大学等連携事業

2005年度 富山県大学連携協議会公開講座 「環日本海の法と政治」


2005年度 富山県大学連携協議会公開講座
平成17年11月19日
とやま市民交流館
第4回 海の環境 2限目

講師 高岡法科大学教授
城山 正幸氏

問題の限定

 全 体のテエマに社会科学者の立場からアプローチしようとは思うが、それはいささか難題なので、標題のように少しアレンジした。色々なサ ブ・テエマが考えられたがなかでも、「平和」に的を絞りたい。あらゆる禍の根は「戦争」であり、あらゆる幸の前提は「平和」だからである。


 

集団安全保障

 19世紀の世界では、味方を多く作ってその力で相手側とにらみ合う安全保障システムが主流だった。その恐怖の均衡の中で2度の世界大戦を経験した私たち は、もう二度と戦争が起こらないようにしようと、国連という一般的安全保障システムを作った。この中心となるのがCollective Security(集団的安全保障)の考え方で、ここには二つの原則がある。その一つは相互不可侵の約束で、その約束に反して侵略してくる者があれば、み んなで共同防衛するということだ。しかし一方で、相互不可侵の原則の背景には、当然、一切の武力を行使しないという約束が考えられなければならない。しか し、1928年に成立した不戦条約については、当時からイギリスやアメリカなどが「自衛のための戦争は別だ」と言っており、これが抜け穴となった。また、 我が国にも東京裁判でこの論理を使って今度の戦争を正当化しようという議論がある。  したがって、国連を作ろうと議論したときには、今までの表現ではまずいということをお互いに認識して、もう少し広く、「一切の力の行使を禁止する」とし ようとした。実際、国連憲章の前文では「armed force」となっているのに、国連の活動の原則を定めている憲章第2条4項では単に「force」となっているのだ。この「force」には、経済力も 政治力も社会力も 入る。つまり、力が支配するのではなく、法が支配する世界を実現しようとしたのである。
 ここに見られるのは、一切の力の行使、とりわけ武力の行使は違法だという認識である。そして、力の行使の違法性が阻却される唯一の例は、国連憲章の前文 の第7節にある「共同の利益の場合」だけであるとされた。ところが、「共同の利益の場合」とは一体何かということは、国連憲章は何も言ってくれていない。  刑法で窃盗とは「他人の物を摂取したる者」と定義されているが、昔、送電線からかってに取った電気を使って訴えられた男が「電気は物ですか」と開き直っ た。それを法律学者は、「物とは形になっているものでなくてもかまわない」という定義を作って有罪にしたという話があるが、憲法9条の戦争についての政府 統一解釈もこれと同じ変遷をたどってきた。私に言わせれば、自衛隊はどう考えても「戦力」である。それを「戦力」ではないと強弁するために、「戦力とは近 代戦争を遂行する能力」であるという定義を作ってしまった。そして、「近代戦争を遂行するには核兵器がなければならない。核兵器を持たない自衛隊は戦力で はない」という解釈をしてきたのだ。
 では、国連憲章に言う「共同の利益」はいかなるものであって、「共同の利益の場合」と認定されたときに、どのようにその違法性が阻却され、武力行使が可 能になるのか。私は、国連憲章の第7章にそのヒントがあると考える。すなわち、相互不可侵の約束に反した者がいれば、たちどころに国連安保理事会を招集し てその事実を認定し、即座に次の手を考える(憲章第39条、40条)。これを「暫定的措置」と言うが、これは限定がないので何でもできる。とにかくこれ以 上火の手が広がらないよう に抑えつけるということだ。そして、しばらくたって落ち着いたら対策を練る。その対策の第1段階が「非軍事的措置」といわれるもので(同第41条)、一切 の外交関係を絶 つ、経済的な交流を無しにする等のやり方があり、その決定はすべての加盟国に公的拘束力を持つ。そして、それでも言うことを聞かなければ、最後に軍事的な 措置を執るということになるのだ(同第42条以下)。
 それ以外の武力行使は、いかなる国家であれ許されないとダンバートン・オークスの時点では言っていた。そして、それがゆえに今の国連憲章の51条に当た る「自衛権」はなくていいと考えていたのだ。つまり、今ご説明したようなメカニズムで、十分に平和は維持できるという考え方だったのである。

