大学等連携事業

早稲田大学オープンカレッジ秋期講座 「朝鮮からみた日本海域の神話伝承」


2004年度 早稲田大学オープンカレッジ秋期講座
日本海学推進機構連携講座
2004年10月8日
早稲田大学

講師 摂南大学教授
        依田 千百子先生

1.日本海域の渡来神話と「神を助けた話」

 日本海域の神話伝承を見ると、神々や人間が海を越えて往来する話が多いが、これは実際に人間の移動が盛んに行われていた反映である。例えば『日本書紀』の一書は「素盞嗚尊は、その子、五十猛神をひきいて、新羅の曽尸茂梨に天下った。そして、のちに日本に渡り出雲の鳥上峰に至った」と伝えている。また、朝鮮側の資料、特に『三国遺事』の巻一を見ると、日本にいってしまった太陽の精・延烏郎を追って、妻の細烏女が日本に渡った神話も記されている。また『日本書紀』の垂仁天皇二年条にも、意富加羅の王子である都怒我阿羅斯等が越の国の笥飯浦に渡来した話があり、これに類似したものとして、新羅の王子、天日槍の渡来説話がある。

 日本海域に見られる面白い話の一つ「神を助けた話」から、その共通性を探ってみよう。『三国遺事』巻二には「新羅五十一代真聖女王のとき、良貝王の季子、阿が唐に使した。百済の海賊が津島に便すると聞いて、弓士五十人を選抜して随行せしめた。一行舟が鵠島(骨大島)に寄ると、風濤は大いにおこって、いつ静まるという見込みもないので、これを占わせた。ト者の言うには、この島に神の池が一つあり、これを祭ればよいとのことであった。それで池の上にまつると、池水が湧き上り、高さは丈余に及んだ」という話が載っている。その後、夜夢に現れた老人の「善く射る者一人をこの島にとどめれば、便風をえるであろう」という言に従い、従者の居?知を島に残し舟は出発できたが、その居?知に老人は自分が西海の主であることを告げ、毎朝、天から降りて来て、老人の夫婦子孫を食べ尽くす沙弥を射ることを依頼し、成功した居?知は老人の娘を妻とすることとなった。

 この異伝と見られるものが『高麗史』に、高麗王朝の始祖、王建の祖父に当たる作帝建の話として伝えられている。また、この話と非常に深い関係にあると思われるものが、『今昔物語』巻二十六に「加賀国の蛇とムカデと争ふ島に行く人、蛇を助けて島に住むこと」として載っている。これは猫島という島にまつわる話で、暴風で無人島の猫島に漂着した加賀国の釣人が島主の大蛇に依頼され、宿敵の(ムカデ)を倒して神に感謝され、家族共々その島に移住して、神の加護のもとに末長く子孫が繁栄したという話である。この種の話を柳田國男氏は「神を助けた話」と命名しているが、要は、両方の神が戦う中で、一方の神に特技を持った人間が加勢して勝利に導き、その恩賞として神からある種の特権を与えられるものである。

 また、崔仁鶴の『朝鮮伝説集』には、主人公が青龍から頼まれて、弓矢をもって敵の黄龍を倒し、その恩賞として荒地を水田に変えてもらった「龍井の長者伝説」が紹介されているが、これと大変よく似た話は朝鮮の各地にある。その結果、例えばお礼に龍が雨を降らせ山を崩して広々とした平野をつくるなど、地形を変え、工事をしたとなっているが、これは潅漑工事による荒地の造成の説話と見てよいだろう。ここで想起されるのは、湖水で満ちていた盆地の淵を神が水を流して干拓したという日本の「蹴裂伝説」である。両者とも、潅漑工事による耕地造成では一致しており、話が長者伝説の形式をとっているのは、元来この話が金属器による利水工事と関係のある人々の伝承であったことを推測させる。

 このように、人間が神の一方を助ける二龍闘争型の伝承は中国にもある。雲南省の大理の白族では、龍が暴れて洪水を起こして人々を苦しめていたところ、母親が桃を食べて生まれた子供が黄龍に変じて龍と戦い、その最中、村人に鉄をパンの中に入れた鉄包子を投げるという助成を頼み、龍を倒して洪水を治めるのである。すなわち、朝鮮や中国の「神を助けた話」は、金属器による潅漑工事と結びついた話ではないかと考えられる。

