大学等連携事業

2006年度 東京大学大学院講座 「マネジメント研究事例-日本海学の構築をめざして-」講義内容


2006年度東京大学大学院講座
マネジメント研究事例-日本海学の構築をめざして-

「魚類と日本海」

講師 魚津市教育委員会、前魚津水族館学芸員
稲村 修 氏

日時 2006年5月23日(火)

 日本海は対馬、津軽、宗谷、間宮海峡で囲まれているが、対馬の水深が約150m、津軽が約130m、宗谷は約55m、間宮に至っては10mほどである。洗面器をイメージしていただければいい。そこに黒潮から分かれた対馬暖流が対馬海峡から流れてくる。この水は当然津軽海峡から流れ出していったり、一部が上のほうで回ったりする。

 最近、各地で深層水というものを取っているが、富山では大体300mより少し深い所から取っている。日本海は大きく二重の層になっており、これはビールを注ぐと液体の部分と泡の部分が分かれるようなもので、その境目が大体水深300mである。日本海の300m深い所には日本海固有水という、冷たくきれいで、栄養塩が多い均質な水があり、その上に対馬暖流が流れ込んでいる。しかし対馬暖流自体は、暖かいうえに、入り口では水深150mで仕切られているので、本来600mほど厚みがある黒潮が入り口で止められている。

 では、深層水と呼ばれる冷たい水はどこから来ているのか。ウラジオストクやアムール辺りに、冬になると非常に冷たくて乾燥した風が吹く。そうすると、その表層にある水、つまり基本的には対馬暖流が流れ込んで回ってきた水が冷やされ、水分が飛ばされて濃くなる。そうすると重くなって下へ沈みこむ。これが先ほど言ったビールの液体の部分で、日本海固有水になることが分かっている。

 富山湾を例に取ると、日本海自体はいちばん深い所で3500mほどある。富山湾は1250mほどしかないが、やはり二層に分かれているので、富山湾を見れば大体日本海が分かる。日本にある三大深湾の一つが富山湾で、日本海側では唯一である。例えば若狭湾は大きな湾だが浅い。しかし富山湾は非常に深く、能登半島に囲まれているため岸近くから急激に深くなっている。太平洋側では駿河湾と相模湾が深湾である。海洋学で深層と言うと1000~1500mなので、300m以下の所を深層と言うと少し問題があるかもしれないが、ともかく二層に分かれている下層部の水を深層水と呼んでいる。それが富山湾の容積の75%を占める。今これを一生懸命パイプで取って商品化している。

 この水は、清浄、冷たい、栄養豊かという特徴を持つ。大腸菌の量が表層の水に比べ1~2オーダー低く、また水温が大体均一で1~2度ぐらいである。厳密に言うと0.5度以下を固有水という言い方もあるのだが、富山では大体1~2度という言い方をしている。栄養豊かというのは、この水を使って魚を育てたら育つという意味ではない。深層水の栄養とは、植物の三大栄養素と同じく、窒素、リン、カリである。海の生物が生きていく基礎になるのは植物プランクトンで、太陽光線によって表層で植物プランクトンが繁殖することが生命の始まりである。植物プランクトンは繁殖に窒素、リン、ケイ酸を使う。陸上のカリの代わりにケイ酸を使うのは、珪藻類が多いからだ。しかし、200m以下の深い所では光も入ってこないので、窒素、リン、ケイ酸が使われていない。そういう意味で栄養が豊かなのである。富山でもこの深層水を使った養殖はたくさんしているが、中でも特徴的なものの一つにアワビがある。といってもアワビ自体の養殖に深層水を使うのではなく、アワビのえさになる珪藻や昆布などを育てているのだ。

 「県の魚」というと、秋田はハタハタなど旬の魚と決まっている。山口はトラフグ、福井は越前ガニ(ズワイガニ)、青森のヒラメ、山形はサクラマス、石川はイカやアマエビなどたくさんある。島根はトビウオ(アゴ)で、これを干したものでだしを取る。

 では、富山は何か。富山県の魚は平成8年に選ばれている。県のイメージに合い、歴史的文化的に県民になじんでおり、それ相当の漁獲量があり、知名度が高い、富山県特有の魚ということで三つも選んだ。まず富山湾の王者、ブリ。越中ブリでそれなりに有名な魚である。そして富山湾の神秘、ホタルイカ、最後の一つが富山湾の宝石、シロエビである。

 ブリは富山県の中でも場所によって呼び名が違う。1歳魚はツバイソ、それからコゾクラ、フクラギと名前が変わっていく。フクラギは30cmくらいで、お腹が女性のふくらはぎに似ているからフクラギだという説もある。ほかにガンドとハマチという言い方もある。県西部に氷見ブリで有名な氷見市があるが、そこでは1歳魚をガンドといい、魚津ではハマチという。実は東京の築地市場に行くとハマチというのはブリの子供で、フクラギサイズで、四国や愛媛などで養殖したものをいう。関西の呼び名なのである。

 ブリは日本海側でも太平洋側でも取れる出世魚である。各地で大量に取れるものは、津々浦々というように、浜で呼び名が全部違う。魚津でいうハマチは、天然物で大きな1歳ものである。古い時代に関西からハマチという名前が入ってきたのだと思う。2歳魚は沿岸に寄ってこないのか、富山ではあまり取れない。取れるのは3歳以上のブリである。大体4月の春に九州の南西部で産卵している。生まれた子供はモジャコといわれる。それが流れてきて大体5~6cmから10cmくらいで岸に着く。ちょうど富山ではお盆のころである。それがこの場所で成長して、1年めのツバイソやフクラギと呼ばれる30cmくらいのものになる。そして満1歳になって、ハマチ、ガンドになる。3歳になって北海道のほうまで行くが、北の海は南の海に比べて栄養源の供給が非常に多く、「豊饒の海」といわれるように生産性が高い。そこで大量にイカ、イカナゴなどいろいろな生物を食べて大きくなって太ったブリが、11月ごろに水温が下がったころに一気に南下してきて、富山でちょうどお歳暮のころに取れる。昔から越中ブリということで有名である。

 これがなぜおいしいのか。今はどこでも巻網でブリが取れるが、そのころにはお腹に卵をいっぱい持っていて身の味が落ちているので1kg100~200円で取引される。つまり、ほとんど身が食べられずキャットフードなどにされているのだが、富山で取れるときには、まだ卵巣や精巣が小さいので、脂がのった状態のものが取れる。普通、ブリらしいブリというと10kg以上で、以前は12kgと言っていたが、最近は5~6kgのものをブリと呼んでいる。もっと困ったことは、富山のどこかでブリが取れたというニュースが流れると、店頭に愛媛産や九州産の養殖のブリが並ぶ。それは脂ののりが全く違い、食べ比べるとすぐ分かる。天然物は脂がさらっとした感じなので、かまの部分をカリカリと焼いて、レモンをかける前に皮を食べるといちばんおいしい。養殖物だと脂がどろっとした感じがする。

 次にホタルイカ、私の専門である。これは大体10cmくらいのイカで、今年は全然取れていない。富山湾は沿岸から急激に深くなっており、産卵期になるとホタルイカは大体水深200mの所に行く。日本海側のほかの地域だと水深200mは沖合なので、昔の技術では取れなかった。富山では昔から地引き網、もしくは小型の定置網で取っている。つまり、富山湾という地形が生んだ産物である。

 ホタルイカのお腹がなぜ光るかというと、海の中では光は真上からしか来ないので、泳いだときにお腹が影になるのを消すために光っていると考えられている。実際に光を当ててみると、基本的に海底の深い所に来ている光と同じ波長、同じ色、同じ強さくらいの光を出しており、強さを変えることもできる。また、お腹のほかに皮膚発光器、腕発光器も持っており、腹側の先端に大変強い発光器が3個並んでいる。ほかに眼球のお腹側にも発光器があるが、これも恐らく目の影を消すために使っていると思われる。

 腕先の発光器は、以前は外敵に対する威嚇のためのものだといわれていた。テレビの映像で3月1日にホタルイカ漁解禁のニュースが流れると、すごく光っている。あれは定置網に引っかかって、逃げられなくて光っている状態なのである。これを水槽の中でやってみたのだが、捕まえると光るが、水の中に入ると必ず光を消す。越後の笹だんごの笹のような感じで、構造上、表面に膜があって、それを瞬時に閉じることができるのだ。ホタルルシフェリンという発光物質をホタルルシフェラーゼという酵素を使って光らせているのだが、これは瞬時には消せない。そこで恐らく膜を使っているのだろうと思われる。私も以前は外敵を驚かすために光っていると思っていたが、よく考えてみると、こんな小さなイカが幾らタラの前で光っても、タラが驚くだろうか。水槽の中でやってみると、見事に食べられた。正直、どういう刺激で光るかもよく分かっていないのだが、捕まえると光る。それで、構造的なことを調べてみた。

 一般のイカが敵に襲われたらスミを吐く。イカのスミは、ねばっとしている。外敵が来ると、自分の形と似たねばっとした塊、ダミーを置いて、自分は逃げるのである。タコの場合は、スミをふわーっと広げて煙幕として使うので、さらっとしている。ホタルイカの場合も、もともと浅い明るい所で生活していた種だと考えられており、それが暗い所に進出していくにしたがって発光器を発達させたのだろう。だから、水の中で逃げるときに瞬時に光って、すぐ消して逃げる。いわば光を使ったおとりというのが私の仮説だ。

 発光の構造は、ルシフェリンを粘液などを使って光らせるというもので、ホタルと一緒である。肝臓で発光物質を作り、それを移動できる形にして腕発光器や眼発光器や皮膚発光器に持っていく。それを燃やして酸化したものをまた肝臓に持っていき、肝臓で生成し直している。実は腕発光器に送るときのホタルイカのルシフェリンは、ほかのたんぱく質とくっついているようで、非常に発光しにくい形でためられている。それに対して皮膚発光器や眼発光器では、非常に発光しやすい形でためられている。要するに、皮膚発光器は常に光っていなければいけないので発光しやすい形で回しており、腕発光器ではためておいて大量にどんと使わなければいけないから発光しにくい形でためているのではないか。

 ホタルイカは全国に分布しているが、日本海では、産卵期始まる3月ごろに水温が上がってくると、200mほどの水深に上がってくる。そして、夏ごろ大和堆の辺りで若いイカが取れる。沿岸のほうが温度が上がりやすいので、沿岸に来て産卵をして大和堆に流れつき、そこで成長して戻ってきているという仮説が出ている。

 ちなみに、12月ごろに取れるホタルイカは雄雌半々だが、3月ぐらいになると雌がほとんどになる。首のところにバナナように白いものがついているのが精夾という精子の入ったカプセルだが、1月か2月の間に交接したあと、雄は沿岸に寄ってこないのか、死んでしまうのかは、今のところ分かっていない。寿命は1年といわれている。

 次にシロエビである。これは標準和名ではシラエビといい、水深200~300m、つまり、深層水にも対馬暖流の暖かい所にも入らない中間の所に生息している。分布は新潟を含めた富山湾周辺で、太平洋側の駿河湾、相模湾にもいるが、漁業として取れるのは富山だけである。最近はお刺身にして食べたりして有名になったが、以前は桜エビの代用品だった。からあげにして食べるとビールの際に最高だ。

 ここからは、表層にいる魚の話から、徐々に深い所の話に移る。まずカタクチイワシである。下あごが短いのでこういう言い方をするが、太平洋側ではセグロイワシという言い方もする。背中が黒くてお腹が白いのはなぜか。鳥が空から海を見ると青く見える。それに合わせて、表層にすむ魚の多くは背中が保護色として青くなる。それに対してお腹のほうは、海底から表面を見ると白っぽくなっているのに合わせている。

 次は、目がうるんでいるように見えるので、富山でウルメイワシと言う魚である。国語辞典で「氷見イワシ」というのを引くと、これのメザシのことである。

 マイワシは最近、日本海側で取れていないと新聞に載っている。太平洋側はたくさんいる。原因は分からない。単純な地球の温暖化がどうしたというレベルの話ではないと思う。取りすぎたということもあるだろう。ただ、これが減ると代わりにカタクチイワシやアジが取れ、アジが減ればサバなど、同じようなえさを食べるほかの魚が増えてくる。これを魚種転換という言い方をするが、その流れの中の一つかなという考え方もある。過去にもそういうことはたびたび起きている。

 トビウオは、本当に400mくらい飛ぶ。朝、船の甲板にいっぱい落ちている。船が走ると一緒に飛んだりして、飛び込んでも来る。これが飛ぶのは、胸びれが長くてグライダーのようになるからだ。もう一つ、尾びれの上が短くて、下が長い。これは水面をたたくためである。

 サヨリは、口がとがっていて、これも背中が黒くなっている。刺身にするとおいしい。

 サバは、「秋サバ、秋ナスは嫁に食わすな」ということわざがあるが、実は富山湾では秋サバではない。石川県から南では大きいものが秋に取れる。富山県から北は冬である。日本海の中でも系群といって群れが分かれている。能登半島を境に分かれていることはよくあり、ヒラメなどもそうである。干物、味噌煮、フライになっている腹のストライプの太いものはマサバで、ノルウェー産のものは脂がのっておいしい。点々があるのはゴマザバという。

 オオクチイケカツオは、平成8年に富山湾で取れたのが日本初記録だった。本当は熱帯地方のものだ。

 これは500kgあるマンボウである。大体2億~3億個の卵を産むといわれており、たくさんの卵を産むことで子孫を増やそうとするタイプである。体が大きいものは畳1枚以上にもなる。これは暖流の表層にすんでおり、富山県でも魚津市では食べないが、氷見市では腸をゆでて食べる。

 暖流の表層にすむ魚のうち、クロダイは性転換をする魚である。性転換は生物の世界ではごくごく普通の話である。クロダイの場合は、先に雄として成熟する。今ちょうどクロダイの産卵期で、ノッコミといわれる大きなクロダイが釣れる時期だが、大きなクロダイを釣ってきたら、「雌だったでしょう」と言うと大体当たる。体長35cm以上のものはほとんどが雌である。また、マダイは桜のころがいちばんいいのでサクラダイと言う。

 ホッケは、北海道の場合はシマホッケが有名だが、富山湾でも取れる。富山湾の場合は水深100~200mと、けっこう上下に移動する。小さい30cmくらいまでのホッケは、脂がなくておいしくない。戦後、配給品としてこのホッケが非常に出回ったそうだが、ホッケは非常に腐りやすい魚なので、大変まずかったという話もある。

 マダラがすむ辺りは水深100~250mほどで、まだ深層水までは行かない。タラの仲間の特徴は、スケソウダラと言って蒲鉾にするのも一緒だが、下あごにひげが1本、背びれが三つ、尻びれが二つある。普通の魚では背びれがあっても二つで、尻びれが二つもない。

 ホテイウオは、七福神の一つの布袋さんはお腹がぷくんと丸い神様だが、それに似ているので名づけられた。この仲間は雄の吸盤が大きくて雌の吸盤が小さい。産卵期の冬になると水深10mほどの浅い所に来る。そして、雄が石にへばりついて、雌に産ませた卵の塊を子供が産まれるまでずっと守っている。そのために雄の吸盤は大きいのである。冬場は水温が10度ほどだが、子供が成長するにしたがって水深400mの深層水の世界に行き、産卵期になるとまた戻ってくる。つまり、もともとは浅い所の魚だったのが深い所に進出していったのだ。しかし子供を産むときは浅い所で産まなければならない。サケと一緒である。

 カガバイという貝は、全国的にはアズキガイと言うが、普通のいわゆるバイという浅い所の貝は、TBTなど有機スズの船底塗料などを使ったことで非常に減った。インポセックス化というのだが、有機スズのせいで雌の貝におちんちんが生えてしまうのである。それによって輸卵管の卵を運ぶ管がふさがれてしまって繁殖できないのだ。

 富山湾では4種類ほど、ちょうど深層水辺りの深い所の貝が取れるが、これは刺身にしても何にしてもおいしい。ただ、この深い所の貝は昔は身しか食べなかった。今は貝くそといってカニみそに当たるお尻の部分を食べる。しかし、ここにカドミウムや水銀などの物質が含まれており、若い女性のかたにはお勧めしない。そういうデータが実は調べられてはいるのだが、公表されていない。研究者のかたも、書くときは英文で専門の雑誌に出す。そうしないと風評被害が出てしまうからだ。

 アマエビは、標準和名ではホッコクアカエビという。石川県、富山県、福井県、新潟県でそれぞれ取れる。ちなみにこれも性転換する。大体4~5歳ぐらいで皆さんが食べられるのはみんな雌である。若いうちが雄で、あとで雌に変わる。これは煮ても焼いても全然おいしくなく、刺身しかない。それも、取ってすぐ食べると、歯ごたえがあるのだが甘みが少ない。ちょっと時間を置くと、表面の免疫質のものが出てきて舌が甘みを感じやすくなるのだそうだ。

 ガンコという魚はアンコウと似ている。富山で鍋の材料として売りに出されている。これも図鑑においしくないと書かれているが、肝臓はアンキモよりもずっと味が濃いし、こちらのほうがずっとおいしい。富山では、女性のかたに子供が生まれたと聞くと、これを贈る。タラもそうだが、乳が出る魚だ。信州へ行くとコイを贈る。子供が生まれると、白身の魚を送るという習慣が各地である。

 イサゴビクニンは、雄雌よく似ている。性的二系ということで、成熟することによって形が変わっていく代表的なものである。これは50cmぐらいのものだが、入善で深層水を取っている管の中に入ってきた。あまりおいしくないので食べない。

 ビクニンというのは比丘尼、尼さんのことだといわれている。ちょうど頭が丸い感じで白い頭巾をかぶっている形に似ているからではないかと思うが、このビクニンという仲間には深海性のものがたくさんいる。富山や日本海では水温が低い深層水にいるが、もっと北極に近くなってくると浅い所にいるようになってくる。

 ゲンゲは、コラーゲンが多くて女性のお肌にいいといって、今、一生懸命干したものを作っている。ゲンゲはあまり富山では食べなかった。下の下の魚だからゲンゲといったという説もあるくらいだが、今は大騒ぎしている。黒ゲンゲを干すと、顔が歯がむき出しになってエイリアンのような顔になるが、干したものを軽くあぶって食べるとすごくおいしい。また、白ゲンゲ(標準和名ノロゲンゲ)はゼラチン質が多いので、最近はものすごくブームになって、平成8年ぐらいから一気に値段が上がっている。

 ます寿司は、本来は富山のサクラマスで作っていたが、今はあまりいないので外国産のサケを使うようになっている。ただ、商標表示の中で原材料を示さなければいけなくなって、これが今、問題になっている。しかし、もともとのサクラマス自体が、実はサケなのである。英語でもマスはトラウト、サケはサーモンと区別するが、その違いは一生、川で過ごすのがトラウト、海に下りるのがサーモンということのようだ。その点、サクラマスは海に下りるので、本当はチェリーサーモンである。しかし、日本海側でマスというとサクラマスを指すことが多いので、ますの寿司という名前がついている。

 富山県では、サクラマスの多くは雌である。雄雌同じ数が生まれるが、雌の多くが海に下る。川に残るのがヤマメで、雄が多い。雄は鼻先が鉤鼻状になっている特徴がある。サケ科の特徴的なひれである脂びれの大きさでも区別できる。雌は富山からアラスカのほうに行って、3~5年を過ごして戻ってくる。したがって、もし向こうで汚染があれば汚染も一緒に運んできてしまう。また、川の上流へ来たサケがいろいろなものに食べられたり、自分が死んだ死骸の栄養分がいろいろな生物に使われる。例えばサケを食べた鳥のふんがリン酸となって山の木を育てる。

 そのような形で物質循環が行われていることは、よくいわれている。もともとの自然の生態系とは、こういう水の流れだけではなく、それに逆らうという動きというものもあって、物質が動いていた部分があったということは事実なのではないだろうか。

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2006年度東京大学大学院講座
マネジメント研究事例-日本海学の構築をめざして-

「逆転の発想に学ぶ-異分野連携の実践」

講師 大阪大学大学院工学科 助教授員
森 勇介 氏

日時 2006年6月20日(火)

 今、大きなNPOを中井先生が中心になって立ち上げられて、その中に私も入れていただいている。技術を実用化していくときには種をどう育てていくかも重要だが、いろいろな連携を組まないとできない。それが医工連携であり、産学連携であり、異分野連携であるが、我々はこれを実践でやっていこうとしている。

 レーザーの光を大体12本均等に集めると、ものすごい力で中の重水素を押すので核融合が起こる。これはアメリカやフランスで水爆のシミュレーションになるということで大変はやっているが、それを日本でやっているのが阪大のうちのボスである。ここで出ているレーザーの光は赤より波長の長い赤外線である。しかし核融合の効率は波長が短いほうがいいので、波長変換という技術を使って緑にしている。ところがビームが大きいと結晶も大きくないといけないため、うちのボスが20年以上前に大きい結晶を作る研究をしていた。

 今、パソコンや携帯電話のプリント基板に穴を開けるのにレーザーが使われているが、これがどんどん小さくなってくると開ける穴も小さくなってくるので、波長の短い紫外線が要ることになる。したがって、紫外線を出すいい結晶を開発する研究競争があった。これは軍事目的でアメリカ、ロシアで研究が非常に進み、中国もすごかったが、日本は後れていた。阪大は非常に弱小部隊で後発で、一か八かで新結晶発見でもやるかと言っていたところ、研究室の女の学生が、とにかく卒業できたらいいからギャンブルのような研究をやるといって取り組んでくれた。普通に考えると新材料が発見できるわけがないのだが、1発めに混ぜた比率が大ヒットとなり、世界でいちばん特性がいいものができてしまった。それで今、JST(科学技術振興機構)から特許を出してライセンスしようとしている。

 三菱電機はこれを実用化してプリント基板の穴開けの製造ラインの現在のシェア50%をもっと上げることを目論んだ。我々はお金をもらえるのならと参加したが、振り返ってみると、東芝、ファナックス、川崎重工、松下などの13社、島津の田中耕一さんの部隊なども入った経済産業省のプロジェクトに大学が入った日本で初めてのケースになった。

 紫外線は、すごいパワーを出したほうが一気に穴が開く。しかし、たくさんパワーを出すと自分に穴が開く。したがって、幾ら紫外線を出しても壊れない結晶を造るというのが、この国家プロジェクトのミッションだった。結晶は、原料を溶かしたところに種結晶を入れて冷やすと、しゅーっと成長していくのだが、これをどうしたら品質がよくなるかは分からない。結局は当て勘の世界になってくるが、とにかく予算がついてしまったので何かしなければならないというときに、ありきたりとは少し違ったことをやろうと、おふろに入ると自然とお湯をかき混ぜるのと同じではないかと思いついて、中身をかき混ぜてみた。

 このかき混ぜる装置だけでも1500万ぐらいかかったので、かき混ぜてよくならなかったらどうしようとは思ったが、5年間かき混ぜるとものすごく強くなり、レーザーを当てても壊れなくなった。結局5年後のプロジェクトの最後には、三菱電機が造った非常に大きいレーザーの光の波長を変えて紫外を出しても壊れなくなり、プロジェクトが始まったときは数ワットというレベルだったものが一けた上がった。それで、うまくいかないといわれる産学連携の成功例として、通産省からいろいろお褒めの言葉をいただいたりした。

 そのほかに最近はガリウムナイトライドと言って、中村修二さんが200億円裁判で有名になった材料の結晶も造っている。実はこの結晶の世界でいちばん品質のいい作り方を我々は見つけたのである。中村修二さんにも会ってきた。

 このように、私はもともと半導体やレーザーの研究をしていたのだが、5年前に突然、タンパク質をやり始め、新しい分野連携を始めることとなった。タンパク質はぐちゃぐちゃとした形が実は重要で、この形で悪さをするらしい。例えば口のようなところが役に立つタンパクにぱくっと食いつくと、タンパクが仕事をしなくなって病気になる。そのぱくっと食いつくところに猿ぐつわのようなものをぽんとはめ込むと、悪さをしなくなる。それが薬である。だから、薬を作るためにはこの形が要ることになる。つまり、悪さをする口にすぽっと先っぽだけ薬を入れ、その形に合わせて分子を設計して伸ばしていくと、抜けなくなる。抜けなくなると、薬の効果が1000倍以上高くなるということらしい。

 したがって、この形をどうやって調べるのかが重要になってくる。しかし、分子は大体数ナノ、数十ナノの大きさなので、目で見えないので結晶にしなければならない。皆さんがコンピュータに使っているシリコンなどは、原子がきれいに並んでいる。この並んでいるものを、スプリング8や高エネルギー研究所へ持っていってX線構造解析で調べると分子の形が分かる。並ばないと分からない。だから、ポイントは並べられるかどうかで、並べたら薬のデザインが分かるということになる。

 しかし、タンパク質は分子が大きく、グニャグニャ動くので、ものすごく並べるのが難しい。特に薬になるようなタンパクは、分子がもっともっと大きくなっていく。つまり形が複雑なものほど、いいこともすれば悪いこともするのである。すなわち、大きな固まりをきれいに並べるというほうが難しい。これをどうするかを今、日本の国家プロジェクトでやっていたりもするのだが、なかなかうまくいかない。

 今、どうやってタンパク質の結晶を作っているかというと、水滴にタンパクを溶かしてじっと待つ。タンパク質の結晶を作ることが始まって世界で40年ぐらいたつが、なぜかじっとしているほうがいいとみんな思い込んでいた。そこへ僕たちが、かき混ぜたほうが品質もいいということを見つけた。さらにもう一つ、レーザーを使っていろいろやっていたときに、レーザーを液体にぽんと当てると結晶がぽこんと出るということを、たまたま有機の材料で研究していた。それで、こういう新しい結晶を作る技術を何かに使えないかと思ったわけである。「ニュートン」や「日経サイエンス」を読んで、半導体やレーザーもそのうち行き詰まるだろう、バイオにいきたい、しかしうまくいくわけがないと思っていたところに、タンパク質の結晶を作るのがけっこう難しいと書いてあり、そこなら我々も参入できるのではないかということになった。これはある意味、シーズからの提案である。

 僕は大阪出身で四条畷高校のバスケ部だったが、バスケ部の後輩が阪大理学部を出て、タンパク研にたまたまいた。そこで彼に、「この新しい技術をそちらの世界に持っていったらどうなるか」と聞いたところ、「内容が違いすぎる。あまりにも非常識だ」と言われた。シーズからの提案の難しいところは、相手が嫌だと言ったら終わってしまうことだが、今回は先輩後輩の関係だったので「つべこべ言うな。やれ」と言えた。彼も、とにかく結晶ができればいい、でき方はどうでもいいのだということで一緒にやってくれた。しかし、溶液にレーザーを当てるだけで結晶がぽこっと出るのは今までなかったことで面白いが、もっと難しいタンパクでないと意味がないと言われた。そして、難しいタンパクは、専門家が大腸菌から採ってきたりする非常に価値があるもので、なかなか手に入らないということだった。

 そのうちに、隣の部屋にあった4000万円ぐらいするレーザーが使えるようになり、かき混ぜるという新しい技術が使えるものもできた。それで、難しいタンパク質がないかと思っていると、阪大生協でまた同級生に10年ぶりぐらいにばったり会った。彼は化学系で、ツェツェ蝿が運ぶプロスタグランジンというアフリカ睡眠病のタンパクを研究しており、それを結晶にするには、準備してから半年間ほうっておいて、500回のうち3回ぐらいしかできないぐらい難しいということだった。それで、うちで1回試そうと、ぽんと当てると2日でぽこぽこ結晶が出てきた。これはあまりにも革新的すぎると僕もびっくりした。