集団的自衛権の問題性

 ところが、当時もうすでに東西冷戦が顕在化していたことから、安保理事会がすっと動けるかという疑問が出てきて、1943年ごろからは、五つの大きな国 が平和を守る警察官の役割をするということを、指導者たちが盛んに口にするようになった。ゆえに、今の国連では、五つの常任理事国のすべての賛成票を含む 9か国以上の賛成がなければ、安保理事会の決定はできないことになっている。つまり、冷戦の現実に直面して、国連の一般的平和・安全保障のメカニズムは大 きな挫 折をするわけである。
 そして戦争末期、1945年の1~2月に、仲間がやられたときには、その仲間を救うために行動できるというシステムを作ってほしいという話し合いがなさ れ た。すなわち、地球全体にわたる集団安全保障システムのほかに、各地域に限定した小さな集団安全保障システムを作ることを認めろという議論である。(自分 が攻撃されたときに対抗するのは当然だから、いちいち国連憲章に書かなくてもいいというので、ダン バートン・オークス提案には今日の憲章51条に該当する項目はなく、したがって自衛権については明記されていない)。しかし、安保理事会が動けないときに 仲間を助けに行きたいという議論を法的に正当化するために集団的自衛権と呼ばれる 考 え方が1945年の冬に誕生し、今まで自衛権と言ってきたものを個別的自衛権として、自衛権には二つあるということが国連憲章51条に明記されることにな る。
 いずれにしても、国連憲章では一切の暴力、武力、力の行使は違法であると認めたうえで、違法を阻却する例外的なものとして、国連全体で制裁を課すための 暴力、武力、力の行使は認められている。ここまでは多くの学者が言うことだが、私の説は、個別的自衛も含めて、自衛の場合であってもこの枠組みの中に入る べきであるから、「共同の利益の場合」に当たらなければならないというものだ。明治になって権利という言葉が日本に入ってきたとき、福沢諭吉は、欧米の考 え方とは違い、権利とは利益ではなく理(ことわり)に裏打ちされたものでなければならないと考えた。この考え方からすれば、自衛の行為は自らの権利、利益 を守るだけであって、武力を行使してはならないという国際社会の法、秩序を否定した者は罰せられなければならないということになる。
 つまり、私の勉強では、国連憲章51条に基づいて個別的自衛権を行使する場合でも、それは「共同の利益」のためであることを忘れてはならないということ になるのだ。ましていわんや集団的自衛権を行使する場合にはなおさらであり、自衛権の行使は憲章51条で、安保理事会が動き始めたらだめだとか、後で必ず 安保理事会に報告しろとか、相手の武力行為が現実に発 生したときに限るなどと、その行使について二重、三重にたががはめられている。
 したがって、51条に集団的自衛権と書いてあるからそれを使わなくてはいけない、そのために憲法を改正しようというのは、極めて短絡的な考え方であり、 日本の政治家はほとんど間違っていると思う。また、日米安保条約で日米の共同防衛が定められているが、国連発足当時の高い理想から考えて、果たしてそれで よいのだろうか。冷戦構造の中で、集団的自衛権をテコにしながら、19世紀の恐怖の均衡、力のバランスとさほど変わらないものができてしまったというのが 今の現実だと考える。

日米安保体制の変遷

 そして、そういう枠組みの一環として始まった日米安保体制は時代とともに変遷し、1980年以降はアジア全体を見渡す安全保障システムの一部であるとい うとらえ方がされるようになっている。最近、報道されている在日米軍の再編成も、明らかに日米の安全保障の問題ではなく、アジア全体の中に日米を置いてい ることは明らかだ。
 一方、今、話題の東アジア共同体構想は、大体のところ経済問題が中心になっている。昨日、釜山で始まったAPECはアジア太平洋の経済関係を中心とした ものであり、来月マレーシアで開催される第1回東アジアサミットも、FTAやEPAを通じて東アジア全体に経済共同体を作ることを目的としている。私はそ れを否定はしないが、ヨーロッパのように同質のものが集まったものとは違い、アジアには社会主義国もあれば、分裂国家もあるし、貧富の差も激しいことを考 えると、そう簡単に経済共同体まではいかない。
 ただ、私は、アジア全体とは言わないまでも、東アジア全体の地域的な安全保障の枠組みを作ることならできると思う。つまり、国連の東アジア版、できれば アジア版を、改めて作ろうということだ。日本国憲法はその前文で、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意し た」と述べている。日本の総理大臣は、「国際社会において名誉ある地位を占めたい」という部分だけを切り取って、そのためにはペルシャ湾に自衛隊を行かせ なければだめだとおっしゃるが、日本の憲法は国連憲章ができたあとにできており、それを核にしている。つまり、一切の力の行使をしないというあなたがた (世界のすべての国々)の 「公正と信義を信じ」て、日本は丸裸でいくと開き直っているわけである。当時の重光外務大臣が日本の国連加盟に際して行った国連総会での演説にも、同様な ことが述べられている が、私は今、この原点に立ち戻る必要を強く感じている。