大学等連携事業

早稲田大学オープンカレッジ秋期講座 「古代の出雲について」


2004年度 早稲田大学オープンカレッジ秋期講座
日本海学推進機構連携講座
2004年10月15日
早稲田大学

講師 駒澤大学教授
  島根県古代文化センター客員研究員
         瀧音 能之先生

1.古代出雲の青銅器

 一昔前まで、どちらかというとマイナスのイメージで受け取られていた日本海およびその沿岸地域について、最近ではいろいろなことがいわれている。10年前までは、南北をひっくり返した「逆さ地図」はなかったはずだ。こうなると日本海はまるで潟湖のような印象で、大陸から船が出れば、当然のごとく越の北陸地域や山陰の出雲、北九州に着くことになる。その中で出雲がクローズアップされるのは、やはり神話が多いからだ。

 しかし、古代出雲の遺跡である神庭荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡から、弥生時代の銅剣、銅鐸、銅鉾が多く出土されている。旧国別に分けた場合、青銅器がいちばん多いのは大和ではなく、出雲であるとご存じだろうか。ということは、出雲にこそ最大の勢力があったのではないかということにもなる。このように、今までの「神話の国、出雲」といったイメージを一変させたのが、20年前の神庭荒神谷遺跡の発見であった。

 神庭荒神谷遺跡では、すべてが中細形という、儀式用ではない実戦用の銅剣が358本出土して、大騒ぎになった。当時は日本列島で出た銅剣は300本ぐらいといわれていた時代である。そればかりか、銅剣が見付かった翌年、銅鉾と銅鐸が出てきて「青銅器の三点セット」がそろい、また大変な問題になった。すなわち、それまで弥生時代の青銅器に関しては、「大和中心の銅鐸文化圏」に対し、銅鉾や細形の銅剣類は北部九州、真ん中の瀬戸内には儀式用の平形の銅剣という分布が見られるといわれていたのである。しかし改めて考えれば、青銅というのは銅と錫の合金であり、青銅器は型で造ることから、銅鐸ができる所に銅剣ができても何の不思議もない。実は荒神谷が発掘される前に、島根半島中央部の鹿島町にある佐太大社の近くの志谷奥遺跡から、銅鐸と銅剣がセットで出てきているのである。そのため、この「文化圏」の考え方は、最近の高校の教科書などではだんだん使われなくなっている。

2.加茂岩倉遺跡の銅鐸

 1997年に島根県などが中心になって「古代出雲展」を東京、大阪、松江で行った。その前年に、荒神谷から直線距離で4km足らずの加茂岩倉から、39個の銅鐸が出てきたのである。39個という銅鐸の数は1か所から出た数では最高で、当時はトピックスにもなった。その39個の銅鐸のうち、かなりのものが入れ子の状態、つまり銅鐸の中にもう一個小さい銅鐸が入っている状態で見付かっている。これをどのように考えればいいだろうか。考えられることの一つは、銅鐸の別名に「サナキ」という言葉があるところから、「サナギ」のように保管されたのではないかということだ。また銅鐸のこの別名については、銅鐸をたたくと出る小さな音を「サナキ」、小さな鳴き声というからだともいわれている。

 ちなみに、加茂岩倉出土の10号銅鐸にはウミガメの線画がある。手のひらの形などからウミガメだと分かるそうだが、内陸の加茂岩倉にどうしてウミガメが出てくるのかという問題が残されている。また、出雲型の袈裟襷文が施された他の銅鐸には、シカおよびイノシシといわれるなぞの四足獣の絵柄も見られる。従来、銅鐸は農耕祭祀に使われたといわれ、トンボや水辺の植物が描かれることが多かったわけだが、このような不思議な絵柄が出てくるのも、加茂岩倉の問題点ではないかと思う。

