーロッパ史は「古代―中世―近世」と三区分されますが、この時期区分に地中海とのかかわりの変わり目が時代区分をつくっています。「歴史の父」ヘロドトスが『歴史』(岩波文庫)で書いていますが、ギリシャはサラミスの海戦でペルシャを打ち破り、エーゲ海の制海権をにぎって古典古代の華を咲かせました。ギリシャの地中海文化はローマに伝わり、ローマは地中海を「我らの海」と呼びました。古代は地中海文明の時代です。
 古代が地中海を舞台にして栄えましたが、中世は地中海の舞台を失った時代です。7世紀にマホメットがイスラム教を興し、イスラム勢力は地中海を席巻しました。その結果、地中海は「イスラムの海」になりました。ヨーロッパは土地に閉じこめられ、土地だけが富を生む中世封建社会になりました。
 次の近世は地中海の奪還で始まりました。イスラム勢力をひとまとめにしたトルコ帝国に対して、ヨーロッパのキリスト教勢力が戦いをいどみ、1571年のレパントの海戦でトルコを打ち破り、ヨーロッパは地中海の覇権をとりもどしました。それが中世の終わりを告げ、近世の幕開けになりました。そして大西洋に乗り出します。中世から近世への展開は、地中海の時代から大西洋の時代への展開でもありました。
 先ほど述べましたように、日本人は「海洋東アジア」において、奈良・平安時代には日本海、鎌倉時代には東シナ海、室町時代には南シナ海へと南進しましたが、日本人が南シナ海に乗り出したのは、ヨーロッパでは中世から近世へと移行する時代です。
 ヨーロッパ人は活躍の舞台を地中海から、西は大西洋に、東は喜望峰周りでインド洋にも広げました。ヨーロッパ人がインド洋にのりこんできたのは15世紀末ですが、当時のインド洋をとり囲む東アフリカ、中東、インド、インドネシアの地域はイスラム文化に色濃く染まっていました。環インド洋はイスラム的世界でした。海のイスラム文化圏として「海洋イスラム」と名づけておきます。海洋イスラム勢力は「ダウ船」に乗って海洋東アジアにまで勢力を伸ばしましたが、インドネシアには深く浸透しましたが、それより北のフィリピンの南のミンダナオ当たりが北限です。その北には中国商人が「ジャンク船」に乗って活躍していました。それを「海洋中国」と名づけておきます。東南アジアは「海洋イスラム」と「海洋中国」との出会いの海域となり、両者の交流空間になりました。
 ヨーロッパ人が依拠したのは「海洋イスラム」の交易圏であり、日本人が依拠したのは「海洋中国」の交易圏ですつまり、ヨーロッパ人は「海洋イスラム」ら多大の物産を輸入し、日本人は「海洋中国」から多大の物産を輸入したのです。ヨーロッパと日本とも交流しましたが、それはマージナルであって、ヨーロッパの最大の交易相手は「海洋イスラム」であり、日本の最大の交易相手は「海洋中国」でした。
 江戸時代は鎖国政策をとりますが、長崎、対馬、琉球、松前を通して海外との交易がありました。いずれも主要な相手は「海洋中国」です。長崎にはオランダ人の商館である出島がありましたが、オランダ商人が日本に運んできたのは中国商品です。対馬は朝鮮半島との窓口ですが、朝鮮半島に流れた日本銀は中国に入り、朝鮮からは中国の絹製品が持ち込まれましたので、対馬も基本的には日中貿易の窓口です。それは松前についても琉球についても言えます。
 江戸時代の中国は清の時代ですが、清は女真族(満州族)の王朝なので、中国が夷狄に支配された時代です。それゆえ、もはや、中国は文明の中心としての「中華」ではなく、日本が「中華」だという意識が非常に強くなったのです。それは日本型華夷意識ないし日本型華夷秩序ともいわれます。平たく言えば、日本は中国を追い抜いたという意識です。江戸時代に日本は脱中国ないし脱亜したと言い換えることもできます。
 ヨーロッパは各国が続々と東インド会社を設立して海洋イスラム圏に入りこみ、そこから物産を大量に輸入しました。しかし、18世紀になるとしだいにヨーロッパは海洋イスラム圏への依存を脱却して大西洋経済圏を形成します。その成果の上にアメリカは独立宣言を1776年に出し、83年に独立しました。そして、翌世紀の1823年にはモンロー宣言を出して、ヨーロッパはアメリカに関わるな、という孤立主義を打ち出しました。アメリカの孤立主義の淵源はこれにありますが、このモンロー宣言派、日本の鎖国政策に似通ったものです。日本には「鎖国」という言葉は1801年に初めて主義ないし孤立主義を打ち出しました。アメリカがヨーロッパから自立しはじめたころ、それは1800年くらいのことですが、日本も、それ以前は長崎や対馬から中国物産が入っていましたが、自給自足を達成し、東洋文明から完全に自立しました。西洋文明から自立したアメリカに対応するのが、東洋文明から自立した江戸時代の日本です。