2.金属文化の一つの流れ

 俵藤太を代表とする日本の大蛇とムカデの戦いの物語は、不思議と採鉱、冶金、鍛冶、鋳造など、金属文化との関係が深い。藤太が竜神からもらってきた宝物は、『和漢三才図会』などによると、太刀、鎧、旗、幕、巻絹、鍋、俵、包丁など、金へんがつくものが多く、一緒にもらった心得童子の子孫たちが代々利水工事に携わっていた伝承もあって、大変興味深い。さらに、竜神の住んでいた瀬田川の流域には、白鳳から奈良時代にかけての製鉄遺跡があり、藤太の退治した三上山の祭神は天之御影神、つまり鍛冶神である。また、先ほどの『今昔物語』の猫島の釣人たちが舟出したという能登の海岸は、昔から浜砂鉄を採取した地であり、「日光山縁起」の戦場ケ原や赤城山麓などを含めて、金属器伝承がある所に類話が分布している。さらに、小野猿丸が日光権現に頼まれて赤城明神のムカデを討ち取る「日光山縁起」はマタギの間に伝えられていって、『山立由来記』の万事万三郎を主人公としたマタギの始祖伝説として採用されている。

 ここで注目されるのは、朝鮮の神を助けた話の舞台が、居?知、作帝建の場合は黄海上の島であり、他の伝説も皆、日本海側ではなく、黄海側の地域に偏っていることである。日本と朝鮮の金属文化の交流について、従来の一般的な考えでは、新羅、伽耶から北九州、または、百済、伽耶から北九州といったルートが考えられていたが、このことは、そのほかに朝鮮西海、つまり黄海から日本海につながるもう一つの金属文化の流れがあったことを示唆している。そして、この朝鮮西海ルートの日本海域の金属文化は、日本において俵藤太伝説の担い手が暗示しているように、山間民、特に木地師、炭焼、鍛冶師、マタギなどといった特殊職業人に伝えられ、新たな日本的展開に至ったのではないだろうか。さらにそれは、この話の元来の担い手である渡来系金属集団の、平地農民主体の日本における政治経済体系の統合のされかたの一つを表していると考える。

3.不老長寿伝説

 次に、我が国の長寿伝説の一つである「白比丘尼伝説」を取り上げてみる。「若狭の国から二百余歳の比丘尼が上洛した」という伝承の分布は、若狭を中心に、北海道と九州の南部以南を除くほとんど全国に伝わっているが、これは諸国の巫女たちが語り伝えたといわれている。白比丘尼伝説とは、父親が別世界へ行って、土産としてもらった不老不死の薬と称する人魚の肉(または九穴貝)を娘が盗み食いしてしまい、十代の美しさを保ったまま長生きするというもので、八百比丘尼、あるいは白比丘尼と呼ばれた娘は、最後に若狭の国に帰り、岩穴に入定して八百歳で果てたという。この八百比丘尼伝説の源流とみられる伝説は実は朝鮮にあり、平壌の永明寺の子授けの祈願塔にまつわる「浪奸物語」として伝えられている。

 この不老長寿伝説の中の盗み食いのモチーフは、神仙説を前提にした道教的な要素と見てよいだろう。しかし庵を結び、祈願塔を建てて子授けを祈るところは明らかに仏教的で、道教と仏教の両要素が混在している。また、八百比丘尼伝説の分布の中心は若狭北陸地方であることを考え合わせると、この伝説は高句麗から日本の北陸地方へ、仏教や道教、あるいは民間信仰の宗教者たちによって運ばれた可能性が強い。

 高句麗に仏教が公式に伝来したのは、小獣林王の2年前(西暦374年)に当たり、その後わずか2年で平壌市内に9か所の寺院が建てられている。永明寺もその中の一つで、高句麗では、4世紀半ばまでに民衆の間には仏教がかなり布教していた。また、5世紀に描かれた高句麗壁画などに仙人などがあることから、そのころまでに道教信仰が流行していたことが分かる。道教は栄留王の57年(西暦624年)唐から伝来したが、その後宝蔵王の52年(西暦642年)、泉蓋蘇文の建議により道教を国家宗教として儒教、仏教より上位に置くこととなり、仏教側の一部の人々は百済や日本へと逃げていった。このような高句麗における道教強化政策と仏教側とのあつれきの中で、浪奸物語は成立したのではないか。