 また、このような青銅器がどこで作られたのかも明確には分かってはいない。最初は大抵のものは畿内で作って持ってきたのだろうといわれたが、最近は地元で作られたものもあるといわれるようになっている。私が早稲田大学で師事した水野祐先生も、運ぶことを考えると地元で作るのが自然だとおっしゃっておられ、私もその可能性が大きいと思う。さらに、出雲型の袈裟襷文であるが、横のラインに対して縦のラインが切り結んでいる。このように縦横がクロスするのは、加茂岩倉の例が初見である。

 一方、青銅器ではないが、鉄に関しても、面白いものが出ている。岡田山1号墳から銘文をもつ鉄刀が出てきたのだ。この鉄刀は、発見された大正時代にはあまり注目されなかったが、柄頭の象嵌の修理目的で元興寺文化財研究所へ持っていき、そこでエックス線を当ててみたところ、刀身部分に「額田部」という文字が入っていた。古代の部民制の起源はいつぐらいなのか、いまだに論争が絶えないが、6世紀の岡田山古墳からこれが出たことにより、6世紀後半にはすでに部民制があったという決定的となった。

3.四隅突出型墳丘墓

 それにしても出雲というのは、変わったものがたくさん出てくる所である。その一つが、富山にも大いに関係のある四隅突出型墓だ。昔は四隅突出型方墳と呼んでいたが、この墓は弥生期なので、方墳という言い方はおかしいこととなり、今は四隅突出型墳丘墓という言い方をされることも多い。その大きなものが西谷3号墓で、一辺が約50mもある。この四隅突出型墓は出雲を中心とした日本海側にその分布が見られ、富山の杉谷4号墓もその一つである。この墓のルーツとしては、つい最近まで広島と島根の県境にあるものがいちばん古いタイプとされていたが、最近、出雲の西側の平田という所にある青木遺跡から、木簡、木造の神像彫刻のいちばん古いタイプのものとともに成立時期の古い四隅突出型墓も出てきたことから、現在は、数の上からも成立時期の上からも、出雲が拠点と見ていいのではないかということになっている。

 これに関しては、同じ墓を造ろうという意識のもとで政治集団ができていたのではないかと、島根大学におられた山本清先生が初めて言われ、今は島根大学の渡辺貞幸先生もその説を継承されている。つまり山陰連合共同体のようなものということである。しかし、これは言い方の問題で、富山から見れば北陸連合体になる。私の兄弟子で、すでに亡くなられた金沢の研究者である浅香年木先生は、古代は加賀を「カガ」ではなく「カカ」と言っていることから出雲の「カカ」という地名に注目して、北陸を中心にした山陰を含み込む政治圏を考え、日本海にそのような政治的な共同体があったのではないかと言われていた。

 その一つの例に、西谷3号墓の頂上付近から柱穴が四つ出てきたことが注目される。つまり、墓の上に覆い屋があったことがほぼ確実で、真ん中には朱塗りの玉でてることから、ここではどうも墓上祭祀、つまり、お葬式をしたのではないかと考えられる。また、面白いことに、出雲の土器のほか、岡山、京都府の丹後、北陸からの土器も出てきている。これには、支配者が亡くなったので、同盟関係にあった各地の支配者たちが弔問の使節を送ったときに土器を持ってきたのではないかという意見もある。ただ、普通は葬式に土器はあまり持ってこないのだが、なぜ土器を持ってきているのかは謎のままだ。

4.『出雲國風土記』から ~国譲り神話~

 出雲を勉強していく場合、非常にありがたい史料として『出雲國風土記』が残されている。風土記は奈良時代に国ごとに作られたもので、当時60ほどの国に分かれていたうち、現在、割とまとまって残っているものとしては、常陸、出雲、播磨、豊後、肥前の五つがある。中でも『出雲國風土記』は特別で、100%ではないものの、内容的にほぼ全部残っている。

 特に奥付が残っているのは貴重で、『出雲國風土記』には「天平五年二月卅日 勘へ造る」と書いてある。この2月30日という日付を正面切って取り上げたのは戦後の薮田嘉一郎先生で、『出雲國風土記』が奈良時代に作られたというのはうそだという証拠の一つとされた。しかし現在は、『正倉院文書』の中に2月30日と書いた日付が出てきたことなどから、古代には2月30日という日付があったのだということで落着している。

