大学等連携事業

2005年度 早稲田大学オープンカレッジ秋季講座 「環日本海の森から見た21世紀」


2005年度 早稲田大学オープンカレッジ
平成17年10月14日
早稲田大学
第2回

NPO法人 樹木・環境ネットワーク協会
専務理事 渋澤 寿一氏

 私はもともと農業の技術屋で、大学院を出てJICAに入り、南米のパラグアイや西アフリカをフィールドに、現地に合った小麦や野菜類の新しい品種を作る という技術協力の仕事をしていたのだが、体を悪くして帰国し、長崎のハウステンボスの開発にかかわって、13年ほどオランダ村の経営者をしていた。その 後、現在のNPOに替わって、今年で丸10年になる。順調にいっていたハウステンボスの経営者を辞めようと思った理由は、下水道処理やごみ処理、発電シス テム等、環境に関する技術を徹底的に持ち込み、循環型の都市を造ろうということでトータル350億円ぐらいのお金が投入されたこの都市をアジアの留学生に 見てもらったところ、「自分たちのような貧しい国では、これだけの投資を環境インフラにかけられない」と言われたことにある。  

 大きな震災に遭ったエクアドルのバイア・デ・カラケスという町で、2000年に環境のNGOの会議があった。結局人間は自らの欲望を抑えられないかもし れないという思いが支配していたその席で、アメリカのピーター・バーグという活動家が壇上に立ち、日本の東北地方に見られる鎮守の森を中心とした村づくり の提案をした。すなわち、鎮守の森を精神の中心に置き、地や水にいる神と人間が対等に生きていこうということだ。それを聞いた全員が立ち上がって、大変な スタンディングオベーションになった。

 東日本と西日本では自然が本当に違う。例えば大阪で人間が全く手を入れない土地100坪が500年たつと、そこはシイやカシの常緑樹の生い茂るうっそう とした暗い森になってしまう。つまり、植物は光の取り合いをして繁殖していくので、常緑樹以外の植物はそこで育たないのだ。一方、東北や環日本海に典型的 に見られるブナの林は非常に明るい。それは、寒温帯では落葉樹が森の上部を占めているので、冬はどんどん光が森に入り、下の灌木の種類が多くなり、非常に 多様性を持った森ができるからである。

 環日本海地域は、世界有数の豪雪地帯である。シベリアやアラスカ、北欧は、氷に閉ざされることはあっても、これだけの雪は降らない。環日本海の豪雪は、 対馬暖流が日本海の温度を高め、そこから発生した水蒸気に大陸からの冷たい空気が入ることによりもたらされる。しかし、氷河期になると海の水位が下がり対 馬海峡が閉じてしまうので、雪も降らなくなり、氷河に覆われることもなかったことから、旧石器時代からの植物が生存を続けることができ、日本の森はこんな に多様性がある森となった。

 秋田県の旧河辺町の鵜養(うやしない)という集落に私が通い出して、かれこれ10年近くになる。この集落は雄物川水系の岩見川という川の支流の大又川、 小又川に囲まれたV字谷にある。天保や天明の大飢饉のとき、秋田平野ではたくさんの餓死者が出たのに、山のいちばん奥のこの集落ではなぜか餓死者が出な かった。その理由は集落の大きさに比べて水田が多く、その3分の1ぐらいで自給できると思われることと、後ろの山にクリ林があることだと思う。

 鵜養の集落の峠を越えると道祖神があるが、海側には海の神様の金毘羅様が祭られている。それは、人間は塩を得ないと生きることができないからである。村 の後ろの雑木林の木を切り、それに家の紋を付けて川に流す。その一部は浜で塩を作るための塩木として利用され、その他は秋田市の中で薪として利用される。 そして、それを利用した人がそれに見合う乾物や塩を持ってくるのである。また、スギやヒノキなどの針葉樹は上を切ると根っこが枯れて土も流れてしまうが、 コナラやミズナラ、ブナなどの広葉樹は上を切っても横からわき芽が出てきて、ほうっておくとだんだん大きくなって元の森に帰る。したがって、村では30か 所の薪山を持っていて、1年に一つずつ切っていっている。

 また、川の堰に沿って集落の表があり、家の中に引いた水を水屋で使い、それを裏の池にため、温かくして畑にやり、畑から田んぼに落とし、田んぼから川に 流す。私は集落に水が入ってくる上の堰と、水が出ている下の堰で大腸菌の検査を10年間ずっと続けているが、まだ大腸菌は見つかっていない。それぐらいき れいなのである。