7.日本とアメリカの遭遇

 西洋の雄アメリカと東洋の雄日本が出会うのは必然でした。出会ったときの実力は、日本が劣勢のように見えますが、必ずしもそうとはいえません。
日本とアメリカの歴史はほとんど並行的です。
 まず、明治維新の頃アメリカは人口2,000万でしたから、人口3,400万の日本の方が多いのです。アメリカは日本に開国を成功しました。しかし、その直後に、アメリカは南北戦争という内戦状態に入りました。開国後の日本も内戦状態になりました。日本の内戦は西南雄藩と東国の徳川の間での内戦でしたから、東西戦争です。内戦終了後は、国家統一がなされて、アメリカも日本もイギリスを追いかけました。19世紀末に日本は日清戦争、アメリカは米西戦争に勝って、両者ともはじめて太平洋に植民地をもちました。日本は台湾植民地、アメリカはフィリピン植民地を領有して、新興の帝国として登場したのです。20世紀になって日米は太平洋で覇を競いました。20世紀初頭、世界最強の国イギリスは日英同盟で日本の味方をしました。戦前期の太平洋における影響力は日本の方が高かったと思います。第一次大戦で太平洋における旧ドイツ領は、国際連盟から日本が委任統治の権限を与えられ、事実上、日本領となり、戦前期の日本は南洋の経営にのりだしており、太平洋におけるプレゼンスは日本の方に分があったと言えます。日英同盟が廃棄された後、太平洋の管理は日米英仏の4カ国になりましたが、実質的にはアメリカと日本との勢力争いになりました。そして、周知のように、先の大戦で日本はアメリカに敗けました。日本はその大戦を「大東亜戦争」とよびましたが、アメリカは「太平洋戦争」となづけていました。アメリカにとって太平洋がいかに重要であったかを、それは物語っています。
 敗戦した後日本はアメリカを追いかけました。そして追いつき追い抜きました。繊維にはじまり、造船、鉄鋼、家電、自動車、半導体など、つぎつぎとアメリカの産業を追い抜き、1980年代にアメリカへのキャッチアップは完了したといえます。1985年のニューヨークにおけるプラザ合意では円高が決定されたのですが、これは日本が先進国であることを自他ともに認めた出来事です。
 その後日本はバブルになりました。バブルについては、意見はありますが、少し思い切ったことを言えば、バブル経済は西洋文明へのキャッチアップが終了したことを祝う「お祭り」であったと総括できるように思います。似たようなバブルが、日本の歴史には、もう一回だけあります。それは日本が東洋文明、実質的には中国文明ですが、中国文明へのキャッチアップの終わったときです。それは桃山時代です。秀吉が黄金太閤といわれるように、黄金の茶室を作ったり、聚楽第を建設したり、贅沢三昧をしました。これは遣隋使、遣唐使の時代から中国文明へのキャッチアップをしてきましたが、それが終了した時期に呼応しています。いわば「桃山バブル」です。それも一種の「お祭り」です。中国文明から自立した「お祭り」が太閤秀吉の時代です。秀吉は明の北京を攻略してそこに天皇を遷し、諸侯に中国を治めさせることまで考えていました。それは「平成バブル」の時期にアメリカの不動産を買いあさった日本企業の行動を彷彿とさせます。秀吉は中国征服を実行するために朝鮮を通らせろと言ったところ、朝鮮王朝が断ったので朝鮮侵略戦争になりました。秀吉は中国を自分の物にするくらいの実力すなわち「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という意識をもっていたのです。平成バブルのときも似ています。1980年代の後期から中曽根内閣の頃まで、日本のバブル・エコノミーの絶頂期です。西洋文明を入れきって「お祭り」がバブルであったということです。

8.東西両文明を入れきった日本