 その同級生は、膜タンパクの構造写真で2002年の「ネイチャー」の表紙を飾っていた。しかし、写真がピンぼけだった。ピンぼけというのは結晶の並び方がいまいちきっちりしていないからで、薬のデザインまでいかないので製薬会社が全然飛びついてこなかった。それで、2002年から2年間ひたすら多く手に入れた予算を結晶化に突っ込んだのだが、品質が上がらないまま、もんもんとしていたのである。

 これが2週間で記録的に品質が上がったので、どんどんいろいろなタンパクをやっていこうということで、京大のウイルス研の所長さんのタンパク質も手掛けたし、ドイツからはリポゾームの結晶化の話も来た。この世界では結晶を作り、その構造を解いてノーベル賞をもらった人が4~5人いる。今まで宇宙に行ってじっとしていたほうがいいのではないかと思っていたところへ、レーザーを当ててかき混ぜたほうがいいのではないかと言っても、最初はだれも信用してくれなかったが、成果が出るとみんなだんだん信用してくれるようになってきた。成功率は、昔の方法なら2割であるが、我々の方法では7割である。

 それで、去年7月1日に創晶(SOSHO)という大学発ベンチャーを立ち上げた。製薬会社から薬のデザインをしたいのでタンパク質を結晶化してほしいという依頼を受けて、結晶化して返すが、大体今、1回1個のタンパク質を作って、失敗しても成功しても300万円というオーダーで受けている。ただ、ビジネスとなると我々は素人集団になってしまうので、最初に友達がいた三菱商事に相談しに行った。次に民主党の代議士に相談したところ、三菱商事は会社なので怖い、僕が話をつけてあげるからと、阪大側に有利なようにいろいろ交渉をしてくれて会社ができたというわけだ。

 さらに我々は心理学を取り入れ、どうやればコミュニケーション力が上がるのかということを研究した。特許についても『バイオ医療のための知財戦略』という本を書いた弁理士さんが半分ボランティアで加わって協力してくれた。また、そのような異分野連携が面白いということで「日経バイオビジネス」にも載せてもらい、「日経BP」技術賞の大賞、さらに先々週、京都であった産学官連携推進会議で科学技術政策担当大臣賞をいただいた。

 もう一つ、ニーズから始まった異分野連携は、うちの整形外科の吉川先生や菅野先生と一緒にやった人工関節の研究である。1個が100万し、全部で2兆円近くのマーケットがある。これは5年前、たまたま僕が酔っぱらってこけてけがをして、整形外科を受信したのが始まりである。あまりにも傷が軽く、診察のあと先生と雑談している中で、医工連携の話になった。それで阪大の中の食堂のような所で飲み会をやりながら医学部と工学部で集まってプレゼン大会をしたのだが、そのあと、医学部の幹事をやっていた菅野先生から、「相談したいことがある」と言われて、初めて医局に足を踏み入れた。その先生は、人工関節で困っていると言うのである。例えば変形性股関節症では、変形している骨を取って人工関節を埋めるが、15年ほどたつと緩み、がくがくしたら再手術をしなければならない。再手術をすると300万かかる。だから、一生入れっぱなしでいい人工関節が欲しい。今は緩まない工夫として、粒をつけて滑り止めにしている。問題は、粒の形が非常に適当できちんとした滑り止めになっていないことである。さらにこれがたまに取れることがあって、大変痛い。取れるとまた再手術だということだった。

 最初、その先生はレーザーで穴を入れて骨が入っていくようにできないかと言っていたが、「できるが、大変だ。チタンやコバルトクロムは非常に硬い」と医局へ行って話し合った結果、溝でいいのではないかという話になった。そのときも、僕たちが加工技術を持っているわけではないので、東大阪のレーザー加工が大好きな親方に頼んだ。その人はもともとレーザービームの加工をしていたが、これを紫外にしたいとずっと前から相談に来ていた。しかし近経局などへの申請が通らず、どうしようかと言っていたところへ人工関節の話が来たので紹介すると、見事にさっとレーザーで溝を彫ってくれた。

 それで、とりあえずできたので、いろいろなパターンを彫ってそれを全部ウサギに入れて、骨が伸びてくるところを見た。溝の場合は幅100μ、200μ、800μとやってみたが、大体500μになると本当にぴったり入るということが分かった。実は細胞に最適な溝幅があったというだけで医学部の世界では発見らしい。そういう意味では、けっこううまい連携になったのではないかと思った。逆に、穴はあまり入らず、やはり溝のほうがはるかにいいということが分かった。

 そこで結晶で一緒にプロジェクトをやっていた元経産省の人にお話ししたら、面白いから地域新生コンソーシアムに出そうと言っていただき、日本メディカル・マテリアル(JMM)という神戸製鋼と京セラが作った日本一大きい人工関節メーカーと阪大等が組んだプロジェクトが立ち上がって今、2年めを迎えている。ただ、世界ではジョンソン&ジョンソンが独占に近い。何とかこれを日本発の新しいものとして売り出そうとしたが、実は強度試験でポキッと折れてしまった。それを折れないようにすることにいちばん苦しんだが、結局、溝を彫っている所を盛り上げると折れなくなり、もうすぐ実用化できる。

 人工関節は、手術室にがばっと持っていき、その中からお医者さんがパッと選ぶらしい。選ばなかったら一生使われない。やはり医工連携は絶対お医者さんと組まなければならないとしみじみと思った。今回のパターンは完全ニーズ主導型で、先ほどのものとは全然違う。異分野連携では両方のパターンがあるということである。

 医工連携のよくある失敗は、工学部の先生が自分の技術シーズはいいと医学部に持っていくと、大概うまくいかないというものだ。医学部の先生は忙しい。医学部の先生が、最先端でこんなことが起こっていて困っているというニーズを教えてくれて、それに合う技術を僕たちが出していくという形が特に医工連携では有効ではないかと思う。

 異分野連携は、最後はチャレンジである。自分の時間とお金を使い、人も使うが、重要なのはどんなニーズとどんなシーズを組み合わせるかである。つまり、結局はだれと組むかだ。それを間違えると、あとでどれだけ努力をしてもうまくいかない。あとは運だが、運は生まれつきのものではなく、やはりチャレンジした人がつかんでいる感じがする。

 また、新しい技術シーズ、種を見つけたら、やはり最後は実用化やビジネスに持っていかなければならない。そこで研究者以外のかたの出番が出てくる。やはり大企業は、新しいシーズができても、それをビジネスに持っていくのが遅すぎて無理である。我々が発見したレーザーの結晶などでも、最初に実用化したのは全部アメリカの企業だ。日本の企業はいい成果が出ても、なかなか上の承認が出ないとか、いろいろなことで困っておられた。

 そういうときに新しい市場なり、新しい応用なりを考えるものをベンチャーと言ってもいい。それでベンチャーをたくさん作って、いろいろなパターンを試そうということを大学発ベンチャーが先駆者としてやろうとしているのだろうが、なかなか日本ではベンチャーが起きない。それはなぜだろうかと僕は思っていた。そんなときに飛行機の中でたまたま会ったのが、心理学の田中万里子先生である。当時、日本には閉塞感があって、いろいろな新聞で子供がキレるということが問題になっていた。先生はアメリカ国籍を持っていて、サンフランシスコ州立大の教授をなさっていたので、「アメリカ人の目から見て日本をどう思うか」と尋ねると、「日本はとにかくトラウマだらけだ。トラウマがある限り日本はよくならない。私はそのトラウマを直す」と言われたので、「僕を実験台にしてやってほしい」とお願いした。

 その後、講演会を企画した。そのときに言われたのは、「日本人にトラウマが多いのは、大量生産のために、記憶力がよくて繰り返し仕事ができる人間を育てる教育システムを作ったからだ」ということだった。そういう教育を受け続けていると、我慢の程度が強い人ほどトラウマが強くなるらしい。そして大学や会社に入ると、いきなり「マニュアルどおりにするな。創造性豊かに活動しろ」といわれるというギャップがある。それで苦しんで、不登校になったり出社拒否になったりする。これをどうすれば改善できるかということで、阪大ではフロンティア研究プロジェクトというものが平成14年から発足して、年間10億ぐらいの予算がついていた。

 僕は早速これをやろうということで、「心理学的アプローチによるベンチャー企業創成」というタイトルで申請したら、採択してもらえた。その中でPOMR(Process Oriented Memory Revolution)という田中先生が開発した方法を受けて、ベンチャーや技術開発、異分野連携ができる人間をカウンセリングで作れるかどうかを試してみたのである。

 例えば、僕のトラウマはおやじへのトラウマである。父の前に行くと、小さかった自分が何も言えなかったように、今の自分も何も言い返せない。実は僕は高校の時はバスケットをやっていて、成績は下のほうだったが、引退後に勉強するとパッと成績が上がった。それで京大へ行って素粒子をやりたいと思ったが、阪大工学部の教授をしていたおやじが、阪大工学部は京大よりいいと言い、それに逆らえずに阪大の電気に行った。しかしあまり肌が合わなかったので理学部に変わりたいと言うと、「あほか!」とまた怒られた。

 それを相談すると、「おやじさんに何か言うときに、どんな感覚が起こるのか」と聞かれた。「気分が重くなる」と言うと、「それをいつから感じたのか」と言われて、小さいころに家が田舎のほうにあって、納屋か蔵のような所に閉じ込められて、従うまで出してもらえないということを何回かされたことを思い出した。

 そうすると、「そこに今の自分が行って助けてあげなさい」と言うのである。「冷静に考えて、そのときのお父さんの執った行動が正しいかどうか考えなさい」と。僕は、小さい子供を訳の分からない理屈でしかって蔵に閉じ込めても子供には分からないと思った。それをきちんと説明してあげたらどうかという感じで、自分の中で解釈し直すのである。そうすると、「何だ、自分が悪くて怒られたのではない。おやじの子供への対応のしかたが間違っていたのだ」と自分で納得する。するとそれがトラウマではなくなって、おやじの言うことはもう聞かなくてもいいのだと自然に思えてくるのである。

 それをやって、次におやじに会ったときに、たまたま家内が一緒にいたのだが、家内がびっくりして「あなた、ファザコンが治っている」と言った。本当だ効果があったようだ。

 このようなことをやらないかと問いかけたところ、40人ぐらいがやりたいと言って、学生から教授までが参加してくれた。この方法は自分で自分を見つめ直さないといけないので、適当に受けると余計まずい、変わらないということがあるのだが、自分をきちんと見つめた人はよくなっている。大体、思っていたことが言えるようになったとか、何となくためらっていたのがすっと言えるようになったということが多い。それでプロジェクトを延長してもらって、阪大では今、数百人の人が受けている。

 異分野連携では、特に技術が専門でないかたは、その人間を見て、この人が言っているのは本当はどうなのかを見極めて連携を取られたほうがいい。そして、本当のコミュニケーションを執ろうと思ったら、素直な言葉のキャッチボールが結局、最後には重要になってくるのではないか。我々はメンタルトレーニングで何とかコミュニケーション力を向上させて、いろいろなプロジェクトをやってきた。中井先生などがなさっているNPOも巨大な異分野連携なので、皆さんが元気になってそういうものがどんどん広がっていけばいいし、若い皆さんもぜひ新しいことにチャレンジをされたらいいのではないかと思う。

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2006年度東京大学大学院講座
マネジメント研究事例-日本海学の構築をめざして-

「断片化社会とものづくり文明論」

講師 経済産業省ものづくり政策室長
前田 泰宏 氏

日時 2006年6月27日(火)

 今日のテーマは断片化する社会とものづくりとなっているが、場合によっては明らかなものづくりの話は一切しないかもしれない。企業が国際競争にどう勝っていけばよいのか、日本のものづくりの全体の方向性はどこへいくのか、ものづくり教育をどうするかというのが、ものづくり室長をしている私への普通の問いだろう。しかし、普通の問いに普通に答えても意味がないのではないかと思うので、あらかじめ秩序されたシステムの中でシナリオどおりしゃべるということはしない。破綻系の話をする。したがって、メモを取ってあとで再構成することは不可能なので、それは初めから放棄して、今の時間が面白いかどうかという一点に集中して聞いていただいて、どこかでものづくりにつながる話が出てきたら自分でつかまえてほしい。

 現在、人間がロボット化し、ロボットが人間化するという逆転現象があるといわれている。都市に住んでいる人たちは、効率という考え方の中で自分を機械化していっている。1日24時間という有限資源である時間をどのように効率的に配分するかを考えることを機械的発想といい、これをする限り、人間のヒューマンな部分ははぎとられていく。しかし、人はいかに熱心に聞いた話でも、次の日になると86%忘れてしまう。それに対して、機械には記憶装置がついているので忘れない。そして、忘れたいかどうかの判断は機械にはできない。これが人間と機械の違いであり、我々が機械ではないということを言うためには、24時間をマイナスアルファとプラスアルファに設定し直す必要が出てくる。これを「意味」と、かりに私は定義している。

 これまで我々が学習と称して行ってきた知識を増やすということでは、この「意味」の設定は不可能である。意味が設定されたと認識するのは脳ではないからだ。へその下の、特にじわっとくるような部分が、本来的には我々の生命体としての意味を監督するものだというのが私の仮説である。その前提に立つと、人の話を聞くということが少なくとも単なる知識の伝達ではないとすれば、話をする場合にねらうべきポイントは、脳ではなく下腹だということになる。私が皆さんと話をして、あるいはコミュニケーションをとることによって皆さんの身体のどの部分が熱くなるか。へその下が少しでも熱くなれば、今日の1日は無駄ではなかったといえる。何を聞いたかは再生できなくても、面白い経験をしたと思えるからだ。実はものづくりの本質もそこにあるのだ。頭を刺激するビジネスモデルから、下腹なり、魂なり、ソウルなりを刺激するビジネスモデルに切り替えた瞬間に、自然循環の中に存在している生命体として実際の物に対峙する必要が出てくる。そうしなければ、動物である人間の下腹の機能は刺激されないからだ。

 『第1回「ものづくり日本大賞」、"受賞者たちの熱きドキュメント"』には、ものづくりで内閣総理大臣賞や経済産業省の特別賞を受賞した27企業を紹介している。ここで紹介しているのは物ではなく、その物を作った人がどのように作られてきたかという人生の断片である。したがって、これは読む本ではなく、感じる本である。例えば、旭山動物園の奇跡のアクリルパネルを作ったのは、日プラという四国の中小企業だった。その商品ができたプロセスや技術を因数分解した知識が欲しい企業は日プラのホームページを読めばいいのであって、私はこの本を、例えば主婦、重いものを持ったことがない女性、今から就職するかもしれない学生、若者、リタイアして日記には盆栽のことしか書いていないおじいちゃんなど、ものづくりに直接関係ない人たちに読んでもらいたいと思っている。意識の中で最も遠いと思っているところが、距離の概念で考えると実は最も近いというパラドックスが存在するからだ。

 この話を多分皆さん経験したであろうことで言い換えると、リフレッシュするために外国旅行に出掛けるのだが、成田に帰り着いたときには違う形の疲れが蓄積していないか。あるいは、足つぼマッサージも、行き過ぎると中毒になって行かないと何となく気持ちが悪くならないか。つまり、我々が癒されようとする世界において、最も必要なことは適切に疲れることなのである。また、自分探しの旅は絶対に終わらない。探す自分がここにいるのだから、絶対に自分は探せない。自分探しをしているというかたの一つの特徴は、責任を転嫁する能力が高いことだ。責任転嫁をしても、ぐるぐる回っていくので、結局自分は探せない。自分がいないことを確認するだけなので、それがストレスに変わる。そして、そのストレスを解消するために外国旅行に行き、疲れて成田から銀座の足つぼマッサージに直行する。そもそも何のために外国旅行に行ったのかという出発点がなくなってしまって、結果的にこういう形になる。

 もちろんこれは漫画チックに言っているだけだが、役所の中でもそれがけっこううまい人がいる。これを行政の世界では稟議という。あれは自分探しをしながら責任転嫁をしていく仕組みである。そして、少し偉くなると今度は下に怒りまくるという形で責任転嫁をする。少し賢い者は上に言い訳する。振りまくる。この振りまくるスピードをもって調整能力が高いというのだ。確かにやらなければいけない仕事はいっぱいある。そこである程度ストレスがたまってくると飲みに行く。カラオケスナックは高いからと立飲み屋に行って日ごろの倍飲む。ふらふらになって帰れなくなってタクシーに乗り、立飲み屋に行った金がタクシー代でちゃらになったうえに帰ると奥さんに怒られる。

 繰り返す批判、中傷の日常、疲れなき癒しの無間地獄、終わらない自分探しの旅。こういうようなものが特に都市部を中心に蓄積されてきて、それに耐えられなくなった従来型のエリートたちの自殺物語はいっぱいある。これは自ら死ぬという意味ではない。事実上自殺している人がけっこういるということだ。これまで登ろうと思っていた高い山が崩れ始めた瞬間に、どこに登ってよいか分からなくなる。その結果、登ろうとしていた自分に懐疑的になって、自分探しの旅の背中を押しているのだ。

 このエリートの自分探しというのは、ピラミッドを前提にした社会モデルの象徴である。ピラミッドというのは、事実上いわゆる階層があるということである。階層の作り方としては、血統や身分という100年以上前の作り方から、学歴というやや半世紀前の作り方、それから能力という若干疑わしい単位においての作り方と、いろいろな単位の変更は起きているが、基本的に社会モデルがピラミッド型であることは変わらない。このようなピラミッド型の組織を前提にする限り、自分探しは終わらない。というのは、そのレイヤーのどこに自分の断片を見つけるかは上の命令によるので、自分のプラスアルファの部分とは必ずずれが生じるからである。

 しかし、与えられるものを全否定して明日からプー太郎になって自分探しの旅に出るというのは、単なる愚か者のすることである。では、この状況を前提としながらどのように自分の中でそのずれを修正するのか。それはもう一つピラミッドを作ることによっては解決しない。どこかでピラミッドをひっくり返すしかないのだ。つまり、自分の行動基準を変えることである。

 その手っ取り早い方法をご紹介しよう。小学校のとき、席替えをしたと思う。また、年度が替われば組替えもあった。席替えには、何となく不安もあるが、わくわく感もあった。しかし日本では、社会に出ると席替えは転職しない限り行われない。つまり、自分を変えたいときは自分の環境設定を変えることだ。それに伴う若干の不安と、そこから得られるかもしれない若干の安心の量を蓄積していくのがまず第1ステップである。全く違うところに行った瞬間に自分が逆転する。これが逆ピラミッド(エージェントモデル)である。

 自分のポジション、自分のタイトルというものを前提にしない世界に入った瞬間から、自分がエージェント(行為の主体者)に変わらざるをえなくなる。行動しないやつは存在しないことになってしまう。私はこのポストにいるからということが通用しないということは、あなたはこのゼロベースから何をする人なのかということが問われ始めることを意味する。足元の視点からエージェントとして再生していく。あえて自分をそういうようなところに切り替えていこうではないかという話である。

 この逆ピラミッドモデルでは、情報伝達の方向が今までと逆転している。さらに、情報の量が飛躍的に増え、掛けるnくらい大きくなる。その情報を、ある一定量きちんと流れるようにしようというのが、いわゆるハードの省庁再編からソフトの行政と言われる電子政府への動きの本質だと言われている。電子政府というのは、申請をインターネットでできるようにして、ワンストップサービスで引越したときの手続きができるようにするというもので、市民サービス上は大事なことである。しかし、電子政府がかりに成功した場合、行政組織は情報の洪水に直面する。例えば、私はものづくり室長をやっているが、ものづくりをやっている町工場を一人で回り切るのは無理である。大田区へ行っただけでへとへとだ。自分が持とうとする荷物が、やればやるほど、倍に倍に増えていく。

 それではどうするか。自分を増やすしかない。とりあえず分身の術だ。この分身を、ネットワーク社会はバーチャルに作ることに成功した。それがセルフエージェントだ。リアルではそれがコミュニティであり、さらに今、分身のニーズの受け皿として新たなNPOが再発生しようとしている。ネットワーク社会の最大のウィークポイントは、バーチャルなもう一人の自分が自分を侵害するという危なさがあることだが、そういう自分が存在してしまうという危なさがあることを前提にしつつも、もう一人の自分、アナザーエージェントを作らなければならない。リアルで回す場合と違ってチェックは難しいが、理念と目的が明確であればNPOは再生する。

 しかし、そこから出てくるものは、公約数処理されていて、自分が本来やりたいこととは変質してくると考えなければならない。固定化された秩序が内でもあるいは外枠でも破壊され、リアリティの世界の中で量的な処理が困難になり、それをもって逆ピラミッド、あるいは席替えをしようと分身の術に入った瞬間、バーチャルの世界がすべてだと思った瞬間に、自分が変質し始めるという危険にさらされてしまう。それでは元も子もないので、変質を防ぐためにあらかじめ自分に対してチェックが利く仲間を作っておき、「おまえ、変だ」と言ってもらう必要がある。

 今までの同質化ネットワークというのはテレビ塔型で、かえるの子はかえるで医者の子は医者、政治家の子は政治家と、2世、3世、4世たちが出てくる。彼らをそれぞれ断片化して再構成すると、また新しく六つの三角形ができる。また、彼らは同じ大学を出ていたりするわけだが、ここでの移動を唯一司ってきたのがいわゆる学歴のパラメータで、たとえ身分が低くても、生まれ故郷が悪くても、ある大学に入るとそれが帳消しになる。ロンダリングである。人生のロンダリングを大学で行い、それをもって言葉ではトビがタカを生むと言ったわけである。

 トビがトビを生み、タカがタカを生む社会を格差社会と言い、トビがタカを生むような逆転がある社会を非格差社会と言う。格差社会では同質系の人たちにより継続的に似たようなものが生産される。これをダーウィンは、「血が濃くなれば不具者が生まれる。突然変異がない限りその動物は同質化して死滅する」と言って批判した。しかし、ピラミッド組織ではその突然変異をいかに閉じこめていくかを考え、それを安定という言葉に塗り替える。しかし、突然変異を事前あるいは事後に排除し、防止する仕組みは、かりに進化論が正しいとするならば、究極の不安定を生み、その組織は時間がたてば死滅してしまう。これに若干近いパラドックスが、実は今の霞ヶ関にはあるといえる。

 論理の世界から現実の世界へ移行していくことは、自分探しを終えるために必要なことである。自分のやりたいことをスピルオーバーしていくことによって環境設定を変え、分身を作ってコミュニティを変える。その行為そのものが、実はピラミッドであれ何であれ、組織というものを持続的に継続させていく唯一の方法論だということを申し上げたかったわけである。したがって、この時点で組織と個人の対立は解消する。つまり、構造論としては、組織が長く安定的に保つためには不安定要素が必要だということだ。個人が自分探しをしないためには、自分に与えられたものではなく、少しずれたプラスアルファの部分が必要だというところが、実は価値的にも方向的にも一致しはじめている。したがって、ピラミッドと逆ピラミッドは共存するという社会システムが、今組めるタイミングがきたということである。

 さて、ものづくりである。自然の中からあるものを一定程度変形加工して、自分たちの生活のためにもう一回再設定するのがものづくりである。そして、その変形作用というものを、自然に悪影響を与えながらではなく、むしろ自然の中にある機能を利用して実現する。すなわち、自然と人工とが対立するのではなく、また、足して2で割って両立させるということでもなく、両立モデルから調和モデルに変わっていくというのが、ものづくり文明の本質であると私は考える。当然のことながら、大量生産、大量消費、大量廃棄は完全に否定する。これをものづくり文明観という。

 頭が痛い、だるいといった体の不調のほとんどは、原因不明である。つまり、私たちの脳で認識できることは数パーセントでしかなくて、活性体の機能は、ほとんど自分では認知されない非認知の世界で動いているのだ。冒頭に我々は機械ではないと申し上げたが、都市化の中でいかに効率的な時間配分をした生活を送るのかという問題設定をした瞬間から、我々の非認知領域に何がしかの損傷が生まれているのかもしれない。人間の生物としての機能が損傷しているのだ。それを根本的に治療しないままに、いろいろな病気に立ち向かえなくなっていくような人間集団が生まれているのではないか。ここをどう開放していくか。そう考えると、ここからが非認知領域だという補助線を引いた瞬間に、ものづくりは人づくりになるといえる。つまり、ものづくり文明論は人づくり文明論だということである。ものづくりをすることによって人間関係を学び、物の大切さを知り、もったいない文化を育てることは大事なことだが、そのものづくりというか、ある一定の技術や文明という幾つかの道具をもう一度動員することによって、非認知領域に対するメンテナンスをしていこうという運動を、ものづくりを契機としてやっていこうというのが、ものづくり文明観の第一の説明体系である。

 また、窓から空を見る。空を見ていると言いながら、窓を見ている。これが文明人の典型である。つまり、窓という自分が担当している仕事を通じて空を見るということをしていくプロセスの中で、窓が自己目的化していって空が形骸化してしまうということだ。我々がもう一つのエージェントである自分を創るときに、もう一個の違う窓を見てしまうと席替えにはならない。空は基本的に抽象化されているので、国民のためにとか、公共のためにとか、幸せにとかと、非常に面白く設定されてしまいがちだが、それでは空という理念が伝播せず、みんなが飽きてしまう。「当たり前やないか」と言われた瞬間から、存在価値を失う。そのときに必要となるのは、この空というのが実は当たり前ではなく、実体のあるものだと強く認識させる力である。それを書き記したものがビジョンで、これを示す人がリーダーとなる。空とは、理念、哲学の世界だと思う。何のために人生があるのかというような大変青くさい世界なのだけれども、この空についてもう一度語ろうではないか。多分それが文明の定義だと思う。これがものづくり文明の第二の説明体系である。

 同質化された組織をそれなりの階層の似たような人がつなぎ合わせるのではなく、一見違って見える人たちが赤い糸で結ばれていく。その赤い糸が同じ空を見たいと思う人たちのネットワークであり、それが空だ。この赤い糸が結ばれた瞬間が、断片化する社会がもう一度社会の総体を取り戻す瞬間なのではないかと思う。

 エアロビクスの教室で、目の前のさわやかなお兄ちゃんとお姉ちゃんがニコニコしながら動いている。こいつとは友達になれないという感情を持ちながら、周りのおばちゃんを見ると、けっこう上手に動いている。その衣装などをぐちぐちけなすのは、窓を見ているやつである。「よっしゃ」と恥ずかしい思いを振り切ってやってみると、めちゃめちゃハイテンションになる。見ているだけでは自分の足を踏まれたくないとか、チョップされたくないということで感覚的に距離感が出るが、見ているやつには距離感が分からない。この距離感が社会秩序で、評論家はこの距離感が分からないから秩序を乱すのだ。したがって、自分で社会との距離感を確かめたうえ参加しなければならない。これが政治の本質である。

 これよりも進化したモデルが阿波踊りである。エアロビクスとほぼ動きは一緒だが、アバウトに何をしてもいい。「踊るあほうと見るあほう。同じあほなら、踊らな損々」というのが民主主義の本質だが、見るあほうばかりになると、自分の動く範囲の距離感が保てず、社会の秩序が崩壊する。