 続く奥付は「秋鹿郡の人神宅臣全太理 國造にして意宇郡の大領を帯びたる外正六位上勲十二等 出雲臣廣嶋」となっている。出雲臣廣嶋は出雲大社の神主で、古代では恐らく地元でナンバーワンの人物だろう。面白いのは、「神宅臣」とは何者かということである。古老ではないかともいわれており、このご子孫が本当かどうかは定かではないとしても、現在もいるのである。また、ここで注目したいのが「出雲臣廣嶋」という人で、「意宇郡の大領」、つまり郡司の長官である。風土記は国家の命令をうけてプロジェクトをつくって作るわけだが、その場合、どこが主体となって作るのだろうか。例えば現在、東京都の風土記を作るとなると、都庁でそれを作り最高責任者は都知事となるはずだが、『出雲國風土記』には、国司の署名がなく、出雲大社の神主の署名がある。これも謎の一つである。

 『出雲國風土記』の「意宇郡」をみると、冒頭に「母理の郷」とあるが、これは出雲国の東側の松江や安来の辺りを指す。「郡家の東南のかた卅九里一百九十歩(約20km)なり。天の下造らしし大神、大穴持命(オオクニヌシ)、越の八口を平け賜ひて、還りましし時、長江山に來まして詔りたまひしく、『我が造りまして、命らす國は、皇御孫の命、平らけくみ世知らせと依さしまつらむ。但、八雲立つ出雲の國は、我が靜まります國と、靑垣山廻らし賜ひて、玉珍置き賜ひて守らむ』と詔りたまひき。故、文理といふ。神龜三年、字を母理と改む」。これが『出雲國風土記』に出てくる国譲り神話で、日本海学に関係した「越の八口を平け賜ひて」の話がある。スサノオの越の八岐大蛇と八口の八岐大蛇の関連性に関して、八と八で関係があると言う人がいるが、八岐大蛇退治はスサノオで、八口平定はオオクニヌシが主人公である。

 話の内容は、オオクニヌシが越のほうへ行って、八口をやっつけて帰ってきたときに「私が造って支配している日本列島は皇御孫の命(ニニギノミコト)が支配なさい」と譲るわけだが、「但し、八雲立つ出雲国は私の国だ」と言っている。そして、その舞台も「記・紀」では稲佐の浜という出雲大社に面したすぐそばの浜になっている。このように国譲りの舞台をみても片や東部、片や西部と相違が見られる。しかし結局、「記・紀」の国譲りは、出雲国を含めた全部の地上(国)を譲ることになる。『出雲國風土記』では「出雲国だけは譲らない」と言っているのだから、「こっち側はだめだ」と言っているのであり、ここに東部と西部の差がでてくるのではないかと私は解釈しているのだが、この問題も未解決のままだ。

5.『出雲国風土記』から ~国引き神話~

 次に来るのが出雲国国土創成説話で、島根半島の一部分を造ることになる。したがって、出雲国には、最初、島根半島の部分が無かったということになる。「意宇と號くる所以は、國引きましし八束水臣津野命、詔りたまひしく、『八雲立つ出雲の國は、狭布の稚國なるかも。初國小さく作らせり。故、作り縫はな』と詔りたまひて」。つまり、出雲国はできたての若い国で、初めに小さく造ってしまったから、大きく拡大しましょうということである。そこで、「栲衾、志羅紀の三埼を、國の餘ありや」。新羅のほうを向いて、国は余っているか」と聞いたら、「余っているぞ」と答えたので「童女の葛胸?(鋤)葛取らして、大魚のきだ衝き別けて、はたすすき穂振り別けて、三身の綱うち挂けて、霜・葛くるやくるやに、河船のもそろもそろに、國來々々と引き來縫へる國は、去豆の折絶より、八穂爾支豆支の御埼なり」と。つまり、三よりに編んだのような強いロープで、川船を引っ張るように土地を引いて来たというわけである。 その後「此くて、堅め立てし加志は、石見國と出雲國との堺なる、名は佐比賣山、是なり」と言っているが、「佐比賣山」とは三瓶山で、「加志」は杭である。そして「亦、持ち引ける綱は、薗の長濱、是なり」。ロープで引っ張った際、そのロープが「薗の長濱」であるというわけである。そして、ロープから手を離すと元の所に戻るので、縛りつけたのが三瓶山だというのだ。