 日本が歴史上、二度のバブルを経験したことを、どう評価すればよいのでしょうか。それは、人類の生み出した諸文明の成果を入れきったということだと評価できます。これまで人類が生み出した数々の文明を、東洋文明と西洋文明とに大きく二つに分けますと、日本は、まず東洋(中国)文明を入れきって、日本独自の「パクス・トクガワーナ」といわれる江戸時代をつくりました。そして、現代は、西洋文明を入れきって東京時代を終えた段階にあるというように評価できます。ともあれ、東西両方の文明を入れきったことになります。
 東洋文明を入れきったときの江戸時代の国の形は「鎖国」です。鎖国というのは、マイナスの評価を受けがちですが、日本が外国にフロンティアを求めなかったことを意味しています。それゆえ、資源の使い方に独自性が生まれました。国内資源をできる限り大事にして質素倹約につとめました。それは合理的な思考を醸成しました。各藩は資源の有効利用を図りつつ、藩全体としては富が増大するような経済政策を実施したのです。最近の流行語でいえば3R(リデュース、リユース、リサイクル)を、誰に言われるともなく、実践しました。物を大切にしますから、各藩はもとより、日本のたたずまいが、見た目にきれいになりました。きれいにしようと思って国づくりをしたわけではありません。外部にフロンティアをもとめるわけにはいかないので、おのずから限られた土地に労力を投じることになり、土地当たりの生産性が世界最高水準になりました。土地への労働集約化の姿勢は、都会近郊では蔬菜栽培、都市では、歴代の将軍が判で押したように花好きであったこともあり、大名もそうなり、武士階級の間で園芸趣味が広がり、それが町人階級にも広がり、園芸がさかんになりました。それが結果的に、日本全体の景観に美を添えることになったのです。鎖国時代に日本に滞在した外国人は例外なく日本を美しい国だと評価しています。開港後にはヨーロッパ各国から来日する人々が増え、かれらの日本の景観への評価もひとしく高いものです。当時の日本人の識字率はおそらく世界最高水準とみられ、ヨーロッパ人が持っている木綿、生糸、絹織物、陶磁器、お茶などを機械を使わないでつくっているので、要するに文明国として一目おかれたのです。
 日本が最初に自立した江戸時代に、日本の一種の潜在力、美しいものを大切にする気象が現れたのだと思います。
 一方、西洋列強は、軍事力を誇る「力の文明」としての特色をもっていました。それとの対比でいえば日本は「美の文明」であったといえます。お互いにあこがれたのですが、明治日本は「力の文明」に乗り換え、西ヨーロッパ諸国の間では「ジャポニズム」といわれる日本趣味が流行し、ヨーロッパ文明に美を添えたのです。日本は戦前期にはヨーロッパなかんずくイギリスを、戦後にはアメリカをモデルにしました。
 近代日本は「美の文明」から「力の文明」に乗り換えたのですが、戦前の国力は軍事力が基準でした。そのことは、ワシントンで軍縮会議が開かれた時にアメリカ5、イギリス5、日本3の主力艦しか建造してはいけないとなり、その10年後にロンドンで主力艦を何隻造っていいかということまで決めたといったようなことからも判るでしょう。まさに主力艦の数が国力として表現される時代だったのです。戦後になると、GNP(国民総生産)やGDP(国内総生産)などの経済指標で国力が比較されるようになりました。国力は経済力によって決まるようになりました。その経済力で日本は毎年500兆円ものGDPを生み出しており、世界でアメリカに次ぐ経済大国になりました。言い換えると、日本はキャッチアップの時代を終えていたのです。それどころか、キャッチアップされている存在に上昇転化していました。
 キャッチアップする時代から、キャッチアップされる時代に変わったのです。世界に占める日本の位置がはっきりと変わりました。何処からキャッチアップされているのかというと日本をとりかこむ海の対岸の地域です。
 それとともに登場してきたのが、世界銀行が「東アジアの奇跡」とよぶ経済発展です。世界銀行がいう「東アジア」とは、東南アジアをふくみます。通常、われわれがいう東アジアは日本、韓国、中国、それに台湾をくわえた地域ですが、これは「東北アジア」と呼ばれ、東南アジアと東北アジアとを合わせて「東アジア」と呼ばれるのです。これはいずれも海に面しており、先に「海洋東アジア」と呼んだ地域です。
 海洋東アジアが、EU(欧州連合)と北米とならぶ、世界の三極の一つになっています。そのなかで、EUが発展地域としては一番古く、ついで北米、そして「海洋東アジア」が三番目で一番新しい。「海洋東アジア」は世界史における新興勢力です。