 最後に、職人について。職人とは、一言で定義するなら人の意見を聞かない人たちである。それは、自分のやりたいことがはっきりしているからだ。そして、弟子という分身の術を使い、道具を使う。機械に使われるのは職人ではない。機械を使いこなすのが職人である。職人は、自然に存在している資源を何らかの形で切り取り、それを何らの影響変化のもとに変形させ、それを組み合わせることによって我々文明社会の道具にしてきた。これがものづくりの基本である。つまり、最初の資源を使わないものづくりに、いかに変えていけるかだ。これがものづくり文明の第三の説明体系である。どれも同じ、資源負荷の低減ということを、言葉を換えて説明しているだけのことだ。

 柳生新陰流では、最初は「刀とは人殺すための刀である」と説いていた。ところが、刀を抜かないことによって勝負に勝てることを知って、「人を生かすために刀がある」と奥義書が塗り変わっていく。つまり、対極に真実がある、ちょっと動いたところに真実があるということだ。同様に、我々が思考しようとするときにも、ある面では真反対に走っていった瞬間に、つながっていくことが多い。最も自分が忌み嫌うもの、苦手だったものに挑戦していくことでつながりができる。あるいは、今まであまり接点のなかった人たちと友人関係を結ぼうと思うことで苦労したことが、ほかのことでものすごく役に立つということが出てくる。これが成功と失敗が表裏一体だといわれるゆえんである。現在、日本でノーベル賞をもらっている人は、実験結果を失敗している人ばかりである。そのように、真反対にどのように自分を設定していくのかというのが、席替えをする前の自分と席替えをしたあとの自分の行動原理に変化を与えるところだと思う。以上のことを役人的に表現すると、「ものづくりビジョン」になるわけである。

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2006年度東京大学大学院講座
マネジメント研究事例-日本海学の構築をめざして-

「21世紀の環境・経済・文明プロジェクト」

講師 警察庁刑事局 調査官
岸本 吉生 氏

日時 2006年7月4日(火)

 中井さんが富山県に引っ越ししている間に「日本海学」というプロジェクトを始められ、その中から今後の日本の国家戦略の問題における、循環、共生、アジアなど幾つかのキーワードが出てきたと思う。また、中井さんが東京に戻ってから国家戦略研究会を月1回ほどしている中でも健康や食料、環境の問題など、いろいろテーマが出てきている。

 私自身は今は警察にいるが、もともとは通産省に入った人間で、2003年7月に環境経済局に異動し、環境と経済の問題、中でも京都議定書の6%削減の達成計画を担当することになった。今、新聞には日本の6%削減が難しいと書いてあるが、実際には地球環境問題の解決のためには6%削減では到底足りない。19世紀以降の化石燃料の消費と、それに伴う二酸化炭素の排出の伸びを見ると、将来は2000年の2~3倍になるという見通しもある。

 現在、ヨーロッパなどを中心にいろいろな削減計画があるが、どのシナリオも2015年ぐらいまでは増えると見ている。これが京都議定書の限界ともいわれる。京都議定書の最大の意義は、国際的にこの問題に対応しようと、いろいろな国が約束したことだと思うが、日本やヨーロッパが約束した反面、その他の国が約束していないという問題が一つある。もう一つ、この約束が2012年で期限が切れてしまったあとどうするかという問題もある。さらに2013年以降にはどうやってアメリカ、中国、インドに削減の努力を求めていくかという問題もあるし、大幅に減らしていくための技術開発をどうするかという問題もある。

 この2013年以降の国際約束が合意された暁に、この地球環境問題が解決に向かって道筋が見える状態になると思っている人は、世界にほとんどいない。この問題が解決されるためには、技術の革新的な進展も、ライフスタイルの見直しも必要だ。そこで日本では去年、経済産業省が95年後の2100年をターゲットにした抜本的なエネルギー、CO2削減のシナリオを出し、イギリスも2050年をターゲットに四つぐらいのシナリオを示している。

 2年前の平成16年にこうしたプロジェクトが要ると私が思うようになったきっかけは、森林だった。京都議定書で約束した日本の削減分のうち、4%分ぐらいは森林で担当しているが、荒れている森林問題の解決の道筋がなかなか見えてこないということで、尾鷲のヒノキ林を見に行った。そのときに、やはり森の問題は大事だと痛感したのである。当時、京都議定書の目標達成の2010年までの絵姿を描くことが自分の仕事だったが、根本的な解決に対して絵姿を描く努力も併せていなければいけないと思い、気候変動と人類社会の関係をずっと研究しておられる安田喜憲先生のところに行った。先生は2000年前、8000年前、1万5000年前の植生、夏・冬の平均気温をかなり正確に復元する技量を持っておられる。政府の中期計画は5年、長くて10年ぐらいで、30年、50年という長期プランを描くことはまずない。特に気候変動ということになると日本だけの問題ではないので、1万年の歴史を見てきた安田先生はこの問題をどう見ているのか聞いてみたかったのだ。

 先生は、「これは100年の問題ではない。2015年ぐらいには人類に危機が来るというぐらいの切迫感を持ってやるべき問題だ」とおっしゃった。10年ちょっと前に、安田先生が日本じゅうのいろいろな識者を集めて、「文明と環境」というプロジェクトを推進され、全15巻の大変な労作が生み出された。それを、今度はその間に経済を挟んでもう一度やっていただきたいとお願いした。経済の問題を抜きに21世紀の将来シナリオを描いても説得力がないので、環境と経済と文明のプロジェクトをやろうということになったのである。

 私は経済学ではこの問題は解決できないと確信しているが、そう考えるに至った経過がある。去年からクールビスなるものが始まった。クールビスでないものが格好悪いと本当に日本人が100%思えば、省エネになる。人間の価値観や行動原理が変われば当然、環境に対する負荷が変わる。しかし、ある経済学者に、「人間の効用関数の形が変わるということは経済学では教えない」と言われた。つまり、価値観に働きかける政策は、経済学上は無価値になる。それはやはりおかしい。経済学だけではこの問題は解決できない。

 二つめは、「環境問題は外部不経済」であると教科書には書いてある。経済学の外の問題としていったん置いたうえで政府が介入すれば解決できるというわけである。しかし、そうしてしまうと、環境の劣化が起こっているのは悪いことだがしかたがないというインプリケーションが出てくる。さらに、政府で規制なり税制なりの施策をやってきた人間からすれば、政府が正しい介入を毎年続けることが到底不可能なことは、体験上知っている。したがって、環境経済学で地球環境問題が解けるということはないだろうというのが、私の結論である。それで、自然観、歴史観、価値観から本件を始めようということになった。

 去年3月、このプロジェクトを始めるまでには、いろいろな曲折があった。当時、安田先生は、1972年に国連の環境開発会議で出たローマクラブ・レポートを超える京都クラブ・レポートを作ろうと考えておられた。ローマクラブ・レポートには、このままいくと人類文明はクラッシュすると書いてある。しかし、こうするとクラッシュしないということは書いていない。それを書こうというのが安田先生の当初の構想だった。しかし、ここには一つネックがある。安田先生は、文明には東アジアに見られる稲作漁労文明と、畑作牧畜文明の二つがあると言われる。先生の当初の主張では、畑作牧畜文明では地球環境は滅ぶ、キリスト教や一神教などの価値観が問題だというところに行ってしまう。私は、そういうレポートは国際的に当然否決されるので、書くわけにいかないと申し上げた。

 去年3月に京都の日本文化研究センターで第1回の会合が行われ、今は北海道大学にいらっしゃる岸先生が基調講演をされた。先生は、気候変動と人類の関係は人類の英知で今世紀中に解決の見通しが出るかもしれないが、出ないかもしれない。60億人ぐらいいる人類のDNAは九十九点何%同じである。人類は、10万年前くらいには1万人ほどだったのではないか。そうでないとDNAがここまで一致するのはおかしい。気候変動によって人類は相当ダメージを食うが、ゼロになるわけではないからまたよみがえる。こういうシナリオも当然覚悟すべきだと、このプロジェクトの成功確率に異を唱えられた。

 その後、1年間で7回ぐらい研究会をして、その過程で幾つかのことが見えてきた。一つは、「本物は美しい、本物は楽しい」ということだ。6月に2回めの研究会をやった気仙沼には、畠山さんというカキの養殖のかたがおられる。「森は海の恋人」だという言葉を編み出したかたで、気仙沼が赤潮で汚染されていた時期に、その原因は山が荒れているからで、森をよみがえらせればおいしいカキや美しい海が戻ってくるに違いないと、植林運動を始めた漁師さんだ。気仙沼には奈良時代から引っ越したことがない家があり、年に1回お祭りがある。気仙沼の湾に流れ込む大川の水が、雨のときは泥水になるが、これがぴたっと消えるバーニッシング・ポイントがある。そこの海の水を年に1回たらいにくんで、大川の源流の山の頂上まで持って登って山頂にかける。これを1000年以上やっている。1000年以上前から、森は海の恋人だったのである。

 6月は京都で、「物づくり文明」について行い、生き物に学ぶ物づくり、ネイチャーテクノロジーという造語ができた。例えば、カタツムリが葉っぱの上を歩いているとき、殻は葉っぱに触れないし、その汚れは雨に打たれると流れる。カタツムリの殻と同じ組成のセラミックスを石田先生が作って3月のシンポジウムで見せてくださったが、そこに黒の油性マジックを塗って霧を吹いて雑巾で拭くと、きれいに取れる。生態系は当然、非常に省エネ型にできている。なおかつ物質を作るときに高温・高圧を加えず、常温・常圧で作っている。そういう物づくりを広めることが、結局、資源負荷やエネルギー負荷を減らすことになるのではないかという話だった。

 8月に福島の天栄村で「命・健康」について合宿をしたとき、2日めの午後、村のかたと締めくくりのディスカッションをした。その中で、地球環境問題も大事かもしれないが、3万人の自殺者やうつ病をどうするのかという話が会場から出た。先生は「自分が環境問題をやっているのは、人間が環境を傷めつけているという問題を何とかしたいという思いからなので、その被害がもし人間に及んでいるということなら、当然やらなければいけない」と答えられ、そのときから健康や命の問題も包摂していくことになった。

 このように、研究会は基本的に田舎でやってきた。そこでずっと思っていたことは、では都会はどうするのだという問題である。それを考えるのが今年の活動課題だ。1回めは今月最後の土日、秋田県の男鹿半島で開催する。もしよろしければ、ご参加いただきたい。

 このようなことは、キリスト教圏でも通じるかどうか。これは始める前の課題だったが、去年の夏、安田先生が自分でテストをしに行った。スウェーデンの王立アカデミーなどが主宰している、持続可能な社会について議論をする国際プロジェクトがある。このプロジェクトと似ているのは、10年、100年、1000年、1万年という4グループに分かれて、世界の有識者が議論をしていることだ。そこで安田先生が発表したところ、2007年の国際会議では安田先生に日本でホストをしてほしいということになった。それが今のプロジェクトの当面のターゲットとなっている。

 そこでは話は一応通じたが、通じなかったのは自然を敬う気持ちである。これを安田さんは「アニミズム」という言葉で表現する。アニミズムには彼らにとって何か古いブードゥー教のようなイメージがあり、この言葉でコンセンサスを取るのは無理だ、ただ、言っていることは分かると、バチカンの人も言ったそうだ。

 次に、マネジメント事例研究としてのプロジェクトについて幾つか申し上げる。先週、窓と空の理論の話があった。人には組織の中で置かれているポジションでやらなければいけない自分と、それを取り払ったときの自分という二つの顔がある。ところが、あるポジションにいて仕事をすると、世間をその仕事のフィルターをかけて見てしまう。ここが「窓」で、見ている本当の世間が「空」である。ところが、そのうちにだんだん「空」を見ているのか「窓」を見ているのか分からなくなって、窓枠だけを見始めるということになっていくと、意思疎通ができなくなる。これが窓と空の理論である。窓枠があることはしかたがないが、同じ空を見ようというのが、窓と空の理論のエッセンスだったと思う。

 それを言われて、はたと気づいた。このプロジェクトに参加している人は、窓と空の関係を意識せずに、空の青さに魅入られて繰り返しプロジェクトに参加しているのではないか。いわば価値観や世界観でつながっているということだ。「空」という同じものを下敷きにしているので認識が共有化されてくる。価値観でつながるネットワークといえるだろう。

 また、本物を見ていると、別の人も本物を見ている。そうすると隣に仲間がいることにお互いに気がつく。これを「お導き現象」と言っている。自分で仲間を探しているわけではないのに、気がついたら隣にいる。そういう形でつながっていく。だから、かなり効果的に短時間で必要な人に会うことができる。そこはマネジメント事例として非常に重要だ。

 マネジメント事例として、もう一つ思ったことがある。これは研究会だから、当然考え方が違ったり認識がずれたりする。そのずれのところを無理に一致させようとすると、どちらかが「私が間違っていました」と勝ち負けがつくが、そうすると気分が悪くなる。他方で、いい話を聞くと人間は元気をもらって帰るという効果がある。安田先生は美談の名手でいろいろないい話が聞ける。当然、お導き効果で美談の名手がいっぱい集まっている。そういうところに繰り返し行くと、そのプロジェクト自体もうまくいくようになってくるし、プロジェクトから帰った自分の仕事でもプラスの効果がある。

 4番めに、窓の違いを乗り越える努力だが、先ほど私が言った、環境経済学では地球環境問題は解けないというのはかなり大胆な発言で、お互いに「窓」は違うわけだが、だんだん認識を幅寄せする努力はお互いにしないといけない。共通認識を作ることを通じて、価値観に限らず、輪が広がっていくということも体感している。

(A) お導き効果は確かにあるいう気がする。環境の世界でお導き効果を世界に広めていくとすれば、どういう伝搬のしかたがあるか。

(岸本) やはり美談に尽きるのではないかと思う。典型では、中学校の国語の教科書にちゃんと美談を載せる。長岡藩の「米百俵」は中学校の国語の教科書に載っていた。環境の美談がたくさん世間で認知されることが重要である。

(B) キリスト教圏でどうしたら通じたのか。西欧諸国がデカルト以来、人と自然を相対するものとして切り離して客観化するからこそサイエンスが発達し、大量生産につながって都市的なものが出てきた。キリスト教スピリットは残したままで、自然との相対のしかたを乗り越えようとしようとしているのか。それとも、キリスト教の社会に、いわゆる多神教というか、自然に神が宿るというものが通じているのか。

(岸本) キリスト教、一神教と安田提案の間で何か和解が起こったということはないと私は見ている。実は去年の8月の合宿でトライしたことがある。物理学の世界は20世紀に不確実性定理など、今までのニュートン力学とは相当違う世界に入っている。そのように非常に不確実なものとして世の中をとらえる動きを経済学に応用する動きがあるのかないのかを確認しようと思ったが、ほとんど失敗に終わった。ただ、イタリアやアメリカで、保険会社の人の中には、経済学を数学やニュートン力学のようにかちっと答えがあるものではなく、もう少し幅のある、あいまいな世界だと理解している人たちがいるようだ。

 二つめに、自然が破壊されていることは写真やニュースを見れば分かる。この解決は多分、科学だけでは無理だということは、洋の東西を問わず分かっているのではないか。だからこそサステイナブル・デベロップメントという抽象概念が生まれてきたのだと思う。

(C) 環境を守るためには企業に環境保護の考え方を理解してもらわなければならない。しかし、株主はそんなことは許さない。経済産業省でそういう環境のことをなさっている場合、企業に対してはどういったお話や提案をされているのか。

(岸本) その質問を私は待っていた。それは私が環境経済局に勤めていて、ずっと自問自答し続けた問いである。私が至った認識をお話しする。環境と経済がトレードオフだという考え方ではなく、環境も経済もの時代に入ったというのが私の強引な結論である。しかし、企業は社会で求められているものを売っているので、社会が変わらなければ企業は変われない。社会が変わる前に企業に環境にいいものだけ安く作れと言っても、それはできない。やはり日本がめざすべきは、環境によいものは高くても買い、悪いものは安くても買わない国である。そうなれば、日本の企業は環境親和的になる。

(D) 何十年か先にもう少し効率のいい太陽エネルギー電池が生まれると考えたときに、どこまでが無駄かというのは、まだ結論は出せない。ただ、そこに到達するまでに技術開発として膨大なエネルギーをつぎ込んでいることまで考えると、果たしてエネルギー収支が合っているのか。

(岸本) ちょっと技術論に入ってしまった。私が申し上げたかったことは、採算が合わないと分かっていても、環境にいいと信じたものを買う消費者が現にいることで、これがマスになることが非常に重要だということだ。

(E) 官庁のリサイクルでも経済が働いている。燃やす金額と比較する。末端のほうでは、会計検査でそうなっているという理論がまかり通っているのだ。日本では、燃やすのに官庁が支払うお金は1t当たり1万円ぐらいかかる。一方、リサイクルにかかるのは1t当たり1万2000円。あと2000円なのだが、それが払えないと言う。ましてや最終処分場のある市町村にいくと、3000~6000円ぐらいで燃やせる所もあるのだ。

(F) ゼロエミッション宣言工場では、もちろんコストは倍から数倍かかる。99.9%の残りの0.1%にすごい金がかかるのだ。それでもどうしてもゼロにするということだ。

(岸本) 最近、「もったいない」という言葉がはやっているが、これはなかなか外国語に訳せないという。そういうことが日本で当たり前になったときの日本の企業行動、企業経営、企業戦略は相当変わるはずだ。ただ、企業に先に変われというのはやはり難しい。それを先にやりなさいというのでは国際競争に勝てない。

 次に、今後の展望あるいは決意についてである。このプロジェクトの当面の最大の課題は、言いたいことを文字で書けるかということだ。今年3月にできた活動報告はメッセージ性はまだ乏しく、今のところ「空」は提示できていないが、「空」を提示するということがプロジェクトの成果物ということになる。かりにそれができたとして、このプロジェクトに関係している人は日本で1000人未満である。これを1万人、10万人ぐらいにはしないといけない。今は、与野党の国会の先生やメディアをどうしようとかいう議論は全部封印している。この意識をマスで共有していくためには、成果物を作ったあとの共有プロセスを考えていかないといけない。

 三つめは政策である。霞ヶ関が不合理な中で、ここで言っているような価値観という話を政策に下ろせるのか。その政策展開の糸口を我々行政官は考えていかないといけない。まず政府が環境政策をやる場合の問題点として、国境を越えた場合、他国が同じ政策を執ることに合意するとは限らない。それから先ほどのように、よくある議論は、環境問題をまじめにやっている人が損をするような環境規制がけっこう行われるという問題である。

 政府が今、温暖化対策の行動計画の中で採用してみた手法の中に、情報的手法がある。これは、自分が毎日CO2を何トン吐き出しているかが正確に分かれば、どう減らせるかを考える契機になるということだ。例えば車で買い物に行くのと電車で行くのとではどれぐらい違うかがもし分かれば、やはり電車にしよう、自転車にしようとなる。データをきちんと国民の隅々に届けるようにすることを情報的手法と呼んでいるが、これは環境意識がある程度ある社会においては効くはずだと私は思う。

 もう一つ、夏の合宿で少しその可能性が見えてきた。ゲーム理論などで人々の行動を分析し、行動を変えるための方法を駆使すれば、いろいろなことが可能なのではないか。環境経済学がめざすの人間の行動原理を変えることなので、当然こういう分野も研究してみたらどうかと思う。

 次に、ライフスタイルや価値観自体を政府が指導することには当然異論があるだろう。しかし環境負荷のデータが社会で共有されれば、当然、環境に優しいライフスタイルをもう少し定量的に示すことができる。教科書で環境倫理を教えるという話もある。最後は個々人にゆだねられるところだが、「窓」の違いを乗り越える仕掛けを考える必要がある。

 今年は当面、都市問題をやるわけだが、なぜ1回めを秋田でやるか。秋田は日本でも最も高齢者人口比率の高い県であり、かつ自殺者が非常に多い。何十年か前は、東北でいちばん豊かな県であった秋田がなぜこのような状態になっているのか、これは居住空間の問題として見たほうがいいのではないかという問題設定をしている。21世紀の先進国の人が暮らす居住空間、居住地域とは、どういう要素を備えていくべきなのだろうかというのが、今年の課題である。

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2006年度東京大学大学院講座
マネジメント研究事例-日本海学の構築をめざして-

「ものづくり生命文明」

講師 国際日本文化研究センター 教授
安田 喜憲 氏

日時 2006年7月18日(火)

 私と中井さんの出会いは、中井さんが財務省から富山県に出向されてきたときに、環日本海、日本海学をやりたいと言われたことに始まる。日本海学の目的は、森・里・海の循環を学ぶことである。富山湾は非常に魚が多いが、それは富山湾に流れ込む黒部川や常願寺川の上流の山に豊かな森があり、その豊かな森から流れてくる水が地下水となり、富山湾に注いでいるからだ。中国人研究者の研究で、富山湾の海底湧水に、特に海抜800mぐらいのブナ帯の森の栄養分が含まれていることも分かっている。最初は環日本海を考えるために、「逆さ地図」といって大陸から見た地図で日本列島を見るとどう見えるかを考えてみた。つまり、海をめぐる文明の交流のようなことをやりたいということだった。しかし、その中で森・里・海の水の循環系が日本の文化を支えている根幹であるという姿が見えてきた。また、中井さんが財務省にお帰りになったあとも、私がずっとかかわっていた長江文明というプロジェクトを続けるために、富山県に立山信仰の研究をするといってお金をもらっていた。それが実は長江文明と非常に深い関係があったのである。

 長江文明に関して私が最初に仕事を始めたのは1991年、梅原猛先生と二人で浙江省の良渚(りょうしょ)という所へ行ってからだ。梅原先生がそこで玉(ぎょく)を見つけられて、すごく興奮された。私はそれまで地中海文明のギリシャやトルコの研究をしていたが、そこの宝物は金銀財宝で、ミケーネの黄金マスクは金でできている。ところが、梅原先生は石を見て大変興奮している。先生は、ここに長江文明があると直感されたのだ。

 その玉は精巧によくできているので、中国の人々はせいぜい2000年前の漢代のものだと思っていた。ところが年代を測定すると5000年前のものということになった。硬いメノウに真っ白な線が入っており、浮き彫りが施されている。直径2cmだが、拡大すると細かい浮き彫りで体全体に渦巻きの模様があるのが分かった。

 その後、京セラの名誉会長の稲盛さんを連れていくと、稲盛さんも興奮していた。私はなぜ玉がすごいのか、どうして長江の人が玉を崇拝するのか、本当に分からなかった。

 1997年からはCOEという研究費をもらって長江文明の探究をした。しかし、森浩一先生などは、「素人が長江に文明があると言っている」と批判した。また、北京大学の厳文明という偉い先生を日文研に呼んだところ、「長江流域に文明があることは認めるが、長江文明は認めない」と訳が分からないことを言う。日本のエリート考古学者は北京大学に留学しているから、北京大学の先生がうんと言わないと長江文明があるとは言わない。だから今でも日本の中国考古学者は、長江文明があるとは言わないのだ。

 しかし、今はとにかく長江文明があるということは間違いないことになってきた。例えば私たちが発掘した湖南省にある6000年前の城頭山遺跡は、円形の城壁で囲まれており、美しい田園風景が今も続いている。6000年前の遺跡であっても、今でもちゃんと水の循環系が維持されており、水田稲作農業ができる。6000年前のほかの遺跡、例えばメソポタミア文明などは、みんな砂漠になっている。ギリシャもそうだ。城頭山遺跡は灌漑用のため池も持っている。そんなものは6000年前にありえないとみんな言うが、年代を測ってみたところ、紀元前4300~4400年、すなわち6300~6400年前のものであることが分かった。

 さらに、我々は神殿や王宮も見つけた。これは中央にあり、全面、焼成レンガで床を敷いている。この地域は石がないから、焼いたレンガを敷いて、その上に四角い建物を造っているのだ。これがなぜ支配者の建物かというと、この中で料理をした痕跡がなく、いちばん大事なことは列柱回廊といって壁の外側にもう一つ柱があることだ。すでに支配者もいたということだ。そして、赤い色を好む。稲作漁労民が大事にするのは赤である。鉱石色土壌という焼いたら真っ赤になる土壌をわざわざ選んで、そこから採っている。また、彼らが大好きなのは、フウ(楓)という木だ。出てきた1000点くらいの材木片を分析したら8割がフウだった。周辺にフウの木の林があったわけではない。花粉分析などをすると、椎や樫の木など照葉樹林が多いが、遺跡から出てくるのはフウばかりだ。さらに不思議なのは、城頭山遺跡とメソポタミアの最古の遺跡エリドゥーがほぼ同じ大きさということだ。

 そのあと、5500年前の隣の遺跡になると、一段高い王宮がはっきり分かるようになる。城壁があって、その周辺に三重の環濠がある。黄河文明は馬や陸路で物を運ぶが、こういう所の交通は全部水運だ。だから三重の環濠で囲まれている。

 最初に掘った四川省の龍馬古城宝?(ほうとん)遺跡は長方形の遺跡だが、1000m×600mで非常に大きな城壁がある。長江文明の遺跡が残らないのは、泥でできているからだ。農民たちが持っていって水田の客土にするのである。しかし、これはたまたま残っていた。

 龍馬古城を最初に掘ったのが1993年だったろうか。そのときは運が悪かった。「4500年前の長江文明の巨大な遺跡を発掘した」と、11月8日に記者発表をして、全紙にトップに載った。ところが、それが運の悪いことに、一緒に発掘することになっていた早稲田大学で壮行会をやる日だった。それで早稲田大学の人の恨みを買い、あとで我々の調査はでたらめだなどと言われた。もっとひどかったのは、三星堆(さんせいたい)という遺跡の宝物庫に、僕が外人として初めて入って写真も撮ったところ、だれかが大使館にたれ込んで、我々がその宝物庫に入って青銅器を盗んだというのだ。大使館は本当かと思って四川省の文化財保護局に連絡したので、四川省の人は何万点もあるものを1点ずつ数えることになった。考古学とは本当に怖い世界だ。

 龍馬古城についても、早稲田大学の先生は漢代のものだと言った。ところが、今は紀元前2000~2500年前にここに宝?文化があったことを中国で疑う人はだれもいない。1997年から城頭山遺跡を発掘して多少は収まったが、当時はめちゃくちゃ言われた。それ以外にも石家河という100万平米の大きな遺跡があるが、これはウルクに匹敵する。

 長江文明の人々は玉を崇拝していた。その理由が分からず僕は長いこと悩んでいた。長江文明のプロジェクトも終わり報告書も書き終わったときに、唯一、解決できなかったのが玉の崇拝だった。そのとき富山県が600万円くれるというので、立山信仰の研究をやった。そこで見えてきたものがあったのである。

 『山海経』という長江文明の神話がある。僕はこれを徹底的に読んだ。何々山には何々玉が採れる、何々山には何々玉が採れるということが書かれており、山は玉と深い関係があり、玉は山のシンボルだったということが分かってきた。また、『淮南子(えなんじ)』天文訓に「丸は天と言う、四角は地と言う」とある。つまり、玉琮はその丸と四角の結合で、天地の結合を意味しているのだ。そこに鳥がいるのはどうしてか。長江の人々が崇拝したのは虎だった。その虎の目に循環のイメージであるスパイラルを全身に描き、鳥の羽の帽子を被った人の絵がある。彼らは玉を崇拝すると同時に鳥を崇拝していたのだ。鳥は天と地を往来する。そして玉は山のシンボルである。有名な会津磐梯山があるが、あの磐は岩、梯は木偏のはしごだ。稲作漁労民は、山とは天と地を結合する岩のはしごだと考えた。なぜ天と地の結合が重要かというと、その山から稲作漁労に必要な水が流れてくるからだ。だから、稲作漁労民は山のシンボルとしての玉を崇拝したということが見えてきた。