 また、八百比丘尼伝承の伝搬者は恐らく陰陽師と思われるが、それは、それらの遊行宗教者の出身地と渡来人との関係を示唆している。越前、若狭は秦氏の居住地の一つだった所だが、秦というのは新羅系の渡来人で、この新羅系と高句麗系の重層伝承が北陸地方にかなり見られる。したがって、高句麗系の人々によって伝えられた「浪奸物語」が、恐らく若狭地方に渡来していた新羅系の渡来人集団により、白比丘尼伝承に変容させられたのではないか。また、シラというのは、新羅、常世を象徴するものでもあり、大変に多層的な意味を持った語として日本民俗学では考えられている。そのシラという号を冠した白比丘尼と呼ばれる不老長寿のシンボルである白玉椿を携えた遊行の巫女たちによって、中世以降、八百比丘尼伝説は日本各地へ伝播していった。

 また、八百比丘尼伝説は特に若狭の地と結びついて語られているが、これは若狭の持つ不老長寿のイメージに基づいているのではないか。『万葉集』の「若返りの水」や「変若水(越水)」、『東大寺要録』に記された「若狭井の伝承」などは、皆、若狭と結びついている。つまり、古代日本において、熊野は死の国というイメージが強いのに対して、大陸に向かって開かれた若狭は不老不死の神仙世界を連想されていたのである。

4.日本海域と朝鮮の城伝説

 日本海域には朝鮮の二つの城にまつわる伝説が語られている。その一つである「白米城伝説」は山上や高地にある城の落城を語る伝説で、敵軍に包囲されて水が絶えたとき、上から白米を流して滝に見せかけ、水が豊富にあるように見せようとするが、鳥が白米をついばんだり、老女や娘の密告によってその計略が破綻し、ついに攻め落とされてしまったというものである。この伝説は柳田國男によると、北海道南東を除く全国に分布しており、日本海域では新潟県、福井県、さらに青森、富山、石川、京都府の丹後、島根県という日本海側の各地に伝わっている。

 もう一つの「洗馬台伝説」とは、壬辰倭乱のとき、権慄将軍は、兵士二万を率いて水原華山の山城に陣を築いたが、日本の加藤清正軍に包囲され食水が足りなくて大変困っていたところ、白馬を山の頂に引っぱって、白米を馬にまきながら馬を洗うような様子をして見せるという策を考えたという話であった。同様に、中国では「兵糧塚伝説」というものがある。これは、呉が楚を討ったとき、呉の兵糧が尽きてしまったので、伍子胥という人物が土で丘を造り、その上を米で覆って敵をあざむいたというもので、中国のこの伝説が朝鮮に伝わり、日本に伝播して白米城伝説の原話になったと想定される。

 古代日本の山城は朝鮮半島の築城法の影響によるものが多く、百済滅亡後、新羅唐連合軍の侵攻に備えて660年代に築かれた大野城から高安城に至る天智天皇の築城の城と、それ以前のものに分けられる。したがって、日本の白米城伝説は、山城の築城行為と関係のある百済系渡来人によって伝えられた朝鮮の洗馬台伝説が原型であり、近世の地方の軍記物に記録されている例が非常に多いところを見ると、後世、語り物などによって全国に伝播していったと考えられる。

 もう一つ、日本海域には渤海系と思われる築城伝説も伝えられている。それは「尾曳の城」型の築城伝説である。これは群馬県館林市の館林城で、「秋元但馬守が城を築こうとして苦心されていたある夜、老狐が城づくりを手伝うと約束する夢を見た。そしてその通り築いたのが尾曳の城である」という伝説である。このほか群馬県前橋市の厩橋城など、東日本の各地からこれに類した話が報告されているが、この伝説に似た話は朝鮮の「雉城の伝説」である。これは城を築くために地形を伺っていたとき、白雪にあった雉の足跡を設計図として城を完成したというものである。だからその城を『雉城』と呼ぶようになったという。