 そして、家屋はほとんどが山から採れてきたものでできている。屋根はカヤで、ススキを雪囲いに使っている。1年間分の薪も山から切ってきたものである。 家の建材も山からのもので、中で保存されているクリも、漬けてある山菜やキノコも山から採ってきた。また、おばあちゃんたちの世代までは、カラムシという 山から採ってきた麻に近い繊維で自分たちの着るものを織っていた。つまり、自分や家族が生きていくのに、山のこちらの端からこちらの端までの自然の中で事 足りるのだ。したがって、「自然が大きく変わらなければ、おれは生きていくのに何の不安もない」と皆さん口をそろえておっしゃっている。

 裏山には保存食になる大きなオニグルミの木があり、石段を登っていくと、お社がある。その両脇にネズコやスギ、ヒノキなどの樹齢300年ぐらいの大木が ある。幾つかの切り株があるが、最近のものは村に発電機をつけたときに切ったものだとおじいさんから聞いたという。要するに村では税金はあてにせず、学校 を建てるなどというときには御神木を1本切って、天然の秋田杉を売って賄っているのだ。

 また、至るところに祠があり、必ずお供え物がしてあるが、神様にお願いしている風景はほとんど見ない。みんな神様に感謝こそすれ、お願いをする習慣はな いようだ。しかし、山の人たちは本当に謙虚で、自分たちは山に生かされてきたという話を皆さんなさるのが印象深かった。旧暦の4月8日には、山の神様を田 んぼにお招きする祭りがある。そのときには田んぼのあぜの土でかまどを作り、薪で火をたき、堰の水で湯を沸かす湯立ての神事をし、去年取れたわらでお湯を かき回し、一人一人その湯気を吸い、自分が山の神様と一緒になり、翌日から農作業に入る。

 また、私が学生のころには、夏の時期、朝の4時ぐらいに、どの田んぼの端にもお百姓さんが立っておられた。その日に差す最初の光の中で、田んぼの稲の色 を見て、窒素が効きすぎているなとか、少し温度が高いな、低いなという断を下し、堰の中の石ころの向きを少し変えて水の流れを変え、その日田んぼに入る水 の量を調節されていた。

 私は環日本海の農村を歩いていて、どこに行っても「稼ぎと仕事は別だ」と教わった。マタギの里として有名な阿仁の集落では、山に狩りに行くことをマタギ 言葉でマタギ、里言葉で「出稼ぎに行く」と言う。自分の家族を食わせていくのに必要な労働が稼ぎである。一方、夏に山に入って、枝打ちや下草刈りをやるの は「山仕事」である。仕事とは、自分はお金を得られないが、孫やひ孫、もっと先の世代のために今やっておかないといけないことなのだ。そして、「仕事と稼 ぎができて一人前」ということを必ず言う。例えば祭りの世話役や昔の講の世話役、「ゆい」や「もやい」でやる道普請、屋根葺きなどがその「仕事」で、屋根 葺きをしても一銭のお金ももらえない。昼の弁当とお酒が出るだけである。
 僕は大学時代、祭りの差配を決めるのに、村の全男衆がお宮に集まり、2泊3日で寄合をやっているのを見せてもらった。そのときは、延々と関係のない話を して、3日めの昼ぐらいに長老が全部決めてしまうのを古き因習と批判的に見ていたのだが、今振り返ると、その席では「この間崩れた道は今度『ゆい』でやる か」「いや、上には2人の田んぼしかないのだから、彼らに任せよう」「あそこの家の長男坊が大学で、金がかかって大変だ」「では、あの連中に道普請をやら せよう」「入会林の口開けの1週間前に、あそこの家は入れてやろう」という話が出ていたのを思い出す。

 新潟県と山形県の県境に朝日村という村がある。そこを流れる三面川の最上流部にあった奥三面という集落からは、3万年前の旧石器時代までさかのぼる歴代 の集落遺跡が出ている。今はダムに水没してしまったその村のおばあさんから「三面では家の門口にえい児を埋める習慣があってね。私も、私の母親も、私のば あちゃんも、自分の家の門口に大きくなれなかった子供を埋めたんだ。だって、家族の声が聞こえなかったら子供がかわいそうだろう」という話を聞いたこと で、本当に私は人生が変わったと思う。それまでは持続可能な社会システムを作って環境問題を解決していくということしか考えていなかった。そのおばあちゃ んが言ったことは、3万年間そこで続いてきた社会システムの根幹の部分だと思う。それは多分言葉にすれば、愛、優しさ、慈しみ、子供に対しての許し、感謝 などだと思うが、環日本海の人間の暮らしは、それがあったからこそつながってきたのではないか。そういう心の部分をどうやって次の世代につなげていくか、 あるいは社会の中で大きい声で伝えていくか、私はそれをやらないと人類は持続可能には絶対になりえないと思っている。