 また、立山という所は、縄文時代以来のヒスイの産地である。北アルプスは立山から姫川流域にかけて、縄文時代の人々が玉を崇拝した所だ。そして、玉の産地でもある。

 さらにもう一つ、とんでもないことが分かってきた。富山県のことを「越」と言う。越中富山、越前、越後。越とは、長江文明の担い手が、ボートピープルとなって逃げてきた所だということが分かってきた。越中の越は呉越の越なのである。

 なぜ、そういうことが分かってきたのか。私は専門として気候変動を研究しているのだが、『史記』の秦の本紀を読むと、4200~4000年前に大変大きな気候変動があったことが分かる。この気候変動の影響を受けて、北方から大量の人々が南へ南下した。これは、東京大学の人類学教室にいる植田先生の下で勉強していた金さんという人が明らかにした。山東半島の付け根にある臨錙という遺跡の人骨のミトコンドリアDNAを調べたところ、2500年よりも前の人骨の60%が白人のDNAだった。つまり、西方から大量の人々がやってきて、もともと長江にいた人を追い出したのだろう。そして、長江にいた人々が雲南省や貴州省の山に逃げた。その人たちのなれの果てが、例えばミャオ(苗)族である。

 この人々は文字を持っていない。だから長江文明にも文字がない。だから文明ではないと僕は批判された。都市があって、王がいて、文字があって、金属がある。これが文明のシンボルだ、こんな基本的なことが分からないのかと考古学者からばかにされたが、それはヨーロッパ人が考えた文明であり、アジアにはアジアの文明のタイプがあると思う。縄文に対しても僕は文明という言葉を使ったが、ほかの考古学者はみんな私が言うことを無視する。東京大学の文学部の偉い先生はそれなりにまともに相手をしてくれて、感謝している。やはり縄文は文明であると思う。今日の課題である命の文明、「生命文明」である。

 これも我々とよく似た人々だ。彼らが大事にしているのは柱である。ミャオ族の人々は集落の真ん中に柱を立てる。これは絶対にフウの木で作らないといけない。フウの生木を石器で切ると切りやすい。そして、乾燥すると硬くなる。縄文人は栗の木を大事にしたが、栗も同様だ。だから縄文人は栗の神話を持っていたのだと思うが、同じように長江の人々もフウの木の神話を持っていたと思う。そして、その柱の頂上には鳥が止まっている。その鳥は太陽が昇る東を向いている。お祭りのときは、フウの木の柱の周りをみんなが銅鼓を打ちながら回る。銅鼓の中心には太陽が彫られている。稲作漁労民にとっていちばん大事なのは太陽だ。太陽は朝、東の空から二羽の鳥によって運ばれてくる。そして西の空に沈む。また、翌朝、太陽は東の空から昇り、西の空に沈んでいく。こういう再生と循環を繰り返している。稲作は、太陽の運行によって、いつ種もみをまく、いつ稲刈りをするなどを決める。だから、太陽を崇拝したものが稲作漁労なのである。

 ところが、4000年前の大きな気候変動で北方からヒツジやヤギを連れた畑作牧畜民が金属器を持ち馬に乗って南下してきた。彼らは馬に乗り、肉、バター、チーズを食べる。これに対して長江に住んでいた人々は牛を大事して魚を崇拝し、米を食べる。この人たちが雲南省や貴州省に逃げていく。また、海岸にいた人々がボートピープルになって日本に来て越を作ったという仮説が見えてきた。雲南省や貴州省の少数民族はもともと山の中で密かにプリミティブな暮らしをしていたというのが大体の民俗学者の考えだったが、山から下りたのではなく、下から上に上がったのだ。そして山を越えて東南アジアに行っている。

 その証拠が最近たくさん見えてきた。例えば、秦の始皇帝の『史記』には「楚を攻めて南洋に移す」、始皇帝本紀には「楚国、越国を滅ぼす」、始皇帝の『越絶書』には「外越と内越がある」と書いてある。内越とは中国大陸にいる越で、外越とは東海の彼方にいる越だ。秦の始皇帝の時代に、すでに越が東シナ海の向こうにいるということが認識されているのだ。だから富山県の越とは、実は中国からやってきた稲作漁労民が作った国である。

 そういう話をして、西尾幹二さんに「それは日本の天皇家が長江から来たということか。それが本当なら言語の証拠があるはずだ」と怒られたことがある。確かにそのとおりだ。ところが、例えば稲のことをミャオ族では、「うんね」と言う。大和はミャオ族では「山の人」という意味である。我々は奈良のことを「大和」と言う。「大和」とは「山の人」のことで、稲は「うんね」、また、「漢委奴國王印」の奴(な)は稲だから、ミャオ族の国ではないかという説もある。それから、イ(彝)族語では虎のことを「ら」と言うらしい。奈良の都の「奈良」は、イ族語では「黒い虎」という意味だという。そして、山の神のシンボルは虎なのだ。虎をシャーマンが手で押さえている。

 神話にもいろいろ証拠がある。例えば、イ族の神話で「女は太陽の化身で右側に、男は月の化身で左側に」「虎の右目が太陽に、左目が月になる」とあるが、『古事記』には「伊弉諾尊が右目を洗うと太陽神天照が生まれた。左目を洗うと、月神、月読命が生まれた」とある。全くよく似ている。しかも、太陽神が女性であるというところもよく似ている。ギリシャの太陽神も黄河文明の太陽神も男だ。だから我々は天照を崇拝する。なぜ女神か。これは稲作漁労民に共通の神話なのである。

 しかも富山県では「柱を大事にせよ」という。これは長江から来たのだ。あるいは太陽、八咫鳥(やたがらす)の信仰も長江から来た。我々の太陽を崇拝して天照を崇拝するという世界観は、まさに長江の稲作漁労民が作り出したものであるということが見えてきた。

 こういう世界観を持ち、玉を大事にした人々が環太平洋に住んでいたのだが、立山や姫川辺りに住んだ縄文人も玉を大事にした。その玉は緑でなければならない。緑は命のシンボルだ。長江の蜀でも玉を大事にしたが、縄文人も玉を大事にした。その玉の故郷は立山から姫川流域のまさに富山県、越の国なのだ。

 その縄文を文明と言うか言わないかというのは大変重要な問題だが、これを見てほしい。縄文時代早期、北海道南茅部遺跡から出た子供の足形だ。指と足の裏全体が写っている。もし生きている子供が軟らかい粘土をぺたんと踏むと、必ず土踏まずの所ができる。したがって、これは死んですでに指が硬直しているところへ軟らかい粘土をつけたものだ。

 これがどこから見つかったか。聞いたときに私は涙が出た。これは大人の墓から出てきたのだ。しかも、修理してペンダントとして下げるようになっている。つまり、死んだ子供の足形を取って形見として親が持ち、自分が死ぬときにその墓に埋葬した。9000年前の縄文人が命を見つめていたということだ。これは、ものづくり、生命文明のシンボルになるのではないか。なぜならこれは命のシンボルで、同時に土でできているから自然に帰る。今のものづくりの大きな問題は、ものづくりの中に命がないということだ。日本は外国から80億t近い資源を輸入して、輸出しているのは14億tくらいだ。60億tくらいは日本の中で完全にリサイクルしておらず、廃棄している。我々は環境問題をやるとき、ものづくりの世界をどう新しい世界に変えるかが問われる。

 私は4日前にパリから帰ってきた。ユネスコでアミニズムのシンポジウムをやってきたのだ。去年の11月のシンポジウムではアミニズムについてこう話した。「ヨーロッパ文明は森を破壊し、近代工業技術文明は資源を収奪する。それに対して我々の稲作漁労社会は、水と森の循環系を維持し、アミニズムの世界を維持するから持続的である」。しかし、それはパンを食うな、肉を食うなという話につながるから、かなり強い反発も受けた。それで今度は水を切り口にした。イスラムの人は、水は神から与えられたものだと考える。ユダヤの人は命の水だと考える。我々は、水の中に龍が住んでいて、龍は水の神だと思っている。水は神なのだ。ところがキリスト教になると、水はホーリーウォーター、単なる洗浄で、キリスト教徒はドラゴンを殺した。水の中から命を取った。すなわち、現代の産業社会は、水を単なる力、エネルギーの源と考える文明である。例えば産業革命の始まりは水車で、水車を動かしたのは水である。あるいは、蒸気機関車は水を水蒸気に換えて力にする。そこには命というものはない。現代文明は水の中から命を奪うという世界観に立脚して成立したものだから、近代工業技術文明が広がっていくと、水がどんどん汚染されていく。真っ黒になってもだれもおかしいと思わない。その心の原点はキリスト教、すなわちアミニズムの世界を殺した文明にあるのではないかと言った。講演後、フランス人4人、ベルギー人1人、ノルウェー人1人が飛んできて、「素晴らしい講演だ」と言ったので、これはやったなと思った。今回はうまくいったが、問題はこれからどう攻めていくかだ。

 アミニズムは、ヨーロッパではものすごく汚れた言葉だ。だから、東京大学出身の優等生はみんな僕に「スピリチャリズムと言えばいい」「森イズムとしたらどうか」「自然だから自然イズムにしよう」と言った。しかし私は、アミニズムという、今まで猥雑で卑猥であると見られていたものが何と素晴らしい重要な価値を持っているのかということに、ヨーロッパの人に気づいてほしい。180度どんでん返しをしないと、人類は救えないのではないかと思う。大橋力先生が『音と文明』という名著に「物質エネルギー文明から生命文明の時代に変わらなければならない」と書かれた。その生命文明の根幹を形成する思想は、僕はアミニズムだと思う。

 そして、大橋先生が言われた「生命文明」は環太平洋にある。縄文、長江、マヤ、アンデス。このマヤ、アンデスを今、私がやっている。8月にまたグァテマラに行く。そのマヤ、アンデス、あるいは環太平洋のニュージーランドに住んでいるマウイの人々も玉が好きだ。また、縄文にもマウイにもスパイラルがある。2500年前の長江の青銅器に書かれた絵を見ると、まさにアメリカンインディアンの集落に見える。しかも、柱があり、上に鳥が止まっている。長江の人々は水牛を大事にするから、水牛を生け贄にする。

 そしてミャオ族の柱である。皆、柱を大事にする。それで日本は心の御柱を大事にする。言うまでもなくアメリカインディアン、それからアズテックの人々もケツァールという鳥を大事にする。マヤの人々も太陽を崇拝し、緑の玉を崇拝した。玉が命とかかわっているのが歴然としているのは、死ぬときに緑の玉を口に入れる。もっと凝っているのは歯に埋めている。中国の西北部でも似たようなことがある。また、マヤのピラミッドは山のシンボルである。長江の人々や我々が山を崇拝するように、マヤの人々も山を崇拝し、聖樹を崇拝する。セイバの大木が天地を結合するものとして崇拝される。

 もっと興味が深かったのは神殿だ。マヤの人々は、かんぺきに水の循環系を維持している。乾季と雨季があり、雨季には雨が大量に貯水池に貯まる。それを乾季に利用する。タンパク源はヒツジやヤギではない。ラマやアルパカの肉は食べるが、やはり魚が主である。その繁栄の上に立ったメキシコのティオティワカンは、こんな大きい太陽の神殿を造っている。またインカの棚畑とミャオ族の棚田は全く同じでかんぺきな水の循環をやっている。

 長江に行くとトイレが臭くて嫌だったが、人糞として肥料として使っているから臭いのである。同じように人糞を使っているのはマヤやインカの人々だ。臭いのは恥ずかしいことでも何でもない。まさに資源のリサイクルをかんぺきになしている生き方の証拠である。

 21世紀、我々は「ものづくり生命文明」という新しいものづくり社会をとおして、人間が生き残れるような社会システムを作らなければいけない。その原点は、ものづくりに命をどう絡ませていくかだ。その出発点を「環太平洋の生命文明圏」と私は名づけた。そこには玉が大好きで、山を崇拝して、天地の結合の中に豊穣を祈って、水の循環系をかんぺきに維持しながら人間以外の他者の命に畏敬の念を持っている文明がかつてはあった。それを全部破壊したのがヨーロッパである。その破壊された生命文明を21世紀に我々は復活する必要があるのではないか。「ものづくり生命文明」という言葉を作ったのは中井さんだが、非常にいいネーミングだ。緑は命だ。これだけ覚えておいてほしい。

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2006年度東京大学大学院講座
マネジメント研究事例-日本海学の構築をめざして-

「歴史資源を活かして地域を再生する
~日本海地域とイタリアの事例~」

講師 東京大学 前教授
民岡 順朗 氏

日時 2006年10月17日(火)

 江戸時代、日本では北前船が航路を展開して陸に物資や情報を運び、北前船が運んだそのいろいろな文化や建築様式などが至るところに類似性を残しながら展開され、各地で今で言う地域づくり、まちづくりが行われた。広島県の鞆の浦のように、今も各地にそれを修復したり復元したりしながら地域おこしをやっている事例が見られる。そこで今日、私からは修復について非常に進んでいるイタリアの事例を紹介したいと思う。

 近代都市計画では、経済性、産業性、産業効率をあまりに重視した土地利用によって衣食住が分断され、生態系の破壊や風景の消失、町の個性の消失が起こっている。21世紀環境経済文明研究会では、これを文明の危機という問題意識で見ているわけだ。そのときに、一般的に言われているのは環境問題であるが、私はそれを文明崩壊の外的要因としてとらえていて、もう一つ、人間の内側から来る問題、内的要因があると思っている。

 先日、塩野七生先生の『ローマ人の物語』の27巻、28巻が新潮文庫から出たが、その中で、ローマの崩壊の要因は、ゲルマン人に侵略されたことのほかに、社会的な結合性が崩れてきたことがいちばん大きいと書かれている。それと同じく、外的要因、内的要因が重なって今の文明の危機を引き起こしているのではないかと私は考えている。

 近代都市計画の手段と方法の一つに、ナショナルミニマム・シビルミニマムという言葉がある。最低限生活に必要なところをまず押さえ、人間の生活というよりはむしろ経済的な富に着目して都市計画を作っていく。そこから導き出されるのは、効率主義と拡大成長主義だ。効率とは、例えば、ここはオフィスしか建てない、ここは商業地域、ここは住宅地域というように、土地利用の用途を純化し、規制をかけながら経済性、生産性、産業性を高めていくことであり、このような拡大成長主義は、経済成長に適した都市の成立を促す。

 日本でも60~70年代には、今は死語となった太平洋メガポリスや石油コンビナート、太平洋ベルト地帯という言葉が使われ、太平洋側を中心に都市が広がった。今、問題なのは、そういう時代でもないのに、まだ郊外への市街地の拡大が進行していることだ。都市計画の行き詰まりの原因を簡単に言えば、近代主義への適応が不適切であったということではないかと思う。これからの都市計画は、江戸という都市の在り方、あるいは地中海地方、とりわけイタリアのような近代都市計画の浸透度合いが比較的小さいところに着目して考えていくべきだと私は思っている。

 私がイタリアに着目する際の切り口はいろいろあるが、その中のかなり重要な部分に、人口密度がある。日本とイタリアの国土面積は似たようなものだが、人口は1対2くらいなので、現時点での人口密度は日本がイタリアの倍ということだ。ただ、日本の100年後の人口は、よくて今の半分、恐らく半分以下だろう。今のイタリアの総人口6000万人弱と大体同じくらいだ。ほかにも南北に細長く、山地が多いことや、両国とも敗戦国であることも似ている。また、日本は持ち直してきているが、経済的にも決してよくはない。

 まず、都市の比較をしてみたい。概念として、開発型なのか保全型なのか。これがいちばん重要なキーワードだ。あと、個性的かそうでないか。産業経済重視か生活か。それから、どんどん広がるスプロール型の構造をしているのか、内側に向かう集約型なのか。

 私がイタリアに住んでいて感じたのは、移動が少ないということだ。私はフィレンツェとローマに住んだが、フィレンツェは人口40万で、埼玉県の川越と同じくらいだ。フィレンツェでは、移動のために車や電車には乗らず、自転車に乗れば大体生活が可能だった。ローマではさすがにそうもいかず、地下鉄やバスには乗った。もちろん車にも乗ったが、川崎に住んでいて渋谷まで乗るということはない。また、私は仕事上、週に1~2回の割合で新幹線に乗っているが、そういうことも絶対にない。要は、イタリアは、1か所に固まってじっくり住んでいける構造になっているのだ。

 住み続けられるというのは、サステナビリティがあるとも言えるかと思う。私が首都圏に住んでいるからかもしれないが、日本では住み続けようと思っても、いろいろなファクターがあってなかなかそうはいかない。愛着があっても転勤があったり、住んでいたとしても家に着いたら夜中だったりする。住むというのは、単に寝るということではなく、生活するという意味だから、それでは事実上住んでいるとは言えない。職場にいる時間が圧倒的に長くて寝るのも職場という生活が続けば、まちづくり運動に市民として参加しなければと言っていても、現実、参加などできない。そういう町に愛着が生まれるわけがない。

 文明論的に考えたときに、日本のよさは、縄文時代からつい最近まで、アミニズムの世界というか、自然共存型の文明の在り方だったことだ。それに対して小麦や牧畜の文明の地中海、中近東辺りは、かなり昔から自然に対して負荷を与えてきた。また、科学主義で、自然に対して人間が優位に立つということがギリシャ時代からずっとある。

 そういう文明の在り方を経て現代を迎えているわけだが、そこで今、明らかにねじれ構造が起きている。例えば、循環型の社会を築いてきた日本で、なぜ町の風景がこうなっているか。なぜ自殺者が年間3万人もいるのか。ヨーロッパではそんなに自殺者はいない。町も非常にきれいで、お客さんや観光客もいろいろやってくる。恐らく自分が住む地域に対する満足度はかなり高いのではないかと思う。文明の在り方で考えると、滅亡していてもいいエリアともっと繁栄していていいエリアとがあって、そこが実際にねじれている。そのねじれというのは一体何に原因があるのかということを、私なりに考えている。

 近代に至る過程について、この二つの国に焦点を当てて考えてみると、まず、イタリアも日本も、ついでに言うとドイツも、後発グループである。国家の統一が1860~70年代にあって、それよりずっと昔から統一し、近代化していたイギリス、フランス、ロシアと比べると明らかに後れていた。また、二つの国は第2次大戦を経験した。その後、戦後復興に入るのだが、50~60年代には本当の戦後復興から脱して、両国とも高度成長、経済成長の局面に入っていく。このあたりで高度成長下の都市開発が行われる。

 イタリアは日本のように焼け野原にはならなかったが、それなりに空爆を受けている。第2次大戦でまず連合軍にやられ、降伏してからはドイツにやられた。ただ、降伏がかなり早かったので、それ以上被害が拡大しなかったというだけで、フィレンツェなどは橋がほとんど落ちている。ローマには空爆があった。そこから戦後復興に着手したわけだが、60~70年代にイタリアは、これ以上の開発を止めようではないかということで、政策を保全型に大転換させている。一方、日本では、開発型の政策が一貫して推し進められてきた。

 しかし、今後は人口減少でまず需要が減っていく。少子高齢化で生産人口が減っていく。エンジニアが足りない、官僚が足りない。建設に携わる技術者なども足りない。それから、今、自治体の財源問題が非常に深刻で、公共的な赤字が今、だれも支えられない水準にまで達しようとしている。ほかにも環境負荷、エネルギー負荷の問題がある。要するに、開発型のまちづくり、都市開発は、政治の理念や都市計画の思想以前の問題として今後できなくなり、否が応でも保全型に転換せざるをえなくなるということだ。

 では、保全型のまちづくりに転換してそれを進めていくメリットとは何なのか。いろいろあるが、意外に大きいのが地域経済への貢献という側面だ。あるシンポジウムでの青森県の人の発言だが、「青森は海岸線が長いので橋が多い。橋というのはすさまじい維持管理費用がかかる。高度成長期にがんがん造ってそれが今一斉に老朽化しているから、ものすごく負担になる。その維持管理をきちんとシステム化してやろうではないか。それをやるかやらないかで今後何十年間、900~1200億円の財源の負担の違いが出てくる。橋を新しく造ることはゼネコンでないとできないので、結局もうかるのは東京の業者で、東京の経済が潤う。ところが、維持保全、管理ということになると、保守点検になるのでむしろ地場の小さな業者が小回りが利いていいということになる」。要するに、保全型であれば、インフラにしても、まちづくりにしても、地域経済の雇用創出効果や技術の育成などという効果が自然に高まってくるということだ。今はシャッター通りの側面から商業をどう再活性化するかという話に行きがちだ。もちろんそれは重要だが、保全型まちづくりを推進していくという切り口で地域経済に刺激を与えていくという方法もあるということだ。

 イタリアと日本で都市の人口の大きい所を八つ取ると、イタリアで800万人くらい、日本では2000万人くらいいる。また、東京の区部と川崎、横浜の市部で1300万人くらいいるが、トリノ、ミラノ、ジェノバの三つでは300万人もいない。日本の総人口は100年後に半減すると申し上げたが、全国均等に半減していく、一極集中がすさまじくなって九州や北海道は無人になるなど、もちろん半減のしかたはさまざま考えられる。そこで、首都圏への過度な集中を緩和させつつ地方分散を進める、コンパクトシティのシミュレーションで100年後の日本をどうするかを考えてみた。東急東横線では現在、特急停車駅が大体5分の1くらいだ。そういう所だけが町で、あとは農地や緑地、田園に戻していくというイメージである。これはイタリアだけでなく、ヨーロッパでは当たり前の風景だ。ローマのテルミニを出発すると、駅間隔は東急東横線の特急停車駅以上に開いていて、特急停車駅以外のエリアは穀倉地帯、牧草地帯である。日本のように都市と都市が境目なくくっついて、1都3県全部が都市であるというすさまじい状況は、世界ではあまりない。

 日本もヨーロッパのような社会をめざすとすれば、重要なのは技術だけではなく、地域の個性や文化の継承、安心・安全などを充実させていくことだ。環境という側面でいくと、環境負荷を低減させ、一方では生態系の再生都市にするというアプローチが必要になる。いわゆる狭義のインフラとは、ハードの技術、道路や橋、鉄道、住宅などだが、制度やシステムもインフラである。塩野七生先生も、「ローマのインフラ」と言ったときにはローマ法廷の法律、貨幣経済も含めている。全くそのとおりで、インフラにはソフトの基盤とハードの基盤の両方があり、ハードを作り出す母体がソフトである。

 さらに、制度やシステムというインフラの下部構造に必要なものは思想や哲学で、とりわけ価値観がきちんと構築できないといけない。例えば景観の問題で、町並みをきれいにしましょうとか、公告看板を規制しましょうと口で言うのは簡単だが、敷地の所有者、建物の使用者、テナントといった当事者の人たちにとってみれば、おたくのマンションがじゃまだからどいてよと言われても、絶対に反対する。そういう総論賛成各論反対という矛盾が吹き出てくるのが、地域問題、都市問題である。だからこそ、そこを突破するには生半可なテクノロジー論、制度論、システム論だけでなく、ツールが必要なのである。そもそも、都市のライフスタイル、地域のライフスタイル、国づくりの価値観をどうするのかという合意形成がなければだめだ。この部分を真剣に考えていく必要があると思う。

 そして、インフラの三次元、つまり思想レベルがあり、仕組み・制度があり、次に技術があるという考え方の中で、今のインフラづくりの指標を変えていく必要がある。例えば、今の道路づくりの指標は、交通量、混雑度、事故などだが、そうではなくて、例えば地域内の総移動時間距離が少なくなるような交通体系を作ろうという指標を置けば、エネルギー負荷の低減やコンパクトシティを造るという目標にフィットする。あるいは、保全、修復の話で言うと、住宅着工件数の伸びが経済成長への寄与を表すというのが今の論理だが、そうではなく、住宅耐久年数が30年から80年に伸びたとしないと、環境負荷やエネルギー問題には対処できない。このように指標を変えるだけでドラスティックに価値観が変わってくるということを、戦略的に打ち出す必要があると思う。

 2000年にフィレンツェで風景、景観、ランドスケープについての条約が締結された。そのときの定義が面白い。まず、風景とは人々に知覚されている地域であるとしている。風景とは事物の集合体で、物質ではないという考え方がまず来ているのだ。次に、空間であるという考え方があり、その次には相互作用の結果とあって、ここで時間的概念が入っている。また、地域とあることから、地域社会にとっての共通の了解事項が人々に知覚されていると解釈できる。これを裏返しにしていくと、風景というのは、いろいろな意味で社会を形成する接着剤の役割を果たしているといえると思う。風景を失う、解体させていくというのは、都市の記憶を失わせるということだが、それだけではなく、もしかすると人間関係がだんだん悪くなる原因かもしれない。少なくとも同時並行的に進んでいるという相関があるのではないかということを提起しておきたいと思う。

 修復とは、その風景を取り戻すための重要な概念だ。修復の目的は、美的価値と歴史的価値の復元である。当初は両方だったが、だんだん歴史的価値のほうに重きが置かれるようになってきた。また、その対象は、文化財の定義を越えて、都市や地域、風景など空間的な広がりを見せてきている。修復の在り方を考えるときには、文明と文化というものを考えなくてはいけない。文明的なレベルでいくと、歴史的な考え方、時間のとらえ方、自然に関する観念が大変重要である。文化という意味でいうと、建築の材料のあたりが非常に重要だ。例えば、日本海の地域で、北前船をテーマにしたまちづくりをやる場合、日本的な修復の在り方を考えていかなければならない。私の意図しているのは、修復をまちづくり、都市計画に付与していくということだが、そこに価値観の問題、システム上の課題など、いろいろなものが累積して出てくる。

 結論を言ってしまうと、修復というのは、対象の無欠性というか、一体性でもいいのかもしれない。英語でインテグリティという言葉があるが、訳しようがない。多分、アジアにはインテグリティという概念がないのだ。物質的完全さと言ってもいい。それを維持するための物質的な介入のしかたというのが、修復の定義である。

 ただ、もう一つ修復を考えるときに考慮しなければいけないのは、レストという言葉である。レストのもともとの語義は、「心と体を修復する、癒す」ということである。その対象は、美術や工芸品からスタートして、だんだん建物や地区、都市、風景に広がっていき、最近ではカルチュラル・ランドスケープという概念が登場している。修復について厳密な定義をし、修復という文化を使いながら、文化財だけでなく、建築や都市にまでそれを応用しつつ、まちづくりを進めていかなければならない。

 保全による都市再生のメカニズムは、日本とイタリアではけっこう違う。日本の都市再生は、一言で言うと規制緩和である。普通の法律の枠内なら5階建てまでないのに、規制緩和で10階建てにできるという話だ。だから、そこの地域なりエリアの伝統的な景観がどんどん壊れて、新しくなっていく。イタリアはそうではなく、保全である。できる限り守っていくことで内実を再生させていく。その内実とは、経済活動もあるが、地域のコミュニティ、人間関係、景観、古い風景であったりする。そして、郊外の開発を完全に抑制して、かつ、町の中、歴史的都心部もかなり規制がきついという仕組みを連動させることによって、郊外ではなく、町の中に投資が吸い込まれるような仕組みを意図的に作っている。経済的なメカニズムを法律で支えているということだ。そうすることによって、まちなかの経済的価値、文化的価値、美的な価値に人が引き寄せられる。観光客だけでなく、住む人やそこで生産活動、仕事をする人が集まってくる。それを都市再生と言っている。日本もそういうやり方でいかないと都市再生はうまくいかないのではないかというのが、私が言いたいことの要点だ。