 次に「北門」という所から佐伎國と農波國の2か所の国引きを行うが、私は北門というのは隠岐島のことではではないかと思っている。そしてラストに「高志の都都の三埼」に目をつけるが、これは高志だから北陸である。北陸のどこかというと、一般的には「都都」だから能登半島の珠洲ではないかといわれている。そして引っ張ってきた先が「三穂の埼」、美保である。最後に「『今は、國は引き訖へつ』と詔りたまひて、意宇の社に御杖衝き立てて『おゑ』と詔りたまひき。故、意宇といふ」となっている。 この話を日本神話レベルに拡大して考えてみよう。日本列島はイザナギとイザナミが生んだというのが神話の言い分である。ところが『出雲國風土記』を見ると、このような土地を造る手段は国引きである。また、土地を引くというのは『出雲國風土記』だけのことではない。祝詞などにも出てくるし、『万葉集』の恋歌にも「山を引く」と言っている。国生みのような垂直型の話は朝鮮半島からシベリアにかけての北方に広まっており、私たちの祖先は北方から来たのだという証拠に使われることがあるが、簡単にそうもいえないのである。

6.出雲大社の建物について

 国譲りのとき、オオクニヌシが「私の社殿も造ってくれ」と言って、できたのが出雲大社であるが、現実的にはいつできたかは分からない。現在の社殿は大社造りという形式になっており、8丈(約24m)という本殿の高さを持ち、正面から見ると屋根に千木が上っている。出雲大社の建物は足の部分が長いのが特徴だが、昔はもっと高く16丈(48m)あり、その前はもっと高く、倍の32丈(96m)あったという。 大社は「出雲郡」のところに、「杵築の郷 郡家の西北のかた廾八里六十歩なり」と出てきている。つまり、國引きの神である八束水臣津野命が國引きをされたあと、オオクニヌシの宮殿を造ることになり、出雲の神たちが集まったという。

 2000年、今の本殿の約50m前から柱の跡が出てきた。1本の柱を造るのに3本の木を使い、その3本の柱を鉄のベルトで締めて、1本にしているという。この1本の直径が大体1m30cmで、3本を全部まとめると直径が3mぐらいになるともいわれる。大社の柱は9本の柱で、ただし真ん中の柱は棟を持っていないので、現実には8本で社殿を支えているわけだが、それで高さが20mぐらいということはない。20mなら今の柱で十分であるからだ。それでがぜん脚光を浴びたのが16丈説で、16丈というのはありえるのだと建築学の大家・福山敏男先生が考えられ、それらをもとにして出雲大社側や島根県が、古代出雲大社の模型を制作している。

 しかし、なぜこんなに高いものを造るのか。これでは安定性が悪くてしかたがない。実際、鎌倉期までの史料をみると転倒記事がでてくる。もっと安定性を持たせればいいのにと思う一方、高くする意味があるのだろうとも考えられる。例えば「高天原に向かっているのだ」という意見があり、別府大学教授の飯沼賢司先生は「出雲大社のあたりはくぼ地で、水が出たときなど低い建物だと床下浸水になったりするから、排水の必要から高いのであろう」と考えている。これに対する私の意見は、漁民たちの灯台的な役割を果たしたのではないか、海人たちによって信仰を受けた神社で、航海安全の目印ではなかったかと考えているが、まだまだ考えなければならない点が多い。要は、高さの意味についてはまだ分かっていないということだ。

 最後に、オオクニヌシはなかなか難しい神様であるけれども、海洋神的な神様としての面をもっと重視しても良いのではないかと思っていることも付け加えさせていただく。

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