大学等連携事業

2005年度 富山県大学連携協議会公開講座 「日本海航路開拓と船の歴史」


2005年度 富山県大学連携協議会公開講座
平成17年10月29日
とやま市民交流館
第2回 海の道 1限目

講師 富山商船高等専門学校
助教授 千葉 元氏
講師 岡本 勝規氏

①~北前船と日本海~

 北前船は、江戸時代後半から明治中期にかけて、大阪と北海道を往復した日本海側の不定期の廻船である。1672年、河村瑞賢による酒田~大阪の西廻航路開拓により発展した。買い積み商法で、各地で商売しながらの航海で利益は大きかったが、海難も多かった。北前船の1年間は、3月~4月に大阪を出帆して、日本海を対馬海流に乗って航行し、6月~7月に松前三港に着く。そこで荷物を積み、それを日本海各地で降ろしながら、秋ごろまでに大阪に帰る。そして、冬場は日本海は非常に荒れるので、航海はしなかったようだ。
 当時の航海用具には、和磁石、遠眼鏡、海図、時計などがあった。磁石があるので船が進んでいるおよその方向は分かったが、当時の磁石が示す北はその地域の地磁気の影響を受けて、微妙な誤差を生じていた。したがって、海から見える山や陸を頼りに航海をすることになるので、より遠くの山が見えたほうがいい。そのために発達したのが遠眼鏡である。当時、実際に使われていた「皇国総海岸図」には、立山など海から顕著に見える山々が記されている。陸地の測量技術はまだまだであったが、小矢部川、庄川、神通川などがしっかりと上流まで書かれており、北前船が今の岩瀬辺りまで来て荷物を積んだ小舟を降ろし、神通川を遡っていったか、上流から荷物を積んだ小舟が下ってきて大きな船に積んだことを表している。


 実は船が大きな海を走っているときに、自分の位置を測るのは難しいことなのである。図1に示すように、ある港を出港してからの大体の針路を磁石で測定し、自分がどれだけの速度で何時間走ったかが分かれば、走行距離から推定現在位置を割り出すことができるが、そのためには船の速度と走った時間が分かる必要がある。時間については当時すでに砂時計を積んでいたので、問題は走った速度だが、北前船は帆船なので、当然風の力が大きく影響する。風の強さによって船が傾く傾斜角や風が波を切る波切音により風力を何段階かに分けて計算をしていたが、非常に誤差が大きかったと思われる。

 


 

 実は当校の島木教授が、明治から大正にかけて走った新湊に船籍を持つ恵集丸という北前船の航海日誌により、実際に走った航路をプロットしてみられた。これを図2に示す。例えば、明治35年の航海では、放生津を出発し恐らくは陸地を見ながら佐渡を目指したのだろうが、佐渡を越えた辺りから目に見える物標がなくなり、エイヤーで測ったコンパス進路とスピードによって推測航法で走ったところ、入道崎が見えてきて、全然違うではないかということで位置を修正していることが分かった。
 皆さんご承知のように、北前船は1本のマストに1枚の四角い帆を掛けた帆掛け船の形をしている。この形は、基本的に船の後ろから風を受けて、風下へ走るのがメインであった。当時のヨーロッパの帆船は風上にかなり 進むことができたが、それは、現在のヨットのセイルのように三角形の帆を用いているからである。この三角形のほうが風上に進むのに有利である。ちなみに、北前船が風上に進 むには、風を斜め前から受けるように帆の向きを調整しなければならなかったと思える。
 ともかく私どもは、このような微々たる航海計器で荒れる日本海を渡った当時の船乗りに驚嘆している。恐らく彼らは、そのときの海の色、空の色、波の出方、風の出方、あるいは海の味、霞んでぼやっと見えた陸地などから、自分が今どこにいるか、風が次にどう変わるか、その場合、船をどう進ませるのが得策かを経験と勘から割り出していたのだろう。今は科学万能の時代となり、船もGPSができて以来、常に自分の位置が分かるようになっている。コンパスもジャイロコンパスという、正確に真北を指すものができた。船の速力も非常に正確に測れる。しかし、まだまだ自然を甘く見たことに起因する船の事故が絶えない。我々の大先輩である北前船の航海者の意気込みに学ぶことは多い。


 