 例えば、イタリアだけでなく、16か国が参加しているヨーロッパ建築統計では、建設投資の3分の1くらいが修復、維持保全である。また、イタリアの中の歴史的都心部でいうと、公共と民間のお金のかけ方は大体1対1で、公共事業だけでなく、民間の普通の住宅やアパートなども新築ではなくて、修復をかなりやっている。さらに、日本の修復は材質的なオリジナル性はあまり考えないが、イタリアやヨーロッパでは、材質のオリジナル性がすべてで、それを目的としてやっていると言っていいくらいだ。

 日本の建築材料である木は、もともと解体修理ができやすく、イタリアの石は一度作ったら、壊すか、素材として再利用するかのどちらかしかない。その違いにより、イタリアでは比較的、中高層で町が作られているか、日本は低層である。こういう文化の違いから、日本は循環的な時間意識を持ち、イタリアは直線的な時間意識を持つ。そのためイタリアは歴史を非常に大事にする。伊勢神宮は20年に一度、隣の敷地に立て替えられる。解体修理しているわけではない。素材もすべて新しい木を切り持ってくる。踏襲しているのは形であり、材料は100%違う。人間の体が再生産されていくように、物質的には違うものでできているのだ。それに対して、アッシジのサン・フランチェスコ教会では、地震で一部倒壊した壁画を一片ずつ直している。要するに、物質的なオリジナル性に対して、飽くなきこだわりがあり、修復をめぐる様相もかなり違うということだ。

 日本的な修復がめざすものは、物質というより、むしろ無形資産である。いろいろな芸術や芸能、しぐさ、信仰などを自然と人とのつながりの中で表してきたのが日本の文化で、これはアジア一般と言ってもいいかもしれない。それを修復、あるいは、保全するべきではないか。人と人のつながりも同じである。あとは日本的な美意識を再生産することだ。

 日本にも伝統的建造物保全地区というものがある。こういった制度を使っていくと、もちろん建物の保全自体にはそこそこ役に立つが、町としてのリアリティがなかなか創出できない。それは、人が歩いていないからである。要はテーマパークなのだ。ここに住みたいなとは思わない。それは町を保全型で造っていくというのとかなり違う。やはり人が生き生きとそこに暮らせるようなメリットもないといけないのだ。過去のものや風景だけを再現したのでは、本当に時代劇のセットになってしまう。

 修復したものは、時間の経過とともにいろいろ変質をする。その変質を分析し、価値判断を行い、ほうっておけばマイナスだと考えられるものや損傷を受けているものに処置を施し、未来に向けて、もう一度持続できる条件を与えることが修復の主な目的である。もう一つのとらえ方は、歴史上のあるポイントに目標を定めて、そこまで時間の針を戻すということだ。このどちらのとらえ方にしても、歴史に対して介入しているわけだが、介入しつつ、その作品なり、都市なり、地区なり、建築なりに新たな歴史を作ることで人間が時を超えるという歴史行為が、修復なのである。

 例えばどこかの町が修復を行う場合、国や都道府県の補助金や交付金や民間企業の寄付などをもらってくるが、それは期間を区切って与えられるだけであり、そこから先は建物の所有者なり住民なりが自分たちでやらなければならない。都市の中で修復文化、修復型のまちづくり、あるいは保全型のまちづくりが持続していく仕組みを作るには、やはり自己治癒力を高めていくことが必要だ。これがいわゆるまちづくりで言う住民参加、市民参加であり、地域づくりで言うNPOや民間組織のかかわりになっていくと私は思っている。

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2006年度東京大学大学院講座
マネジメント研究事例-日本海学の構築をめざして-

「資源危機-Out of sight, out of mind-」

講師 国連大学 ゼロエミッションフォーラム理事
谷口 正次 氏

日時 2006年10月24日(火)

 私は元マイニングエンジアである。マイニングエンジニアは日本ではほとんど絶滅危惧種だが、それが今の国益上、地球益上、大変問題だということをお話ししたい。

 日本には鉱物資源がほとんどない。それゆえに100%近くを海外から輸入している。そうすると、鉱産物を生産している国々で何が起こっているかということは、日本人にとっては「out of sight」であり、したがって「out of mind」なのだ。世の中に環境を語る人は随分多いが、川上に対する認識が欠落していると、循環型社会といっても日本だけの問題に終わってしまうし、3Rのリデュースが排出抑制であって投入抑制ではないのも、川上のことが「out of sight」になっているからだ。それが国益を大変損ねている。国家戦略にも、外交政策にも反映されない。にもかかわらず、ものづくり、ものづくりとおっしゃっている。川上が欠落しているところでものづくりはないというのが私の見方で、日本海学との関係について、最後の結論のところで一つ提案をしたい。

 今は資源危機の時代である。日本では資源というと石油・天然ガスのことと思う人がほとんどだが、ここでは石油危機ではなくて鉱物資源危機ととらえていただきたい。その危機には二つある。一つは国益上の危機である。資源を止められたら日本はものづくりができないということで、原料資源確保と価格高騰による大変な経済的危機に直面する。

 もう一つは、地球益上の危機である。鉱産物の産出国では大変な自然破壊が行われている。資源採掘は宿命的に自然破壊に結びつく行為であり、それをできるだけ少なくすることは可能だが、ゼロにすることは不可能である。自然資本の減耗によって人工資本を作ってきているわけだから、自然破壊は環境経済学的な問題である。正統派経済学者は自然資本と人工資本のトータルで減らなければよいという考えだが、もう自然資本のほうが人類の生命維持装置まで食い込んでいるのではないかと環境経済学者は言っている。

 天然資源の枯渇の問題。今生きている人たちが掘り切ってしまったら、あるいは環境を破壊してしまったら、後々の世代の人たちに対して不公平ではないかという世代間の公平性の問題、それから、資源を産出する国々にはお金が入ってくるかもしれないけれども、それが貧困の解消に全く役立っていないという南北間の公平性の問題がある。また、自然資本の減耗は、エコシステムサービスの喪失、すなわち生態系の価値や、森のCO2吸収源としての価値、水源を涵養する価値、アメニティを人類に提供する価値の喪失にもつながっている。

 これからお話ししたいことは、まず一つは、物質フローの川上で起きていることをもう少し知っていただきたいということだ。特に、鉱物資源を単なる外部調達資材に位置づけてもらっては困る。これは国家戦略のもとに資源外交で長期的に確保すべきものだという認識をぜひ持っていただきたいというのが私の願いである。

 20世紀の日本の繁栄はものづくりで成し遂げられたものだということは、だれもが認める。それはQC活動やTQC活動によって行われたわけだが、そのときのスローガンは「次工程はお客様」というものであった。消費者が求めれば何でも言うとおりにしろということで、それが前工程、前工程へと跳ね返っていって、これ以上前の工程がない資源採掘工程では、川下のエゴに対応するために大変理不尽なことが起こった。無駄が起こり、自然破壊が起こり、貧困も起こり、先住民の生存権まで圧迫したのである。

 したがって、私は、21世紀は「次工程はお客様」から「前工程に思いやりを」というものづくりにしなければならないと思っている。地球における物質のフローは、生物圏から農林水産資源を取り、地殻から鉱物資源を採掘し、それを日本に持ってきて資源素材加工をし、製品を製造し、製品およびサービスを提供し、利用者が消費する、そして一部はリサイクル、リユースされ、各工程で出る廃棄物をリデュース(排出抑制)して、最後は地球に戻す、つまり最終処分場に行くという流れになっている。ところが、廃棄物は川上に行くほど多い。その排出を抑制することは重要なことではあるが、投入を抑制しないことには地球全体の環境問題は語れない。日本のドメスティックな環境問題としてはいいけれども、鉱物の採掘工程を抜きにして循環型社会を語れるのかというのが私の言いたいことである。

 世界の鉱物開発を歴史的に見ると、1850~60年代は、ヨーロッパはヨーロッパ自身で資源を採掘し、供給していた。それが1870年ぐらいから急激に下がって、今は5~6%しか採掘していない。

(A) これは石炭も入っているのか。

(谷口) 入っている。このヨーロッパの減少を急速に補っていったのがアメリカだが、第二次大戦が終わったころから減り始め、今は10%ほどである。それに対してオーストラリア、カナダは現在20%を占め、これからも20%台を維持していくと予想されている。中国はまだ10%を少し切るぐらいで、2030年になっても10%ぐらいだろうということである。

 それに対して伸びが著しいのが発展途上の6か国(南アフリカ、ザンビア、コンゴ民主共和国、チリ、ペルー、ブラジル)である。私はこれにパプアニューギニアとインドネシアを加えるべきだと思うのだが、もうすでに30%に近づいて、さらに伸びていくだろう。発展途上国への依存度がこれからいかに高くなるかが大変問題で、南北問題や貧困問題は、これを抜きには語れないのではないかと思う。

 金の価格は2000年か2001年ぐらいがボトムだったが、現在は600ドルぐらいで高止まりしている。銅の価格は1トン5500ドルぐらいから、直近では7500~8000ドルぐらいに上がっている。亜鉛は自動車の鋼板の表面のメッキに使われるので、これがなくては自動車は造れないのだが、昨日時点で3970ドルという状況である。ちなみに石油は、1990年ごろまでの1バレル30ドルぐらいで安定していた時代は終わって、すでに需要供給曲線がどんどん上に押し上げられているので、もう二度とそのレベルにはならずに高止まりするだろう。

 金属消費量は、1955年から2005年までの50年間に銅が7倍、ニッケルが17倍、鉛が3倍、亜鉛が6倍、ボーキサイトが20倍と急激に伸びている。こういった資源の消費量、生産量の増大のエンジンは、中国の高度経済成長である。世界の金属消費量の17%を中国が占め、年率12%という恐ろしい伸びを示している。これに押し上げられて、全世界の消費量は年率2%伸びている。

 中国の金属消費量を個別に見ると、粗鋼生産量は2005年に3億5000万トンに達した。したがって鉄鉱石が非常に伸びている。ニッケルが意外に伸びていないのは、まだ中国の鉄がステンレスその他高級鋼の割合が多くないからだが、今、急激にこれを伸ばそうとしているので、中国はニッケル資源を血眼になって探している。日本の粗鋼生産量は1970年ごろからずっと1億トン前後だが、中国は2004年で2億7200万トン、2005年で3億トンを突破し、中国の粗鋼生産予測でいくと2004年から2007年まで12%の伸びを示すとされている。

 その中国だが、この間の北朝鮮のミサイル問題は資源と関係あるのではないかということを櫻井よしこという評論家が言っている。実は、中国は北朝鮮の茂山という鉄鉱山の50年間の権益を取得しているのだ。今、トラックが長蛇の列で鉄鉱石を持っていっている。それから、石炭も共同開発している。北朝鮮は韓国に比べて鉱物資源が随分多く、重要な戦略物質であるタングステン、マグネシウムの資源国である。それを中国がねらっていることは間違いない。中国の対北朝鮮投資額は非常に伸びており、これに対して韓国の朝鮮日報は、中国の北東3省(遼寧省、吉林省、黒龍江省)にもう一つ省が加わりそうだ、それが北朝鮮だ、第4の省になっていいのかと言っている。金大中大統領と盧武鉉大統領の太陽政策のおかげで北朝鮮は中国の一つの省になりつつあり、中国がミサイル問題や核問題に本気にならないのはどうもこれではないかと思うのだが、この資源は大変なものだ。

 そういった中国の脅威と、もう一つ、大変な脅威がある。世界の鉱物資源の国際メジャーといわれる企業は15~16社あるのだが、その中でアングロ・アメリカンとリオ・ティントとBHPビリトンがトップに躍り出た。それぞれ特徴を持っていて、アングロ・アメリカンは白金とパラジウム、ダイヤモンド、金で圧倒的な強さを持っている。ここはロイヤル・ダッチ・シェルと兄弟で、ジョンソン・マッセイという貴金属精錬加工会社を使って、ITや先端産業には欠かせない、自動車の排ガス処理装置あるいは燃料電池車にはなくてはならない白金やパラジウムを川上から川下まで牛耳っている。BHPビリトンは鉄鉱石、石炭に強く、バランスが取れている。リオ・ティントグループは銅鉱石、非鉄金属に強い会社である。

 この御三家以外にも、リオ・ドセ、コミンコ、バリック・ゴールド、フリーポート・マクモランなど、去年10月末に『入門・資源危機』という本を書いた時点では18社あったと思うのだが、去年11月以降どんどん再編・寡占化が進んでいて、あと5~6年すると3~4社になると見られている。

 これらの会社は世界に幾つもの権益保有国があるが、さらに新たに鉱物を見付けるために、資源メジャー15~16社をトータルすると毎年何百億円もの資金を探鉱に投入している。例えば2005年には、オーストラリア、パプアニューギニア、中国、ロシア、アフリカ、ラテンアメリカなどで50億ドル(5500億円)のお金をかけている。それに対して日本は全部合わせて20億円ぐらいである。それでは何もできない。

 そういった中国の高度経済成長に伴う資源の争奪戦、世界の国際資源メジャーの熾烈な争奪戦のために、供給サイドでの不安定要因がどんどん高まっている。それが環境問題である。これを地球益の問題と言っているのだが、大規模な露天掘り鉱山開発・操業による環境問題と社会への影響というのは非常に大きい。ところが、これが全く「out of sight」という状況だ。

 そこで何が問題なのかというと、採掘するためには、森林があれば森林を伐採し、表土をはぎ、じゃまな石は捨てなければいけない。そういうWaste Rock(ズリ)が大量に出る。それから、鉱石だけを取って精錬に持っていくのだが、選鉱工程で発生する尾鉱(テーリング)が膨大なものになる。例えば露天掘りの鉱山は、金の含有量が1トン当たり0.3~1gしかないところを掘っているから、1g入っているとしても99万9999グラムは廃棄物になる。いかに環境へのインパクトが大きいか。これをやめろといっても、工業化社会を支えるにはしかたがないという論理である。そして、選鉱工程ではシアン化ソーダなどの有害化学物質を使うので、河川や海洋汚染が当然起こる。

 どういうわけか、発展途上国で有用な資源があるところは、先住民が住んでいるところが多い。例えばオーストラリアでも、ウラン、金、ボーキサイトなどの鉱山はみんなアボリジニの居住区の中にあり、彼らの生存権が脅かされている。また、そういう不満からストライキ、暴動が多発している。来月4日から10日間ほど、ニューカレドニアの世界最大のニッケル鉱山の開発をしているところに行ってくるが、そこは4月1日から3週間、暴動で工事がストップした。今もまた1600人の従業員のストライキが起きて止まっている。ニューカレドニアはフランス領だが、フランス本国の環境規制がここでは全くない。今度開発しようとしている南の端の鉱山は、自然遺産に登録申請しているところのすぐそばにあり、すでに影響が起きている。

 世界最大の金鉱山、グラスバーグ鉱山は、パプアニューギニアのインドネシア側の標高4000mのところにあるのだが、衛星写真を見ると氷河が写っている。赤道直下で氷河があるようなところのすぐそばで、先住民が神様とあがめる山を掘っているのだ。そういう人たちが反対して暴動を起こすと、インドネシアの正規軍が来る。これはアメリカのフリーポート・マクモランという会社が雇っている。

(B) あれが露天掘りなのか。

(谷口) 上に山があったのだが、木を切り、表土をはいで、今はくぼ地になっている。

(B) 原野ではなくて山だったのが、くぼ地になったということか。先ほどおっしゃったズリは、どこに置いているのか。

(谷口) ズリは400トン積みぐらいの大きなトラックで谷に落としていく。そうするとこれが川に全部流れ込む。ここではズリが1日30万トン、1年間に9000万トンぐらい出るので、1988年時点ではまだ何ともなかったが、2003年には川の両側の熱帯雨林がどんどん立ち枯れをしている。もちろん生物も影響を受ける。フリーポート・マクモランの三つの罪(天然資源の収奪、生態系破壊行為、操業中の脱税行為)を最近は政府の高官も言い始めている。

 パプアニューギニア側の標高2000mのところにあるオク・テディ鉱山は、BHPビリトンが52%の権益を持って採掘していたが、あまりにもテーリングを川に流したために暴動が絶えず、とうとう撤退を余儀なくされた。テーリングにはクロムなどの重金属が含まれていて、それを1日に十数万トンも川に流していたのだ。テーリングというのはダムを造って流れ出ないようにするのが常識なのだが、採掘量が1年間に1億6500万トンにも上るし、地震も雨も多いのでそんなことはできないから川に流す。周辺の熱帯雨林がどんどん枯れる。これにたまりかねて暴動が起きるということである。

 1トンの銅を取るために1900トンの廃棄物が出るが、日本に持ってきて精錬する段階以降で出る廃棄物は少なく、ほとんどは産出国で廃棄される。金は1トンに0.3~1グラムだが、銅はもう少しよい。世界の100の鉱山を全部調べてみたところ、先ほどのグラスバーグ鉱山が世界最大で1億6000万トン生産しているのだが、露天掘りの鉱山だけ見てみると、金は1トン当たり1.0グラムとか、0.9、0.7、0.6、0.3グラムしか含まれていない。あとはみんな廃棄物になる。

 次に、日本産業のアキレス腱がレアメタルである。飛行機でも、パソコンでも、携帯でも、原子力発電所でも、それを作るのにいかに多くの金属が使われているか。1トンの携帯、つまり1台100グラムとして1万台の携帯を集めてくると、その中に280~300gの金が入っている。掘っているのは1トンに0.3~1グラムという含有量だから、これを回収して完全にリサイクルするのがいちばんよいことが分かる。

 液晶にはインジウムというレアメタルが絶対必要である。ところが、そのインジウムが中国にほとんど押さえられている。中国が機嫌を悪くするとインジウムは入らないし、タングステンも入らない。そのかわり中国はニッケルがないから、胡錦濤国家首席と温家宝首相が二人三脚で世界じゅうを飛び回って資源外交をしている。日本の場合、世界におけるニッケルの消費シェアが14.9%まで行っている。世界の中で14%も日本が使っているということだが、ニッケル鉱山は金よりももっとすさまじい自然破壊を起こす。

 ニューカレドニアには今ニッケル鉱山が13あるが、ニッケルは表面から10~15mぐらいしかない。それを掘るために表土をはいで、10mぐらいだけを掘る。山の上だから、埋め戻すといっても不可能である。こうしなければ掘れない。雨が降るとどうなるか。森は生物の多様性が豊かで、海は珊瑚礁に囲まれているが、それが大変なダメージを受ける。

 世界の鉱物資源採掘量は、金、銅、鉄鉱石、石炭だけで年間565億トン、これにその他の非金属鉱物資源を加えると1000億トンを超える。露天掘り鉱山よりも、坑内で掘るほうがコストはかかるけれども、品位の高いところを掘ることになるので環境破壊が非常に少ない。しかし、今まで述べたように、あまりにも自然破壊が無視できなくなってきているということで、世界銀行が鉱物資源採掘におけるガイドラインを出している。これはどういうものかというと、まず、開発プロジェクトによって直接影響を受ける地元住民、先住民に対してこういうことを考慮する、それから非鉄金属鉱山のテーリングの河川への投機は認めない、また、深海テーリング投機法による海底投機は、安全性が完全に証明されるまで実施しないといったことである。世界銀行が何を言っても鉱山開発が止まるわけではないのだが、一応こういうガイドラインを出している。

 最後の結論だが、では国益と地球益のはざまで、わが国はどうしたらいいのかというと、「スイカ縦割り理論」に基づく資源戦略と外交をするということだ。地球をスイカに見立てて縦に四つか五つにスライスすると、資源がホモジニアスな分布になる。したがって、資源戦略と外交は、どうしても手に入らないプラチナなどはしかたがないから東西でやればいいけれども、基本は南北でやりなさいという考え方である。

 そうすると、おのずと外交の基軸は中国、あるいはオーストラリアということになる。ところが、大変なことに、日本のソースをみんな中国に取られている。去年4月16日に豪州のハワード首相が日本に来て、中川経済産業大臣とFTA交渉に入ろうとしたが、農水省の反対で全然話にならなかったので、その足で中国に行って温家宝首相に会い、即座に農業と資源協力の交渉をしようという合意に至った。その直後、4月18日に、豪州のニッケルとウランで最も強いWMCから、住友金属鉱山が1967年に調達を開始して10年ごとの長期供給契約を更新していたのを供給停止にする、中国を優先するといって大幅な値上げを要求されたらしい。

 それから、2005年11月にはパプアニューギニアに温家宝首相が行って、ニッケル鉱山の権益を85%取得した。さらに、2006年4月4日には欧州とウランの輸入合意をし、2006年5月10日には中国がタングステンと銅とマグネシウムの輸出規制を行った。そして、住友金属鉱山と三井物産がニューカレドニアのニッケル鉱山開発に400億円出して、20%の権益を取得した。

 なぜ中国と日本はこのように資源で競合しなければならないのか。何か協力する方法があるのではないか。そう簡単ではないが、いずれにしても「スイカ縦割り理論」でロシアと協力し、中国と協力し、オーストラリアと徹底的に仲良くする。日本の今までの戦略と外交を「スイカ縦割り理論」で考え直すことが必要ではないだろうか。

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2006年度東京大学大学院講座
マネジメント研究事例-日本海学の構築をめざして-

「日本海学の広がり」

講師 東京大学 前教授
中井 徳太郎 氏

日時 2006年10月31日(火)

 立山の美女平から徒歩で登ると、中腹(1100~1300m)辺りに立山杉とブナ林が自然の形で群生している。日本海の循環系の中でこそ存在する、1000年の時間を超えて生き続けるものに触れたときのリアルさや重み。それがある種、環日本海の象徴であり、命である。これが日本海学を7年続けてやってきた、私の今のところの到達点の心境だ。

 環日本海の大気の循環は、黄砂なり雲となって現れる。また、水は液体、固体、気体に自在に変化する。大陸にはヒマラヤまで続く山脈があって、インド洋から上がってくるモンスーンが吹き、日本海を経て、日本海側に雪や雨を降らせる。

 立山の「雪の大谷」では10m以上の積雪があるが、環日本海の雪は海の水蒸気が凝固したもので、黄砂の風紋が何重にも入っている。そして、夏になると立山連峰のふもとに黒部川扇状地が現れる。立山の雪解け水が黒部川に流れ込み、洪水になったり暴れたりしながら富山湾に注いで築かれた、典型的な扇状地だ。人々はそこに住んでいる。

 能登半島から望んだ海越しの立山の景色はつとに有名で、雪を頂いた立山連峰を見て人は美しいと感じるわけだが、その中に立山杉なり命がある。これらはすべて循環系なのだ。

 黒部川の扇状地とは反対側の、能登半島に近い砺波平野に夕日が沈む風景は、まさしく自然であり、かつ人の手が入った世界である。春の時期、水田には水が入り、屋敷林に囲まれた農家が点在している。屋敷林の落ち葉は、江戸時代から明治になってしばらくまでは、煮炊きや風呂を沸かすのに使われていた。つまり、太陽エネルギーで育ち、1年かかって落ちた葉を生活の中で燃料に使って、また来年育ったものを使うという循環系を成していたのだ。水も立山連邦から流れた水が入り込んでおり、屋敷林の中には庭があって、その中にはモリアオガエルがいる。

 しかし、現在はどんどん電気・ガスが入って、昔は貴重な燃料だった木が、今や庭に落ち葉が落ちて手に負えないということで、住んでいる人にはじゃまものになってしまっているという流れもある。一方で、きれいな景色を残そうという地元の動きもあって、二つの力が今、均衡している。このように、自然とともに生きる暮らし方、すごくきれいな風景が、写真を見る限りではまだ残っているようだけれども、大きな問題意識として、成長の限界論という言葉でいわれているが、このままでは立ち行かないというのが、今、我々が直面し、認識しなければいけない問題だということだ。

 工芸村オークヴィレッジをやっている稲本正氏によると、人が呼吸するには1人当たり16本の木があればいいが、文明的な生活をするエネルギーを木に換算すると375本必要となり、アメリカ的な生活をすると797本要る。これがまさしく森林破壊につながると言っている。

 一方で、「逆さ地図」の対岸の、日本海を越えたアジア、中国では今、揚子江と沿海地域が大発展している。その中でも特に広州の珠江にできたメガポリス、揚子江の上海周辺の長江デルタ、北京、天津辺りのメガポリス辺りに巨大都市空間が現出し、そこに13億人の人口移動が起きているというのが、お隣、中国の実情だ。13億人のうち、今のところ8億人程度が農村人口、4億人強が都市人口ということだが、10年後にはそれが逆転するという推計もある。中国の人口移動のマグニチュードは日本の10倍の規模で起きているわけで、日本の昭和20年代後半から30年代の高度成長期に起こったことが、今、中国で起きているともいえる。日本では都市部への集中を分散化しようという政策を産業的にも通産省が取り、国土計画上もいろいろやろうとはしたが、なかなかうまくいかなかった。それでも中国は、まさしく今起こっている人口移動の局面で、日本に学びたいという思いが非常に強い。我々が今つきあっている国家発展改革委員会のトップの人々も、どうやれば持続的にこの20年間を乗り越えられるのかを教えてくれと言っている。

 日本海学というのは、まさしくそういう思いから、我々が7年前に富山で立ち上げたものである。地元というか、日本全体を含めて東アジアにはいいものがあるが、それが今危機に瀕しているという問題意識にどうアプローチしていくかというのが、その考え方のフレームワークである。当初は、海とそれを取り囲む日本海地域の循環を共生体系としてとらえ、人と地域、自然環境のかかわり、地域の人同士のかかわり、一定の時間軸の中で繰り返されてきた循環共生システムを学んでいきたいということだった。そして、そこからいろいろな問題を予測したり考えたりして今ある問題の解決策を導き出し、将来、子孫に健全な地域を引き継いでいきたいと考えたわけである。

 日本海学を出したときに、一つ効き目があると感じたのは、地図が逆さになっていることで、まとまりを視覚的にとらえられることである。我々はとかく島国の発想で、元寇のときに日本では神風が吹いた。第2次世界大戦のときも神風特攻隊で救われると信ずるという、精神的に特殊な国になってしまった。しかし、「逆さ地図」はそういう特殊な意識を打ち破って、大陸とつながっているということを視覚的に訴えている。したがって、我々は①地域のことをトータルで考える視点としての広い意味での循環。そして、②自然とも仲良くやるし、人同士も仲良くするという意味での共生。③陸という視点に偏っているところを海から見つめ直すという三つの視点を明確に打ち出して、この「逆さ地図」が与えてくれるアジアの問題に総合的に切り込んでいこうとしているわけだ。

 例えば北朝鮮の問題は、日本海学的にはどう考えるか。私のアプローチは、金正日の現体制が壊れたあとの北朝鮮にいる3000万の人とどうつきあうかという視点を、日本海学で出していくということだ。北朝鮮がいずれ開かれ、難民が1000万人くらい来る可能性もある。そのとき、我々一人一人が直面しなければならない人と人との出会いがある。そこをうまく折り合いをつけていける我々の心構えを作る必要があると思う。そこで、日本海学を立ち上げた当初から、ここから21世紀の新たなパラダイムを出そうということをうたって、あえて大風呂敷を広げている。「直線的文明観から循環的文明観へ」というのは、森の文明の創造ということで安田先生とともに7年前に作った方向性であるが、やればやるほど循環というもの、命という言葉が、大きく重いものになってきたように思う。