9.「美の文明」へ

 「海洋東アジア」をどのように形成するかが課題です。EUや北米が大陸であるのに対して、「海洋東アジア」は海を存在条件とした海洋世界としての特徴をもっています。そこが経済力をつけつつありますが、それを必要条件として、十分条件としては、この地域がさらに美しい、ガーデンアイランズとしての「美の文明」をめざすべきではないかと考えています。その先頭を切るのが日本海に面した地域です。
 なぜ、経済力だけでは不十分なのか。冷戦が終わり、イデオロギーに代わる新しい価値が求められており、それが何であるかがはっきりしてきたからです。冷戦後の1992年にリオデジャネイロで20世紀最大の会議(国連環境開発会議、地球サミット)が開かれました。当時の国連加盟国は178でしたが、そのうち172の諸国が代表団を送りました。民間の組織からも17,000人もの人々が出席し、20世紀最大の国際会議になりました。環境をよくすることが新しい人類共通の価値になった、という意味で画期的です。持続可能な開発、すなわち環境を破壊しない形で開発しなければいけない、環境を破壊するような開発はよくない、森林を保全しなければならない、等々の取り決めをしたのです。日本政府はさすがに認識を新たにして「世界遺産条約」を同年末に批准し、翌年には屋久島、白神山地、法隆寺、姫路城を登録しました。屋久島や白神山地は今まで経済的には一番遅れている過疎地域だと思われていたのですが、それらが「人類の共有遺産」になったのですから、まさに価値の逆転です。GNPやGDPではなく、生物の多様性や自然環境が豊かなことのほうが重要なのだという共通理解が芽生えているのです。 
 このような価値の転換は、日本の国の形を変える時期が来たことを示唆しています。
「力の文明」を日本は「富国強兵」というスローガンで表現しました。その拠点が東京でした。「力の文明」の拠点になった東京は、「美の文明」の拠点であった江戸の様相を一変させました。ただし、重要な例外があります。神宮の森です。明治天皇が崩御された後、世界中どこでもそうですが、モニュメントを造る運動がおこり、明治神宮を造営しましたが、神宮の森もあわせて造ったのです。誰に言われるでもなく国民は10万本の木を寄贈しました。それが今では17万本になっています。100年後にどうなるかを考えて植林したのです。神宮の森は人工の森です。これは日本人の文化的遺伝子の発露とはいえないでしょうか。
 治水、治山は、今では当たり前のように思われていますが、世界に植林、植樹をする文化はどこにでもあるものではありません。ところが、9000年前の九州鹿児島の上野原遺跡のどんぐりを煮炊きした後を見ると、縄文時代から定住していたのです。それができたのはどんぐりを栽培したからです。三内丸山の縄文遺跡は有名ですが5,500年前に人が住み始める前はブナ林であったのが、5,500年前から4,000年前の人々が住んでいた時だけ栗が遺跡から出てきました。三内丸山から人々がいなくなったら、またブナ林に戻ってしまったのです。それが何を意味しているかというと、三内丸山では、人々が栗を栽培していたということです。栽培文化が縄文時代から連綿としてあったということです。そういう伝統を踏まえて、日本人は「近代西洋文明の変電所」であった東京ですら、都市の中心に森をつくったのだと思います。人間がつくる森は、原生のものではないという意味ではガーデンです。ガーデン・フォレストです。日本人は森を再生できる文化的遺伝子をもっている、ということです。
 東京は西洋文明の変電所としての目的を達成し、バブルという達成の「お祭り」もして、「脱東京」が課題です。その際、日本を追いかけてくる韓国、台湾、香港、シンガポール、東南アジア、そして中国です。日本がどういう国を造るかということは我々の国のためだけのものではないし、日本をモデルにしている近隣の「海洋東アジア」の国々のこともかんがえなければなりません。日本という枠を超えてみなければならない。その脈絡で「日本海」が登場しているのです。