②~対岸諸国と日本海航路~

 表日本、裏日本という言い方に対し、我々はかつて日本海側は対岸への窓口であったと反論してきたが、現在はどんな状態なのだろうか。日本海側には、現在、重要特定港湾・重要港湾といわれるものが多く存在するが、平成10年の中国への輸出入は、日本海側すべての港を合わせても横浜、神戸一つに及ばない。また、韓国に関してもほぼ同様である。一方、対ロシアに対する輸出は、日本海側全部の港を合わせれば、何とか横浜、神戸に勝つことができる。また、輸入量は圧倒的に横浜、神戸より多い。実は日本海側でいちばんロシアとの輸出入が多いのは伏木富山で、これ一つで十分、横浜、神戸に対抗できるのだ。同様に、北朝鮮に対しては、輸出についてはあまりアドバンテージがないが、輸入は圧倒的に日本海側の舞鶴や境港に来ている。ただ、全体のパイの大きさは、対中国・対韓国に比べると、対ロシア、対北朝鮮は圧倒的に小さく、非常にニッチな部分となっている。
 では、日本海側が対岸への窓口だったのはいつのことだろうか。千葉さんのお話を受けて、私は北前船以後、明治末からの環日本海の定期船の歴史をお話ししたい。明治20年ごろの主要対岸航路図を見ると、大阪・神戸から出発して下関を通り、釜山経由でウラジオストクへ向かうか、仁川から天津に向かっている。残念ながら日本海側からは出ていないが、江戸時代のなごりか、長崎へも航路が延びているのが見える。


 これが明治40年ごろになると、従来の瀬戸内を抜けていくタイプのものに加えて、函館、新潟、敦賀から日本海を縦断してウラジオストクへ向かう航路ができている。また、明治38年に日露戦争が終わって、サハリンの南半分が日本の領土になったため、そちらの方へも航路が延びている。すなわち、このころになると日本海側にも大陸への定期航路ができてくるのだが、これにはウラジオストクが大陸への窓口となったという背景がある。 大正15年ごろになると、このウラジオストクの役割はますます顕著になってくる。当時、日本からヨーロッパへ向かうには、ウラジオストクからシベリア鉄道に乗るのが最短で、神戸辺りから船に乗って向かうより15~20日ぐらい早かったと言う。また、ウラジオストクからはハルビンへ鉄道で抜けることができた。このころになると、富山近辺では、伏木富山はもちろん、滑川、魚津などからも対岸への航路が延びており、サハリンへの航路も充実していた。
 そして、昭和15年ごろになると、日本海側のどの港からも対岸へ行けるようになり、環日本海航路は絶頂期を迎える。しかし、ロシア革命の影響で、ウラジオストクへの航路は少なくなり、代わって元山(ウォンサン)、清津(チョンジン)が活況を呈してくる。元山は恐らく朝鮮半島に対する日本海側の窓口として機能していたのだと思うが、注目すべきは清津で、ここから列車に乗って直接、満州国の首都新京へ行けたことが多くの航路ができた理由であろう。ちなみに、大和百貨店も当時、清津に支店を持っていた。


 以上から見て取れることは、対岸航路というのは、沿岸ではなく、その奥の中国東北部、かつての満州、あるいはシベリアが目的だということだ。これを現在に翻って考えてみると、その奥に行けないということが問題なのではないだろうか。環日本海地域の地域別のGDPを見ると、日本が約2兆9124億ドル、韓国が6009億ドル、中国東北部が4174億ドル、ロシア極東が339億ドル、北朝鮮が214億ドルであるが、人口で見ると、日本が1億2580万人、中国東北部が1億450万人とほぼ拮抗している。続いて韓国の4550万人で、間のロシア極東と北朝鮮は谷間のように少なくなっている。現在の問題は、この地域の物流・交通インフラが未整備であることから、日本と伸び盛りの中国東北部が直接行き来できないことだ。このことは以前に環日本海研究所のかたも指摘されていたことである。
 この地域に関して、以前、ロシア、中国、北朝鮮が国境を接している図們江(豆満江)地域の開発が計画されたが、それはどうも頓挫したようだ。ただ、中ロ、中朝で個々にインフラの整備の努力はなされており、現在、中国吉林省が海への出口を求めてロシアのザルビノまでの鉄道と道路の整備を行なっている。また、北朝鮮政府も、かつて栄えた清津、羅津(ラジン)から先鋒(ソンボン;昔の雄基)に抜ける鉄道を何とか整備しようとしており、羅津、先鋒は経済特区に指定されたが、うまくいかなかったようだ。
 したがって、日本海側の航路がもう少し充実するためには、政治的な課題として、日ロ、日朝関係がもう少し風通しのいいものにならなければいけないだろうし、経済的な課題としては、この辺りのインフラが何らかの形で改善されなければならないと思う。私はこの二つが解決されてはじめて、日本海航路がかつての華やかなころに戻れるチャンスが来ると考えている。