 ゴミの問題も教育の問題も、1億2000万人の人がそれぞれ納得して、一つ一つ積み重ねた中で解決しなければならない。上澄みの部分で法律になったり、国会で決議したりということはあると思うが、政治家が何か決めれば世の中が明日からぱっと変わるわけではないのが現実だ。そうした中で、どうやってみんなが直面している大きな問題に気づき、行動していくことを可能にできるかが私の大きな関心事だ。私はずっと役人をやってきて、富山県から2002年に財務省に戻り、官房では産学官の連携の問題や中国との政冷経熱の問題も扱ってはいるが、その思いは今も続いている。

 そして今、一つにはNPOという仕組みでアライアンスを組むことが、遠回りなようで近道なのではないかと強く思っている。そこで、時間軸で言うと最初に「日中産学官交流機構」という中国向けのNPOが2年前に正式オープンし、今、活動している。また、高齢化や医者不足など、日本が先進国の中でモデルケースになりうる形で大きく悶絶している問題がある。これに関するNPOも、「健康医療開発機構」としてこの夏に立ち上がって歩み始めた。そしてもう一つ、経済活動が自然調和型になることを考える、生態系と経済活動とがどう折り合いながらやっていくかという問題を突き詰めようということで作ろうとしているのが「ものづくり生命文明機構」で、日文研の安田先生の21世紀環境・経済・文明研究会を母胎にして産声を上げようとしている。

 私はこの三つともにかかわっているが、その思いは日本海学でやってきたものを継承している。すなわち、アジアを大きくとらえ、日本を見つめ直し、時代の転機に直面している問題をおさらいし、何とかポジティブな形に軌道修正するためのプラットフォームがこの三つのNPOだと思っているわけだ。NPOは、既存の組織を越えた産学官の人のシナジーを生み出し、産業界、アカデミア、役人など、いろいろな立場の人がつながることを可能にして、お互いのメンバーシップをある種の法人格という形で確認できる。

 「日中産学官交流機構」にはもともと火種があって、長岡實さんという東証の理事長をやった大蔵省のドンだった人が、科学技術の関係で中国と組んだ任意団体が、5年たってこういう形に衣替えをしたものだ。中国は肩書を大事にする国であることから、日本電気の会長や東京海上の石原さん、新日鐵の千速さんなど、大物の財界人にかかわっていただいてきたが、長岡さんが旗を振っても役所の現役やOBがついてこず、浮いていた。そこをてこ入れして、今回は通産の元次官の福川さん、副理事長に中国大使であった外務省の佐藤さん、大蔵省の保田さんに理事長になってもらい、国土交通省の青山元次官や農水省の高木勇樹御大に入っていただき、各省のドンといわれるかたがたを網羅した。大学も早稲田、慶応、東大が入った。大きく産学官が団結して動くプラットフォームとして、確かに産学官の非常に重厚な顔ぶれがそろい、お墨付き上は文句はないが、皆それほど暇ではないので、実際にこれがワークするかどうかはこれからというところである。

 活動分野としては九つくらいあるが、活発に動いているのは都市のところで、2010年の上海万博を目掛けて、サステイナブルな形で都市の問題に何とか方向性を出そうとしている。一方で、環境、農業ということで、もちろん農村も入ってくるが、環境やバイオマスを中心にやろうとしている。また、最近は留学生で中国に戻っていろいろな分野で頑張っている人もいる。そういう親日派のかたともう少しきちんと組んでやる機会を作りたいということで、北京大学の学生と東大の学生との交流など、将来へ向けての布石として国連大学のウタントホールなどを使った大きいイベントもかなり頻繁にやっている。

 また、こうしたことが具体的に展開する中で、国家発展改革委員会という中国の5か年計画を作っているトップのかたがたとの友情関係ができているし、農業部や個別の役所のトップともつながるようになっている。中国では今年の3月に5か年計画ができて、都市のメガロポリス構想を国家計画に位置づけ、それをある種管理というか、持続的な形にどう持っていくかという視点で政策を打とうとしている。今年の5月にその国家発展改革委員会のメンバーが東京にやって来られたのだが、会議のあと富山に行って立山杉を触ってもらった。そのときの私の思いは、上海の人工的な都市空間では、これからまだまだビルが建つだろうが、日本の最先端はもう舵を切っているということを、あえて中国のトップに言いたいということだった。

 もう一つの「健康医療開発機構」は、8月4日に経団連会館でお披露目をやった。基本的に北から南まで、医学部の病院長や医療部長などを中心に、いろいろなかたに入ってもらっている。今、日本では医者が足りない、偏在しているという医療の問題や、高齢化や健康の問題もあるが、それ以上に問題なのは、日本で研究がなされたものが薬になるというシステムが空洞化していることだ。研究論文で素晴らしい評価を得た研究の種が海外流出してパテントになって、製薬会社が逆輸入している。それが高い医療費に結びついているので、これを何とかしなければいけないということで、国内の力を合わせて、よい研究シーズに肥料もやり、水もやって、ちゃんとものになるところまで育てて出荷しようということである。

 基礎研究の人からベンチャー的な事業家をやられるかた、毎日患者さんとつきあっている病院の先生など、いろいろなかたがいる。また、厚労省だと病院の先生のメンバーに近いところ、文部科学省は基礎研究に近いところ、通産省だと難病支援などにもかかわってくるが、そういった今までは全部ばらばらだったものを一つにつなげ、地域に偏在している人をネットワークで結ぼうとしているわけだが、医者の世界は難しい。ふだんから研究費の取り合いをして、けんかばかりしている。そういう意味で理事長には医学関係者ではない柳田先生というナノテクの材料系の日本のトップのかたになっていただいた。また、医者の利益団体ではなく、大きな視点で医療医学をやるところだということを確認し合う意味で、安田先生にも理事に入っていただいている。

 極めつけは、今、作ろうとしている「ものづくり生命文化機構」である。今日は、そういう意味では三つのNPOの事務局関係者がそろい踏みした、記念すべき日だと思う。これは去年、21世紀の環境・経済・文明という研究会が立ち上がった中で、ほかの二つの動きをにらみながら、NPO化して、ものづくり、地域起こしなど、何でも共通してアクションできる大きいプラットフォームを作ろうということでできたものだ。

 その目的には、「人間が自然を支配し、自然資源を限りなく使おうとすることによって、社会の真の生活の豊かさを追求することを忘れ、人類の生存を脅かすようになるという認識に立ち、命の原点に立ち戻り、人間が自然に感謝と畏敬の念を持ち、命の循環と生態系を尊重することが、経済と環境が両立する持続可能な文明パラダイムを創出する基礎であると確信し、自然と人間が共生する価値観が社会に浸透することを望む。自然に学ぶものづくり、もったいないを実践する文化。森・里・海の循環と風景を守る地域など、持続可能な文明社会を世界で享受することができように、関連する分野に関し研究調査を実施するための研究活動の場の提供、情報の収集及び提供、施策提言、その他これらの推進に関する事業を行い、もって人類が自然に感謝して、幸福に営々と生存することに寄与することを目的とする」と、まさしく大きな舵取りが迫られた人類のパラダイム転換を正面からうたっている。この趣旨に賛同する各界の人が集まって、実際にやってしまおうという、非常に大胆不敵な動きである。このこと自体は、ROHASなどいろいろ現象的にも出ているし、同時多発的に気づきの世界が現実にいろいろなアクションとして生まれている。

 以下は今後、「ものづくり生命文化機構」ができてからの話になるが、イメージとしてこの三つNPOが重なっていることを具体的に例示してみよう。

 「ものづくり生命文化機構」の大きな分野であるネイチャー・テック(自然に学ぶものづくり)では、医療・農業系も含めて、健康によいものを具体的に薬までどう結実させるかとか、健康法として何を確立するかということは、安全性、有効性を確立する医療の世界との連携がなければ、ものづくりの世界からの後押しはできない。反対に、いろいろな医療機器のアイデアは、医学よりも、むしろ工学や農学などいろいろなところから来るわけで、そういう意味でもつながってくる。

 また、今や健康もアジア次元で考えざるをえない。薬の開発をより効果的に安くするには、遺伝子の類似性が明確になったアジア、特に中国と薬の開発を連携するなど、いろいろなことがこれから起きてくる。そうすると、先ほどの日中機構のライフサイエンス部門とつながってくる。そして、ものづくり系の関係から日中機構の連携のことを言うと、まさしく上海の都市開発、メガロポリスの問題をやるときに、「ものづくり生命文明機構」という名前でいきなり中国政府に行っても、中国政府とのパイプがないが、幸いに先行して中国政府と完全に心を許し合う世界を形作った日中産学官交流機構というプラットフォームを使うことができる。

 では、NPOは三つしかないのかというと決してそうではなく、これはあくまでもプラットフォームであるから、例えば昨日も霧多布という釧路と根室の湿原のナショナルトラストをやっているグループが、ぜひ一緒にやりたいと言ってきている。また、私は週末、金沢と富山に行って、「フューチャー500」の木内さんという三菱電機のアメリカ法人の社長を務められたかたの全国展開についてお聴きしてきた。金沢大学でも、大学の構内に白山麓の旧白峰村の300年を超えた木の家を移築して、そこで里山復活活動として地元の人と一緒に田んぼも畑もやっている。また、その運動が能登まで広がり、能登の先端の珠洲にある廃校になった小学校が金沢大学のグループに譲り渡されて、そこでも里山の研究をしている。また、21世紀の環境・経済・文明では、豊岡用水の流域管理の市民グループとも連携しようとしているところである。

 このように、日本全国にとどまらず、国境を越えていろいろな取り組みがあるし、シニアの人々の取り組みも学生の取り組みもある。それを法人格でやるところもあるし、任意団体でやるところもある。「ものづくり生命文明機構」が、そういうもののある種よりどころとなればと思っている。じわじわ交わり合いながら、みんながこれは自分のものなのだとふに落ちる形に5年くらいかけてしていきたい。みんながこの4年間きっちりやって、日本はこうして21世紀を乗り切れるのだということをいろいろな分野で見せる。森林破壊への対応をみんなでやるとか、里山の復活もあるし、自然資源の保護もあるし、医療の問題もあるし、都市の問題もある。いろいろなところでのいろいろな動きを、持続可能な基本的文明パラダイムという大きなパッケージとして日本から出して、上海万博くらいに大きなイベントを打ってぶつける。それぐらいのことは、役人もたくさん入っているからできると思う。背伸びしてみても、結局、できることしかできない。そこから始まって、理想に向かってやっていく。絶対にできるという思いがつながっていくと、絶対にできるということなのではないかと思う。

 今回は、私が役人だということもあって、一緒に絡んでいる人も役人が多い。霞ヶ関の閉塞感は未だにある。2001年に省庁を再編してみても、縦割りで動きがとれないということだと思う。組織の中で大きな問題にぶち当たったとき、霞ヶ関を見限って選挙に出て政治家になるという流れがある。それはそれで一つのやり方ではあると思うが、だれかが地道にやるべきではないか。もちろん、政治家がちゃんとしてもらわないと法律も通らない。国会、行政、司法、三つとも大事だ。しかし、役所が日本のシンクタンクとして合理的に有効に機能するには、役所の中に居て、認識を改めることが必要ではないかと思っている。

 週末に田植えや稲刈りをしたり、間伐材の処理もするという地道な取り組みを続けていくことはけっこう大変なことだが、それが健康管理になり、医療費削減につながっていくとなれば、地位も権力も要らなくなった団塊の世代は、そういう選択をするのではないだろうか。また、若い人の問題意識はもっと深刻だ。そういう世代の人と目線を合わせながら、組織から逃げず、根こそぎ組織を変えてしまうくらいのことをやるくらいの気持ちで、できる範囲で、しかしできないと絶対にまずいぞという強い確信を持ってやっていかなければいけないと思っている。

 毎年、富山県が日本海学の本を地道に出してくれているが、続けることはすごく大きな力になる。ムードで広がるのとは違い、じわじわとした形で広がっていき、定着していく強さがある。私はこれからも山にも海にも森にも入り、都市という空間を見つめ直すということを、体験重視型、現場主義でやっていこうと思っている。

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2006年度東京大学大学院講座
マネジメント研究事例-日本海学の構築をめざして-

「ネイチャー・テック-自然に学ぶものづくり」

講師 東北大学大学院環境科学研究科 教授
石田 秀輝 氏

日時 2006年11月14日(火)

 私は会社時代、ものづくりとは何なのかということをずっと考えていた。環境問題についてどんどんいわれてくると、ものを作ることと環境を考えることに企業の中で自己矛盾が起こる。その自己矛盾は一体何なのかということを考えた結果、ものの作り方を本質的に変えるべきではないか、それで営利目的の企業が成立するのだろうかといったことをしばらく考えていた。今日は、ほんの一部だが、その考え方をお話ししようと思っている。

 実は、経済産業省の技術戦略マップを絵にしたものがある。その絵を見て、恐らく30年前だったらわくわくしていただろうが、今はだれが見ても「こんな時代は来ない」と冷めている。何もかもすべてロボットがやってくれるようなことはしたくないと本能的に感じているのかもしれない。この技術戦略マップは恐らく世界最高のものだが、これがすべてうまくいくと、おかしなことになってしまう。これにフィルターがかかって、何かはやるべきだし、何かはやめるべきなのだが、そのフィルターとは一体何なのかというところが明解ではない。ここに非常に大きなものづくりの難しさがあるように思う。

 いちばん大きなフィルターは、環境問題であろう。我々は、地球が生み出す環境サービス、生態系サービスがあって初めて生きている。ところが、今そのバランスが完全に崩れている。この部分をきちんと理解し、地球はワンプラネットだという意識を持たないことには、この問題は解決できないだろうというのが私の基本的な考え方である。

 環境問題とは一体何かということで、例えば少子高齢化社会と環境問題について少し考えてみたい。出生率が1.30の状態だと、日本の人口は100年後に4000万人、900年後には36人になってしまう。もう一方の高齢化という話では、このままでいくと2050年に65歳以上が37%ぐらいになり、そのほとんどが都市に集中してくる。

 では、家族形態はどう変化するかというと、1980年代は夫婦と子供の世帯がいちばん多かったが、2020年には夫婦二人暮らしや一人暮らしの世帯がものすごい勢いで増えてくる。これに伴って、日本の人口は今年から明らかに下がってきているにもかかわらず、総世帯数は2015年ぐらいまでは伸び続ける。四人暮らしが一人暮らしになっても1世帯の消費エネルギーは半分ぐらいにしかならないから、トータルのエネルギー消費は40%ぐらい伸びる。個人1人当たりのエネルギー消費も増えている。この状態でいくと、2012年のマイナス6%の約束までに家庭のエネルギー消費はプラス40%ぐらい進んでいくことになる。

 これを根本から考え直さなければいけない。例えば、2030年になってもふろには入りたいだろう。しかし、水は使えないし、エネルギーも使えないから、水の要らないおふろを作らなければならない。そういうおふろに入りたいかといったら、だれもそう思わないだろう。それには二つの大きな理由がある。一つは、こういうテクノロジーが本当に成り立って産業として受け入れられるのか、もう一つは、社会がそういうものをよしとして受け入れられるだけの情勢になっているか、そういう社会に変えられるかが疑問である。この二つがセットにならないと、新しいものづくりは起こらない。

 そうすると、今我々が考えなければいけないものづくりの在り方の原点は何か。テクノロジー、あるいはものづくりの企業は、生活者の欲を満足させるためにいろいろなものを作り続けている。けれども、それが過剰にならない、あるいは違う方向に行かないようにシステムという抑制効果が働いている。今までこの三つが極めてバランスを取って産業あるいはテクノロジーは発達してきた。ただし、それは無限の地球資源を土台にしていた。

 我々は今、地球資源が有限であることを知っている。それも、2030年ごろに危機的な状態になることがだんだん見えてきた。だとすれば、テクノロジーの在り方と生活者の在り方の関係を変えていかなければいけない。ただし、生活者はやはり欲を持つ。この欲の方向を変えないとテクノロジーは存在できない。そして当然、それを法的な規制や政策的な誘導がもっと積極的に引っ張っていかなければいけない。そういう新しい三角形の形を作らないとだめだろう。

 では、今申し上げた環境問題とは一体何なのかを簡単に見てみよう。環境問題はいろいろあるが、基本的には、ものすごい勢いで人が増えていることと、ものすごい勢いですべての国が先進国になろうとしていることの二つである。世界の人口は今年65億を超えて、2050年には90億~94億になる。一方で、経済成長イコール猛烈な資源エネルギーの消費が起こってきている。日本が先進国の仲間入りをしたとき、1人当たりのエネルギー消費は2万9000キロカロリーから一挙に8万4000キロカロリーに上がった。それと同じことをインドや中国がやっていることになる。

 では、地球の大きな枠で見たときに、環境という制約に何が起こってくるか。その定量的な物差しの一つが、エコロジカルフットプリントである。これは、食糧を作るだけではなく、二酸化炭素の吸収、エネルギー資源の移動など、我々が生活するのに必要な土地や海の面積を計算する方法で、例えば63億の人たちが生活するのに必要な土地の面積は135億ヘクタール、1人当たり2.2ヘクタールの土地があれば暮らせるということである。

 ところが、地球の環境サービスは、残念ながら1人当たり1.8ヘクタールしかなく、0.4ヘクタール足りない。ということは、浄化も含めていろいろなものがキャパを超えているわけだから、その超えた分が上積みになって地球の環境状態を劣化させていく。その一つが地球の温暖化である。二酸化炭素の濃度が上がっていき、結果として温度が上がるという状態が起こっている。1~2度の温度上昇で異常気象が増加し、2~3度上昇すると、陸上の生態系に非常に大きな影響を与える。例えば、森の移動速度は年間約400m、マックスで1kmぐらいだが、100年で地球の温度が2度上がると、1年間で3km移動しないとそれについていけない。

 そして、3度ぐらい上がると、ポイント・オブ・ノーリターン、引き返すことのできない気候崩壊が起こるといわれている。実は、地球の気候は、3000m、4000mもの海底で3000年ぐらいかけて深層水が大きく循環していることによるのだが、それは北側の海の冷たい水が落ち込むことで動いている。温暖化すると、この循環が停止するだろう。去年のイギリスのサミットで、ブレア首相がヨーロッパは温度の上昇を2度に抑えるというサミット宣言をしたのも、何とか2度に抑えなければいけない、そうでないとポイント・オブ・ノーリターンを迎えてしまうということなのだ。

(A) 気温が上がると海底の循環が止まるのに、陸上の植物の移動は速くなるのか。森林の移動というのは何なのか。

(石田) 森林は移動しなければいけないのに、それができないということだ。温度が上がると、針葉樹の森はどんどん北へ逃げなければいけない。虫たちも逃げなければいけない。虫も移動が始まっているが、そこに高速道路や町があると昆虫は移動できない。それで種の絶滅速度が相当上がっているというのも事実である。

 要するに、キャパを超えて我々が生命維持活動をしている結果として、そのキャパを超えた分だけフィルターの目詰まりが起こっている。その目詰まり分を解消するために何をしなければいけないかということで、例えば二酸化炭素を見てみると、現在380ppmだが、ほかの温暖化ガスも含めると425ppmになる。温度の上昇を2度に抑えるためには、これを550ppmに抑えなければならない。ではどうするかというと、今、私たちが人為的に出している二酸化炭素の量は年間62億トン、海や陸地が吸ってくれているのが30億トン、残り32億トンが大気にたまっていくのだから、二酸化炭素の排出量を半分にしなければならないということだ。しかし、もしそれがうまくいっても、大気の温度が安定するには数世紀、海面の上昇が収まるには数千年かかる。その間、我々はまだいろいろなものを残していかなければいけない。そういう引き金をすでに引いてしまったということである。

 では、我々はどのようにものづくりを変えていくのか。ものを作らないというのも一つの選択肢だが、人間は生活価値の不可逆性というものを持っていて、今よりもちょっとだけよくしたいという欲望の遺伝子を抑えることができない。その部分を少し考えて、ではものづくりに必要なソフトの部分は一体何なのかという話をする。

 例えば、今、プリウスという環境対策車がすごく売れている。しかし、一方で、3リッター、4リッターの大きな車がどんどん出ていて、そちらのほうがけた違いに多いために車の平均の燃費はかえって悪くなっている。エアコンも、90年から比べれば40%以上効率が上がっているが、家庭のエネルギー消費はすごい勢いで増えている。こういうジレンマを我々はいつも持っていて、それを理解せずに環境のことを議論しても結論は出ない。

 例えば、お米1kgが持つエネルギーは3400kcalである。これを取るために投入するエネルギーは、江戸時代は230kcalだったが、20世紀に入ると10倍の2300kcalを投入している。江戸時代は、道具といえばすき、くわだけで、人間が汗水たらして働いたが、今はトラクターが稲刈りをしてくれる。そのトラクターのタイヤはゴム、フレームは鉄、ボディはエンジニアリングプラスチック、エンジンはアルミニウム合金で、すごい電子デバイスをいっぱい備えている。その結果、10倍ものエネルギーを使わないと同じエネルギーが取れないということになってしまったのだ。

 では、また江戸時代に戻って、すき、くわで汗水たらして働くかといったら、絶対にノーである。携帯電話にはレアメタルがいっぱい使われているから、10年前のことを思って携帯がやめられるかといったら、やめられない。生活価値の不可逆性である。人間は一度得た快適性や利便性を容易に放棄できない。放棄しようと思うと、つらいとか、悲しいとか、ネガティブに心を痛める。そういう遺伝子を唯一持っている種だからこそ文明文化が発達してきたのだが、物欲に関しては、それは非常に発散型の方向に行っている。

 だから、これからの新しいものづくりや暮らし方に必要なファクターは、もちろん循環型社会を作るという環境の切り口は絶対避けられないのだが、それだけを一生懸命やれというなら、ものを作らないのがいちばんだ。しかし、環境のほうに重きを置きながらも、生活価値の不可逆性も肯定するような新しい考え方、両方肯定するものづくりや暮らし方ができれば、我々はその方向に行くはずである。それを、精神欲をあおるものづくり・暮らし方と定義したいと思う。

 我々がものを作るということは、どんなに言い訳をしようと必ず地球に負荷をかけている。その結果、人間にとって快適性や利便性のある新しいパフォーマンスを作っている。それならば、新しいパフォーマンスのほうが地球にかけた負荷よりも大きくなるようなものづくりをしなければいけない。しかしそれは簡単なことではない。昔はちょっとした地球への負荷でものすごい価値が生み出された。例えばエジソンが発明した白熱球は、石油ランプに比べて何倍も明るい光が安全に遠隔操作で使えるという「目からうろこ」の発明だった。ところが今、この5~10年で「目からうろこ」の新技術がどれだけ出てきただろうか。

 今進まなければいけないのは、負荷を下げて価値を生み出すという、従来とは全然違う方向である。そういうものづくりをしなければいけない。もちろんパフォーマンスそのものの価値観は変わってきている。従来の、このスイッチを押したら何ができるというフィジカリーな価値観から、メンタリーな価値観へと変わらなければいけない。

 そうすると、例えばエネルギーや資源の消費を考えるときに、何が変わってくるだろうか。2030年には今の約1.6倍のエネルギー資源を使うことになるから、それに備えた創エネルギー、省資源・省エネルギー技術を作ろうというのが今の戦略である。これは、生活者は今までどおり暮らして、足りない部分は新しい技術で補うということだが、エネルギー自給率4%のわが国は、何かがこけたらばたばたとやられてしまうかもしれない。私たちはこれから、精神欲をあおる方向、生活者そのものが資源やエネルギーを使わないことを格好いいと思い、それを補完するように省資源・省エネルギー、創エネルギーが存在する、総体としてエネルギー消費が小さくなっていくという新しい物の考え方に移らなければいけないのではないかと思っている。

 では、「もったいない」が格好いい文化とは何だろう。まだよく分かっていないが、それは恐らく日本でしかできない。日本人が独特に持っている「粋」「わび」「さび」をもう少し分解して見ていくと見えてくるのではないかと思うが、そういう切り口から新しい価値観を生み出さなければいけないと思っている。

 「粋」を少しばらしてくると、テクノロジーの在り方というものが今までと随分違ってくる。例えば「大は小を兼ねない」。これは、エアコンが部屋ではなく人間をねらって温めたり冷やしたりすることでエネルギー消費を抑えるというようなことだ。それから、「セーブからレス」。少ない水でおふろに入るのではなく、水の要らないおふろを作る。「パーフェクトからベター」。あれもできる、これもできるではなくて、これができる機械。「物からサービス」、それから「長く使う」。これは長期間使える頑丈なということではなく、愛着のファクターが大きい。「ものに命を与える」。これは愛着とも通じるのだが、例えば修理ができる、磨けば光る。自分の手で一回修理したものは、なかなか手放さない。あるいは「自然の美に学ぶ」。こういう切り口の新しいものづくりが必要になってくるのだと思う。

 そういうものをどこから探してくるかという手法だが、新しい価値観を持っているサイエンティフィック・アドバンテージには、恐らく二つのドアがある。一つはアカデミック・アドバンテージで、地球にないものを作るという産業革命以来我々がやってきた新しい技術の手法、いわば神への挑戦である。これは決して悪いことではないが、生態系や生物の多様性にどういう影響を与えるか、安全・安心をどうやってチェックするかが極めて重要になる。

 もう一つのドアはナチュラル・アドバンテージである。自然生態系の循環はかんぺきなもので、最も小さなエネルギーで駆動されている。ここをもう一回サイエンスの目で見て、テクノロジーとしてリデザインするのである。例えば、サバンナ地帯のシロアリの巣は、気温が夜は0度、昼間は50度になっても中の温度は30±0.9度に保たれている。なぜこんな温度制御ができるのか、これが分かれば、無電源のエアコンができる。それから、あるチョウは、自身が色素を持っているのではなく、りん粉のひだが青い光だけを反射することによってきれいなブルーの色を出している。これをうまく使えば、ひだの幅をちょっと変えるだけでどんな色でも出せるはずである。

 このように、自然をテクノロジーの切り口で見ると面白いことがいっぱいあって、それをある形にすることで、我々はもっと新しいものづくりの形態を作ることができる。ただし、自然のすごさをそのまままねすると、ほとんどの場合、ものすごいエネルギー資源がかかる。そのまままねするのではなく、テクノロジーとしてデザインし直さなければいけない。それがないと新しいものづくりにならない。

 今、市場に出ているものは幾つかある。例えば、はすの葉は水がコロコロしてつかないことを利用して、去年、ナノスフェアという汚れない布が出た。たこを使ってタンカーを引っ張る実験もスタートする。こういうことは幾つか行われているのだが、今私がお話ししているのは、シーズがあって、たまたまそれを何かに使おうということが多い。それでは2030年までに間に合わない。

 今、私がやろうとしているのは、2030年の制約因子は、例えばエネルギーはこう、資源的にはこう、人口構成や世帯数の構成はこうだとだんだん見えてきたのだから、その中でどんな暮らし方ができるかを具体的に絵にかくという作業である。その絵の中から必要なテクノロジーを引っ張り出して、それを自然の中から探して来て、テクノロジーとしてデザインし直す。こういうシステムができるかどうかというトライアルをしているところだ。

 そういうことをやると、どんなものが見えてくるか。二つだけお話しすると、例えば、エアコンをどんどん効率化してもエネルギー消費が高くなるし、おまけにシックハウス症候群、アレルギー疾患が出てくる。そこで、壁や床や天井が家の中の温度・湿度を自動的に検知して自動的に制御する、それも無電源でやってくれるという材料で可能な限り資源・エネルギーを使わない作りにしようという命題が出てくる。