 日本は亜寒帯から亜熱帯まで広がっています。それは地球生態系のミニアチュアという特質をもっています。その意味で、日本全体の環境をよくすることは地球生態系へのお手本を示すことになるのです。自分たちの持っている環境を見直し、景観をよくしようという運動がおこっているゆえんです。景観条例がここ十年ほどの間に急増しています。失われた10年といわれますが、経済的にはデフレ経済が進行して、景気は低迷しました。その一方で、自分たちの住んでいる地域社会を自分たちの力できれいにしていこうという運動が進行しているのです。これは先ほど述べた経済重視の価値観から環境重視の価値観への転換を如実に示しているのです。今から30年前に景観条例のようなものを定めた市町村はほとんどありませんでした。1990年代には400以上になりました。全国にある3千数百の市町村のうち、1割以上、15パーセントが景観条例を制定しているのです。その数は増えこそすれ、減ることはないでしょう。
 1998年春に戦後5度目の国土計画が「21世紀の国土のグランドデザイン」というタイトルのもとに策定されました。その副題に「美しい国土を作り、地域が自立するべし」と謳っています。自立すべき地域の一つが「日本海国土軸」として明記されています。日本海国土軸は多様な伝統と文化とが津々浦々でつながっている美しい地域です。ところが、それを見せるネットワークが十分に形成されていないのです。たとえば、まだ新幹線が整備されていない。山形から新潟に行くのに、「日本海新幹線」がないために、一端、大宮や高崎に戻って、日本海側に戻るというルートをとる方が時間が節約されるというようなことになっています。
 日本海沿岸地域に交流人口を増やすことは不可欠です。それは見られるに値する自然、歴史、文化の宝庫があるからです。そのことを訴えなければなりません。我々が持っている文化的遺伝子、一口に言えば「美の文明」を発揮すべきときがきており、それを日本海において発揮する、と。
 「美」は計測不可能です。GDPやGNPは計算できますが、美しいというのは主観的なものですから、計算できません。しかし、だれもが「美しい」と感じる感性をもっています。その意味で「美」は普遍的です。では、それを何で評価するかというと感動量という以外にないでしょう。国籍、宗教、民族、文化、これを超えて感動を与えるものを作れば「美の文明」になると思います。「日本海学」の一番の基礎に置かれるべきなのは、そういう日本の美意識ではないでしょう。

10.グローカル・ヒストリーとしての「日本海学」

 では、なぜ、日本海学が「グローカロジー」であり、それを歴史意識にたった「グローカル・ヒストリー」でなければならないかというと、日本海にかかわる地域をどうするかということが、地球全体をどうするかということと関わっているからです。たとえば、立山から流れてくる常願寺川は滝のような川だと言われている。滝とも形容された川を管理できる治水力があれば、世界のどの川でも管理できるということです。「日本海学」で、森と海とそれを繋ぐ川、それが美しいとなれば、それは他地域にも応用できます。地球社会のためになるという意味合いにおいて、グローバルなのです。同時に地元に根ざしているからローカルなのです。地元学といってもいいのですが、地元の人以外の人も研究すべき材料に満ちていますから「地域学」と言うほうがふさわしいでしょう。地域学はローカルな学問「ローカロジー」ですが、グローバルな広がりがあるので「グローカロジー」と言うのが適切だと考えます。そして、歴史的には縄文時代以来の1万数千年の歴史があり、地球史のグローバルな流れ中でローカルな流れを考える「グローカル・ヒストリー」になるわけです。森の文化を形成してきた日本列島において、富山は日本海側の中央に位置する。
 「日本海学」は地域や地球社会をよくしていく「実践の学問」です。ヨーロッパの学問を「実学」として日本社会を作ったように、我々は新しい学問を起こして、固有の文化を掘り起こし、地球社会に発信できる景観を持つ地域を造っていく前夜にいると思います。これが成功すれば、日本人が「洋学」を実学として学んでヨーロッパ文明を模倣して造ったように、「日本海学」を学んで「日本海学」によって造られた地域の景観を真似て地域造りをしていく地域が、環日本海の地域に増えていくに違いありません。かれらは日本をモデルにしてすさまじい勢いでキャッチアップを始めているからです。日本海学は日本人が中心になって海外に向けて発信できる学問です。日本海学は使命的な学問です。そういえることの歴史的根拠を述べてみました。ご清聴、ありがとうございました。