 朝鮮では、このように動物の援助あるいは関与による築城伝説に近い伝説として、豚の先導によるものが三国時代の初期から伝わっているが、動物の先導によって都や城などを造るのは、ローマなど西方につながっていくモチーフでもある。その場合の動物は亀、馬、蛇などで、それが内陸アジアを越えてさらに西方世界にも分布している。一方、雉城伝説の類話は朝鮮でほかに見当たらないが、その伝承地である鐘城は朝鮮の北境に近く、日本海を挟んで北陸地方と対している。しかも、727~929年までの間に渤海使が来日した36回のうち29回の来着地は、越前、能登、丹後が主だった。したがって、尾曳の城伝説は、恐らく渤海との交流の中で、朝鮮東北部から日本海を渡って北陸に達し、そこから長野や群馬、あるいは東北地方へと広がったと思われる。

5.稲羽の素兎 ~対馬海流が運んだ医療神話~

 この神話の主人公は兎といういたずらものの動物であることから、従来、マレーシアやインドネシアなどに広く分布しているいたずらものの小鹿の話との親縁関係が指摘されているが、朝鮮半島南端の全羅南道の麗水市の梧桐島に伝わる「すすきの穂と兎」という神話は、稲羽の素兎と大変よく似ている。稲羽の素兎の神話には、ワニをだまして隠岐の島に渡ったという素兎のトリックスターとしての要素と、大国主が丸裸になった素兎に、体を水で洗い、ガマの花粉の上に寝ころぶように教えて治してやったという医療説話の要素がある。朝鮮の神話はこの二つの要素を備えているが、両者には幾つかの差異もある。まず、主人公は兎だが、だまされた動物は朝鮮ではワニでなく亀であること。さらに、朝鮮では兎は亀をだました罪で口がきけなくなってしまったと、兎の身体的な特徴の説明説話になっているが、日本ではそのような要素は欠けている。

 ところで中国の類話に「兎のしっぽの短い原因」を語った話がある。昔は兎のしっぽはりっぱなものだったが、兎の夫婦がスッポンをだまして並ばせて対岸へ向かい、やはりそのおろかさをはやしたてたため、長いしっぽをかみ切られてしまうというものだ。

 こうして比較すると、朝鮮の話は中国と日本の中間的な存在であることが理解され、稲羽の素兎神話が中国起源である可能性が強くなり、日本へは対馬海流に乗って朝鮮半島南端経由で伝わったことが明らかになってきている。また、中国の素兎の話には稲羽の素兎神話に特徴的な医療説話的な要素が欠けているが、その要素は朝鮮南部において当時巫術と医療を行っていた巫医集団によって、彼らが奉ずる医療神の偉大な力をたたえ、その医療技術を宣伝する神話に再構成された後、日本に伝来したものと推定される。

6.おわりに

 以上とりあげた説話伝承のすべての背景には人々の交流の歴史的な事実があり、中国や朝鮮半島からかなりその原型をとどめながら、日本流にアレンジされて、現在、特に日本海流域に伝播されていることを見てきた。また、時間の関係で今回話せなかった「鼠の嫁入り」は、実はモンゴルの話と大変に近いものである。13世紀の高麗時代に朝鮮はモンゴルの支配下に陥り、そのときにモンゴル文化の影響を非常に強く受けたので、モンゴル系の文化が入っても当然おかしくない。中央アジアの文化は、中国→朝鮮半島→日本のルートで渡ってきたという考え方が今まで支配的だったが、中国の本土経由ではなく、モンゴルから直接朝鮮半島に入り、日本へ伝播したものもあるのではないかと思われる。日本の説話のうち、ある種のものにはモンゴル系統のものが入っているが、それを伝えたのは、意外と朝鮮の大工のような技術者たちであったようだ。

 古代神話における日朝の交流として、スサノオ、神功皇后などは、これまでに多くの人たちが研究してきたと思うが、今日私が取り上げたような問題はあまり注目されてこなかった。しかし、このように各時代の交流を見ていくと、さまざまな形で、さまざまな技術者集団によって、説話が日本に運ばれている状況を見ることができるのである。

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