 それには、湿度が高ければ湿気を吸ってくれて、低ければ吐いてくれる材料を作ればよい。材料の中に3~7ナノメーターの小さな穴をたくさん作ってやると、自動的に呼吸してくれる。自然をノックしてやると、実は、土というのは必ずそういう穴を持っている。しかし高気密・高断熱のマンションの中に土を持ち込むには、固めなければいけない。これも自然をノックをすると、温泉地帯で石ができるテクノロジーがある。土に少量の石灰などを混ぜて、タイルのように成型して150度で蒸すと、呼吸する材料ができる。作るエネルギーはセラミックスの5分の1から6分の1である。それを床に使うと、温度・湿度はほとんど変わらない。だからエアコンを動かさない。結局、生活のエネルギーは20%削減できる。

 それから、汚れというのは大きな問題で、汚れを取るために大きなエネルギーを使う。では、汚れがつかない、あるいはついても取れやすい材料はできないかと考えると、自然の中には汚れないものはいっぱいある。ゴキブリ、コガネムシなどの昆虫類は分泌液を出しているが、何も出さず、汚れないのがカタツムリだ。カタツムリの表面をそのまままねするにはものすごいエネルギーが要るが、水と汚れとカタツムリの表面のエネルギーの差の関係を制御してやると汚れない表面ができるということが分かってくる。これがリデザインだ。

 自然から学んで、それをデザインして、新しいものに変換する。それも、まずニーズがあって、ニーズからぐるっと回るということができる。そういうシステムを作る。そういうシステムの中で、新しいものづくりというものを見直していく。暮らし方も恐らく変わってくる。それをセットで動かしていくことで、精神欲をあおる方向に持っていけるのではないか。

 最初のおふろの話は、実は泡を使う。泡はある大きさになると、破裂するときに超音波を出して汚れを取ることができる。泡は熱を運ぶこともできる。したがって、約3リッターの水を使うだけで体をきれいにすることができるし、温まることもできる。まさにセーブではなくてレスエネルギーだ。そういう思考回路から、いろいろなものが見えてくる。

 こういうものをネイチャー・テックと呼んでいるが、ただテクノロジーではなくて、それを生み出すシステムまで含めて考えたいと思っている。

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2006年度東京大学大学院講座
マネジメント研究事例-日本海学の構築をめざして-

「場所文化の創造に向けて
- 場所文化フォーラムの実践」

講師 ぴあ株式会社取締役
吉澤 保幸 氏

日時 2006年12月5日(火)

 今日は、私がかかわっている地域づくり、仲間たちとのこの間の歩み、今どんなことに取り組んでいるかということをお話ししたい。

 私は20年間いた日銀を、ちょうど8年前に辞めた。その後、自分でもいろいろと思うところがあり、学生時代に学んだ市民活動や市民政治、あるいはそれを環境と結びつけながらどう学べるかといったことを模索しているときに、たまたま十勝の後藤さんという人と出会ってこのフォーラムを作り上げ、今に至っている。私は20年間マクロ金融をやっていたので、このフォーラムの中ではどちらかというと金融とかビジネスモデルをどう作るかという役割を担いながら、仕掛けを作って動かしている。

 最初に、場所文化フォーラムの取り組みについてご説明する。4年半前、たまたま出会った後藤さんは、十勝の市街地の空き地になっていた駐車場を組合で借り上げ、そこを屋台にして活性化した仕掛け人の1人である。十勝という経済圏はどうやって自立をめざすか、そのために地域通貨を活用できないかということで、その熱意に打たれて始めたのがこの活動である。

 後藤さんは当時、商工会議所青年部の全国の企画委員長をしていて、地域の商工会議所青年部のかたがたとの交流があった。その中で、さまざまな地域の価値を発見して認識している人は多いけれども、なかなか外との交流が進まなかった。もう少し競争的な創出みたいなことはできないか。そのときにはやはり、都会にいる人間がきちんとその場所にこだわって、そういう流れの中で人との交流を責任を持ってやっていく。我々はレスポンシブル・ツーリズムと言っているのだが、責任を持った格好で、単なる観光ではない形での主体的なコミットメントみたいなものが大事ではないかといった話を1年ぐらいかけて議論した。

 今でも地域通貨が地域の活性化の流れの中で動いているところがあるが、なかなか成功しているとは言い難い。そこで我々は、通常の地域通貨とはちょっと違う仕組みを考えた。そのときのポイントは、一つは、通常の地域通貨は大体域内の人たちが使うのだが、これは域外の人間が十勝に行って使う、域外からの資金の流入という点だ。自分が気に入った場所にコミットしてお金を出すと第二住民票という住民票を発行してもらえ、そこに行くと市民と同じように発言したり行動したりできるようにできないかということである。

 もう一つは、通常ならこのお金を使ってそこの物品を買うという流れだが、投資という概念を組み入れて、農家の作物に対して投資する。同時に、投資のリターンはお金ではなくて、十勝のじゃがいもや肉など、熟成する価値を果実として取れないか。三つめは、行政をうまく絡め込んだ、行政からの補助金なども入れた格好での仕組みはできないか。そういうことを考えて仕組みを作っていった。

 ただ、域外からやっていくとなると、口座の管理や発行管理をどうするか。これを継続していくためにはビジネスモデルがないと無理ではないか。また、今はだいぶ規制が緩和されたが、紙幣類似証券取締法など、当時はそれなりにバーも高かったので、この構想は、常に我々が場所文化フォーラムで語るときの原点にしながら、いつか具体化したいというようなことで、いったん2002年のころにプロトタイプとして作り上げた。これが後ほど、我々が具体化しようとしている場所文化ファンドにつながっていく流れである。

 そんなことを議論しながら、2003年の夏に、私と後藤さんと政策投資銀行の総合企画部長の3人で場所文化フォーラムを設立した。場所文化フォーラムの趣旨は、場所文化の創造によって人々の新たな交流を促し、場所への資金流入と域内での資金循環の新たな仕組みを構築して場所の自立をめざすことである。場所文化の創造は、その場所にかかわる意思を持つ人々による場所へのこだわりの追求と、場所の価値の発見と確認から始まっていく。自然、景観、人、言葉、食、旬といったことをキーワードとするような活動を、まず市民ベースでビジネスとして開発して場所の間の多様性を追求しようということである。

 現在のメンバーは40名ぐらいである。十勝、小田原、高知、岡山、熊本等々の商工会議所青年部の幹部のほか、私が日銀を辞めてから行っていた大学院の先生、建築家、造園家、銀行家など種々雑多だが、それぞれ自分がコミットする場所に常に何らかの帰属意識を持ちながら、同時にかかわっていくというような格好でやっている。

 最初の1年間は、月1回から2か月に1回、6時過ぎから8時ぐらいまで議論して、そのあと飲むという形でやっていたのだが、2年めぐらいからは地元の人と語る場所文化ツアーを年に2~3回ほど企画して、行ったきりではなくてそことつながりながら交流を深めていっている。出てきた話題等は、SNS的にメールをやり取りして意見交換している。3年、4年とやっていると、それなりの人との交流ができ、我々の意識も深まってきて、最初の場所文化を語る・考えるというところから、場所文化を感じる・気づく・見付けるという場所文化ツアーに行って、場所文化を伝えたり盛り上げたり作るという次のステップ、アクションに結びついてきていると感じている。

 実は、「場所文化」という言葉はかなり戦略的な意味合いを込めて使っている。「場所」とは、人間が自然と向き合いながら、そこで営まれる風土、生きざまみたいなものをとらえるという意味でこだわっている言葉であり、「文化」とは、ある意味では文明という言葉に対峙する言葉として我々はとらえている。文明は画一化した一つのシステムだが、文化はそれぞれの社会の基礎を形成する多様なもの、自然との絡み合いの中で継続・進化していくものだろうという意味で、大量生産とか商品のグローバル化に対する個別多様な地域への自覚のキーワードとしてこの言葉を使っていこうと考えている。

 そんな中で、場所文化ツアーを2004年ごろから8回ほど実施してきた。最初は十勝の後藤さんのところに行ったのだが、後藤さんが仕掛けていたのは、スノーフィールドカフェといって、雪で埋もれた小麦畑の上にビニールテントのレストランを作って、自然にとけ込みながら移りゆく景観と最高の食事を味わうというものであった。十勝は、冬は何もないといわれていたけれども素晴らしい自然があるではないかということで、「ない」を「ある」に変える、要するに違いをコンプレックスではなく主張だととらえてみるべきでないかと、こういうことをやった。12月末から3月ごろまで地元の人もけっこう集まってくれて、初年度から収支とんとんぐらいまでいったようだ。夏には小麦畑の中にテントを張って、いもを掘ったり、取れた小麦をぜいたくに楽しんだりということもやっているのだが、そんなことを仕掛けて、「農業」「景観」「食」を十勝のキーワードにしていこうということである。

 高知に行ったときにびっくりしたのは、高知弁だ。言葉がすごい迫力を持っている。高知の市場に行って何か面白いことはないかと見ていたら、「たっすいがはいかん、キリンラガービール」というのぼりがあった。地元の人に聞いてみたら、「たっすい」とは「甘ったるい」ということで、要するに「甘ったるいのはいかん」。それをキリンビールの高知の支社長がキャッチコピーにしてのぼりを作ったということだ。もう一つ、この前、高知の人と小田原の人が高知らしさとは何だろうという議論をしていて、「うげる」という言葉が出てきた。「うげる」とは、人がどう思おうと、とことん外から来た人を歓待するということらしい。

 これは非常に面白いのだが、商工会議所の青年部のブロック大会を高知でやるのと岡山でやるのとでは、全然もてなし方が違うそうだ。高知の人が岡山に行って二次会をやっても、面白くない、まじめくさって全然だめだというので、高知大会のときには「うげる」を徹底的にやったという。逆に言うと、高知はそういった自分たちの言葉を大事にしながら、土佐の気質を大事にしている。江戸を開城したときには、多分、江戸や京都では各藩士の違った言葉が飛び交っていたはずで、そういう文化をもう一回作ったほうがいいのではないか。どれだけ方言に秀でているか、方言検定でも作るかという議論もしたのだが、言葉はすごく大事だということに気がついた。

 それから、我々の仲間である専修大の先生が茨城出身なので五浦にも行った。五浦は岡倉天心が都落ちして居を構えたところで、そのあと、横山大観がずっと使っていたしもた屋が今は観光ホテルの別館になっているが、そこで夜、電気を消して、波の音を聞きながら、岡倉天心と横山大観は何を考えたかをみんなで考えようというようなことをやった。

 それから、我々の仲間が小田原のかまぼこ屋の人ということもあって小田原へ行き、城を中心として景観のつくりを見ながら、何か違った仕組みを作っていけないかということを語った。

 また、我々は別名飲み文化フォーラムと呼ばれているので、一度は焼酎の造り手のところへ行ってみようということで、「百年の孤独」を造っている高鍋の黒木さんのところにも行ってきた。黒木さんは高鍋のまちづくりにもかかわっている。ちょうど新しいショッピングセンターができて宮崎の中心市街地が疲弊するといった話もあったので、高鍋に行く途中で宮崎に降りてそこも行ってみた。素晴らしくよくできたところで、こんなことをやられたら高鍋とか田舎はだめだろうと思って高鍋に行ったら、高鍋には非常にきちんとした文化があり、歴史があった。同時に、周辺の農家が作ったいもを焼酎にし、その飼料をまたリサイクルするという循環型の焼酎造りをやっていた。

 彼は、行政と向き合っていてもまちづくりは進まない、おれがりっぱになれば自然と町は変わるはずだ、それを生きがいにやるのだと、町の真ん中にある黒木酒造も非常にエコを強調した建物づくりをして一生懸命取り組んでいらっしゃった。そういう中で、文明と文化はどう共存しうるのか、逆に言うと、文化を大切にしていけば共生ができるのではないかということを感じた。黒木さんはそのとき、文化は土地に触れることだ、ブランドとは人間の生きざまみたいなものだという話を熱く語っておられた。

 その黒木さんから、有賀さんという甲州種でワインを造って頑張っている人がいるということで紹介してもらったのが勝沼で、次は勝沼に行くことになった。これはあとで申し上げるが、勝沼というのはワインの造り手がいる一方で、ワインのためのぶどうを作る農家があまりない。もともと生食用のぶどうで、その残り物をワインにするのが一般的な流れだったのだが、地元の醸造家が何人か集まって、文明化するワイン造りではない、本当の文化としてのワインを造ろう、そのために原産地のワインを造っていこうということになった。それには農家と製造、販売が一体化しなければいけないのだが、その辺をどう作るか、それをどうまちづくりに生かせるかというようなところで悩んでおられた。

 今年は鎌倉と喜多方に行った。鎌倉は中世からの景観が保全されている、切り通しに囲まれたコンパクトな町である。あそこは行政と市民と寺社の連携が取れていて、寺院が環境を守るということを自覚しながら進めてきたという意味で、一つの面白い作り方がある。

 喜多方は蔵やラーメンで有名だが、もともとは飯豊山の水で酒やしょうゆを造るための蔵であって、その蔵巡りをしているときに、蔵だけではだめなのでラーメンでもということでラーメン屋を作ったそうだ。しかし、なかなかそれが広がらなくて、もう一回、農というところに戻ってやろうかという流れになっている。それもやはり農業でのものづくり、水に起因するものづくりということのようだ。このように、それぞれの場所のキーワードを探し当てながら、地元の人と交流を深めていくということをやってきた。

 そういう意味で、場所文化の創造に向けたプロセスは、それぞれの場所の価値を認識して、場所のキーワード探し、ビジョンをどう設定するかが大事なのだろう。そのビジョンを実践していくためのビジネスモデルをどう作っていくか、外との交流やにぎわいをどのように作っていくかというところがポイントになると思っている。そういう流れの中で、今、ようやく面白いビジネスモデルができ始め、場所文化レストラン、ファンドプロジェクトを立ち上げるべく動いているところである。

 後藤さんは、食文化によって地域をもう一回活性化させるのだといういうことを熱い言葉で語っている。いろいろな意味でローカルアイデンティティをもう一回取り戻さないと、本当の意味でのナショナルアイデンティティは取り戻すことができない。そのときに、それぞれの地域の食をきちんと掘り起こす必要があるのではないかということである。

 地域の違いが個性として生かし切れずにコンプレックスになっているけれども、「ない」を「ある」に変え、違いを個性に取り替えていく必要があるだろうし、逆に言えば東京も自分たちの場所にしてしまえばいいではないか。要するに、首都圏に住む人、地方に住む人の場所意識を変えていく必要があり、そのために、東京に住む人がそこへ行けば十勝にコミットできる、逆に十勝の人も東京に自分の場所があるという流れを作ってみようというわけだ。具体的には、丸の内の国際ビルの地下1階の一角を借りて「場所文化レストラン」という十勝の農・食・景観等のライブの空間を作る。場所文化のファンドや場所通貨を組み込んでどう仕掛けられるか。他の地域も同じようなビジネスモデルを展開できれば、一つのプロトタイプとして面白いのではないか。田舎の自信回復、あるいは豊かな日本を作るきっかけとして、まずは丸の内にこういうレストランを開けないかということである。

 このスキームの原点は、場所文化の表現、あるいはビジネスモデルと我々の志が両立するビジネスと金融のモデルができないか、単にお金を出してお金でリターンをもらうような仕掛けではなくて、そこに楽しさや、そこへのコミットメントを表出するような仕掛けはできないかということだが、結果的にできたストラクチャーは、LLCにお金を拠出して、事業の運営主体としてはLLPを作るというものである。そうやって事業運営主体とお金を出すところを切り離しながら、同時にお互い顔の見えるメンバーでやることによって連携を図っていく。そして、例えば5年間は金銭での配当はLLCにためておいて、その間、LLPが上がった売上の一部を毎年、レストランの食事優待券として出資者に出す。毎年そういった楽しみを味わってもらいながら、5年たってプロジェクトが終わったときには金銭で払い戻しをする。それをまた再投資に向かわせることもできる。

 もう一つは、常連客に場所文化クラブということで年会費を払ってもらって、優待券的なものをやる。これが地域通貨的なものとして位置づけられれば、我々の仲間が勝沼や十勝でもそれぞれ地域通貨を作っているので、そこと連動するような仕掛けもできるかもしれない。そして、場所文化レストランが成功して他地域への再投資の資金ができれば、LLCというところが文字どおり場所文化ファンドとしてベース基地になって、ほかのプロジェクトにも再投資していくことができるようになるかと考えている。

 このスキームを使って勝沼と小田原でもプロジェクトができないかということで、ある仕掛けをしている。勝沼では、文明化・画一化したワインではなく、甲州のワインを作っていこう。そのためには、農を基点にしながら、農業と醸造と販売、そして人を作っていくというところを一体化させるような仕組みを作っていく必要があり、今、勝沼ワインメーカーズスタジオという構想が動き始めている。ただ、お金が必要になる。特に、ワインを熟成させるには最低でも3年、5年かかるが、そこへのファンドをどうするかという話もある。これについては山梨県や地元の信用組合と話を進めていて、醸造家や農家の人たちといった当事者にもお金を出してもらいながら、同時に金融機関からの融資や補助金なども絡めていけないかと考えている。

 それから、若い人たちに、自分で農作業をしながら醸造、ラベリングまでしてもらうような仕掛けも考えている。なかなか醸造免許が下りないなど、いろいろ難しい問題もあるのだが、やはり日本食には白の甲州がすごく合うし、甲州のワインで勝負できるぐらいにまでなってきたので、あとは人をどう育成するか、地元をどう作るかということかと思っている。

 小田原では、新しい小田原のまちづくりを考えたときに、一つは、城の空間を共同管理のような形で作ったらどうか。同時に、市、地元の金融機関、市民、商工会議所も入ったコミュニティバンクみたいなものが作れないか、その中に場所文化ファンドも絡んでいけないかと考えている。

 そのような企てをいろいろやりながら、最後にもう一度、場所文化創造の戦略的意義を考えてみると、四つぐらいに整理できると思う。

 一つは、文明への抵抗力としての文化、ローカルアイデンティティをきちんと持とうということだ。

 それから、単に保存するのではなくて、使用しながら時間の中で価値を生んでいくような文化を日本はずっと持ってきたわけで、それをきちんと追求していく必要があるのではないかと思う。そして、サステイナビリティという意味では、自然と向き合った農林業のものづくりから基点を再規定していく必要があるのではないか。日本の自給率がこれだけ低くて、日本の自然観が薄れていく中で、もう一度それを追求していく必要があるのではないだろうか。その中で、神の宿る、あるいは日本人の自然観が帰着する鎮守の杜をどう守っていくか、あるいはそこを一つの基点にしていくというようなこともあるのかと思う。

 それから、コミュニティガバナンスである。もう一回、コモンズを作り上げながら直接民主主義的な部分を一部補完的に組み込んでいくような仕掛けも必要なのではないかと考えている。

 最後に、そういったことをうまく連動するには、ローカルファイナンスをもう一回きちんと作っていくというようなことが考えられる。これは鎌倉に行ってお賽銭を払ったときに思ったのだが、あのお金の使い方はもう一回考えたほうがいいのではないか。お賽銭は、我々お金を使うほうからすると、何かお願いしているというよりは、神社仏閣が環境を守ってくれるための寄附なのだと考えれば、その使い方も変わってくるのではないか。そのように、少しお金の使い方を変えていくような、意思の伝わるような金融の仕組みができると面白いのではないかと思っている。

 実は、こういったことを絶対にアジアに発していくべきだと思っている。日本はここで踏みとどまって、日本の自然、環境、あるいは自然観を再生しようとしているところだが、もしかすると中国などはそれを忘れてしまう可能性がある。我々は先進国として成熟して、もう一回、自分たちのアイデンティティを取り戻そうというプロセスを踏んでいるが、中国の場合は30年ぐらいジャンプしながら進んでいる。我々日本人がアジアに対して貢献できることは、そういうことを忘れてはいけないというメッセージをきちんと発信していくことではないか。アジアに向けて日本人の取り組みを発していくことは、国家戦略的にもアジア外交の一つの軸になりうるぐらいの意味合いを持っているのではないだろうか。

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2006年度東京大学大学院講座
マネジメント研究事例-日本海学の構築をめざして-

「日本海と食」

講師 NPO法人環・日本海理事
寺島 圭吾 氏

日時 2007年1月9日(火)

 私は富山で酒店を営むかたわら、「美味しんぼ」の富山シリーズの案内人をしているが、「美味しんぼ塾ラーメン道日本全県グランプリ」というタイトルでフジテレビが作った番組を見て、複数の文化の融合ということに非常に面白いものを感じた。全国各地のラーメン店のラーメンのだしで30~40年残っているものは、ことごとく日本そばのだし返しの手法を取り入れている。みりんとお醤油、お砂糖を入れて2~3か月間寝かせたあと、そこに魚系のかつお節や昆布を入れてだしを作るのである。もう一つびっくりしたのは、全国から参加されたラーメン屋の6軒すべてが、青森のさめ節など魚系のだしを使っていたことだ。ちなみに、初代はもともと4店がそば屋、2店が食堂兼そば屋であった。文化が出合い、融合するときには、相手の文化を理解すると同時に、自分自身の文化も理解していなければならないのだと感じた。

 今の日本は、中国からみそやお酢をたくさん輸入している。しかし、そのお酢は果たして本当に日本文化のお酢やみそなのか。去年、私は「こうじかび」をテーマにお話ししたが、東大の坂口先生も調べられたとおり、中国大陸にはAspergillus oryzaeというかび、いわゆるこうじかびは存在せず、クモの巣形のRizopus sp.というかびが存在している。どちらも全く同じようにでんぷん質を果糖に分解していく作業をするが、でき上がってくるアミノ酸の種類は違う。安いからといって違うものを同じものであるかのように輸入することは、果たして日本の文化にとっていかがなものか。

 醤油一つとっても、グルタミン酸やタウリンなど成分は同じでも、それぞれの文化で材料が違うため、国、歴史、材料によって、魚醤(ぎょしょう)、肉醤(にくひしお)、草醤(くさひしお)、穀醤(こくひしお)などの種に分かれる。また、箸も日本の箸、韓国の箸、中国の箸と、それぞれ形状は違っている。箸を使っている人間の数は、世界の約3分の1、20億人余りである。同じように、お米を食べる文化も世界の約3分の1、麦の文化も3分の1で、あとの3分の1は、タロイモなどのイモの文化である。そのうえで、このお箸の違いに気づいてほしい。中国の割り箸を日本で販売するために、1本1円以下で、いちばん多いときで年間250億本を輸入したという資料がある。中国にも箸はあるが、それはほとんどが取り箸で、マイはし、マイ茶わんという考え方は、箸を使う文化の中では日本以外にはない。箸は共有のものなのである。ラーメンと同じように、中国から来た箸も、日本に合う形に変えてきているのだ。

 食の話をもう一つすると、ハレの食とケの食の違いはどこだと思われるか。お正月に食べるおせち料理は、確かにかつては豪華な食だった。今はよほどの料亭から伊勢エビでも取らない限り、黒豆や田作りなどを見て豪華だとは思わない。ところが、なぜ残っているのか。おせち料理には、それを食べることによって文化を伝えていくという意味があるのだ。また、お正月に飾る鏡餅には、1段めは先祖、2段めは子孫で、それを橙(だいだい=代々)つなぐという意味がある。こういうことを伝えていくことがハレなのである。今、「料理の鉄人」などが作る、やたらと豪華な料理がハレだと勘違いしている人がいるかもしれないが、あれはぜいたくなケである。伝えるべきものがあるのがハレであり、伝えるべきものがあるということが文化なのである。すなわち、自分たちがなぜここにいるのか、自分たちがどのようにして生きていくのかを皆で考えたり、価値を共有したりすることがハレであり、それを見える形にしたものが神になるのではないかと私は考えている。

 では、神とは、宗教とはどのようなものなのだろうか。私が考えていることを、地元の富山県を例に取ってお話しさせていただきたい。

 日本海を取り巻く国々は多神教である。一神教との違いとして、他が言うことを素直に認められるのが多神教ではないかと思う。富山県の信仰では、立山には地獄があるといわれていた。地獄に落ちると普通は上がってこられないが、富山県人の考え方が変なのか、富山では平気で出てくる。それが「立山曼陀羅」というものである。ここにいるのは佐伯有頼である。佐伯有頼がお父さんの大事にしていた白いタカを逃がして、もう一回捕まえようと思ったらクマが出てきたので、そのクマに向かって矢を射たら、クマがヘビになった。その血の跡を追いかけていくと、逃げ込んだ穴ぐらの中に阿弥陀如来がおられた。実はクマが阿弥陀如来の化身だったという話である。

 立山には志鷹と佐伯という名前の人しかいない。だから下の名前で呼び合っているのだが、佐伯家は仏教系で、日本の歴史の中で天皇家に味方した人である。片や志鷹家は、古い八百万(やおよろず)の神を信仰していた。その志鷹を佐伯が追いかけていくと、仏さんが出てきて、「そんな無駄な争いはやめて、立山開山をしなさい」と言ったという裏開山記もある。つまり、神道と仏教の戦いだったのである。恐らくそれが正しい話ではないかと僕らは思っている。

 立山の地獄谷には、硫黄の煙が出ている。いわゆる火炎地獄である。そして、剣のこちらのほうが針の山という形になっている。立山にはあの世の地獄があるのだ。富山では男性はその火の地獄、針の山の地獄、餓鬼の田(湿原)に行くことによって、本来地獄へ堕とされるべき穢れをそこに置いてくることができるといわれている。しかし、そこは神聖な場所なので女人禁制になっている。地獄の思想は仏教の思想だが、生まれ変わるというのは神道の思想である。母胎くぐりと言って茅の輪くぐりのようにして、もう一回お母さんのお腹を通ったから私は生まれ変わってきれいになったというのが神道の考え方である。仏教の場合には地獄に落ちる。これが全く融合した形がここにあるということだ。男性は山に登り、女性は布橋潅頂会があって、江戸時代に男性も女性も極楽に行けるということを言ったのが、富山の立山信仰の特徴である。

 江戸時代、毎年秋彼岸中日には女性の極楽浄土への往生を願って布橋灌頂会の法会が執行された。まず、女性は橋のこちら側にいる閻魔様に、私はこういう悪いことをしたと懺悔をする。そして、橋を目隠しをして渡る。そのとき橋の上に白い布を敷いたことから、この橋のことを布橋と言う。橋は108枚の板で作られていて、もし閻魔様にうそをついていたら谷底(地獄)に落ちる。だからちゃんと懺悔をして、目をつむって、身をゆだねて歩けというわけである。

 そして、あの世とこの世の境界である布橋を渡り終えた女性は姥堂へ入るが、姥堂にはおんばさま(ご先祖様)が48体祭られていたと言う。現在は20体ぐらいしか残っていないが、そこでご先祖様に会い、成仏のお経を唱える。お経を唱えて次の日の朝、お堂の戸を開けて立山がぱっと見えたら、その女性は立山の頂上に登れない女の身で登ったのと同じ御利益、生まれ変わって必ず極楽に行くことができるとされたのである。これは、アメリカンドリームという言葉で表される、機会の平等の考え方である。

 ひるがえって今、機会の平等は世界的に崩れているのではないか。300万円の宝くじがあったとして、当たる確率は上がるだろうが、それを買える人は非常に少なくなる。逆に言うと、チャンスが平等でなくなってくる。これが今、格差社会といわれている問題ではないだろうか。そういうものは昔からあったが、その中でのもう一つの平等が、結果の平等であった。今の世の中はいろいろと苦労が多いだろうが、立山に登ったら、あるいは女の人はそこでお経をあげて立山が見えたら、みんな救われる、死んだら極楽に行けるというのが、宗教としての非常に緩やかな形での結果の平等と言えるものだったのではないかと私は思う。こういう形のものを宗教という言葉で言うのかどうか分からないが、これは要するに価値の融合である。

 富山県は真宗王国といわれている。この中で「仏の前の平等」という言葉を浄土真宗のお寺さんから聞いたことがある人はいないだろうか。「ほんこはん(報恩講)」はどうか。富山県ではその日、お寺で檀家が集まって、みんなで会食をする。「仏の前の平等」という形で、お寺さんがお経をあげる所は一段高いが、その下は来た者順に座る。昔、士農工商があったときから、来た者順なのである。もっと面白いのは、「ほんこはん」という形で同じ釜の飯を食べる。富山県では1400年代に、「百姓の持ちたる国」があった。世界最初の共和国である。石川県の一部も含め、富樫氏を追い出して、お寺を中心として100年間、百姓が自治をした。そういうものが富山県の中には根強く残っている。

 多神教という考え方を生まれたときからさりげなく持っている人たちが、自分を確立し、他を認め合ってきて、融合という形の中で新しい価値が生まれるとしたら、ある意味で平和などいろいろな意味で新しい貢献ができるのではないだろうか。私は今、そのような夢や希望や考え方によって、非常に大きな力を得ることができる可能性もあると思っている。

質疑応答

(A) 富山県の高瀬神社の神様は、五十猛命(いそたけるのみこと)と言って、素戔嗚尊の子供といわれている。植林の神様なのだが、なぜ富山県に高瀬神社が古い神話の時代からあったのかということと、運送業で大もうけしたという話がなかなか理解できない。

(寺島) 高瀬神社だけでなく、姉倉比売(あねくらひめ)神社など幾つかある。ここには神通川があるが、宮川という支川や神岡、宮村という地名があることから、かつて天皇家の時代、あるいは神話の時代に、ここに天皇家のかたが流されたのではないかと民間ではいわれている。

(A) 先ほど、箸の話をされた。箸を英語でいえばChopsticksで、文化的な意味は全然ない。しかし、日本では鳥の口先をクチバシと言うし、階段のことを「きざはし」と言う。そういう、「はし」に関する文化的な話が今は失われている。

(寺島) 文化というのは、例えば華道の家元と意見が合わなければ弟子が分かれていくように、分かれてくるものだ。逆に文明はつながっていく。例えば1本のネジを効率よく作ったら、金額が安くて誤差がないほうにどんどん移る。価値、値段が下がっていくということである。しかし、文化のほうは値段が上がっていく。何々流家元の分派に習うよりも家元から習うほうが授業料は高くなる。つまり、価値は上がっていくのである。

 例えば、マグロの頭は「かぶと」と言うが、その「かぶと」の身は、ほほ身、ぼんのくび、目の下、目の上、かま上、かま下と、場所によって呼び分けられている。頭一つでこんなにたくさんの言い方があって、胴体や腹にも多くの名前がある。マグロを食べる魚食の文化を持っている日本人は、魚一匹に山ほどの食べ方とおいしさを知っているわけである。だから、どんどん分かれていくが、魚の価値は上がる。一方、文明によって物事をどんどん進めていくと、結果、親の総取りになるような感じで、生まれてくる価値や価格は非常に少なくなり、多くの人口を養うだけの価値は出てこないのではないか。

 同じように、イギリスでは牛を食べる部位は、例えば腸なら何センチごとに言い方があるそうだが、そんなことは日本人はよほどのレストランのシェフでないと知らない。融合とはごちゃまぜになることではなく、魚をものすごく知っている人と肉のことをものすごく知っている人が、お互いに知り合うことによって、おいしいものが食べられるということである。相手も自分もぐちゃぐちゃになるというのは、どうも融合から生まれてくる価値とは違う。箸やこうじの話のように、一見同じように見えるものが実は違った見方をすれば価値が生まれてくるし、失ってはいけない価値を持っているのではないかと思う。

(中井) 文化の融合の話と、結果の平等に至る宗教観の話は何か脈絡はあるのか。

(寺島) 宗教に関しても、お互いの価値観であると思う。日本人が日本人の持っているものをわざと壊して何かになるということは、やっても無駄なのではないだろうか。日本人はしょせんラーメンがそうであるように、何十年かのうちに日本料理の味にしてしまう。

 共産主義のように、これが文化価値とか何々価値で置き換えられると考えるのは、恐らく古いと思う。宗教の文化的価値を占領したような感じで、おまえはおれに従えという形にしていくと、最終的な価値は生まれてこないような気が漠然としている。

(中井) 去年、布橋潅頂会が復活した。地元が観光的な側面で立山信仰に着目して活用しようという意図的なものを抜きにして、富山県内外を含めて、あのような宗教的な動きに宗教観の息吹は感じるか。

(寺島) 布橋潅頂会も含めて、恐らくキーワードは「いやし」ではないかと思う。自分が50を超えたときに、自分が生きていてよかった、あるいは、もう一度自分が安心して生きているということの再確認をするのが、基本的に心のいやしではないか。恐らく布橋潅頂会のもともとの考え方は、いやしだったと思う。

 結局、最終的には、人が人をいやすというのが究極のスタイルである。その結果、表れてくるのが、もしかしたらいやしの中に出てくる結果の平等なのではないか。あなたは生まれてきたよかったのだ、あなたが生きていることは素晴らしいのだという、生きているという結果の平等にいくような気がしている。

(中井) 布橋潅頂会は今年もやるのか。

(寺島) 今年はやらない。お金がかかりすぎるし、立山町だけでは恐らく持ちきれない。

(中井) 全国からご婦人が応募して来られたのだろう。

(寺島) 何十年ぶりぐらいに、文化祭のときにこれをやってよかったという話があって、4年か5年ぶりにまたこれをやった。これをやると30人ぐらいのお寺さんが来て、そのお布施をあげるだけでも大変で、全部準備するだけでも大変なお金がかかる。

(鈴木) 私が富山を旅行して興味を持ったのは、農家のかたが宗教心的なものを持っていることだ。宗教とは違うが、何かを信じて農業をやっているということを感じた。

(寺島) 中国から北京大学のかたが来られたときに、まずテーマである「環境の過去と現在」ということを見てほしかったので、まず廃材の焼却場、コンクリートブロックの破砕をしている所を見た。それから、港へ行って鉄くずを中国に輸出しているのを見て、ではその鉄くずがどこから来たのかということで、タイヤを粉砕して燃料にしたりしている富山市のリサイクル施設に行った。そこから汚水処理場を通り、常願寺のところを上がって、木の塊を建築材や飾り材としてリユースする場所を見ていただいた。

 それから、信仰的な形の中の大きな石や水を見ていただいた。富山県の中で、水が県民にどういう意識を与えていたかということで、分水場などを見ていただきたかった。そして、砂防の所に行って、百何十メートルも高さのあるとんでもない砂防ダムの話を聞いていただいて、そのあと農家に行って、お米の自立、花卉・野菜の自立、果実の自立を見てもらった。すなわち、花1本でも商品を作っていくという考え方を見てもらったのだ。

 もう一つは、富山県は水が豊かだが、水が表面に流れていない水系の所へ行った。40kmぐらいの水路が、外に一回も出ずに全部地下を通っている場所が富山県にある。山の上のほうでダムを造って、そこからずっと鉄管で運んでいって、田んぼも潤せば花卉も作る。全体で長さが70kmという所へお連れして、操作盤を見ていただいた。

 もう一つ、中井さんから、口でしゃべらず目でしゃべる人を用意しろと言われたので、農家のかたがたをチョイスした。だから宗教があってチョイスしたのではないが、農業をやっていくためには、拝むということは自然にあることなのかもしれない。すべて自分たちがやることを尽くしたら、あとは拝むしかないというところはあると思う。

(鈴木) 砂防の所に行って、あれだけ自然環境が大変だから何かを信じるということで宗教心的なものが生まれたのかと考えた。それから、宗教心的なものがあって信じるものがあるから農家の人たちがすごく自立している、その自立している姿に中国の人たちがすごくびっくりしていた。中国の人たちの感想は、農家の一人一人が自分で農法を選んでいるのが信じられないというか、農業とはクリエイティブな仕事なのだというイメージが中国ではないということだった。あと、「僕の野菜がいちばんだ」と、農家の人が自分の仕事に誇りを持っていることに驚いていた。

(寺島) 富山県は非常に小さな県だ。隣にあるのは加賀百万石で越中は十万石、下手をすると家老以下である。もう一つ、新潟県や山形県は、千町歩地主といわれる人たちがいた。新潟県で8000町歩の土地を持っていて、明治時代に金持ちの5本の指に入った納税者で、早稲田大学を寄附したという人もおられる。富山にも内山邸という豪農の館があるが、これは千石である。単位が違う。

 富山のます寿司はご存じだろう。あのます寿司は、ローソンのおにぎり10個以上のご飯の重さがある。富山の人間は何の疑いもなく、ます寿司を売り出した。ところが富山県以外の人にすると、こんな不思議なことはない。おにぎりを10個も食べるだろうかと。もともと食べられない量の弁当を作るのが富山県なのである。なぜか。分けて食べるからだ。同じ理由で、富山県の結婚式に行くと大きなかまぼこの鯛が出てくる。普通、大地主と小作という関係なら、小作が持ってきたものは地主さんは食べない。ところが富山県の地主は、千石地主だから自分も畑をしている。そうすると、その上下関係は、かまぼこの頭としっぽぐらいの差なのである。だから、分けて食べる。それから、鰤分け神事といって、今ごろにちょうど下村の加茂神社でブリを切ってみんなで分ける。同じ釜の飯を食えるというのが、富山県人の一つの特徴である。

 これを育てたのが、実は売薬である。布橋潅頂会で女の人が踏んでいた布でお経を書いた帷子(かたびら)を作る。そして、死んだときに棺桶の中にそれを着て入るのだが、亡くなってから持っていっても間に合わないので、村名主のところに置いておく。もしおたくの村でなくなるかたがおられたら、これをお使いくださいと。それで来年か再来年に行ったときに、「あそこのじいちゃん、亡くなったのけ。いい人やったね」と言って、使った分のお金をもらってくる。売薬の基礎はここでできているのである。

 その売薬を担ったのは、農家の次男・三男である。彼らは小さいときから稲を見ている。だから山形県に行ったときに、「これだけ冷害でも、あそこの田んぼだけ実っている」と、そっとその稲を盗んで富山に持ってきて育てる。それで新潟県のお客さんのところに行くときに「山形県で実っていた稲だ」と言うと、昔は農家がほとんどだから、いちばんうれしいお土産になるのである。だから、「抜穂は罪ならず」と富山の者は言っていた。

 また、農家の次男・三男が働いてお金を得ていたということは、農家の次女・三女の結婚相手がいるということである。だから富山県では、女工哀史のような人身売買は非常に少なかった。それがもとで、平等であり自立するという女性の考え方がどんどん進んでいき、米騒動のように、日本の政治はおかしいではないかということまでを平気で言うおばちゃんが出てくるのである。

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2006年度東京大学大学院講座
マネジメント研究事例-日本海学の構築をめざして-

「多摩川源流百年の森づくり」

講師 東京電力株式会社環境部
矢野 康明 氏

日時 2007年1月23日(火)

 私は、今ご紹介いただいた高橋先生とは、経済産業省主催の「21世紀の環境・経済・文明」という研究会の中でご一緒させていただいている。これから私と作家の丹治先生の今の取り組みをご紹介したい。丹治先生には約5年前からだろうか、私どもの電力事業の、自然環境、地域とどのように共生していくかという取り組みの中でご指導いただいている。私からは、まず「多摩川源流百年の森づくり」についてパワーポイントを見ながらお話ししたい。お手元には、パワーポイントの資料と、「SOTOKOTO」という雑誌の1月に掲載された記事のコピー、丹治先生に関東エッセーを書いていただいている「森の鼓動」という情報通信誌、それから、丹治先生のオペラ「みづち」のメッセージのコピーがある。

 今日は、3部構成を考えている。最初に私のほうで15分ほど、なぜ私どもが源流の森にかかわるようになったかということをパワーポイントの資料を見ながらお話しする。それから第2部として「多摩川源流の百年の森づくり」ということで、源流の木を流域の人たちに届けようという黎明祭という取り組みのビデオをご紹介したい。それに続いて、最後に丹治先生から「3000年の未来へのメッセージ」ということで、源流、あるいは各地域の水を守るということをテーマにしたオペラ「みづち」の作品をご紹介いただく。

 では、まず「多摩川源流百年の森づくり」ということでお話をする。産業革命以来は石炭、1900年代には石油という化石燃料が使われるようになった。特に1950年あたりから急激に石油の消費量が増え、私ども電力事業の中でも石炭から石油ということで火力発電所の割合が多くなったわけだが、暮らしの中でも化石燃料の消費が多くなり、二酸化炭素の濃度が増えてきている。

 一方で、気象庁のデータによると、東京の年平均気温は1905年の13.5度から2000年には16.6度と、3度以上上昇している。これはヒートアイランド現象も加わっているので二酸化炭素の問題だけではないが、ニューヨークなどの大都市に比べても東京は平均気温の上昇が大きいということが報告されている。

 こうした中、東京電力の地球温暖化防止に向けた取り組みということで、平成16年から「くらしと森をつなぐ」というテーマでECOサポートプランを実施している。内容としては、約5年前にヒートポンプ式の高効率にお湯を沸かすシステムを開発している。これは温暖化した大気の熱を熱源にすることでだんだんクーリングしていくという仕組みである。この環境性を促進しようということだ。あるいは、中小のオフィスの省エネシステム、ESCOという事業がどんどん進んでいるが、この促進をユーザーのかたがたにお勧めする。そして、それぞれに若干のキャッシュバックをしながら、その同額をCO2を吸収する森林再生に当てようということである。今日ご紹介するのは、特にその森林再生の部分である。暮らしと森をどのようにつなぐかということを温暖化防止のテーマとして取り組んでいる。

 森林再生のモデルプロジェクトとして、多摩川の源流域がある。多摩川の源流域は東京都から山梨県に入り、いちばん最初の一滴が流れ出しているところは旧塩山市だが、我々が取り組んでいるのは山梨県の小菅村という地点である。ここでは、自然再生推進法という平成14年にできた法律に基づいて、大学、自治体、行政、NPO、民間企業としては東京電力が参画させていただいて自然再生の協議会を設立し、源流の景観再生、森林再生、文化再生という三つのジャンルで、それぞれ産官学民の連携プロジェクトを進めている。会長は東京農大の林政学の宮林教授、森林再生の部会長は同じく農大の菅原助教授で、役場で何度も何度も協議会を重ねている。

 次に、多摩川源流の森の変遷と実態をご紹介したい。江戸時代、ご存じのように江戸幕府が開かれて、多摩川の上流域は「お止め山」ということで森林の伐採を禁止したエリアになっていた。御巣鷹山という鷹の幼鳥を育てるエリアもあり、非常に大きな大径木が守られて残っているところもある。

 ところが、明治に入って政策が大きく転換する中で、森の木々が燃料資源あるいは建築資源として大きく乱伐され、はだかになった山、いわゆる茅場になったような山がたくさん出てきた。

 そこで、東京府、東京市による水源林の経営が明治34年から始まった。東京府から東京市に引き継いで、約100年を超えて水源林の経営をやってきている。本多静六博士が調査をされた。このかたは明治神宮の森などもお作りになっているが、水源林にも技術を発揮されている。

 多摩川の上流域では、現東京都が土地を買って水源林の経営をしている。実は、先ほど述べたように非常に山の木々が乱伐されて、多摩川がかれたり泥水が流れたりといったことが明治の初期の段階で起こってきており、それを維持するにはどうしたらよいかということで、専門的な調査が行われたうえで水源林経営が行われたのだ。ところが、小菅村のあたりは東京都水源林は約3割で、残りの7割は民有林が占めている。村有林も一部あるが、ほとんどが民有林で、ここは東京都の行政の力が及んでいないところになるのである。

 東京都の水源林はりっぱな森に再生されている。ところが、そうでないエリアも幾つかある。昭和初期の小菅村は広葉樹の薪炭林が大半で、一部針葉樹のエリアがあったのだが、昭和20~30年、戦争中の燃料の需要、あるいは戦後の復興のための建築用材ということで大きく木が切り尽くされ、多くは針葉樹の人工林に変わった。その理由は、一つは燃料革命が暮らしにも起こったことである。つまり、薪や炭の材料はクヌギやコナラなどの広葉樹だが、ガスや灯油という便利な燃料に替わることによって、薪や炭に必要な広葉樹が要らなくなったのだ。一方で、復興のために建築用材が必要になり、資源としても建築用の針葉樹のスギやヒノキを植えていったために、人工林の多くは山の尾根の上のほうまで針葉樹に変わっている。

 最近の小菅村のようすはどうかというと、見事に緑に覆われている。これは、政策的には非常によかったと思う。ところが、山は緑で覆われてはいるが、その中では自然再生の問題が起こっていた。そこで、東京農大の林学の専門の研究室に学生さんたちもフル動員していただいて、林学の専門調査をお願いした。

 豊かに保全されている森では、木々の間に下草といわれる草が生えている。木々の間に光が入ることによって下草が生えてくるということで、非常に力強い感じがするわけだが、大半の人工林は全く違う様相になっている。下にほとんど草が生えていないのだ。なぜかというと、先ほど森は緑に覆われていると言ったが、緑に覆われている一方で、樹間から光が中に入り込まないように密閉してしまっている。密閉して光が入らないエリアは草が生えないし、根っこがだんだん表に出始めて、表層の土壌も洗い出され始めている。

 林学の先生がたの評価によれば、10年このままほうっておくと、木はどんどん上には成長するが、太くならない。そして形状比(太さと高さの比)が悪くなって、いわゆる鉛筆状の木が密集したものになる。ここに大きな風が吹いたり雪が降ったりすると、一斉にドミノ倒しのように木々が倒れて資源としての価値を失うとか、あるいは表層の土砂が流れて表層土砂崩壊といった現象が起きてしまう。40~50年前に植えた木々がせっかく資源として育ちつつあるのに、使われないことによって災害まで起こしてしまうという状態が日本の森の多くの問題になっている。小菅村も同様であった。

 林野庁の情報で、昭和30年からのわが国の木材需要量と国産材供給量の推移を見ると、当然ながら、戦後、急激に木材需要が増えている。先ほど述べたように、戦後植えて、それが簡単に育つわけではないので、国産材では追いつかないのを外国材で賄いながら来たのである。30年代ごろは国産材でほぼ賄っていたものが、現在では20%程度の自給率になり、戦後植えた木が育ってはいるものの、国産材自体の消費量も実は減っている。こういう状態の中で、日本の森の多くは成長が非常に弱くなってきて崩壊の危機にあり、CO2の吸収源としての森としての期待値が十分満たされないということが報告されている。また、一昨年だっただろうか、関西で、放置されていたヒノキ林が台風で一斉に倒れた。家屋の上の木々も倒れて、災害が起こり始めるということが報告されている。

 ここまで、森の実体、変化についてかいつまんでお話しした。

 では、暮らしはどうだろうか。昭和30年代前半、ちょうど私が生まれたころの写真を見てみると、子供たちが薪を背負ってお手伝いをしている。おじいさんは炭を焼いている。家庭の中では囲炉裏を囲んで座っているようすが見受けられる。ここでは、カーボンニュートラルといわれるが、森を育てながら薪や炭を消費して、CO2も熱もバランスしていた。当然、時代によっては乱伐が起こっているので、そのバランスも、崩れたり、取れたりということだと思うが、こういう暮らしが急激に変わったわけである。

 木炭と薪の生産量は、1950~1960年ごろ、昭和でいうと25~35年ごろにピークに達して、そのあとは急激に減ってくる。家庭の熱源が木炭や薪から化石燃料に替わったのだ。一方で、人口と世帯数を総務省のデータから調べてみると、総人口は昨年から減少方向に向かっているが、世帯数はまだまだ増えており、平均世帯人員は、1950年には5.02人だったのが、2000年には2.7人まで下がっている。そして、先ほどの木炭と薪の生産量の推移と平均世帯人員の変化のカーブがなぜかよく似ている。

 これは今の情報からの一つの仮説だが、薪でおふろをたかなければならない時代、私が子供のころなどは、「たき上がったから早く順番に入りなさい」と言われた。おふろをたくことが大変だし、薪も提供しなければなかった。ところが、ガスや灯油になると、ボタンを押せば沸く。最近であれば、朝にシャンプーするというようなこともできる。そういうふうに便利になれば、お金さえあれば家族を分けることも容易になる。つまり、みんなで寄り添って限られた燃料を使ったり、労力のかかることをしたりしなくてよいのだから、親から小言を言われるなら分かれて住もうということが起きてくるわけである。便利になって世帯数が増えていくというのは、そういう燃料革命の変化だけ見てもうなずけるのではないか。つまり、便利さや経済性を追求していく中で、実は家族のつながりもひょっとすると必要なくなってばらばらになっていっている。これは結果論かもしれないが、今の現象ではないだろうか。

 そうした中で、1955年から2000年までのエネルギー消費量を見てみると、世帯数のグラフとほぼ同じとは言わないが、人口の増加が止まっているにもかかわらず増えている。これもやはり、世帯数の増加に合わせて増えているということがうかがえる。つまり、おふろを考えてみると、8人家族が一つのおふろに順繰りに入るよりも、3人、3人、2人の家族がそれぞれにおふろを沸かすほうが、ふろおけを三つ沸かすわけだから、1人当たりのエネルギー消費量は格段に増えてしまう。世帯数が増えることの影響は、そういうところでも出ているのである。省エネのシステムがどんどん進むといっても、便利になればなるほどみんながばらばらになることによってエネルギー消費は増えてしまうということが起こっているわけである。

 これを簡単に整理すると、日本人は森から取った薪や炭という熱源を使って、森とともに生きていた。それが、燃料革命が起こることによって、熱源はプロパンや灯油といった化石燃料になった。そして、地中に蓄積したCO2や熱が放出されてきて、温暖化の問題が出てきている。

 一方で、森はどうなったかというと、薪・炭用の広葉樹から建築用のスギ・ヒノキに変わって、非常に便利で安い輸入木材が入ってきた。その出どころの森がどうなっているかは別の議論になるが、日本の森は放置されて荒廃しつつある。そして、CO2の吸収能力も低下している。そのような中で、ばらばらになってしまった状態をどうつなぐかというのが我々のテーマである。持続循環型社会とは何だろうということで、今取り組んでいるのは、森の保全と利用を循環させること、そしてCO2と熱の削減をどう進めるかという課題である。

 そこで、森と暮らしをつなぐということで、多摩川源流における森林再生のモデルプロジェクトを始めている。これはビデオで簡単に概要をご紹介する。「百年の森づくり」ということを掲げたのは、東京都が100年以上かけて営々と森を作ってきた。そのりっぱな森があるのだから、それを手本にしながら、なおかつ資源を循環して、源流の資源を中流・下流の人たちと流域連携をしながら持続的に使っていこうということだ。「育てて使う」がテーマである。そして、今、350ヘクタールという広大なモデル森林を持続可能な認証森林に持っていこうということで、森の保全プロジェクトを進めている。

 森林資源の利用ということで言えば、源流の木を中・下流域の消費者に産地直送するということを進めている。そして、消費者、設計・工務店、素材生産者、森と、それぞれの顔が見える関係づけをしようということである。流通のプロセスにいろいろ不都合や不合理な点もあることが分かったのだが、今の木材は自然から出てきた木といえども工業製品になっているので、もともとの出元はよく分からない。非常に温かみがある素材でありながら、出元が分からない。そこを分かるようにしよう、顔が見える関係を作ろうというのがねらいである。

 そういう中で、10月に黎明祭というプロジェクトを行った。この様子は後ほどビデオでご紹介する。まず、丹治先生に歌を書いていただいたメモリアルの除幕式を行った。続いて、江戸時代から伝わる森を守るための伝統神楽の奉納である。子供たちにまで伝わっているという神楽をご披露いただいた。それから、斧入れ式をした。4代前に植えた木を自分が切って自分の家にも利用して、そして下流の人たちに届けようということで提供いただいたということである。

 こうした源流の木のプロジェクトは、今、我々のところから少しずつ広げていて、大田区の修道院の子供寮、国土交通省のせせらぎ館、そのほか幾つか使いたいといって手を挙げてくださっている。

 では、これからどういう文明を目指すか。整理してみると、都会の密集住宅地というのは、密集はしているけれども隣どうしは恐らくつながっていないだろう。いわゆるつながりのない過密な状態である。それに対して、森はどうなっているかというと、放置されて、同じく過密な状態になっている。これは便利さや経済性を追求してきた結果だと思う。それぞれがばらばらになっていて、つながりがないという状態である。そういう現代文明の中で、つながりを失った都会人が本当の豊かさを取り戻すにはどうしたらいいかというのが多分、テーマだろう。

 中村文明さんというかたは、大菩薩峠のふところで活動していらっしゃる。このかたは源流を非常に愛しているかただ。私たちは「源流文明」という言葉を使っている。これは実は私がかってに作った言葉である。いわゆる源流と下流をつなぐ暮らしぶり、森の鼓動を暮らしに感じられるようになるというのが目標である。

 先ほどご紹介したように、百年の森づくりのスタートを記念して、村と私どもで黎明祭というお祭りを共同開催した。そのビデオをごらんいただく。


***ビデオ上映***

 語りをしていただいたのは、丹治先生である。丹治先生の歌は、お配りした「森の鼓動」という情報誌の第6号にある。この6号の表紙は黎明祭の様子を写真で示している。先生には毎回、巻頭エッセーを書いていただいているのだが、この第6号では先生の歌を書いていただいた。

 我々の取り組みは、最初は源流を守ろう、源流の価値を広げようということで、「多摩川源流研究所」が取り組んでいたのだが、東京に住んでいる我々人間にとっては、飲んでいる水がどこから来ているか分からない、さらには水をはぐくむ森がどうなっているかということも分からないという状況である。そうしたことを知っていただきながら、木を切るところから、森が育つところから、その価値を一緒に体験していこうという、非常に面倒な取り組みである。

 この面倒な取り組みに価値を感じて取材してくださったのが、「SOTOKOTO」という雑誌である。大田区の修道院の子供たちの寄宿舎を源流の木で造ろうという計画がある。身寄りのない子供たち、育児放棄されてしまった子供たちが修道院で育てられているのだが、18歳になって世の中に出ようとしても、なかなか寮を貸してくれるところがない。そういった子供たちが育つ寮を造ろうというわけである。その木は、環境のいい家にしたいから源流の木を使おうということで、賛同してくださって、取り組みが始まった。

 40人の子供たちは、去年の夏にも、そして木を切るときにも森に来た。切ったところを、一緒にロープで木を引いた。面白かったのは、約60年たった木を切ったときに、子供たちが一斉に木口を見て、年輪を一本一本数え始めたことだ。10歳にも満たない子供たちもいた。自分の年齢の5倍も6倍もたっている木が柱や梁や板になるのだということを聞かされる。その家に住むわけである。昔は当たり前にしていたのだろうが、育ってくる年数の重みを感じながら家に使っていただき、その価値を広げていこうという、非常に時間のかかる取り組みなのである。